遊びの本来の目的と意味

遊びの本来の目的と意味を考えてみました。

動物の子供でも見られる遊びには生きていく上で得をする仕組みがあるようです。生存競争の厳しい自然界の中で、無駄なことにエネルギーを費やす余裕は無いはずです。つまり、何らかのメリットがあるから遊ぶのだと思います。

身体を使う遊びの目的

遊びの目的は身体の動かし方を楽しみながら学び・習得することです。そのため身体の動かし方に慣れていない子供は遊ぶことに夢中になりますが、大人になるにつれて身体の動かし方を習得してしまうと身体を動かすことに喜びを感じにくくなります。大人はスポーツをすることがあっても遊びをしなくなるのは、身体を動かすこと自体に楽しみを感じにくくなるからです。

遊びの中で楽しみながら競い合うことで、最大限力を発揮することに喜びを感じます。勝つことで楽しみを感じ、負けることで悔しさを味わい、遊び方の更なる工夫をするようになります。無意識のうちに、身体の動かし方を工夫して楽しく感じるのです。

頭を使う遊びの目的

トランプやオセロや将棋など頭を使う遊びの目的は何でしょうか?

特に楽しく感じるのは生きていく上で得をする仕組みが備わっているからだと思います。頭を使う遊びの目的を考えてみました。

頭を使う遊びの中に組み込まれている脳が楽しく感じる仕組みに目的がありそうです。

頭を使う遊びに求められるのは記憶力、論理的思考能力、確率に関する思考能力、瞬時の判断力、先を見通す力などです。

これらは生きていく上で重要な役割をする能力のため、習得できると生存競争に有利になるので楽しく感じるのです。満足するほど習得すれば飽きることで遊びを終了します。

飽きる理由

大人でも子供でも同じことをしていると飽きるという現象がみられます。最初は楽しく感じたことも、既に知っている記憶の分楽しみを差し引いていく脳の仕組みが備わっています。感じる楽しみが記憶により差し引かれるため、繰り返し経験することで期待した楽しさが得られなくなってしまいます。これが飽きるという状態です。

刺激を受け切った。飽きる程経験した。飽きる程習得したとも言い換えることが出来ます。

一つのことをやり過ぎてしまうと他のことを経験する機会を奪ってしまうので、飽きることでやり過ぎを防ぐ仕組みが備わっています。

一度飽きたことでもまた経験したくなるのは、経験した記憶が薄れるからです。

ゲームの問題点

ゲームは娯楽・楽しみ・生き甲斐を感じること・時間潰しなどに役立つのは確かです。ただゲームには一つ問題点があります。

ゲームの目的が継続させ、病みつきにさせることだからです。

遊び本来の目的は何らかの能力の習得でした。習得すれば飽きることで遊びを終わる仕組みが備わっているのです。ゲームは遊び続けてもらうことが目的のため、飽きることを避ける仕組みを仕掛けています。そして一度はまると抜け出せないアリ地獄のような、魅力が続けるように仕向けます。やり過ぎを防ぐ飽きる仕組みを意図的に回避するように設計してあることこそが問題です。

自己制御出来なくなるのは依存のメカニズムに良く似ています。

ゲームで得るものは、ゲームが上手になることだけです。(それ自体が楽しいのですが)そして失うのはゲームを買うお金と、ゲームをしている間に他のことが経験できないという貴重な時間です。(無料ゲームの意味)

怒ると叱る、諭すの違い

怒る・叱る・諭すという言葉があります。それらの違いを考えてみます。

怒るより叱る方が良いと思っていましたが、それよりも諭すのがベストだと私は思います。

怒る

怒るは感情を相手にぶつけているだけのことです。相手に伝わるのは怒っている・不快な思いをしているということだけです。怒る場合感情に任せて怒るので、相手に何故怒っているのか伝わりません。

怒っている人は、当たり前だと思っていることが相手に抜け落ちているので、怒っているだけのことが多くあります。しかし相手に当たり前という感覚が無いので、怒っても全く伝わりません。怒られても意味がわからないのです。

叱る

辞書によると目下のものの良くない点を指摘して強く咎めることのようです。

相手を責め立てるニュアンスが含まれています。感情に任せて怒るよりはましですが、相手が悪いことが前提なのが私には抵抗があります。ただ知らないだけのことを責めるのは可哀想にも思います。もしかしたら自分が教えるべきことなのて、そのことを知らないとして叱ってはいないでしょうか?教えるべき人が教えていないことを叱るのはルール違反だと私は思います。

諭す

辞書によると目下のものにわかるように説明して、納得するように教え導くことだそうです。

諭すには責め立てる意味合いは込められていませんので、相手が知らないだけのことを教えてあげるのですから私は最適な言葉だと思います。相手が知らないことは仕方のないこととして受け入れ、知らないことを責めずただ教えてあげる、諭すという言葉。無駄な争いを無くす魔法の言葉だと思います。

怒る、叱る、諭すの違いのまとめ

怒るは感情で責め立て、叱るは感情はないものの責め立て、諭すは責めず教え導く。

怒るよりも叱るよりも諭すを心掛けてみませんか?

