怒ると褒める、北風と太陽の関係

子育てにおいて子供の間違った行動を修正するのに、怒る方法と褒める方法があります。

間違った行動をするとついつい怒ってしまいがちですが、子供は怒られるから行動をやめたとしても本質がわかっているわけではないのですぐに同じ行動をとってしまいます。北風と太陽の童話で旅人の服を脱がせようとする北風のようです。衣服を脱がせようとしても、北風は寒いからしっかり衣服を着込むので逆効果です。子供を怒るのも同じで逆効果です。

間違った行動をしないように怒るのではなく、間違った行動をしなければ褒めるようにするのです。褒められれば子供も嬉しいので間違った行動をしなくなります。怒られるという嫌な思いをする代わりに、笑顔で教えてあげるのです。褒めることで自分から行動するように促すのです。正に旅人が自分から衣服を脱ぐように仕向けたジリジリと太陽が照り付けることに似ています。

そもそも子供が間違った行動をとるのは、子供が何かを知らないだけです。知らないことを教えてあげるのを、怒って教えるか褒めて教えるかの違いです。あなたならどちらが嬉しいですか?選べるとすれば怒られながら教えてもらうのと褒められながら教えてもらうのをどちらを選びますか?

どうせなら子供の知らないことを褒めながら教えてあげてはいかがでしょうか?

ちなみに心理学を極め、若い頃に怒ることをやめた有名な心理学者アドラーは怒ることはもちろん褒めることも否定しています。何故なら褒めてもらえないと行動しない人に育ち、褒めてくれない人を敵だとみなすようになってしまうからだそうです。(参考文献:アルフレッド・アドラー、人生に革命の起こる100の言葉)

私は褒め方・伝え方の程度の問題で、褒められることに依存する程でなければ褒めても良いのではないかと思います。少なくとも怒ることよりも何倍も効果は高いと思います。怒られてイヤイヤ行動するのではなく、褒められることで自分からすすんで行動するようになるのですから。

ちなみに怒るという感情で子供を思い通り動かそうとしていると、子供はそれを見て学習するので、泣くという感情で親を思い通り動かそうとします。感情の攻防戦です。お互いの目的を知ると怒ることも泣くことも効率が悪いことが良くわかります。

親は感情ではなく知恵を使って子供が間違った行動を取らないようにしてあげたいですね。

子育ての常識革命 子供用が必要?

子育ての常識革命として色々考えています。
私にとってはすでに結論がでている状態ですが、まだご存じない方も多いかと思い書くことにしました。

今回は子供用のものに対して考えてみます。

子供用の製品があれば子供用を使うべき
という常識が間違っているという常識革命です。

子供用の製品についてです。
大人と子供の違いは基本的にはサイズです。
子供用の製品としてサイズの小さいものがあるのは当然です。椅子や机、自転車などは子供用を使うべきでしょう。
しかし子供用ボディーソープとか子供用の虫よけ、子供用の日焼け止めなどが売られていますが、それほど大人と子供で皮膚が異なるのでしょうか?大人と子供の皮膚の違いは皮膚の厚みです。表皮・真皮・皮下組織という皮膚の構造は変わりません。表皮の表面は角質層という角化したいわば死んだ細胞がバリア機能として身体を守っています。角化した細胞が傷つけられなければ良いわけですから、大人の皮膚で問題なければ子供の皮膚でも問題があるとは思えません。

では何故ボディソープや虫よけ、日焼け止めには大人用と子供用があるのでしょうか?
二つに分ければより多く売れるからだと思います。

まず大人と同じものを使ってみて、肌が赤くなるなどの問題があればやめればよいと思います。
問題がなければわざわざ子供用を使う必要はないと思います。

一言でいえば企業による『自称』子供用の製品です。
基本的に刺激が少ないとして、大人用よりも濃度を薄くしたり成分を少なくしているので確かに問題となることはないでしょう。元々大人用でも問題がないのですから更に問題にはならないはずです。その分不必要に効果を落としてお金を払っているようなものだと思います。

