様々な角度からの視点の勧め

様々な角度から物を見る必要があります。何故なら人は意識しない限り、自分の視点しか持てず、どうしても主観にとらわれているからです。他の人からの視点という立場に立たなければ、自分の考え方が絶対正しいとしか思えなくなってしまいます。他人からの視点を無視した、独りよがりの主張をしても誰も聞き入れてくれません。聞き入れてくれないだけならまだ良いのですが、他人の視点を意識していないと誤解されて自分自身が損してしまいます。失言して後で言い訳している人の多くは、他人の視点を意識していないことが原因です。

失言する人は誤解する人が悪いとさえ考えています。だから失言の謝罪会見が私は誤解させた人の伝え方の問題だと思います。

言葉は様々な意味を持ち合わせています。その意味の中から文脈、話の流れの中から無意識のうちに適切な意味を選んで解釈しているのです。例えば「御飯」という言葉一つでも、「お米を炊いたもの」という「御飯」と、「食事」という意味の「御飯」とがあるのです。「御飯」という場合、相手が「お米」という意味で受け取ったか「食事」という意味で受け取ったかを確認する必要があるのです。確認をしないまま話を進めてしまうと、誤解を生んでしまいます。

言葉のもつ様々な意味を考えて使わなければ、誤解されてしまいます。普通の人は誤解されては損なので、誤解されにくい言葉を選んで使います。普通の人とは他人の視点を意識している人という意味です。選んだ言葉がどのように解釈されるか様々な角度から考えて使います。

様々な角度から考える勧め

様々な角度から物事を考えることで、考え方の幅が広がります。例えば医者の視点しかなければ、仕方ないで片付けてしまうことでも、患者さんの視点から考えると解決策を見出すことが出来るかもしれません。医者は待ち時間が長くても仕方ないと考えてしまいがちです。しかし患者さんの視点から考えれば、病院内で待たなくてもよければ待ち時間の間に買い物などの用事を済ますことが出来ます。同じ待ち時間でも医者と患者さんの視点では違いがあるのです。患者さんの視点から考える医者は少しでも病院内での待ち時間を減らすために予約制を導入します。病院内でひたすら待たせるのは流行っている病院だと印象付ける行列効果を期待して、病院の宣伝のために待たされているのかもしれません。

自分だけの視点では物事の本質には辿り着けません。他人の視点を意識することが視野を広げる一つのきっかけになります。卑屈になる必要はありませんが、他人の目を意識するだけでも考え方に幅が広がると私は思います。

ちなみに特定の人の視点から物事を考えることが出来るようになると、自然と仕事の出来る人になることが出来ます。何故なら上司の視点で物事を考えることで、一歩二歩先を読んで行動出来るからです。あるいはお客さんの視点で物事を考えることで、お客さんの望むものが前もって理解出来るからです。良かったら様々な角度からの視点で物事を考えてみてください。

猛獣が必要以上に他の動物を襲わない理由

ライオンやトラなどの猛獣は自分達が食べる分以上に、他の動物を襲うことはありません。誰かから無駄なことをしてはいけませんと教えられるのでしょうか?

猛獣が必要以上に他の動物を襲わない理由

猛獣が必要以上に他の動物を襲わない理由は、実は簡単です。猛獣といえども狩りをする際に怪我をする可能性があるからです。例えば草食動物を襲う場合、必死で逃げ惑う際に足で蹴られてしまうかもしれません。足の当たりどころによっては命を落としてしまうかもしれません。直接命を落とさないまでも、骨折でもすれば長い時間動くことが出来なくなるので餓死する可能性があります。

猛獣がむやみやたらと他の動物を襲わない理由は、可能性は低いながら反撃される可能性があるからです。食べる訳でもない他の動物を襲うことで反撃されて命を落としては割にあいません。だから必要以上に他の動物を襲ったりしないのです。