説明下手な人の話し方

説明下手な人の話し方を考えてみます。

様々なタイプがあります。

  • 自分自身の頭の中で整理されていない場合。
  • 言いたいことをまとめられない場合。
  • 話をすること自体が目的のため、話を引き延ばすために回りくどい言い回しをする。
  • 話をしている最中に思いついたことを織り交ぜてしまうので、全体で一貫性がなく良くわからない話になってしまう。
  • 老人に多い話し方ですが、時系列で全て並べようとする。
  • 話の本筋に関係のある話と関係の無い話の区別がつかず、様々な話がごちゃまぜになってしまう。

などが考えられます。

対策は説明したいことを一言で言うことです。ちょうどメールのタイトルのように先に用件を伝えるのです。次にその解説をすることです。それだけに気をつけるだけで相手は理解しやすくなります。

説明の極意 一言に凝縮できるかどうか

説明能力というのは人間が生きていく上で必ず必要な能力です。
何故なら人間がお互い考えていることを分かり合える可能性があるのは、唯一言葉で説明することだけだからです。
その説明能力の良し悪しで生活の質は異なるものとなります。
説明能力の高い人は人に考えを受け入れてもらいやすく、快適な生活を送ることのできる可能性が高まります。一方説明能力の低い人はなかなか自分の真意が周囲に理解してもらえず、窮屈な生活を送る可能性が高くなります。

言葉が通じることで生じる大きな誤解

ここでの注意点は日本語を話せば日本人にはわかってもらえるはず、という大きな大きな誤解です。

言葉が通じるとお互い全てわかるつもりになるのが怖いところです。更に怖いのが自分が話をすれば、(自分としては)難しい話はしていないので、聞き返されない限り相手は100%理解していると思い込んでいることです。更に悪い場合、説明しているのに理解しないのは相手の理解力が悪いと思い込んでしまうことです。

言ったはずのに相手は聞いてないという争いの元にはこんな心理が隠れているのです。絶対言ったのに聞いてないなんて嘘までつくとは許せないという大問題に発展することも想像できます。夫婦、家族でもよくある行き違いです。
確かに言ったかも知れないけれども、相手にとっては言われた内容が突拍子もなく、全く理解できなかったのです。少しだけでも理解できて本気にしなかったわけではなく(その場合少しは記憶に残ります)、全く理解できなかったので意味不明の呪文のごとく聞き流してしまったのです。
学校の授業や会議で頭に入らないと言われる状態はこんな感じだと思います。

言葉を凝縮して伝える

相手のわかる言葉で伝えることはもちろんですが、言葉を相手のわかる範囲で極力凝縮すると伝わりやすくなります。

できれば一言に凝縮して伝えて、何の話をするか頭を切り替えてもらうのです。凝縮した一言に続けて、更に次の一言を伝えて話を絞り込むと話はスムーズに伝わります。

説明の際に何の話になるのかわからないため、聞き手はまず目的が何で、何の話題かが気になります。聞き手側にとってはこれまで蓄えたどの知識と結びつくのかが興味があるのです。キーワードとも言える凝縮された一言でどの知識に関連があるのか一緒で伝わるため、素早く理解できることから聞き手にとってわかりやすい説明になります。その後次の一言を絞り込むことで、さらに話題が絞り込まれるため理解が深まります。

具体的な言葉の凝縮の仕方

営業マンであれば◯◯の提案です。◯◯の営業です。

学校の授業であれば、化学のモルの話です。物理の力学の話です。

イメージとしてはメールのタイトルをつけるイメージで一言にすると良いと思います。

安いから買うという勘違い

安いから買う人がいます。偉そうに書いていますが、私もその一人でした。何故そのように考えてしまったか今ならわかるので書いてみます。理屈は衝動買いの心理と同じです。

本来買い物は必要だから相応なお金を払って買うものです。

買い物の判断は必要か必要ではないかが基準のはずですが、バーゲンで安くなるとある錯覚が起こります。

ある錯覚とは安いか安くないか。損か得かが判断基準になってしまいます。必要なものが安くなっているならお得ですが、必要かどうかはあまり問題とせず安いから買わないと損をしてしまうという錯覚が起きています。本来必要ないものが安くなっても得もしませんし、ましてや買わないからといって損もしません。しかし元の値段が基準になってしまい、安く買わないと損だという錯覚に陥るのです。

