自分にとっての適正価格を考える

自分にとっての適正価格を考えるという提案です。

自分にとっての適正価格を考えると、適正価格より安ければお得なので購入し、適正価格より高ければ損だから購入しないと考えるのです。あくまでも自分にとっての適正価格ですから、本来なら人の意見には左右されないはずです。何故なら人とは経済状態が異なるため、人の意見は参考にならないからです。

例えば私にとっての牛肉の適正価格は100g400円〜500円程度です。ステーキ用で600円〜700円程度です。何かのお祝いなどの特別な事情がない限りこの価格をこえている牛肉をわざわざ買うことはありません。お肉と考えれば鶏肉や豚肉であれば牛肉よりもはるかに安いお肉があるからわざわざ高い牛肉を食べないのです。スーパーやお肉屋さんでこの私にとっての適正価格よりも安ければ買いますし、この価格よりも高ければ買うことはありません。

他には何度も買う物ではありませんが、ビデオカメラやテレビなどでも適正価格を考えています。ビデオカメラでは3万〜5万円程度ですので4kのビデオは高すぎるのでまだ買いません。テレビでは4Kの50型で10万円が私にとっての適正価格です。まだそのようなテレビはないので買いません。

他の例ではスーパーなどで5割引などの値札を見かけることがありますが、5割引だから買うのではなく、5割引が適正価格を下回れば買うようにするのです。いくら5割引であっても自分にとっての適正価格よりも高い商品は買わないのです。5割引でも高いと感じる商品は、売れ残って元々で売れるとラッキーくらいの値付けなのではないかと思います。5割引でお得感を出して売れば良いと考えているのではないかと私は思います。自分にとっての適正価格を決めていなければ、5割引につられて買ってしまいがちです。そもそも元の値付けに無理があるのかもしれないのです。

電気製品の新商品なども需要と供給の関係により値段が上下します。一般的に発売当初は高く、新製品が出る頃には安くなります。自分にとっての適正価格を決めて、その価格を下回れば買うかどうか考えるようにすると良いと思います。

もし良かったら、自分にとっての適正価格という考え方を取り入れてみてください。

原因論は過去にこだわり、目的論は未来を切り拓く

良く物事を考える際に原因をおい求めることがあります。

原因論

原因とはある結果に対して過去を振り返ることです。過去を客観的に振り返ることには意味がありますが、通常人は自分の責任を追及されたくないので、責任逃れのそれらしい言い訳を考えます。それらしい言い訳を原因だと誤解して議論することになるので、論点がズレてしまいます。ズレた原因の解決策を見つけ出しても、本当の原因とは異なる言い訳なので、次の言い訳を探してしまうことになります。原因を追及しても解決策がうまく見つからないのはそのためです。ちなみに人間の作り出した機械に対しては原因論は抜群の効果を発揮します。全て人間が目的を持って作り出した物だからです。うまく機械が動かなければ、どこかに原因があるからです。機械は再現性が高いので原因を特定し、修正が容易なのです。

人間に対しては原因論は無意味です。何故なら人の行動はその時その時に置かれた状況で簡単に変わってしまうからです。人間の心理まで正確に再現することは困難なのです。

原因論が無意味なのは、責任逃れのため本当の原因を隠す傾向があることと、再現性が乏しいのです。しかもタイムマシンはないので過去にこだわっても、何も生み出しません。

目的論

目的論は人の行動には必ず目的があるという考え方です。本人が自覚しているか自覚していないか、意識しているか無意識のうちかは別にして必ず目的を持って行動するのです(参考:アドラーの心理学)。その目的をすり合わせるのです。目的に沿っていれば行動し、目的に沿っていなければ行動しないのです。目的論に従えば、未来を見据えた行動をとることが出来るようにならます。原因論であればそれらしい言い訳を考えることが出来ても、目的論では言い訳のしようがありません。それらしい目的を言ってしまえばそれらしい目的に沿った行動を取らざるを得なくなるので、いい加減なことが言えなくなるのです。

大切なのは過去か未来か?