人間が必要以上に殺す理由

人間は自分達が食べる訳でもない動物を殺すことがあります。時として相手が人間であっても殺すことがあります。

人間も猛獣のようにわずかでも反撃される可能性があれば、無駄な争いは出来るだけ避けるでしょう。幸か不幸か人間は反撃されない離れた相手を攻撃出来る、一方的な武器を手に入れてしまいました。かつては槍や弓矢、今では銃やミサイルです。生物界の仕組みからすれば、いわば反則のような状態です。一方的な殺戮です。しかも離れた相手を攻撃出来るので、殺した相手を見ることすらないかもしれません。だから残酷という感覚すら芽生えないのです。これが人間が必要以上に他の動物を殺すことが出来る理由です。

反撃されることを考えず一方的に攻撃出来るため、他の動物にはない倫理観という概念が必要になってきます。反撃されないために攻撃しないのではなく、反撃されなくても攻撃しない強さが求められているのです。

現に持っている人達がいる限り、今更兵器を手放すことは出来ないでしょう。だからこそ兵器を使わなくて済む知恵という武器を身につけるべきだと思います。必要以上に他の動物を殺すことがない動物本来の姿に、早く人間も到達して欲しいものです。

食の足し算と引き算

食には足し算の方向に進化しているものと、引き算の方向に進化しているものとに分けることが出来ます。

食の足し算

食の足し算とは食材に手を加え、手間暇をかけて美味しい食べ物にすることです。食の足し算の行き着く先は様々な高級料理です。

考え付く限りの手間暇をかけて美味しい料理を提供するのが食の足し算です。お客さんのニーズにあった足し算をすることで、値段が高くなっても買ってもらえるのです。

食の足し算の一つは回転しない普通のお寿司屋さんのお寿司です。手間暇を足して生魚と米をお寿司という高級な料理に仕上げるのです。高級レストランも食の足し算の一つでしょう。

食の足し算はお金の足し算と考えても良いのかもしれません。

資本主義経済においてはどれだけ足し算しどれだけ高い食べ物を提供しても自由です。しかし売れなければ淘汰されてしまいます。料理人はどこまで足し算が許されるのか見極める必要があります。

食の引き算

食の中で無駄だと考え付くものを出来るだけそぎ落とすのが引き算です。出来るだけそぎ落とすので、足し算のように理論上は無限に行うことは出来ません。引き算には技術的な限界が訪れます。

食の引き算の一つは回転寿司です。無駄をそぎ落とすことで実現する低価格を武器にお客さんを回転させることで収益を上げます。セントラルキッチンにより仕込みの手間をそぎ落とします。他にも回らないお寿司屋さんのように本物のネタだと高くなるので、似たような食材でそれなりのお寿司に仕上げます。元々回らないお寿司屋さんが高いのは、売れ残る分も見込んだ値段設定だからです。売れ残ることがなければその分価格をそぎ落とすことが出来ます。

ファミリーレストランも食の引き算を極めつつあります。ファミリーレストランによってはセントラルキッチンで下ごしらえをするので、包丁を置いていないところすらあります。作業の無駄を省くことで提供時間の引き算も行われています。その分人件費が引き算されていきます。味を保ったまま、安く提供出来るように様々な無駄をそぎ落としています。

10年・20年前までは安ければ品質もそれなりでした。食の引き算の基準がコンビニのお弁当との比較になるため、美味しくなければ淘汰されていきます。その意味では、一番食の引き算で成功しているのはコンビニなのかもしれません。コンビニが日々進化させながら一定レベルのお弁当を提供していることで、食の引き算の味のレベルが維持されているのかもしれません。

このように考えると様々な業種が絡み合って切磋琢磨しているようです。10年もするとどのようになっているのか楽しみですね。

安物買わぬは銭失い

新しい諺を考えました。安物買いの銭失いを元に安物買わぬは銭失いです。

安物買いの銭失いは安い物は安いなりの物でしかないので、結局損をするという意味です。この諺が出来たのがいつの時代だったかは定かではありませんが、確かについ最近まで安物は安物でしかありませんでした。物を作り出す労力が大きいため、多くの物を作り出すことは出来ませんでした。売るために良い物と安物の二極化が進みました。安物は安物に過ぎないものの、情報が人と人との間でしかやり取りされなかったため、それなりに売ることが出来ました。