バーゲンはその錯覚を利用した販売方法です。

何も違法なことをしている訳ではありませんが、別の角度から考えてみます。バーゲン価格が本来の値段で正規価格として高い値段での販売は利益を上乗せしていただけのことです。バーゲンがお得なのではなく、正規が損なのかもしれません。

つい陥ってしまう安いから買う。これは理性と衝動のせめぎ合いの良い例だと思います。安いから欲しいという衝動と必要なものかどうかを見極める理性とのせめぎ合いです。

実際には正規価格と安くなった価格でお得、今買わないとなくなるという焦りが判断を狂わせます。

10分間待って、本当に必要かどうかを考えてみましょう。

説明の極意 相手のわかる言葉で伝える

説明の極意を考えてみます。
一番大切なことは相手のわかる言葉で伝えることです。
当たり前のことだと思われて、意味が分からない方は注意が必要です。
何故なら相手のわかる言葉で伝えているつもりで、相手にとっては知らない言葉で伝えているかもしれないからです。相手の頭の中を覗くことはできないからです。

相手のわかる言葉とは?

相手のわかる言葉とは、理解できる言葉のことです。日常生活で使っている言葉であっても、一つの言葉が様々な意味を持つため話の道筋の中で理解できるかどうかは別問題です。
想像力が豊かな人は説明が上手です。それは想像力を駆使して相手のわかる言葉を選んで説明に使うからです。例えば幼稚園児に想像力を働かせてくださいと説明しても理解できないと思います。思い浮かべてみてください。好きなことを考えてみてくださいという言い方でなければ、理解できないのではないでしょうか?

キーワードで確認する

幼稚園児という極端な例だから相手がわからない言葉が容易に想像がつきますが、大人同士で話をしている場合相手のわかっていることを推し量るのは簡単ではありません。推し量るのは簡単ではないだけに、相手のわかる言葉を確認しながら説明するしか方法がありません。言葉の確認とはキーワードになる言葉を知っているかどうかを聞いてみるのです。知っていなければそのキーワードの説明からはじめていくとよいと思います。
もしくは最初からできるだけ簡単な言葉を使いながら説明するのです。

相手に概念があるか確認する(概念の欠落の確認)

わからない言葉の中には概念がない場合があります。
概念がなければいくら言葉で説明しても決して理解できません。
概念がない例えは想像してみてください。
赤道直下の平地の原住民に雪のことを伝えることです。
氷すら見たことがない原住民に雪を伝えるのです。
誰かがこれまで伝えていなければ絶対に雪の概念はないと思います。
原住民が雪を知らないことは想像ができますが、日常生活で話をしている人に概念がないことを確認するのは困難です。説明してもなかなか分かってもらえない場合、わからない言葉以前のわからない概念があるため理解してもらえないのかもしれません。

日本語が通じているとみんなが同じ概念を頭の中に持っていると思い込んでいますが、人の知っている概念が抜け落ちていることもよくあることです。概念の欠落の確認。
概念が欠落していると会話が成立しないので、そんなこともあるのかと頭の片隅にでもおいておいてみてください。

理性と衝動のせめぎ合い

人には理性と衝動の両方が備わっています。理性は人間的で衝動は動物的と言えるかもしれません。人が短時間で心変わりする理由は衝動で決めたことが、理性で冷静に振り返ると判断が間違いだったと気付くことに由来するようです。

理性

理性とは物事を論理的に考え損か得かで判断することです。いくらやりたいことや欲しいものであっても、法律上の問題や誰かが嫌な思いをするなどの倫理的な問題などを考えて踏み止まることが出来るのは理性のおかげです。やりたいことである衝動を抑えるブレーキのようなものといえるかも知れません。
冷静に後あとのことまで考えて損か得かを判断できるのは理性のおかげです。
この理性のおかげで人類は発展することができました。

また理性が働くので人はお互い嫌な思いをすることなく生活することができます。
人間が多くの人と社会生活を送ることができるのも理性のおかげなのでです。

衝動

衝動とは人を突き動かす様々な欲求の源です。人はこの衝動がなければ何も行動をしたいとは思いません。事実欲求を生み出す脳の部位を損傷してしまうと、無気力になってしまうそうです。衝動はやる気や欲求を起こすアクセルのようなものです。
今では衝動が様々な欲求を生み出してしまうので理性で抑えるのが大変で厄介者のような印象ですが、この衝動のおかげで太古の昔の食糧難の時代を乗り切ることができたのです。