原因論では過去のことを議論するので、タイムマシンがないので結局仕方ないという結論になりがちです。しかし目的論では未来の行動の仕方を議論するので、言い逃れが出来ないのです。大切なのは過去でしょうか?未来でしょうか?私は未来だと思います。何故なら過去は変えられないからです。過去にはこだわらず、未来への参考にするべきです。過去を言い訳にして未来の行動を制限するのはもったいない話です。

未来を切り拓くために目的論を取り入れましょう。

そして絶えず行動の目的を考えみるようにしてみましょう。自分の行動の目的も他人の行動の目的も考えてみると、これまでとは違った景色が見えてくるかもしれません。

偏差値が高くても仕事が出来ない人がいる理由

今の日本の世の中では、一般的に偏差値の高い人は優秀だと考えられています。確かに優秀な人が多いのは事実ですが、中には社会生活において役に立たないとみられる人がいるのも確かです。今回はその理由を考えてみます。

偏差値とは

偏差値とは様々なテストの結果の中での分布を数値化したものです。集団の分布の中で上位であれば高く、下位であれば低くなります。偏差値を算出した試験と似たような試験をすると、同じ母集団が同じような分布になることから、入試の合否に相関するので序列化に使われます。

偏差値が高いとは?

偏差値が高いことは試験においては優秀かもしれませんが、それは記憶力と試験問題という必ず一つの答えが用意されたパズルを解くことに優れているだけです。つまり答えの用意された問題を解くことに優れていることがわかります。

仕事が出来ないとは?

仕事が出来ないとは、求められる課題の解決が出来ないことです(参考:仕事が出来る人と仕事が出来ない人の違い)。例えば物を売ることや、新しい商品開発など様々な仕事があります。その仕事で求められる課題の解決が求められるレベルで出来ない場合、仕事が出来ないと周囲から判断されます。

求められる課題の理解が困難な場合もありますし、課題の解決策がそもそも存在しない場合もあります。課題の理解に関しては、偏差値と相関があるかもしれません。しかし課題の解決策は、そもそも解決可能かどうかから考えなければなりません。解決は出来ない問題であっても、最善を尽くす最適解を探す能力がもとめられるのです。私の知る限り学校では教えてくれないので、どうすれば良いのかわからなくなり多くの人が混乱してしまうのです。混乱しながら最適解を見つけることの出来る人もいれば、答えのない問題の解き方・考え方・取り掛かり方が全くわからず途方にくれる人もいるのです。

偏差値の高い人に限らず、途方にくれる人は一定割合でいるのですが、偏差値が高いと能力が高いと期待されているので失望されてしまうのです。

偏差値と仕事の出来が必ずしも相関しない理由

偏差値は元々用意された正解を答える能力の良し悪しをはかるものです。仕事とは正解があるとは限らない課題を解くことが求められます。仕事とは現状での最適解を見つけることが出来る人間が優れていると考えられるのです。

偏差値は正解を答える能力をはかり、仕事は最適解を答える能力が求められるので、偏差値の良し悪しと仕事の出来不出来はズレが生じるのです。

仕事の採用の際に偏差値がフィルター代わりに使われる理由

今のところ他に適切な指標がないため、仕方なく偏差値で代用しているのです。

三菱自動車の燃費不正に思う。性善説は言い訳

三菱自動車の燃費の燃費の不正が発覚しました。
内部告発ではなく、納入先からの指摘でした。

燃費の計測の仕組みが、メーカーから提出されたデータをそのまま使うそうです。性善説の観点で制度設計したのはただの怠慢だと私は思います。ズルをして発覚したとしてもペナルティーが小さければ、ズルをする人はいるでしょう。何しろ少し賢いお猿さんですら嘘をつくのですから、バレないと考えれば人間が嘘をつくのは当たり前です。もしバレてもペナルティーがズルをしたことで得られるメリットよりも小さければやるのが人間です。

