無料ゲームが流行る理由

無料ゲームの意味は以前書きました。ポケモンGOは旅行の意味を変えてしまうかもしれません。今回は無料ゲームが流行る理由を考えてみます。

無料ゲームはゲームの利用料金が無料のため心理的なハードルが低く手軽に始めることが出来ます。このことが流行る理由の一つです。通常はお金という制約の中でゲームをして遊んでもらいますが、無料な分時間をポイントに変えて遊んでもらいます。待っていればポイントが復活して再び遊ぶことが出来ます。時間を待てないとお金を支払うことでポイントをすぐに復活させることが出来ます。お金で時間(ポイント)を買うような印象です。

あと少しでゲーム内の何かを得られる場合、お金を払ってでも手に入れたい欲求に駆り立てられます。その欲求こそ「衝動買いの心理」なのです。その考え抜かれた策略にはまってしまい、つい課金してしまうのです。

一度始めるとなかなか止められない仕組みが組み込まれています。通常なら同じことの繰り返しは人間の飽きる仕組みにより、簡単に飽きられてしまいます。しかし飽きられてしまうとゲームをしてもらえなくなるため、飽きられないように常に新しいことを作っています。例えばイベントであったり、新キャラクターであったり、レアアイテムであったりなどです。

無料ゲームが流行る理由は、人間の飽きる仕組みを回避するからです。延々と繰り返して遊んでしまうのです。「衝動買いの心理」からのめり込んでしまって、無料ゲームに依存してしまう人も出てくると思います。無料ゲームをすることを中心に生活を考えて行動してしまうようになります。課金する人に多くみられると思いますが、ギャンブル依存に近い心理状態なのかもしれません。無料ゲームに依存している人もいることが流行る理由の一つです。

無料ゲームを運営するのは利益を上げることが目的です。時間をお金代わりに差し出して遊ばせてもらっているようなものです。余程暇を持て余している人には良い暇潰しにはなるとは思います。もしくは気分転換に活用する意味はあるとは思いますが、無料ゲームにのめり込んでしまうのはじがもったいないと思います。無料ゲームで得られるのは、暇潰しと気分転換だけだと私は思います。

無料ゲームは娯楽の一つだとは思いますが、楽しみ以外何も生み出すことのない虚像だと思います。次の新しい娯楽が生まれるまでの、一時のブームで終わるように思います。

お土産の意味・目的

旅行に行くとお土産を買ってくることがあります。
様々な意味合いがあるため、その意味を考えてみました。

お礼

日頃お世話になっていることの感謝のしるしとして、お礼を伝える意味合いとしてお土産を買ってきます。お中元やお歳暮に近い意味合いと言えると思います。
お中元やお歳暮ほど形式ばった物ではなく、気軽に渡せるのがお土産の特徴です。
感謝の気持ちを込めてお土産を渡します。

お返し

以前お土産をもらったのでそのお返しをするという意味でお土産を買ってきます。
もらったお土産に見合うお土産を選ぶことになります。

お詫び

主に職場の人や家族に対してですが、旅行に行った自分がいないことで迷惑をかけたことに対する謝罪という意味合いです。特に周囲に無理を言って出かけた旅行の際に、お詫びの意味合いが強くなると思います。
お詫びの気持ちを込めて、すいませんと言いながらお土産を渡します。

喜びの共有

一緒に旅行には行けなかったけれど、相手を喜ばせてあげたいという意味でお土産を買ってきます。その土地でしか買えない品物を買ってきてあげることで、旅気分を共有したいという思いでお土産を買ってきます。物流が発達したためその土地でしか買えないものは減りつつありますが、逆に今でもその土地でしか買えないものにはお土産としての価値があります。

記念

自分で買うお土産に多いと思いますが、旅先の思い出となるものをお土産とすることです。
土地の名前の入った提灯などが良い例です。
訪問地を思い出すきっかけとしての意味合いがありましたが、今では手軽に写真を撮ることができるようになったので訪問地を思い出すきっかけそのものが必要なくなりました。
記念としてのお土産の意味は急速に薄れつつあると思います。

ただし家族や友達で一緒に旅行した思い出を共有するという意味で、キーホルダーなどを共に持つということは残るのかもしれません。しかし一緒の写真を携帯に保存できるので、どこまで記念という意味合いでお土産という文化が残るのかはわかりません。