今では状況が大きく変わりました。様々な知恵の蓄積により、物を作り出すことに以前程労力を必要としなくなりました。良い物を安く作り出すことが出来るようになりました。つまり安物の意味が変わったのです。安くて安いだけの物が安物だったのですが、安くて良い物が安物になったのです。

もう一つ変わったことは情報です。今では安物は2種類あります。以前からの安物である安くて安いだけの物と、最近の安物である安くて良い物の2種類です。この2種類が情報により振り分けられるのです。ただ安いだけの安物は情報により淘汰されてしまいます。安いけど値段相応か値段以下という情報が広まることで、いくら安くても誰にも相手にされなくなるのです。逆に安くて良い物である安物は情報により一気に広まります。少し前までは新聞やテレビやラジオなどのメディアに認められるというハードルをこえないとなかなか情報発信することは困難でした。しかし今では誰でも簡単に情報発信することが出来るので、安くて良い安物は広まるのです。

情報により、ただ安いだけの安物は淘汰され、安くて良い安物が生き残ることになります。結果として安物を買わぬは銭失いとなるのです。

この諺は安物の意味合いが今と昔では変わったことを表します。

仕事を見て覚えろはただの怠慢

一昔前までは仕事を見て覚えろと言われていました。いちいち細かいことまで説明されずとも見よう見真似で覚えていました。伝統的に自分が見て覚えたから、人にも同じことを要求することが長年続いていたのです。昔はそれで問題ありませんでした。何故なら競合は少なく時間だけはあったからです。時間の流れが非常に緩やかだったので、長年かけて見て覚えたとしても問題なかったのです。むしろ使う側にとっては、見て覚えろという方が3つの意味で都合が良かったのです。一つ目は細かく説明する面倒さがないこと、二つ目は技術の習得を餌に安い労働力を確保出来ることです。三つ目は素早く技術を習得してしまうと、教えた人間にとってライバルになるので、教えたくはなかったのです。一言で言うならば教えない方が、お得だったのです。だから見て覚えろと言って説明を避けていたに過ぎません。

言い訳

見て覚えろというのは、上手く説明出来ない言い訳に過ぎないと私は思います。自分では出来ても人に説明出来る程には理解出来てはいないのです。人に説明するには、自分の行動の目的や調整方法を細かく言語化して説明する必要があります。この言語化という作業が出来ないことを隠すために、見て覚えろと言うのです。

私は的確な説明スキルを持ち合わせていないという意味で、怠慢だと思います。その上で情報を教えたくない言い訳をしているように思います。

見て覚える時代は終わりつつある

見て覚える時代は終わりつつあります。見て覚えるしか選択肢の無かった時代には、選択肢がないので見て覚えていました。今では説明が上手な人も増え、見るだけではなくコツも含めて早く習得出来るように説明してくれるようになってきています。

情報が増えていることもあり、見て覚える以外の選択肢が出てきました。コツややり方そのものの解説をネットで見つけることが出来るかもしれませんし、そもそも見て覚えろと言われる人から逃げ出すことも容易になりつつあるのです。

見て覚えろという情報の出し惜しみをしていると、相手にされなくなってしまうかもしれません。事実職人さんが人を集めにくくなっている原因の1つは見て覚えろという昔気質の考え方かもしれません。

変化することが当たり前な理由

世の中には変化を嫌がる人がいますが、残念ながら怠慢過ぎません。変化するのが当たり前だからです。何故なら変化する必要がない完璧ということになりますが、何事も完璧はありません。完璧でなければより良い方向に変化するしかないのです。変化したくないと抵抗したところで、対応しきれなければ生き残ることが出来ず淘汰されてしまうだけです。

仮にある時点では完璧だったとしても、様々な環境の変化により完璧ではなくなるのです。つまり環境が不変にならない限り、永遠に完璧などあり得ないのです。

何事においても変化するのは当たり前なのです。完璧なわけがないのですから。変化を怠れば淘汰されるだけですが、淘汰されふことを理解していない人が変化を拒むのです。変化しなくてもまだ生き残ることができると誤解しているのです。今までは変化しなくても生き残ることが出来たので、今からも生き残ることが出来ると錯覚しているに過ぎません。