衝動買いの心理

衝動には実は問題があります。脳が自分自身を騙すようにドーパミンを大量に放出するため欲求を増大させてしまうのです。本来のやりたさよりも遥かに大きな欲求として脳が感じてしまうのです。太古の昔にはこの欲求の増大が生き残りには大変役に立ちました。食べ物を見つけたものの手に入れるには危険を伴います。その危険と食べ物の手に入れたさを比べるのが理性です。この理性だけだと安全を優先して食べ物を手に入れることができません。食料の確保が難しい時代にはこれでは飢え死にしてしまいます。そこで脳は自分自身を騙す方法を手に入れたのです。食べ物を実際より以上に魅力的に見せるのです。理性で考えるとやめておくことでも、脳が自分自身を騙すことで衝動を生み出し、理性に打ち勝ち食べ物を手に入れる行動に仕向けるのです。
太古の昔には食料を手に入れるために必要な脳の能力でしたが、その名残として残っているのが衝動買いの心理状態です。

人間には理性が備わったのでなかなか行動しないため、一度欲しいものがあるこ衝動のスイッチを入れて何とかして手に入れたほうが生存競争に有利だった名残が、衝動買いの心理として残っているのです。
衝動買いをする人は何度でも衝動買いを行いますし、理性的な人は衝動買いをほとんどすることがありません。

依存の心理

様々なことで喜びを得ることができるように脳は設計されています。
その喜びを何度も繰り返し得ようとすると危険信号です。
喜びに慣れてしまって、欲求が増大するようになると依存状態になっているのかもしれません。
衝動買いの心理を繰り返して、欲求が増大するのが依存と言い換えても良いのかもしれません。

食糧難の時代には役立った衝動も、魅力にあふれる現代では抑えるのが大変です。
理性を身に着け上手に衝動と付き合うことが大切なようです。

人が短時間で心変わりする理由

人が短時間で心変わりするには理由があります。

判断する際に良く考えたつもりでも、少し時間を置いて考えると熱が冷めたような印象になることが良くあります。

脳の科学から考えると仕方がないことのようです。

脳はやりたいとか欲しいという欲求はドーパミンを元に作り出されます。このドーパミンという物質が厄介で、どうしても欲しい・やりたいと必要以上に錯覚させる働きがあります。通常よりも多量に分泌されることで手に入れなくてはいけない、やらない訳にはいかないという気持ちにさせてしまいます。良く言えば悩んでいる背中を押してくれるような印象ですが、実は冷静な判断力を奪っているのです。

本来欲しいとかやりたい欲求と、過剰なドーパミンによる欲求が乖離してしまいます。その結果やることになったとしても後で冷静に考えると後悔することに繋がるのです。

実は衝動買いはこのような理由で起こります。ドーパミンの作り出した幻の魅力で買うことに決めたものの、本来の魅力とのギャップで後で後悔することに繋がるのです。

衝動買いした後で後悔するのと同じようなもので、ドーパミンによる錯覚がなくなることで心変わりをしてしまうのです。実際には心変わりする訳ではなく、本来の選択をするだけなのかも知れません。

人が短時間で心変わりする対策

ドーパミンの作り出した幻、ドーパミンの錯覚は10分程度だそうです。15分してから確認すると決心は本物かも知れません。

質問が下手な人とその理由

質問が下手な人というのはどこにでもいるものです。考えられることは2つです。相手の知識と自分の知識の差が認識できないかアナログ思考タイプなのかも知れません。

相手の知識と自分の知識の差が認識できない

自分の知っていることは相手も知っていて当然常識だと思い込んでいる人です。常識を疑わない人は、人も当然知っているとして知らないこと疑いませんし想像もつきません。何を聞きたいか自分の中ではわかっていても、相手の知っていることと知らないことの区別がつかないため、質問が支離滅裂に受け取られます。質問された側は知っていることと知らないが混在していることを、当然知っているとして質問されるので混乱してしまうのです。

