日本における学歴の意味を考えてみます。
ここ二、三十年で学歴の意味が変わってしまいました。しかしそのことに気付いていない人もいるようなので、今回日本における学歴の意味を書いてみます。
インターネットが存在せず、パソコンを扱う人がオタク扱いされていたほんの三十年前までは学歴には大きな意味がありました。何故なら情報の検索において人間の頭脳以外選択肢がなかったからです。人間の頭脳を検索システムとして活用するため、その検索システムの優劣を見極める手段として学歴に意味があったのです。
検索システムとしての頭脳
教科書を暗記・理解し、理解度を測るクイズである入試問題を解く能力が検索システムとその活用能力の測定に使われているのです。確かに記憶力と検索システム、そしてそれらを活用する能力を測るためには入試というのは合理的な仕組みです。何故ならみんな学校の教科書をいう暗記の課題が揃っているからです。その中身を覚えているかどうか、そして活用出来る程解釈しているかどうかを入試問題で測るのです。
偏差値とはこの入試問題を解く能力を全体から見た分布で数値化したものです。平均を50とし、通常であれば30〜70の間におさまります。というよりもそのような分布になるように問題を設計しているのです。そのため満点でも偏差値は80程度になるような問題が出題され、暗記力と出題に対する理解力、活用能力がはかられているのです。
ちなみに出題者が試験を受ける母集団に対して問題のレベルを間違うと偏差値が優に100をこえてしまうことがあります。イメージとしては中学生に高校生レベルの問題を解かせてしまった場合です。平均点は一桁から10点台になるでしょうが、多くの人が解けない中で解くことのできる人がいた場合、偏差値は100をこえてしまうでしょう。出題者の想定をこえた人がいると偏差値は全く意味のないものになってしまいます。
話が逸れましたが、かつては他に適切な検索システムがなかったからこそ、記憶力と検索能力とその活用能力を見極めることに意味があったのです。ここ20年で大きく変わりました。何故なら情報の取り扱い方が大きく変わったからです。
現在では情報の保存、アクセスは容易になり、検索システムも格段に進歩しています。そうなると人間の頭脳に頼る必要は無くなりました。では何故変わらないのでしょうか?
学歴が重宝される理由
未だに学歴が能力の判定に使われている理由で考えられるのは2つです。一つはインターネットの出現とコンピュータやスマホ・タブレットの性能の向上により検索システムの意味が変わったことにまだ気付いていない。もう一つは学歴の他に能力を見分ける適切な手段が今のところないため、以前から使用している学歴を引き続き使っていることです。
つまり学歴に以前ほどの意味がなくなったことをまだ知らないだけか、知っていても他に見分ける手段がないため仕方なく使っているかのどちらかです。
特に入社試験において学歴フィルターなるものの存在が噂されるのは、ほかに適切な指標がないため次善の策として学歴の示す暗記力・理解力・理解力を指標にしているのです。
社会に出て必要な能力
社会生活において学歴が重宝されていたのは上記の理由です。決して社会に出て必要な能力が学歴だと考えた上で学歴で選んでいる訳ではないのです。他の指標を考えだすことがまだできていないので次善の策として活用しているに過ぎません。
では社会に出て必要な能力は何でしょう?一つは問題解決能力です。投げかけられた問題に対して最善の答えをいかに早く出せるかです。正解が存在しない問題も多々ありますが、答えのない中での最善の答えに近づけるかどうかが問われます。もう一つは問題そのものを見つける能力です。問題を創造すると考えてもかまいません。問題を解決する能力は他人に問題を出してもらわなければいけません。問題を見つける能力もあれば、次々問題を見つけた上で解決もしていけるのです。具体的には発明家や起業家は問題を見つけて解決する能力に長けた人達です。そこまで大がかりなことでなくても、身近なことでも問題を見つけたり、解決出来る能力が必要とされるのです。
学歴・偏差値は用意された答えを如何に早く正確に見つけるかが問われる問題です。社会に出てからは、存在しない正解を手探りで探し、最適解を見つけることの出来る能力が求められます。もしくは自分で問題を見出す能力が求められます。
このずれが学歴・偏差値が高くても役に立たない人がいる理由です。
学校に行く意味
学校でわざわざ学ぶ意味はほとんどなくなってしまいました。
授業形式であれば、よりわかりやすい授業がインターネット上で見つかることでしょう。
もし大学の授業など専門的な分野であれば、まだインターネット上では見つからないかもしれません。その場に行かなければ知りえないのであれば、その大学には行く意味があるのかもしれません。
少なくとも中学や高校の授業であれば、インターネット上を検索すれば様々な授業を見つけることができると思います。教えるのが上手な人の話であれば、ライブで見る必要はないと私は思います。唯一の欠点は直接質問が出来ないことです。逆に言えば質問しない授業であればネット・録画で構わないはずだと思います。
それでも学校に行く意味があるとすれば、友達を作ることとクラブ活動以外ありません。
インターネットやビデオ授業では学ぶことのできない、人と人との関わりを学ぶ目的に学校に通う意味があると思います。小学校・中学校では通常地域毎に分かれているため、様々な能力や家庭環境の人たちを触れ合うことになります。人々の多様性を学ぶ良い機会です。
高校では受験という選別によってある程度似通った人たちだけが集まることになります。例えば多くが就職する学校と大学に進学する学校に分かれることを意味します。その結果価値観が似ているため、会話が成立しやすく友達が作りやすい環境になります。
友達を作ることの次に意味があるのが、学校でしか味わえないクラブ活動という体験だと思います。
限られた年限の学生生活において、クラブ活動を行うことでえられる経験で様々なことを学ぶことができます。スポーツであれば身体の動かし方であり、クラブの仕組みであったり学ぶつもりになれば何からでも学ぶことができます。
学校が提供しているのはもはや学業ではなくなりつつあるのです。その証拠に学校での学業では足らないので、塾に行くことになるのです。
卒業後同窓生として仲間意識をもって関わることのできる友達と知り合うきっかけを提供する場であり、クラブ活動を行う場を提供する組織となりつつあるのです。
何故なら暗記力や理解力や問題を解く能力は社会は求めなくなっているのです。
形式上今でも学業を提供していることになってはいますが、社会から求められていないことをいくら提供したところで、誰も喜ばないのです。
多くの人はまだ気づいていないだけなのです。