ただしシャンプーなどで目に沁みないなどの実用的な理由がある製品は子供用が良いと思います。明らかな違いがなければ『自称』子供用の製品かもしれません。

資本主義の弊害ですが、大人用で良いですよと言っても儲かるわけではないから誰も指摘しないのです。行政も特に問題があるわけではないから取り締まる必要も要望もないのが現状です。子供用を買う人がいても、大人用で良いと知っている人が子供用を買う必要がないことをわざわざ言うことはありません。

親御さんの心理としては子供用が売っていれば子供用にしなければいけないような錯覚に陥ります。その錯覚を利用して売り上げを上げることが子供用がある理由だと思います。
現実に大人用を使ってみて問題があればその時点で子供用を購入されてはいかがでしょうか?

 

 

そもそも宗教とは?

そもそも宗教とは人々が仲良く快適に暮らすために始まったものです。
そしてどの宗教も信じるものが救われるように考えられて作られています。

どの宗教を信じることも、信じないことも自由のはずです。
何故なら人間以外の動物には宗教はないからです。
人間だけが何らかの宗教を信じなければならないと考えるのは、既に信じている人の勘違いです。

もし動物に宗教があるとすれば、我が身を守り子孫を残すという宗教です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
わざわざ自分の考え方を押し付ける動物などいません。食べるか食べられるか無関係かのいずれかです(ごくまれに共生関係という協力関係になります)。

動物に宗教はなくても生きていくことができるわけですし、宗教を信じていない人もいるわけですから必ずしも宗教はなくてもよさそうです。ただ信じているだけで人に強要さえしなければ、宗教はあってもよさそうです。
では何故宗教が存在するかというと、先述のように仲良く快適に暮らすために始まったようです。宗教が生まれるまではお猿さんの世界を想像してもらうとわかりますが、盗みや騙しや殺しなどは日常茶飯事だったはずです。動物は食べるために殺すことはあっても、それ以上にむやみに殺すことはありません。何故なら目的が自らが生きるためだからです。
人間は農耕がはじまってから、富という概念が生まれてしまいました。その富を得るために盗んだり奪ったり騙したりするようになりました。富という概念のせいで欲が生まれたのです。お猿さんに富という概念が備われば激しい奪い合いが行われたであろうことは容易に想像がつきます。
そもそもお猿さんから人間になりたての頃には善悪という概念がなかったはずです。その殺伐とした騙しあい、奪い合い、殺しあうような世界に救いを生み出したのが宗教です。宗教によって善悪の価値観を作り出し、同じ価値観の人たちだけで付き合うようになりました。同じ宗教を信じている人とだけ付き合いや商売をするようになったのです。
力で争いを押さえ付けるのが国であれば、考え方で人々の争いを避けるように導いたのが宗教です。考え方の違う人は相手にしないことで争いを避ける知恵としたのが宗教です。

元々が秩序を生み出すために生まれたのが宗教なのですから、みんなが仲良くすることが目的です。歴史上も宗教に伴い様々な争いが生じていますが、本来なら仲良くすることが目的のはずの宗教が原因で何故争いが起こるかと言えば、人に強要しようとするからです。宗教の本来の目的から外れ、権力という欲を求めて人に宗教を強要するようになるのです。
本来は信じた人同士だけでのやりとりですから争いなど生じるわけがないのですが、少しでも信者を増やそうとする輩が宗教を広めようとして争いを起こすのです。そこにあるのは信者を増やそうとする輩の私欲でしかありません。ただ信者が増えることを喜びたいのか、信者が増えたことで手に入る権力がほしいのかはわかりませんが、私欲によって信者を増やしているのは確かだと思います。表向きは素晴らしい宗教の教えだから、まだ知らない人に教えてあげているだけだというかもしれませんが、そもそもどの宗教も人に教えを強要するという教えはないはずです。何故なら争いをなくす目的で宗教が作られたわけですから、争いの種になる宗教の強要を認めるわけがないのです。