変化しなくても生き残ることが出来たなら、人類は今でも石器を使っているでしょう。本当に変化しなくても生き残ることが出来るなら、未だに石器すら使えないかもしれません。

変化する必要があればするのではありません。変化する余地・隙があれば変化するのです。変化しないよりはましですが、変化する必要に迫られた時に変化するのでは遅いのです。余裕のあるうちにより良い方向にあらかじめ変化しておくのです。そのように備えておけば環境が悪化しても生き残ることが出来るのです。幸運にも環境が悪化しなければ、周囲の人よりも有利に立つことが出来るのですから変化しておく方がお得です。

現状に満足せず、完璧になるまで更に上を目指して変化し続ける方が私はお得だと思います。自称最善で満足せず、絶対最善を尽くすのです。

変化するのは当然です。変化するかしないかは問題ではありません。いつどのように変化するかが問題です。環境は絶えず変化しているのですから、自分達も変化するのです。この変化により生き残ることが出来たとしたら、後世の人達が変化を進化として受け止めてくれるのです。

進化に至る変化をしましょう。

論理的思考の得手不得手の指標

論理的思考の得手不得手はある程度遺伝による影響を受けるそうです。
その論理的思考の得手不得手を見極める簡単な指標があるので考えてみたいと思います。

論理的思考の得手不得手の指標の一つはタバコを吸うか吸わないかです。タバコは百害あって一利なしの嗜好品です。吸う人自身の健康被害はもちろんですが、副流煙として吐き出される煙は迷惑以外の何物でもありません。

タバコをやめるやめないが論理的思考の得手不得手の一つの指標です。やめられないからと言って必ずしも論理的思考が出来ないという訳ではありません。タバコがやめられないのはニコチン依存という病気だからです。

少なくともタバコをやめることが出来た人は論理的思考が得意な人だと思います。ニコチンに対する依存度が低く、やめることが出来ただけかもしれません。タバコのことをよく知らないうちに興味本位で吸い始めやめられないのは良く聞く話です。タバコを吸うか吸わないかを論理的に深く考える前に吸い始めてしまった人達です。改めて論理的に思考し、タバコはやめる方が得だと考えてやめることが出来たのです。

最も論理的思考の得意な人はタバコを吸ってみるかどうか、吸う前に考えます。病気になるとわかっていても、なかなかやめられない人達のことを知った上でタバコを吸うかどうか論理的に考えるのです。一時の快楽のために一生吸い続ける罠にかかるのはもったいないと考えるのです。

一概にはいえませんが、論理的思考が得意かどうかの一つの指標になりそうです。タバコを吸っている人に理屈で納得してもらうのは難しいかもしれないことを知っておくと良いと思います。

少なくとも理屈で何が何でも行動を変えるという強い意思はないのかもしれません。

広島に所縁のない人達がカープファンになる理由

プロ野球にはいくつものチームがあります。多くの人は地元など何らかの所縁のあるプロ野球チームを応援します。しかし広島カープは広島との所縁のない人達が応援しています。その理由を考えてみます。

一言で言えばカープの選手の銭金ではない心意気に共感するのだと思います。札束で選手を買い漁る球団がある一方、銭金ではなくカープでプレー出来ることに誇りを持って帰ってくる選手に共感するのだと思います。世の中お金だけが全てではないということをカープの選手が、身をもって証明してくれるのでファンになるのだと私は思います。

その集大成がリーグ優勝です。とにかくお金をかけて選手を集める球団と対照的に、お金のことは二の次で集まる心意気に惚れるのだと思います。

お金を尺度にして物事を考えることしか出来ない人には到底理解出来ない魅力を秘めているのがカープという球団です。世の中お金だけが全てではないことを証明してくれたので、涙を流して我がことのように喜ぶのです。

お金は大切です。しかしそれだけではないとも思っています。しかしお金の威力と魅力を前にすると多くの人が屈してしまうのです。お金の対極にあるものの象徴、アンチテーゼがカープという球団なのではないでしょうか?

