水イボ(伝染性軟属腫)摘除は虐待では?

水イボ(伝染性軟属腫)とは?

水イボ(伝染性軟属腫)とはウイルスの感染によって生じる良性の腫瘍です。
免疫機能の未熟な乳児や小児にうつることが多い疾患です。(まれに大人にも感染します)
免疫機能が成熟した時点でウイルスを追い出すことができるようです。
個人差はありますが数か月から1・2年で自然治癒します。

これまでの治療法

これまでの治療の主流はピンセットでつまんで摘除(取り除くこと)するものでした。

以前から合理主義の欧米では自然治癒するものをわざわざ摘除はしないそうです。
日本では人にうつるものを放置することを忌み嫌う風習があるため、摘除が行われていました。

プールでうつるということで水イボがあるとプールに入らせてもらえないため、子供も仕方なく泣く泣く摘除を受け入れていました。

プールに入るために水イボを摘除する意味は無くなりました。

2013年5月に日本皮膚科学会・日本小児感染症学会・日本臨床皮膚科医会が統一見解を出しました。プールの水の中でうつるわけではないので、プールに入っても構いませんという見解が出ました。

プールに入るために水いぼを摘除する意味は無くなりました。

幼稚園、保育園、水泳教室によっては水いぼを取らなければならないとするルールを決めているようです。病気のことに関して医師の集まりの見解を取り入れないのであれば、ルールを決められた先生は親ではなく子供が納得できる説明が必要だと思います。

水いぼの摘除は虐待では?

あくまでも一つの考え方ですが、患者さん本人の希望を一番に考えれば誰も摘除しなくなると思います。

  • 放置しても治癒する(治る)
  • 本人は摘除を希望していない

放置しても治るもので本人が希望していないのに無理やり摘除するのは、私には虐待と区別がつきません。

摘除する目的が私にはわかりません。
目的として考えられるのは他人への感染予防、治る治療があるのに治療しないことに抵抗があるだと思いますが、元々誰かから感染したのですからお互い様です。そして摘除したとしても、何度でもうつるので免疫力がつくまで何度でもかかります。取らない方針のお子さんが一人でもおられれば何度も繰り返すことになるので、自分だけ摘除しても無意味です。

放置しても良いものを、本人は希望していないにも関わらず、他人の都合で痛い思いを強いるのは虐待とどう違うのか私にはわかりません。
どうしても取ることを求められれば虐待を疑って通報することも考えなければいけないのではないかと思います。(今のところ水イボの摘除に関連して通報したことはありません。)

誰のためのプール禁止でしょうか?

ましてや幼稚園、保育園、水泳教室が治療しないとプールに入らせないとするのは、先生による虐待の可能性があると思いますので、通報することを考えられてはいかがでしょうか?
疑いで通報しても構わないはずです。虐待での通報も含めて幼稚園、保育園、水泳教室で相談されれば、プールに入らせないということはなくなると思います。

感染に伴う差別では?

ちなみにプールのときだけ感染するわけではありません。先生の目につくからプールが禁止になっただけだと思います。感染していない保護者から指摘されることを避けるために隔離を求めるのは、根拠に乏しいため区別とは言えず差別に近い対応ではないかと心配します。水イボでプールだけを禁止されるのは感染に伴う差別なのか区別なのか私にはわかりません。

そして同じ感染症である手足口病は症状があってもそのまま通園通学が許されています。何故なら治療法がないからです。感染はしますが治療法がないからです。
水イボは治療法があるだけに取らなければならないとされてきました。
治療法があっても虐待と区別できないから取らない時代が来ると思います。
自然治癒するのだから取らないという選択肢も本人が選ぶことができるべきだと思います。

本人が取ってほしいと希望するならとっても良いとは思います。
あくまでも本人の判断ができない年齢は取らずに様子をみるべきではないでしょうか?

親が見た目が気持ち悪いから取ってほしいというのは虐待そのものではないでしょうか?
子供のためではなく、親が気持ち悪い思いをしたくないから取ってほしいという目的を考えると、私には虐待と区別がつきません。

近い将来子供の頃には水イボがあるのが当たり前の世の中に

子供の頃には水イボがあるのが当たり前の世の中になると思います。
まだ水イボがあるんだね。もう水イボがなくなったね。という時代がくると思います。

何故なら近い将来『虐待との区別』が問題になることで、取る先生の考えが書き換わると思うからです。まだ水イボを取る先生と取らない先生が混在して混乱しているだけのことです。
自然治癒し本人が希望しなくても医師が摘除することは決して違法ではありません(ちなみに看護師が摘除することは違法とみなされるかもしれません)が、虐待との区別が議論されることになれば状況は一変します。
それでも摘除を貫く先生がおられるとは私には思えません。