日頃は嘘をつかなくても、バレないという隙があれば嘘をついてしまうのが人間です。誰にでもその可能性があるので、性善説での制度設計だから仕方ないというのは怠慢を隠すための言い訳に過ぎません。その隙をなくすように制度設計をするべきです。もしくはバレたら全てを失うもしくは負債を背負う程のペナルティーを用意するべきだと思います。制度設計する人がズルをする隙を残してしまっているのです。

少なくとも抜き打ちで極一部でも実際に検査をすること。不正が見つかった場合には、言い訳を許さず全ての許可を取り直すようなペナルティーを準備するべきだと私は思います。

私が政治家であれば、今自主申告すればペナルティーは無しか最小限で、ある期限をこえると上記のようなペナルティーを課します。ちょうど刑法の自主と同じように扱うのです。知恵のある経営者なら自主申告すると思います。性善説ではなく、人間の本来に沿った制度設計して欲しいですね。

本屋さんは既に茹でられている

本屋さんは既に茹でられていると思います。

茹でらるとは茹でカエルのカエルの例えのように気付かずに逃げ出さないことを表現するものです。実際にはカエルは水の温度が上がると逃げ出そうとするので、疑似科学と言われているようです。考え方としてはわかりやすのでこのように表現してみます。

本屋さんの環境が変わっているのは、電気屋さんと同じです。具体的な商品の陳列を見てネットで購入する人が増えることです。

何故なら紙の本にない魅力が電子書籍には用意されているからです。

電子書籍のメリット

  • スマホでいつでも何処でも読める
  • わざわざ持ち運ぶ必要がない
  • 保管場所がいらない
  • 読み終わった本の始末に困らない
  • マーキングにペンが不必要
  • 安い(古本屋に売れない分値引きされるイメージ?)

電子書籍のデメリット

  • 人にプレゼントすることが出来ない
  • 所有している実感がない
  • 機械が壊れると読むことが出来ない

これからの本屋さん

実際に本を手にとって見ることの出来る魅力はありますが、値段が安い電子書籍には太刀打ち出来ない面があります。まだ本屋さんで買う人が多いため、茹でられている実感はないのかもしれません。茹でられている実感のある本屋さんは、コミックのレンタルなど新しい事業展開をはじめています。これもAmazonが定額サービスをはじめてしまうとレンタルというメリットが一瞬で消えてしまいます。少なくとも電子書籍の期間限定で格安販売が始まればレンタルサービスと競合します。

そろそろ本の定価販売を見直す時期なのかもしれません。もしなしたら電子書籍化されていない本ばかり集めた本屋さんが流行るかもしれません。

他にも既に茹でられている業界はあるかもしれません。時代が大きく変わりつつあります。

説得マンを送り出す説得会社

ある営業マンの人と話をしていて驚いたことがあります。会社の方針でとにかく営業をかけろという指令が出ているそうです。営業成績が悪いと営業の仕方が悪いとして上司から責められるそうです。かと言って具体的には営業の仕方は教えてもらえないそうです。営業成績は上げなさい。その方法は自分で考えなさいという方針のようです。上司の方は本来なら営業の仕方を具体的に教えてあげることが仕事ではないかと私は思います。責め立てただけで営業成績が上がるのであれば苦労はしません。責め立てられた営業マンは説得マンになって会社から送り出されます。相手を説得して商品を購入してもらおうとします。一度や二度なら説得に応じてくれる人もいるかもしませんが、長続きする訳がありません。

その会社の方針で驚いたのが、とにかく新規に営業をかけるように説得マンを送り出すそうです。相手が求めていようと求めていなくてもとにかく営業するように言われるそうです。正に説得して営業成績をあげる説得マンの行動です。

相手が求めていなければ新規で商品を買ってくれる可能性はありません。相手が興味を持ってくれて初めて営業する意味があるはずです。商品の良さを知ってもらえれば買ってくれるはずというのは売る側の勝手な思い込みです。商品の良さを知ってもらうことと、説得することを混同して売り込む営業マンもいます。買う可能性が全くない相手に営業をかけるのはお互いに時間の無駄です。