資本主義は良くも悪くもお金を中心に物事が動きます。資本主義の世の中ですからお金をかけて球団を強くするのは自然な流れです。上手な選手に高いお金を投資をし、球団を勝ちに導くのは資本主義では悪いことではありません。しかしお金が全てという考え方に何か釈然としないモヤモヤした気にさせる部分があるのも確かです。そのモヤモヤをスッキリさせてくれるのが、お金ではなく思いで動くカープの選手達です。

お金をかけて勝つのは当たり前です。お金をかけられないのに勝つところにカープに魅力を感じるのだと思います。日本人特有の判官贔屓も根底にはあるのかもしれません。

広島に所縁のないカープファンの人に直接聞いた訳ではありませんが、少なくとも私はこのように想像しています。

「浪速のエリカ様」はただの構ってチャン?

あえて個人名は出しませんが「浪速のエリカ様」と言われている国会議員がいます。ある政党の比例代表でしたが、様々な問題により政党からは除名されました。政党の比例代表だったため辞職を追求されたものの「浪速のエリカ様」と異名をもらう対応で、居座り無所属議員として活動しています。

その「浪速のエリカ様」は突然芸能事務所社長にツイッターで噛み付いたようです。相手にしてもらえなかったようですが、今度は国会で話題にすると息巻いているようです。

人の行動には必ず目的があります(目的論)。本人が気付いて自覚しているか自覚していないかは別問題です。目的を御本人に聞いてみたいところですが、恐らく自覚していないと思われますので想像してみたいと思います。そして本人に聞いた訳ではありませんので、ただの私の空想です。そのことを踏まえて読み進めていただければと思います。

私は言い掛かりをつけているのは、自分の存在意義を周囲にアピールすることが目的だと思います。目的が存在意義のアピールであれば、騒がれれば内容は何でも構わないのです。いわば自分で火をつけて火事だと騒いでいるようなものです。騒ぐことが目的ですから、自分の起こしてしまった火事の内容そのものはどうでも良いのです。

言い換えると世間を相手に構ってチャン状態です。何もしないと世間から忘れられるので構ってもらえるようにネタを提供しているのです。

グレる子供の心理

褒めてもらいたくても褒めてもらえない、称賛を浴びたくても称賛してもらえないことに気付いた子供に似ています。構って欲しい子供は称賛は無理だと悟ると、悪いことをするようになるのです。構ってもらう目的で子供たちはグレるのです。子供は周囲の無関心よりも、怒られることを望むのです。悪いことをしてでも構ってもらいたい子供の心理と恐らく似ていると私は思います。ちなみに構ってもらうために悪いことをする子供を怒ると逆効果です。何故するのかを聞いても、構ってもらうためとは言えない(本人も自覚していないから)ので周囲の人達は理解出来ません。正解は悪いことをして責めるのではなく、構って欲しかったことを受け入れてあげることです。そして悪いこと自体は淡々と処理することです。悪いことをすると怒られるとはいえしっかりと構ってもらえるという成功体験にしてしまわないことです。そしてどのように構って欲しかったのかを聞いてみることです。

生暖かい目で見守る

「浪速のエリカ様」は目的が世間に相手にしてもらうことですから、メディアが騒ぐと思うツボ・逆効果です。成功体験として繰り返してしまいます。次に言い掛かりをつけられた人が、「グレる子供と同じで、構って欲しいんですね。そっとしておいてあげましょう」と大人の対応をすることです。次に誰か言い掛かりをつけられることがあればその人に教えてあげて下さい。

本家エリカ様は抜群のルックスと演技力があるので復活出来ましたが、「浪速のエリカ様」は…。賞味期限ならぬ話題期限(世間が話題にしてくれる期間)は長くて2年3ヶ月。本人なりに世間に相手にしてもらうために必死な心理を、生暖かい目で見守ってあげましょう。

人間の髪の毛が伸び続ける理由

人間の髪の毛が伸び続ける理由を考えてみました。以前から考えてはいたのですが、髪の毛が伸び続けることで自然淘汰を生き残った答えを見つけることが出来ませんでした。今回ふと思いつきました。