コミュニケーションのきっかけ

コミュニケーションをとるきっかけとしてお土産が利用されていました。
日常において新しい話題を提供するきっかけとして、お土産が活用されていました。
どこそこに行ってきたのでお土産ですと手渡せば、自然と旅先の話をすることができます。
旅先での話をするためのきっかけとして、話をしたい相手にお土産を買ってくるのです。

遠方に住む友人・知人に会う口実としてお土産を買ってくる意味はあると思います。
しかしSNSが発達してきていることもあり、わざわざ会うことも少なくなりつつあります。
わざわざコミュニケーションをするためにお土産を買ってくる意味合いも少なくなっていると私は思います。

自慢

羨ましいと思われる目的でお土産を買ってくる人がいます。
海外や人気スポットへ旅行する人に多い傾向があると思います。
凄いと思ってもらうことが目的なので、高価で派手なお土産を買ってくることが多いと思います。
自慢したいタイプの人は、凄いでしょ?羨ましいでしょ?という気持ちでお土産を渡します。

お土産の意味・目的

お土産の意味を分解してみると上記のようなものですが、実際には一つの理由・目的でお土産を買ってくるわけではなく様々な意味合いが折り重なってお土産を買ってきます。
必ずしも上記の目的から考える訳ではなく、いつもお世話になってい効果るから買っていこう。迷惑をかけたから買っていこう。いつもお土産をもらうから買って行こうなどと考えてお土産を買ってきます。

目的を考えてみた際お礼やお詫びなどの意味合いでお土産を買っていくことに意味はありますが、自分の心の中に自慢の意味合いが少しでもあれば控える方が無難だと思います。何故ならせっかくお金を出してお土産を買ってきても、自慢する人として自分に対する評価が下がるかもしれないからです。

物がなかった時代にはお土産というのは貴重な文化でした。
物が溢れる現代ではお土産という意味合いは急速に変化していると思います。

お土産の本質を考えてみることで、本当に必要なものかどうかがわかると思います。
経済的に考えてもお土産として認識されれば、多少高くても、場合によっては高いからこそ価値があると考えられます。しかしお土産は本来の日常品の値段よりも高いので、お祭り価格のようなものだと思います。みんなの考え方が合理的になると、わざわざ高い買い物をするお土産という文化・風習はなくなるのではないかと私は思います。

お返しという意味合いがあるのですぐにお土産という考え方がなくなるわけではありませんが、バレンタインと同じで誰かがやめようと言い出して浸透すれば、無くなってしまう風習だと私は思います。

日本における学歴の意味

日本における学歴の意味を考えてみます。
ここ二、三十年で学歴の意味が変わってしまいました。しかしそのことに気付いていない人もいるようなので、今回日本における学歴の意味を書いてみます。

インターネットが存在せず、パソコンを扱う人がオタク扱いされていたほんの三十年前までは学歴には大きな意味がありました。何故なら情報の検索において人間の頭脳以外選択肢がなかったからです。人間の頭脳を検索システムとして活用するため、その検索システムの優劣を見極める手段として学歴に意味があったのです。

検索システムとしての頭脳

教科書を暗記・理解し、理解度を測るクイズである入試問題を解く能力が検索システムとその活用能力の測定に使われているのです。確かに記憶力と検索システム、そしてそれらを活用する能力を測るためには入試というのは合理的な仕組みです。何故ならみんな学校の教科書をいう暗記の課題が揃っているからです。その中身を覚えているかどうか、そして活用出来る程解釈しているかどうかを入試問題で測るのです。

偏差値とはこの入試問題を解く能力を全体から見た分布で数値化したものです。平均を50とし、通常であれば30〜70の間におさまります。というよりもそのような分布になるように問題を設計しているのです。そのため満点でも偏差値は80程度になるような問題が出題され、暗記力と出題に対する理解力、活用能力がはかられているのです。

ちなみに出題者が試験を受ける母集団に対して問題のレベルを間違うと偏差値が優に100をこえてしまうことがあります。イメージとしては中学生に高校生レベルの問題を解かせてしまった場合です。平均点は一桁から10点台になるでしょうが、多くの人が解けない中で解くことのできる人がいた場合、偏差値は100をこえてしまうでしょう。出題者の想定をこえた人がいると偏差値は全く意味のないものになってしまいます。

話が逸れましたが、かつては他に適切な検索システムがなかったからこそ、記憶力と検索能力とその活用能力を見極めることに意味があったのです。ここ20年で大きく変わりました。何故なら情報の取り扱い方が大きく変わったからです。

現在では情報の保存、アクセスは容易になり、検索システムも格段に進歩しています。そうなると人間の頭脳に頼る必要は無くなりました。では何故変わらないのでしょうか?