魚がいないのに網を下す漁師

相手が求めていないものを面会して売り歩くのは、まるで魚がいない漁場で網を下している漁師のようなものです。

営業マンは新規に営業しなければ売れないから、相手が興味がなくても仕方ないと考えているのかもしれません。誰に売り込むべきか先に考えるべき(どこに魚がいるか)ですが、とにかく営業をかける(とにかく網を下す)という効率の悪い方法をとっているのです。下手をすれば海の魚を捕ろうしているのに湖に網を下す的はずれなことをしているかもしれないのです。そこまで極端ではなくても、瀬戸内海でいるはずもないマグロを追いかけているのかもしれません。同じ海だからいるはずだとしてとにか網を下しているのかもしれません。魚を捕ろうと考えるならば、まず一番にすることは捕ろうとする魚の生態を知り、どこで網を下すのが一番かを考えるべきです。

普通の漁は

漁師さんからすれば網を下さなければ決して魚が獲れることはないと考えることに似ています。しかし魚がいないところに何度網を下しても、決して魚が獲れることはありません。何故なら魚がいないのですから当たり前です。そこで漁師さん達は海鳥などをヒントに経験と勘を頼りにして魚のいるところに網を下すのです。当然魚のいるところに網を下すのですが、外れることもありますので最近では魚群探知機を使って確実に効率良く網を下して魚を捕まえます。

漁師さんは魚がいる可能性が低いとわかっていてわざわざ網を下すことはしないはずです。何故なら網を下すお金と時間が惜しいからです。少しでも魚がいる可能性の高いところで網を下すはずです。

しかし説得マンを送り出す説得会社は、闇雲に網を下すように誰彼構わず説得します。聞かされる方は元から興味がないのに…と思いながら聞きますし、説得する方はこれだけ説得しているのに良さがわからないんだと考えるのです。客観的に第三者の視点から見るとお互いが時間を無駄にしていることがわかります。

効率的な営業

私の考える効率的な営業は、漁師さん達が海鳥や魚群探知機を使って魚がいる可能性の高いところを探すような営業です。

つまり自社商品を買ってくれそうな人を探すのです。決して手当たり次第に説得したりはしません。

例えば車の営業マンの場合、2人乗りのスポーツカーを得ることを想定してみてください。どこに買ってくれそうな人がいるかを考えるのが、魚がいそうな漁場を探すことになります。2人乗りのスポーツカーを家族連れに売り込もうとしても時間の無駄でしょう。会社がセカンドカーとしての市場を想定していたとしても、現実に2人乗りのスポーツカーを買ってくれる可能性があるのは独身の人でしょう。もしくは子育ての終わった中高年の方かもしれません。家族連れを狙って説得しても徒労に終わるでしょう。逆にミニバンを売るのであれば、家族連れに売り込むのが効果的です。

営業マンは営業するのであれば、闇雲に営業(説得)するのではなく、前もって誰に得るのかが一番重要だと思います。

そして会社がまず誰に得るのが一番効率的かを絞り込むべきです。会社としてどこに網を下すのが効果的かを考えて、社員を指導するのが本来の上司の役目だと私は思います。

説得会社の行く末

説得マンを送り出す説得会社が成り立つのは、まだまだ説得するという無駄なことをする余裕がある会社なのだと思います。これだけ情報が行き渡り始めると説得会社の存続は近い将来危うくなると私は思います。

21世紀に未だ説得マンを平気で送り出す説得会社があるのに驚いたため書いてみました。実は業績の芳しくない企業は営業と称して説得して回っているから、業績が上がらないのかもしれません。