水イボ摘除をされている先生へ

今でも水イボを取る方針の先生は看護師さんが取っておられる可能性が高いと思います。
もし先生ご自身で取られるとしたら水イボを取る最後の医師になってまで取られますか?
その時には水イボを取ってほしいお子さんたちが遠方からも集まってしまうかもしれませんが、それでも最後の一人になってまで取られますか?
そしてとってもとっても取らない方針のお子さんから何度もうつされても、最後まで取りつづけられますか?
いずれは数が多すぎて諦める時が来るなら、このサイトを見られた時点から取らない方針にされてはいかがでしょうか?

もしかしたら患者さん自身が取らなくて良いと理解されて通院されなくなる方が先かもしれませんがご一考いただけますと幸いです。

注意点

私は『虐待』や『差別』を指摘して加害者や被害者を作り出したいわけではありません。
できるだけ早く水イボは取らない世の中になるように考えてもらうきっかけを作るために、あえて『虐待』『差別』という言葉を選択しました。

自然治癒・本人は嫌→虐待?
根拠なし・プール隔離→差別?
もしかして?と思いもしなかったことを考えていただくきっかけを作る目的と、水イボのお子さんが少しでも嫌な思いをしないようにする目的でこのような書き方をしました。
不快な思いをされる方もおられるかもしれませんが、このような書き方の目的はお子さんのためですのでお許しください。

新国立競技場は何故今更問題か?

新国立競技場が何故今更問題なのか?呉からの風が考えた戯言のような考えです。

次々問題が発覚するのを見て思います。誰か確信犯がいるということです。オリンピックに向けて対外的に作らない訳にいかないので、確信犯が時間切れを狙ってグズグズしているのではないかと思います。

そして確信犯が代替案を提示する時間切れを待っていたため、今までは話題にならなかった(話題にしなかった)。時間切れになったため、結局認めるしかないことを公表したのではないでしょうか?。

済し崩し的に作る方針を受け入れるしかないことを公表したように思います。

何故なら見直すには既にギリギリ時間切れのタイミングだと報道されているからです。見直すことの出来る時に騒ぎになると、本当に見直すことになるので、見つからないようにしていたのではないかと疑ってしまいます。

さすがにそこまで腐ってはいないと思いたいのですが、このタイミングで騒ぎになると何か裏がありそうに思います

結果的にはこのまま作らざるを得ないタイムリミットをこえたので、確信犯の作戦勝ちなのでしょうか?

そんな見栄をはる必要は今の日本にはないと思うのですがいかがでしょうか?

慢性蕁麻疹が糖質回避で改善?

慢性蕁麻疹の患者さんがお一人改善しました。タイトルの?は症状が楽になるもののまだ蕁麻疹が出るため?をつけています。

糖質を2・3割程度減らされたそうです。蕁麻疹の出方が半分程度におさまってきたそうです。

お一人は慢性蕁麻疹で糖質をやめても蕁麻疹が続く方がおられるので、蕁麻疹に対する糖質回避の効果はまだわかりません。

糖質回避と同じタイミングは偶然かもしれませんが、改善している情報は、糖質が関係あるなしに関わらず喜ばしいことです。

完全にやめることで慢性蕁麻疹も失くなるといいですね。

糖質回避で慢性蕁麻疹が改善する病態(仮説)

お一人は糖質完全回避で改善せず、お一人は軽度糖質回避で改善している病態を考えてみます。

血糖値が上昇することで糖化産物が産生され、糖化産物が何らかの機序でアレルギー反応から蕁麻疹を引き起こす可能性が考えられます。

糖化産物が一定量たまるとアレルギー反応の引き金を引く可能性があるため、糖化産物の半減期(代謝・排出され半分になる期間)によって改善するまでの期間が異なる可能性が考えられます。糖質をやめてもしばらく糖化産物が体内に蓄積しており、症状が改善しない可能性が考えられます。

また症状を引き起こす一定量をはるかにこえる量の糖化産物が蓄積していると、改善までに時間がかかるのかもしれません。

仮説が正しいとしても、原因となる糖化産物の半減期とアレルギーを引き起こす一定量の兼ね合いで症状が改善するまでの時間が人によって異なる可能性が考えられます。

引き続き分かったことがあれば掲載していきます。

怒る必要のない子育て 片付けをしない場合

怒る必要のない子育てです。

子供が片付けをしない

良く聞くのが子供に何度言っても片付けをしないという意見です。

何故何度言っても片付けをしないのでしょうか?何度も言っていれば片付けをするということ自体は理解しているかもしれません。

意味・目的がわからない

片付けしないのは片付ける意味・目的がわからないのです。何のために片付けするのかよくわからないのです。『あなたのために片付けるのよ』と言われてもその意味を理解できないのです。意味・目的がわからなければなかなか行動にはうつさないものです。意味・目的がわかれば片付ける動機付けに繋がります。

片付けるのは怒られないため?