学歴が重宝される理由

未だに学歴が能力の判定に使われている理由で考えられるのは2つです。一つはインターネットの出現とコンピュータやスマホ・タブレットの性能の向上により検索システムの意味が変わったことにまだ気付いていない。もう一つは学歴の他に能力を見分ける適切な手段が今のところないため、以前から使用している学歴を引き続き使っていることです。

つまり学歴に以前ほどの意味がなくなったことをまだ知らないだけか、知っていても他に見分ける手段がないため仕方なく使っているかのどちらかです。

特に入社試験において学歴フィルターなるものの存在が噂されるのは、ほかに適切な指標がないため次善の策として学歴の示す暗記力・理解力・理解力を指標にしているのです。

社会に出て必要な能力

社会生活において学歴が重宝されていたのは上記の理由です。決して社会に出て必要な能力が学歴だと考えた上で学歴で選んでいる訳ではないのです。他の指標を考えだすことがまだできていないので次善の策として活用しているに過ぎません。
では社会に出て必要な能力は何でしょう?一つは問題解決能力です。投げかけられた問題に対して最善の答えをいかに早く出せるかです。正解が存在しない問題も多々ありますが、答えのない中での最善の答えに近づけるかどうかが問われます。もう一つは問題そのものを見つける能力です。問題を創造すると考えてもかまいません。問題を解決する能力は他人に問題を出してもらわなければいけません。問題を見つける能力もあれば、次々問題を見つけた上で解決もしていけるのです。具体的には発明家や起業家は問題を見つけて解決する能力に長けた人達です。そこまで大がかりなことでなくても、身近なことでも問題を見つけたり、解決出来る能力が必要とされるのです。

学歴・偏差値は用意された答えを如何に早く正確に見つけるかが問われる問題です。社会に出てからは、存在しない正解を手探りで探し、最適解を見つけることの出来る能力が求められます。もしくは自分で問題を見出す能力が求められます。
このずれが学歴・偏差値が高くても役に立たない人がいる理由です。

学校に行く意味

学校でわざわざ学ぶ意味はほとんどなくなってしまいました。
授業形式であれば、よりわかりやすい授業がインターネット上で見つかることでしょう。
もし大学の授業など専門的な分野であれば、まだインターネット上では見つからないかもしれません。その場に行かなければ知りえないのであれば、その大学には行く意味があるのかもしれません。
少なくとも中学や高校の授業であれば、インターネット上を検索すれば様々な授業を見つけることができると思います。教えるのが上手な人の話であれば、ライブで見る必要はないと私は思います。唯一の欠点は直接質問が出来ないことです。逆に言えば質問しない授業であればネット・録画で構わないはずだと思います。

それでも学校に行く意味があるとすれば、友達を作ることとクラブ活動以外ありません。
インターネットやビデオ授業では学ぶことのできない、人と人との関わりを学ぶ目的に学校に通う意味があると思います。小学校・中学校では通常地域毎に分かれているため、様々な能力や家庭環境の人たちを触れ合うことになります。人々の多様性を学ぶ良い機会です。
高校では受験という選別によってある程度似通った人たちだけが集まることになります。例えば多くが就職する学校と大学に進学する学校に分かれることを意味します。その結果価値観が似ているため、会話が成立しやすく友達が作りやすい環境になります。

友達を作ることの次に意味があるのが、学校でしか味わえないクラブ活動という体験だと思います。
限られた年限の学生生活において、クラブ活動を行うことでえられる経験で様々なことを学ぶことができます。スポーツであれば身体の動かし方であり、クラブの仕組みであったり学ぶつもりになれば何からでも学ぶことができます。