最低賃金が時給1500円になるとおこること

最低賃金を上げることを目指して行動している人達がいるようです。

企業に対して賃上げ要求をするのならわかりますが、最低賃金を上げることを要求するのが私には理解出来ません。何故なら時給1500円分働いていると考えているのであれば、雇用者に要求すべきことです。雇用者に要求しないのは、要求しても認められないことがわかっているからでしょう。ただ最低賃金を時給1500円にして欲しいと主張することは自由です。自由ではありますが、まるでお金の仕組みを知らない子供がお小遣いを上げてくれと駄々をこねているようです。他の子はお小遣い1500円もらっているから僕も1500円にしてと主張しているようです(外国の例をあげて日本での時給1500円を主張)。しかもお小遣いを出す親ではなく学校に最低お小遣いを上げるように主張しているように受け取れます。(現実には学校で最低お小遣いなどという決まりはないのでただの例え話ですが…)

要求通り最低賃金が時給1500円になるとおこることを考えてみます。最低賃金を上げても売り上げが上がる訳ではありません。アルバイトの給料を払うために値上げは出来ませんから、同じ売り上げを維持するためには労働生産性を1.5倍に引き上げる必要があります。つまり働く能力・能率を引き上げる必要があります。具体的には機械化が一気に進むでしょう。

例えばファーストフードでは注文はタッチパネルになり支払いまで自動清算になるのではないかと思います。商品の製造も自動化する機械化が進むでしょう。現実に競争の激しい回転寿司ではタッチパネルが当たり前でシャリを作るロボットも当たり前になっています。タッチパネルを導入出来ない回転寿司は淘汰されつつあります。居酒屋でもタッチパネルが導入されつつあります。注文を受けることに人手を費やすのは非常に効率が悪いからです。お客さんが商品を選ぶ間お客さんの前でただ立って選ぶのを待つのは時間の無駄です。しかも店員が端末のボタンを押すだけであれば、お客さんにタッチパネルとして押してもらうだけのことです。まだタッチパネルが導入されていない業種は、経営陣がその意味を理解していないのか、まだそこまでしなくても良いだけの経営に余裕があるのです。

最低賃金が時給1500円になった時点でタッチパネル化が一気に進みます。今は3人でしている仕事を2人か場合によっては1人でこなさなければなりません。そして時給1500円支払う価値のある気の利く人だけが残ることが出来るでしょう。ファミリーレストランでも同じことが起こります。まだ店員が端末を操作して注文を受けていますが、タッチパネルが導入されるのは時間の問題です。効率化すればタッチパネルで注文し料理が出来た時点で席に案内される時代が来るかもしれません。

時給1500円になることで無駄が省かれて効率化されるので、消費者にとっては便利になるので良いことです。一方アルバイトする人にとっては自らの首を絞めるような要求のように思います。

ちなみに外国で時給1500円で成り立つのは、そもそも物価が高い国か、チップの廃止の代わりに高い時給にしているからです。物価に対して妥当だから成り立つのです。物価が変動し、経営陣が時給1500円が高いと考えれば、タッチパネルなど機械化されていくでしょう。その過渡期だから成り立っているだけのことです。

農家保護は誰のため?

農業の就業人口が減っており、高齢化が進んでいるため保護されています。更にTPPに備えて農業保護が叫ばれています。

農業保護は農家のためだとは思いますが、結果として農家の方のためにならないと思います。そのことを書いてみます。

私は今でも過保護だと思います。かといって農業を軽んじている訳ではありませんし、自給率が下がるのは由々しき問題だと思います。過保護とは適切な保護をこえて保護してしまっていると思います。TPPに対して保護ではなく、どうしたら安い外国産の農作物と差別化出来るか、支援するべきだと私は思います。

保護のせいで、農家の方が売れる農作物を考える機会を奪っていると私は思うのです。保護が無ければ売れる農作物を必死で考えるはずです。保護ではなく、売れる農作物を探す支援をするべきだと私は思います。

保護では問題は解決しません。競争する機会を奪うので、農家の方々の努力する意欲も奪います。保護は変化を妨げてしまうのです。状況に合わせて最善の状態を考えるべきです。何故なら現状が理想の方法だとは思えないからです。最善を求めて絶えず変化していくべきですが、保護は変化しなくてすませてしまうのです。資本主義が優れているのは自然界の自然淘汰のように、競争により最善のものが市場により選択されることです。保護はその仕組みを排除するので適切ではないものも延命してしまうかもしれません。