なかなか片付けをしないと言われる場合、片付ける動機付けが怒られるから片付けるになってはいないでしょうか?怒られないために片付けるという動機付けだと、子供は怒られるタイミングを見計らうようになります。親の顔色を伺って、怒られそうになると片付ける。まだ大丈夫だと思うと片付けません。本気で怒られたら仕方なく片付けるのです。

片付ける意味・目的

片付ける意味・目的は次に使う時に素早く取り出して使うことが出来るようにすることです。片付けていないとどこにあるのかわからず、探す手間がかかります。片付けると探す手間がいらないのでお得なのです。このことを子供に教えてあげると良いと思います。

散らかっているから親が片付けて、探し物を言われてすぐに出てくるので子供は片付ける意味・目的を理解できません。親に言えば出てくるものをわざわざ自分で探さないので、その元になる片付けをしないのです。

片付けをしたら探し物が早く見つかること。片付けをしないとなかなか探し物が見つからないこと。探し物を探す時間はもったいないことを伝えるのです。

それでも片付けない場合

片付けの意味・目的を言葉で伝えても片付けない場合は、本当の意味が分かっていないのだと思います。

ここで親が困ると子供は成長しません。困る人の問題なので子供が困る仕組みを作り出します。(問題論)

片付けしていないものを放置しても構いませんが、親の精神衛生上良くないので対策を考えます。片付けしていないものを全て大きな箱に放り込むのです。子供が探し物をしても子供に探させます。探すのが大変なことを実感させ、片付けをした方がお得だと分からせるのです。最初は探し物の手伝いをしても二度目三度目はしばらく子供だけで探させるようにして、子供が困るように仕向けるのです。

身を以て片付けがお得だと分かると自然と片付けるようになると思います。

少なくとも大きな箱にまとめていると、親はイライラする必要はないと思います。

片付けしなさいではなく、片付けの意味・目的を伝えてあげてみて下さい。

怒らない子育てと怒る必要の無い子育て

怒らない子育てと怒る必要の無い子育て

全く概念が異なります。

怒らない子育ては育児放棄一歩手前の可能性すらあります。怒る必要がない子育ては子育てをきちんとした上で、怒る必要がないのです。見分け方は怒らないだけできちんと子供を正しい方向に導くか、放置するかです。きちんと子供を正しい方向に導くのは非常に立派な子育て方法です。放置するのは育児放棄をしているだけです。子供のことは子供に任せているとして、半育児放棄をしていながら怒らない方針だからと自分を正当化しているのです。

怒らないのは誰のため?

誰のためか怒らない目的を考えると更に良くわかります。怒らないだけできちんと子供を正しい方向に導くのは、子供のために怒らずに必要なことを伝えることが目的です。子供のためです。

一方ただ怒らない子育ては、子供には善悪の区別や常識がなかなか身に付かず、子供自身は苦労することになります。親が怒らない代わりに何も教えてくれないことが多いのです。自己責任として自分で考えることを促されるようです。では目的は何でしょうか?目的は親が責任逃れして楽をすることではないでしょうか?つまり親のために怒らないのです。

子供のために怒らない工夫を

子供のために怒らない工夫をすることです。決して怒る必要はありませんが、良い方向に導くことは必要です。怒る、叱るではなく諭すのが一番です。

良かったら『諭す』を考えてみて下さい。

遊びの本来の目的と意味

遊びの本来の目的と意味を考えてみました。

動物の子供でも見られる遊びには生きていく上で得をする仕組みがあるようです。生存競争の厳しい自然界の中で、無駄なことにエネルギーを費やす余裕は無いはずです。つまり、何らかのメリットがあるから遊ぶのだと思います。

身体を使う遊びの目的

遊びの目的は身体の動かし方を楽しみながら学び・習得することです。そのため身体の動かし方に慣れていない子供は遊ぶことに夢中になりますが、大人になるにつれて身体の動かし方を習得してしまうと身体を動かすことに喜びを感じにくくなります。大人はスポーツをすることがあっても遊びをしなくなるのは、身体を動かすこと自体に楽しみを感じにくくなるからです。

遊びの中で楽しみながら競い合うことで、最大限力を発揮することに喜びを感じます。勝つことで楽しみを感じ、負けることで悔しさを味わい、遊び方の更なる工夫をするようになります。無意識のうちに、身体の動かし方を工夫して楽しく感じるのです。

頭を使う遊びの目的

トランプやオセロや将棋など頭を使う遊びの目的は何でしょうか?