学校が提供しているのはもはや学業ではなくなりつつあるのです。その証拠に学校での学業では足らないので、塾に行くことになるのです。
卒業後同窓生として仲間意識をもって関わることのできる友達と知り合うきっかけを提供する場であり、クラブ活動を行う場を提供する組織となりつつあるのです。
何故なら暗記力や理解力や問題を解く能力は社会は求めなくなっているのです。
形式上今でも学業を提供していることになってはいますが、社会から求められていないことをいくら提供したところで、誰も喜ばないのです。

多くの人はまだ気づいていないだけなのです。

蓄えた知識により情報の解釈が異なる

新しい情報は全てを鵜呑みにしてはいけないことを書きました。

今回は蓄えた知識により情報の解釈が異なるという話です。何故なら人は蓄えた知識に照らし合わせながら、物事を解釈していくからです。

例えば地球という概念が無いと日食や月食の仕組みを理解することが困難ですが、地球が太陽の周りを周っていることを知っていると、簡単に日食や月食の仕組みを理解することが出来ます。地球と太陽と月の関係性とそれらの動き方を知ることで、偶然起こる現象として月食や日食が起こることが解釈出来るようになります。ちなみに古代において天才が月食や日食をあらかじめ予言していたようですが、現実に日食や月食が起こった際にはさぞ驚いたことでしょう。

別の例えを考えてみると、水分子の性質を知っていると雲や結露のことが解釈出来ますが、水分子という概念がなければ雲や結露の仕組みを理解するのは困難だと思います。

糖質依存の知識があると、糖質をやめた際に起こる反応が容易に解釈出来るようになります。例えば糖質を回避して糖質依存から抜け出すと胃が小さくなるように感じること糖質を少し食べると余計お腹が空くように感じること。そもそもお腹が空くのは糖質依存の禁断症状であることなどです。

知識が増えると解釈出来ることが増えます。出来る限り正しい知識を増やしましょう。

まだ検証は終わっていない仮説もありますが、このサイトの内容の多くは正しいと思います。

ご自身でこのサイトの内容が正しいかどうか検証しながら、取り込んでみて下さい。

新しい情報の取り込み方 鵜呑みにしない

新しい情報の取り込み方の提案です。新しい情報を全て鵜呑みにするということは危険です。何故なら情報には正しい情報と正しくない情報とがあります。中にはわざと嘘を織り交ぜ意図的に騙そうとする情報も潜んでいます。だから新しい情報を全て鵜呑みにするのは危険なのです。

かといって新しい情報を全て拒絶するのも得策ではありません。何故ならその新しい情報が、人生が変わるような画期的な情報かも知れないからです。

では新しい情報はどのように取り込むと良いのでしょうか?私の新しい情報の取り込み方は、これまで手に入れた情報と新しい情報が矛盾しないかどうかを考えます。矛盾があればどちらかが間違っています。新しい情報が間違ってかも知れませんし、これまでの情報が間違っているかも知れません。どちらの情報が正しいかわかるまで保留し、矛盾が解決するように更に情報をあつめます。

これまでの情報が正しくない場合には前提条件が根本から覆る可能性があるため、慎重な検討が必要です。

新しい情報が正しくない場合には、矛盾点を更に検討することで新しい情報は取り込む価値がないとして解決します。

過去に知りえたことと照らし合わせる方法は、騙されないためにも効果を発揮します。何故なら騙すためには何らかの嘘を準備しますが、その嘘を見破ることが出来るからです。

間違った情報と取り込んでしまわないためと、嘘を見破るために様々な情報を身につけておくべきだと思います。その情報の身につけ方のトレーニングが学校の勉強だと私は思います。何故なら学校の勉強は一般的に正しいとされている情報の取り込み方のトレーニングであり、自分で真偽の確認の必要がないからです。まず学校で学んだことをベースにして、物事の真偽を考えながら取り込んでいくのだと思います。

社会に出てみると真偽を考える必要なかった、つまり鵜呑みにしても問題にならない学校の勉強が、如何に楽なことか良くわかります。

新しい情報は鵜呑みにせず、これまでの情報の照らし合わせることで、その真偽を確かめるようにしましょう。そうすれば詐欺師だけでなく、モラルの低い会社に騙される可能性を極力抑えることが出来るようになります。

学校で勉強するのは何のため?目的は?