結果として国民も高い農作物を食べることになります。結果として誰も得をしないのです。

保護ではなく、努力した結果うまくいかなかった農家の方を支援する方法が最善だと思います。支援も金銭的な支援だけでなく、知恵での支援も必要だと思います。全て保護よりもうまくいかなかった時点で支援するべきだと私は思います。

利益を目的にすると判断を誤る

経営不振に悩む企業が見受けられます。
私は利益を目的にしているから、判断を誤るのではないかと思います。企業が利益を求めるのはいわば常識ですが、最近では利益を目的としない企業が出始めました。利益ではなく理念を目的としています。それらの企業でも利益は得ていますが、利益は目的ではなく手段として得ています。会社を維持するための運転資金として利益を考えているのです。

利益は企業の為ならず

という諺を新たに考えました。利益を求めると企業のためにならないという考え方です。

経営不振に陥っている企業がはまっているのが、利益を追い求めているからではないかと思います。企業の利益と顧客の利益は相反します。企業の利益を求めると顧客は不利益となります。そのさじ加減が難しく、高くても売れると思うと利益のために高く売り、売れないとわかれば利益を削って安く売ります。つまり(自分達の利益のために)高くても売れる価格で売ろうとするのです。利益を最大化する売り方を模索し、顧客のニーズとズレることで経営不振に悩むのです。

利益を目的としない企業は、原価に適正な利益を加えた価格で売ります。元々利益を目的としていないので、利益を目的とする企業よりも安く売ることが出来ます。利益を求めていないことを顧客に理解してもらえると、好循環を生み急速に事業が拡大していきます。急拡大している理由は、利益を求めていないからです。適正な利益のつもりで売り出しても、予想外に利益が出れば、次の適正な利益を少なくするように調整するのです。

利益を追い求めている企業はそろそろ別の目的を探すべきではないかと思います。

ベストを引き出す最善の方法は競争

ベストを引き出すための最善の方法は競争することです。スポーツやイベントなどで競うのは一番を決めることが目的ではありません。みんなが手っ取り早くベストを尽くす方法が、人と競うことだからです。

競争が無ければ、何でも一番です。適当にやっていても一生懸命やっていても一番です。二番がないのでそれが凄いのか凄くないのか評価出来ません。比べることが出来ないからです。

行政改革行政改革と叫ばれていますが、競う相手がおらず比べることが出来ないことが一番の問題です。どれだけ対応が悪くても、行政のことは他で変わりが効かないので国民は我慢するしかありません。行政に一番必要なのは競争だと私は思います。

スポーツにおいて順番をつけることに異論もあるようですが、そもそも順番をつけるのは競うことでベストを尽くすことが目的です。順番は結果でしかありません。ベストを尽くした結果であれば、順番を気にする必要はありません。何故なら人には個人差があるからです。一番の人がいるためには二番や三番の人がいなければ一番にはなれないのです。ただ単にそういう個性なのです。努力すれば誰でも一番になれる訳ではありません。順番に意味があるのではなく、ベストを尽くすことに意味があるのです。他のことで一番を目指せば良いのです。たまたまその競争では一番になれなかったというだけです。

スポーツで勝つことが注目されるようになり、一部では商売に利用されることから、勝つことに意味があると錯覚してしまいました。勝つに越したことはありませんが、負けたら意味がない訳ではありません。

商売としてスポーツをしている人は勝つことが目的になっているのかもしれませんが、多くの人が競う目的を誤解している部分です。

組織でも競争が無ければ、改善は期待出来ません。競争が生まれると途端に改善をはじめます。例えば電力の自由化で突然割引競争になります。これは競争により最善を尽くさざるを得なくなることをあらわしています。このことからも行政にも競うことが必要だと私は思います。