特に楽しく感じるのは生きていく上で得をする仕組みが備わっているからだと思います。頭を使う遊びの目的を考えてみました。

頭を使う遊びの中に組み込まれている脳が楽しく感じる仕組みに目的がありそうです。

頭を使う遊びに求められるのは記憶力、論理的思考能力、確率に関する思考能力、瞬時の判断力、先を見通す力などです。

これらは生きていく上で重要な役割をする能力のため、習得できると生存競争に有利になるので楽しく感じるのです。満足するほど習得すれば飽きることで遊びを終了します。

飽きる理由

大人でも子供でも同じことをしていると飽きるという現象がみられます。最初は楽しく感じたことも、既に知っている記憶の分楽しみを差し引いていく脳の仕組みが備わっています。感じる楽しみが記憶により差し引かれるため、繰り返し経験することで期待した楽しさが得られなくなってしまいます。これが飽きるという状態です。

刺激を受け切った。飽きる程経験した。飽きる程習得したとも言い換えることが出来ます。

一つのことをやり過ぎてしまうと他のことを経験する機会を奪ってしまうので、飽きることでやり過ぎを防ぐ仕組みが備わっています。

一度飽きたことでもまた経験したくなるのは、経験した記憶が薄れるからです。

ゲームの問題点

ゲームは娯楽・楽しみ・生き甲斐を感じること・時間潰しなどに役立つのは確かです。ただゲームには一つ問題点があります。

ゲームの目的が継続させ、病みつきにさせることだからです。

遊び本来の目的は何らかの能力の習得でした。習得すれば飽きることで遊びを終わる仕組みが備わっているのです。ゲームは遊び続けてもらうことが目的のため、飽きることを避ける仕組みを仕掛けています。そして一度はまると抜け出せないアリ地獄のような、魅力が続けるように仕向けます。やり過ぎを防ぐ飽きる仕組みを意図的に回避するように設計してあることこそが問題です。

自己制御出来なくなるのは依存のメカニズムに良く似ています。

ゲームで得るものは、ゲームが上手になることだけです。(それ自体が楽しいのですが)そして失うのはゲームを買うお金と、ゲームをしている間に他のことが経験できないという貴重な時間です。(無料ゲームの意味)

怒ると叱る、諭すの違い

怒る・叱る・諭すという言葉があります。それらの違いを考えてみます。

怒るより叱る方が良いと思っていましたが、それよりも諭すのがベストだと私は思います。

怒る

怒るは感情を相手にぶつけているだけのことです。相手に伝わるのは怒っている・不快な思いをしているということだけです。怒る場合感情に任せて怒るので、相手に何故怒っているのか伝わりません。

怒っている人は、当たり前だと思っていることが相手に抜け落ちているので、怒っているだけのことが多くあります。しかし相手に当たり前という感覚が無いので、怒っても全く伝わりません。怒られても意味がわからないのです。

叱る

辞書によると目下のものの良くない点を指摘して強く咎めることのようです。

相手を責め立てるニュアンスが含まれています。感情に任せて怒るよりはましですが、相手が悪いことが前提なのが私には抵抗があります。ただ知らないだけのことを責めるのは可哀想にも思います。もしかしたら自分が教えるべきことなのて、そのことを知らないとして叱ってはいないでしょうか?教えるべき人が教えていないことを叱るのはルール違反だと私は思います。

諭す

辞書によると目下のものにわかるように説明して、納得するように教え導くことだそうです。

諭すには責め立てる意味合いは込められていませんので、相手が知らないだけのことを教えてあげるのですから私は最適な言葉だと思います。相手が知らないことは仕方のないこととして受け入れ、知らないことを責めずただ教えてあげる、諭すという言葉。無駄な争いを無くす魔法の言葉だと思います。

怒る、叱る、諭すの違いのまとめ

怒るは感情で責め立て、叱るは感情はないものの責め立て、諭すは責めず教え導く。

怒るよりも叱るよりも諭すを心掛けてみませんか?