相手の知らないことが認識できない質問者への対策

知らないこと・わからないことが質問に含まれていれば、逆にわからないことを確認していくことだと思います。

中には自分の知識をひけらかしたい輩がこの部類に含まれているので、厄介です。知識が多くて凄いと言ってもらうことが目的なので、適当に相手しましょう。

アナログ思考タイプの人

自分の中で思考の境界が不明瞭な人のことをアナログ思考タイプと表現していますが、自分自身の中でも区別が曖昧なため、聞きたいことも曖昧な表現となってしまいます。デジタル思考タイプの人であれば、2つの境界は何ですか?という簡単な質問で済みますが、アナログ思考タイプの場合境界が不明瞭なためどう聞いたら自分が理解できるかわからないのです。その自分でもわからないことを質問するので、質問された側ちわかる訳がありません。

アナログ思考タイプの人の対策

質問する場合、アナログ思考タイプの人の苦手な境界をはっきりさせ、何を聞きたいのか明確にしてもらうことです。

もしくは一言で答えられる質問に集約してもらうことです。アナログ思考タイプの人に物事を説明するのは多くの具体例から、アナログ思考の人が何となく読み取る必要があるかなり時間がかかります。アナログ思考の方に工夫してもらうのは、わからないことは何かを突き詰めて考えてもらい、何がわからないか一言にしてもらうのです。この突き詰める作業をアナログ思考タイプの人は人任せにしがちなので、質問が下手だと評価されてしまうのです。

何が聞きたいのか一言で質問してください

が質問が下手な人への究極の対策だと思います。

日本人が英語が話せない理由

日本人は中学、高校、大学と長年にわたって英語の授業を受けます。
長年かなりの時間を割いて英語を習うのに、私も含め多くの方々が日常会話すらおぼつかないのが現状です。

時間・費用対効果を考えても、せっかく言語を学んでも話すことができないのではかなりの無駄が考えられます。その理由を考えてみました。

日本人が英語を話せない理由

一言でいえば授業が日本語に変換する内容だからです。
日本人は英語といえば、日本語に変換するのが英語の勉強の仕方だと思っているのです。
頭の中で日本語に変換して考え、話すときにもまた英語に変換する必要があります。
このような無駄な作業を行う必要があるため、今の英語教育では変換作業に慣れた人だけが英語を話すことができるようになるのです。

英語を日本語に変換する理由

何故日本での英語の授業は日本語に変換するのでしょうか?
私は教師側の都合によるものではないかと思います。

  • 教師が日本語の変換の授業の方が英語で授業するより容易。
  • 日本語でテストをする方が生徒の差を確認しやすい。

この二つの理由で日本語に変換する授業が継続しているのだと思います。
英語の授業の導入当初はやむを得なかったかもしれませんが、21世紀になっても英語を話す目的ではなく、教師側の都合でわざわざ日本語に変換する必要があるのは合理的ではないと思います。

英語を簡単に習得するには?

英語は英語圏にとっては3歳の子供が話すことができることを考えても、習得することは難しいことではありません。それを難しくしているのが日本語への変換という作業です。
英語の授業の目的が英語を話すことであれば、日本語に変換する必要は全くありません。
英語で授業をし、英語で確認をすればよいだけのことです。
子供の頃日本語の習得したことを考えてみると、これは何?あれは何?といった具合で言葉を覚えていったと思います。日本語だけで考えるから、日本語で日本語を磨いていくような作業を繰り返して日本語を習得したのです。
英語の習得も同じ理屈で習得すれば、難しくはないはずです。(私もまだ試してはいませんが)

留学すると英語で話すことができるようになるのは、英語だけで考えざるをえない状況に追い込まれるから、わかる英語で少しずつ新たな英語を習得していくから速やかに習得できるのです。

コンピュータに置き換えると、エミュレート?入れ替え?

少したとえ話をしてみます。
言語というのは人間の頭にとってコンピュータのOSに相当するものです。
言語を一度変換して考え、更に変換して元に戻すのは、アップルのコンピュータでMicrosoftの作業をしたい場合、アップルのOSの上でMicrosoftを真似するソフトを動かすエミュレートという作業を繰り返すようなものです。動くかもしれませんが無駄が多く動きが遅くなるのは仕方がありません。
それなら変換せずにコンピュータのOSをMicrosoftに入れ替えればよいのではないでしょうか?(実際には設計上の違いからアップルにMicrosoftのアップルのOSに入れ替えることはできませんが、仮のたとえ話です)OSにこだわる必要はありませ。

日本人は日本語に固執して英語を捉えていないでしょうか?

そろそろ英語教育の方法を改める時期に来ているのかもしれませんね。
一部の学校ではこのことがわかっているので、新たな英語への取り組み方を取り入れているようです。すべての学校でできるだけ早く切り替えるべきだと私は思います。