学校で勉強するのは何のためか考えてみました。
私も子供の頃は勉強していました。
楽しいとは思わなかったので嫌いでしたが、何となく周りの人たちが勉強するので仕方なくしていました。
何故勉強しなければいけないかと聞かれると一言で説明することがこれまではできませんでした。

最近ふと学校で勉強するのは何のためか改めて考えてみました。
それは一言でいえば、頭の使い方を習得するためだと思います。
人は食べるや寝るといった必要最低限の行動は本能的にできますが、頭の使い方はわからないまま生まれてきます。
その頭の使い方を習得するのが勉強です。
人が他の動物と大きく異なるのは言語というコミュニケーションツールを通して、他人と考えていることを伝え合うことができるからです。その言語能力を養うのが国語や英語の言語の授業です。更に人間は文字を扱うことができることで、時間と空間を超えてコミュニケーションすることができるようになりました。そのコミュニケーション能力を養うために国語や英語を学ぶのです。

では算数や数学、社会や理科を学ぶのは何のためでしょうか?
一つは計算や日常現象の理解に役立つのですが、一番の目的は頭の使い方を学ぶことです。もしかしたら教えている学校の先生もこのことを理解していないのかもしれませんが、物事の考え方を知るために学校で勉強するのです。
学校の勉強を理解するということが頭の使い方を習得していることにつながります。
そして頭の使い方の習得度合いを測るのがテストであり、人と比べ評価するのが偏差値です。頭の使い方が上手な人は偏差値が高い傾向があるため、偏差値が高いことが頭の良さと錯覚されています。注意するべきことは学校での勉強というのは頭の使い方のごく一部しか活用していないことです。頭の使い方の習得度の確認手段であるテストで確認しているのは、一つは暗記力であり、一つはテストという暗記したもので作ったパズルのような問題を解く能力です。

現在学校の勉強の目的はテストで良い点を取ることだと誤解されていますが、頭の使い方を習得することを目的としていると考えると物事の理解が異なります。
具体的には社会生活において、自分の頭で物事を考えるようになることです。
例えば原油価格が下がるとどうなるか?新聞やテレビ、インターネットを見ればどうなるのか解説は数多くあると思いますが、自分の頭で考えるようにするのです。原油価格が下がることで原油輸入国の日本は得をすることになるでしょう。身近な例でいえばガソリンを精製して作っているガソリン価格が下がることが考えられます。原油を高コストで掘り出しているアメリカは困るのかもしれません。何故原油価格が下がっているのかを考えることも頭の使い方を鍛えることには役立ちます。学校の勉強をしっかり習得していれば、このようなことを考えていく素養が育つのです。

頭の使い方を学ぶ

学校で勉強する目的は頭の使い方を学ぶため。
頭の使い方の習得度の一つの目安が偏差値であるということです。
ちなみに競争する意味は、能力を最大限引き出すことを目的とします。
競うことで最大限努力するのです。努力させるために点数をつけて、周囲との序列を確認するために偏差値を活用しているのです。
偏差値を取ることを目的にすることに意味はありません。本来の目的は頭の使い方を習得することなのですから。
偏差値が高いことで自分が頭が良いと錯覚している人も多いのは事実ですが、人より少し暗記力が優れていて、人より少し試験問題というパズルを解く能力が高いだけのことです。
社会に出て役に立つかどうかは全く別問題です。(実際には偏差値が高い人は他の能力が高いことも多いので、ある程度の相関はあります)

頭の使い方とは、記憶力や論理的思考能力などが問われていました。
これからは記憶力ということはあまり意味がなくなります。何故なら機械が物事を正確に記録するのに適していますし、検索も容易になったからです。
これからの人間に求められる能力は論理的思考能力です。
先ほどの原油価格が下がればどうなるかを考察できるような能力が求められるのです。

そもそも宗教とは?

そもそも宗教とは人々が仲良く快適に暮らすために始まったものです。
そしてどの宗教も信じるものが救われるように考えられて作られています。

どの宗教を信じることも、信じないことも自由のはずです。
何故なら人間以外の動物には宗教はないからです。
人間だけが何らかの宗教を信じなければならないと考えるのは、既に信じている人の勘違いです。

もし動物に宗教があるとすれば、我が身を守り子孫を残すという宗教です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
わざわざ自分の考え方を押し付ける動物などいません。食べるか食べられるか無関係かのいずれかです(ごくまれに共生関係という協力関係になります)。