説明下手な人の話し方

説明下手な人の話し方を考えてみます。

様々なタイプがあります。

  • 自分自身の頭の中で整理されていない場合。
  • 言いたいことをまとめられない場合。
  • 話をすること自体が目的のため、話を引き延ばすために回りくどい言い回しをする。
  • 話をしている最中に思いついたことを織り交ぜてしまうので、全体で一貫性がなく良くわからない話になってしまう。
  • 老人に多い話し方ですが、時系列で全て並べようとする。
  • 話の本筋に関係のある話と関係の無い話の区別がつかず、様々な話がごちゃまぜになってしまう。

などが考えられます。

対策は説明したいことを一言で言うことです。ちょうどメールのタイトルのように先に用件を伝えるのです。次にその解説をすることです。それだけに気をつけるだけで相手は理解しやすくなります。

紙幣の無くなる日

様々な偽造防止の知恵が詰まっているとはいえ、言うなればタダの紙切れですが、千円札、二千円札、五千円札、一万円札として流通している紙幣の話です。

遠く無い将来、偽造や犯罪の立証が困難な現金でのやり取りを防止するため、紙幣はなくなると思います。無くなるべきだと思っています。

不正を行う人に都合の良いビットコインのような流れのつかめない擬似通貨ではなく、不正が行われた場合お金の流れを確認できるシステムの導入が行われるべきだと思います。

一万円以上のやり取りは証拠が残る仕組みを導入するのです。

少額の決済には1000円硬貨5000円硬貨を使用すると良いと思います。

お年玉やお小遣いなどの個人の現金のやり取りは少額の場合は硬貨を使用し、高額な場合は振り込みを利用するようになると思います。

不正なお金の流れを確認できるため、裏金という概念がなくなります。横領や脱税をする隙も無くせるのではないかと思います。

このアイディアが採用されないとすれば、政治家が一番困ることが証明されます。もし国会に提出され反対意見を言う勇気ある人がいれば、何らかの不正を考えているので見ものだと思います。

出てきそうな反対意見は、導入費用云々、個人商店は困る、プライバシーの問題云々などです。それらは反対することが目的であり、理由ではありません。反対するために見つけた理由でしかありません。

早く紙幣が無くなり不正の無い世の中になると良いと思います。

営業と偽った説得 〜営業マンならぬ説得マン〜

営業として売り込みながら、お客さんの説得をする営業マンがいます。
営業マンの理想とは真逆の発想の営業です。

理想の営業マン

理想の営業マンはお客さんの欲しいものを買ってもらうのが仕事です。お客さんの欲しいものを確認し、自社製品と欲しいものが異なれば深追いすることはありません。お互い時間の無駄だからです。

買ってもらえる可能性の低い無駄な説明を望み薄のお客さんにするよりも、自社製品を欲しがるお客さんを探すことの方が合理的です。

説得マン

説得マンとは自社製品をお客さんに欲しいと思ってもらえるように、営業と偽った説得を行う営業マンのことです。

説得マンは金額は先に言いません。話を打ち切られるのを阻止するためです。購入の際に最も大切な情報を後回しにするのです。説得が成功し、衝動買いの心理で買う気になって後に引けなくなるまで、デメリットは伝えません。

説得マンはやり手であればある程、衝動買いの心理を知り尽くしているので冷静に判断する注意が必要です。

私は欲しいものは自分で情報を探して購入するので、説得マンと話をするメリットは無いと思います。万が一良いものだとしても、飛び込みで説得に来る説得マンの給料分割高に買うメリットがあるとは思えません。説得マンが営業に来られたらパンフレットを置いて帰ってもらうことにしています。キチンとした商売をするつもりのましな説得マンはパンフレットを持っていますが、パンフレットもなく飛び込みをする説得マンがいることには驚きます。話にのせて購買意欲を刺激し、衝動買いの心理に誘い込むのが目的です。

説得マンの対策

目的を一言で説明してもらうことです。説得マンは話を打ち切られないように流れを作るのが得意です。撒き餌のような話に付き合うのはお互いの時間の無駄なので、目的を一言で説明してもらいます。検討の余地があれば話を続けても構いませんが、検討の余地が無ければ終了です。また一言で説明できなければ、説明が得意では無いのでそれ以上話をしても得るものは少ないでしょう。

説得されてまで購入して満足することはほとんど無いと思います。説得マンが営業マンに紛れ込んでいることを認識して、楽しく生活しましょう。

お仕事が営業マンの方は説得マンになっていないか一度客観的に考えてみましょう。