現在の人間の身体は自然淘汰を生き残った結果です。今となっては必要ない身体の仕組みであっても、人類の進化の歴史において生き残りに有利な環境を生き延びたのです。逆に考えると現在の人間の身体から生き延びた環境を想像することが出来ます。例えば顔面にある副鼻腔は脳を保護する緩衝エリアです。丁度運転席を守るために衝突時に壊れる車のバンパーと同じような仕組みです。副鼻腔がバンパーのような役割をして脳を保護したのです。逆に考えるとそれだけ頭部への強い衝撃が日常茶飯事だった環境を生き延びたことがわかります。

人間は頭部の髪の毛が伸び続けます。人間に近いお猿さんの体毛は一定で伸び続けることはありません。つまり人類の進化の歴史において、お猿さんから分岐して頭部の髪の毛が伸び続けることが出来た種族だけが生き残ったのです。頭部の髪の毛が伸びない種族は淘汰され死に絶えた環境を考えなければいけません。髪の毛が伸び続けることが生存に有利だった環境が思いつきませんでしたが、ふと思いついたヒントになったのはネズミの歯が伸び続けることです。ネズミは絶えず何かをかじっているので歯がすり減ってしまいます。すり減る分歯が伸び続けないと物を噛むことが出来ないのです。もしかしたら人間の祖先は頭の毛が擦り切れるような環境だったのではないかと考えました。副鼻腔程の確信はありませんが、一つの仮説として成り立つと思います。人間の身体の体毛が産毛になったのは、体毛が多いと暑いので熱を逃がすために産毛の人間が生き延びたのでしょう。頭部の髪の毛は伸び続けることで生き残ることが出来たのです。頭の髪の毛が擦り切れる環境とは頭を何処かに競ってこじ入れるような動きを繰り返していたのではないかと思います。競って頭をこじ入れることで生き残るとすれば、食料の確保しか思いつきません。祖先達が仕留めた獲物に一斉に襲い掛かり、頭をこじ入れることに長けた身体を持った祖先だけが生き残ることが出来たのだと思います。頭をこじ入れる程競う必要があるので、何人かで狩りをしていた可能性が高いと思います。人間が狩りをするために言葉を発達させたとされていることに合致します。頭をこじ入れることを繰り返していると、頭の髪の毛が擦り切れてしまいます。伸び続けない祖先は頭部の皮膚が剥き出しになってしまったことで、頭をこじ入れる際に滑らず不利だったのです。髪の毛が擦り切れても無理に頭をこじ入れようとすると頭を怪我してしまい感染症で命を落とした可能性があります。頭の髪の毛が伸び続ける祖先が偶然にも生まれたことで、頭の髪の毛が伸び続けない祖先を圧倒し淘汰してしまったのです。

頭の髪の毛が擦り切れる程何かをしていたため、髪の毛が伸び続ける方が生存に有利だったはずです。髪の毛が伸び続ける方が圧倒しているので、その有利さも圧倒的だったことが予想出来ます。頭が擦り切れるほど頭を擦り付けるのは、狩りの獲物を競って食べることしか私には思いつきません。恐らく刃物などの道具を使うはるか以前の祖先の話だと思います。髪の毛が伸び続ける理由で、人類の進化の歴史において祖先が生き延びた環境で、更に合理的なことを思いついたら改めて書きたいと思います。

追記:頭をこじ入れて食べ物を漁る動物をテレビで見る機会がありました。ハゲタカは逆に邪魔になる羽を無くした方が餌にありつきやすかったようです。そしてハゲタカは頭部への外傷を外傷を受ける可能性が低いので頭を丸めたのでしょう。人間は頭をこじ入れる際に髪の毛が擦り切れ、頭部が剥き出しになると都合が悪いのでしょう。それだけ頭部への外傷が多かったことを物語っていると思います。食べ物の奪い合いで人間同士で頭を攻撃することもあったでしょう。だから頭を守るためにネズミの歯のようにずっと伸び続ける種族が生き延びたのだと思います。