動物に宗教はなくても生きていくことができるわけですし、宗教を信じていない人もいるわけですから必ずしも宗教はなくてもよさそうです。ただ信じているだけで人に強要さえしなければ、宗教はあってもよさそうです。
では何故宗教が存在するかというと、先述のように仲良く快適に暮らすために始まったようです。宗教が生まれるまではお猿さんの世界を想像してもらうとわかりますが、盗みや騙しや殺しなどは日常茶飯事だったはずです。動物は食べるために殺すことはあっても、それ以上にむやみに殺すことはありません。何故なら目的が自らが生きるためだからです。
人間は農耕がはじまってから、富という概念が生まれてしまいました。その富を得るために盗んだり奪ったり騙したりするようになりました。富という概念のせいで欲が生まれたのです。お猿さんに富という概念が備われば激しい奪い合いが行われたであろうことは容易に想像がつきます。
そもそもお猿さんから人間になりたての頃には善悪という概念がなかったはずです。その殺伐とした騙しあい、奪い合い、殺しあうような世界に救いを生み出したのが宗教です。宗教によって善悪の価値観を作り出し、同じ価値観の人たちだけで付き合うようになりました。同じ宗教を信じている人とだけ付き合いや商売をするようになったのです。
力で争いを押さえ付けるのが国であれば、考え方で人々の争いを避けるように導いたのが宗教です。考え方の違う人は相手にしないことで争いを避ける知恵としたのが宗教です。

元々が秩序を生み出すために生まれたのが宗教なのですから、みんなが仲良くすることが目的です。歴史上も宗教に伴い様々な争いが生じていますが、本来なら仲良くすることが目的のはずの宗教が原因で何故争いが起こるかと言えば、人に強要しようとするからです。宗教の本来の目的から外れ、権力という欲を求めて人に宗教を強要するようになるのです。
本来は信じた人同士だけでのやりとりですから争いなど生じるわけがないのですが、少しでも信者を増やそうとする輩が宗教を広めようとして争いを起こすのです。そこにあるのは信者を増やそうとする輩の私欲でしかありません。ただ信者が増えることを喜びたいのか、信者が増えたことで手に入る権力がほしいのかはわかりませんが、私欲によって信者を増やしているのは確かだと思います。表向きは素晴らしい宗教の教えだから、まだ知らない人に教えてあげているだけだというかもしれませんが、そもそもどの宗教も人に教えを強要するという教えはないはずです。何故なら争いをなくす目的で宗教が作られたわけですから、争いの種になる宗教の強要を認めるわけがないのです。

残念ながら様々な宗教の開祖は、宗教家の私欲により争いが起こることは想定できなかったようです。偶像崇拝や他の神を認めないある宗教は、私欲による争いを想定していた可能性があります。だから神以外のものを信じてはいけないと教えているのです。しかしそこに私欲をもった指導者が誤った道に導いて争いを引き起こしています。

宗教を広める過程で、死んだあとにどうなるかがわからない不安を利用するために、宗教ごとに死後の世界を考え出し、信者を獲得していきました。
いわば死後の世界の待遇と引き換えに、現世で何らかの行動をとるように導かれるのです。
一般的には宗教的に悪いことをしないように諭すのが通常ですが、一部の宗教では死後の世界の待遇と引き換えに指導者の欲を満たすことに利用されているのが残念です。

宗教は本来信じたものが仲良くするためにある。
考え方を人に強要しなければ争いは怒らない。

この考え方が広まれば、宗教を信じている人も信じていない人も争いが減るはずです。

当たり前の有難さに気付く方法

余りに当たり前のことは、その有難さに気付くことはなかなか出来ません。比較をしない限り有難さに気付くことは出来ません。例えば糖質を食べる炭水化物を主食として食べる習慣は当たり前過ぎて、食べないとどうなるのか?ということは認識出来ません。実際に比較をしなければ、当たり前過ぎて糖質を食べない選択肢があることに気付くことは出来ませんでした。

具体的には日本人にとっては当たり前のことは日本人同士ではその価値や意味に気付くことは出来ません。海外と比較することで初めて認識することが出来るのです。言わば日本人にとって当たり前のことは、特別なことではなく当たり前すぎて認識出来ない空気のような存在になるのです。存在していて当たり前で日頃特に意識しない程当たり前となってしまっていることが多々あります。

例えば安全な水です。水道をひねれば飲むことの出来る水が手に入ります。海外では飲むことの出来る水ら貴重なことです。海外と比較しなければ水が簡単に手に入る有難さに気付くことは容易ではありません。

例えば治安の良さです。夜道の一人歩きでも犯罪に巻き込まれることはほとんどありません。海外では昼間で男性でさえも一人歩きは危険な場所がいくらでもあるようです。日本では犯罪に巻き込まれないのが当たり前ですが、海外では場所によっては犯罪に巻き込まれるのが当たり前です。

日本では街中で喉が渇けば自動販売機で飲み物を買うことが出来て便利ですが、そもそも海外では自動販売機は壊されてお金を抜き取られてしまうため自動販売機そのものがありません。

日本では順番に並ぶなど様々なことに秩序が保たれていますが、海外では順番に並ぶという概念そのものがないこともあるようです。

これらは比較しなければ当たり前すぎて有難さを認識することが出来ないのです。比較は当たり前の有難さを再認識させてくれる重要な意味があると思います。他人との比較、他国との比較、過去との比較など比較の方法は様々ですが、比較することで当たり前の意味を再認識してみてはいかがでしょうか?

科学は因果関係の積み重ね

科学は因果関係の積み重ねの上に成り立っています。偶然なのか必然なのかを見極めることで、必然性を見つけ出し、条件を整えて自由に再現することで科学も人々の生活も発展してきました。
科学は世の中の解釈を広げ、生活を豊かにしてくれました。科学が因果関係を明らかにしてくれた賜物です。例えば水が熱すると沸騰し、冷やすと氷になる。いつも同じ温度で沸騰や氷になることから、100℃と0℃を決めました。その後不純物があると沸点が上がり、凝固点は下がることがわかりました。氷に塩を加えることで凝固点が下がることを利用しアイスクリームが生まれました。

科学という程厳密なものではなくても、人は日常生活で因果関係を利用しています。一説によると4歳児でも遊びながら因果関係を探すそうです。何故なら因果関係を見つけ出せば、思い通りに現象を再現できるからです。

お湯を沸かす際に蓋をするのと蓋をしないのとで、蓋をする方が早く沸騰することは何度か試すといつもどちらが早く沸騰するかわかります。蓋をする方が早く沸騰します。蓋と沸騰までの時間の因果関係を見つけ、生活に活用しています。

科学はその因果関係から何故そのようになるのか理屈を導き出します。蓋をすると沸騰するまでに水が蒸発することで熱が使われることを防ぎ、余分な熱を使わないため早く沸騰します。余分な蒸発を防いでいることは沸騰するまでに蓋に水滴がつくことでわかります。

因果関係が分からなければ、試してみることです。仮説を立てて因果関係があれば仮説通り再現されますし、因果関係が無ければ仮説とは違った結果が出ます。

信じられないような話でも、公序良俗に反することや危険が無いのであれば自分で試してみれば良いのです。因果関係の有無を自分で確認してみましょう。因果関係が明らかになればどんなに信じられないような話でも、信じるしかありません。呉からの風をいつも読んで下さっている方には何のことかわかっていただけると思います。

まずは因果関係の有無を見極めましょう。既に解明されている因果関係かも知れませんし、まだ解明されていなければいずれ科学が解明してくれると思います。

特徴的なファッションの意味

特徴的なファッション、奇抜な衣装を楽しむ人達がいます。ドレスコードのある場所を除き法律の範囲内であれば当然個人の自由です。

特徴的なファッションや奇抜な衣装の意味を考えてみました。

個性を主張したいとか人とは違うことをしたいという目的で特徴的なファッションを選択しているのだと思います。

一言で言えば昆虫や動物のカラーリングと同じだと思います。同じ格好を望む仲間あるいは特徴的なファッションや奇抜な衣装を受け入れてくれる同好の士を探しているのだと思います。

みんながみんな仲間を求めているわけではないとは思いますが、一部の人達は受け入れるつもりのない人が近づかないような予防線の代わりなのかも知れません。

少なくとも受け入れてくれる人とだけお付き合いしたい表れのような気がします。どのような格好をするのかは個人の自由なのですから、良いか悪いかではありません。

受け入れられないなら近づかないで欲しいメッセージを発しているのですから、そっとしておきましょう。受け入れることが出来るなら、探しているのはあなたのような人です。積極的に関わってみましょう。