残念ながら様々な宗教の開祖は、宗教家の私欲により争いが起こることは想定できなかったようです。偶像崇拝や他の神を認めないある宗教は、私欲による争いを想定していた可能性があります。だから神以外のものを信じてはいけないと教えているのです。しかしそこに私欲をもった指導者が誤った道に導いて争いを引き起こしています。

宗教を広める過程で、死んだあとにどうなるかがわからない不安を利用するために、宗教ごとに死後の世界を考え出し、信者を獲得していきました。
いわば死後の世界の待遇と引き換えに、現世で何らかの行動をとるように導かれるのです。
一般的には宗教的に悪いことをしないように諭すのが通常ですが、一部の宗教では死後の世界の待遇と引き換えに指導者の欲を満たすことに利用されているのが残念です。

宗教は本来信じたものが仲良くするためにある。
考え方を人に強要しなければ争いは怒らない。

この考え方が広まれば、宗教を信じている人も信じていない人も争いが減るはずです。

糖質回避は災害にも有効

今日11/19は備蓄の日だそうです。

糖質回避は災害にも有効です。
糖質は本来備蓄向きの食料ですが、美味のため日常食とされてしまったようです。
農耕以後の歴史を見ても、美味な小麦や米が競って栽培され高値で流通することから更に栽培されるようになりました。美味であるがために日常食となったのです。
元々は収穫期以外の時期にも保存が効くという利点から野菜よりも優れた食料として重宝されるようになりました。その食料が美味だったため主食という地位を確立したのです。
備蓄の日ですが、究極の保存食はお米です。
水とカセットコンロを用意することで長期間の停電や断水があってもお米をたくことができます。
保存食としておかずになるものを備えておくことが備蓄には有効だと思います。
災害時には糖質回避をやめ、保存食としての糖質を食べることで災害をやり過ごすのです。
東海・東南海地震やそれに伴う富士山の噴火が起こってしまった場合、地域によっては最大1か月や2か月のライフラインの断絶の可能性が考えられます。これだけの長期間の食料の確保を考えると、お米を水とカセットコンロと共に備蓄することが最も効率的だと思います。

私は日頃お米を食べないので、もらったお米を災害時の備蓄用として保存しています。

更に日頃糖質回避をしていると有効なことがあります。
何故なら糖質回避により糖質依存から抜け出していると、大してお腹が空かなくなるからです。
お腹が空かなくなる理屈は、そもそも強い空腹感が糖質依存の禁断症状だからです。禁断症状だからこそ我慢しているとピークをこえる感覚があるのです。仮に禁断症状でなければ、尿意のように次第に強くなり、排尿しない限り消えたり弱まったりはしてくれのと同じで、食べない限り弱まらないはずです。糖質依存から抜け出しているとピークをこえた後の空腹感しかないため、災害時に強い空腹感と闘わなくてすむので避難生活が楽に過ごすことができます。
お米であれば炊飯することで量が増えるので、備蓄としても最適です。
災害時は非常時ですから食べ物を選んでいる余裕はありませんから、糖質を食べて日常生活に戻れる日を待ちましょう。

以上のことから備蓄はお米とし、日頃は糖質回避をして糖質依存の禁断症状である強い空腹感を感じることがないようにしておくことがいざという時に困らない災害対策だと私は思いますがいかがでしょうか?
糖質回避教の信者の方々は今一度お考え下さい。

赤ちゃんは泣くのが仕事というのはただの言い訳?

赤ちゃんは泣くのが仕事だという考え方があります。
赤ちゃんの立場から考えてみます。赤ちゃんとしては泣く前に察してほしいのに改善されないので仕方なく泣くのです。赤ちゃんは泣きたくて泣いている訳ではありません。仕方なく泣いているのです。

赤ちゃんが泣くのは色々な原因が考えられます。
お腹が空いたのか、おむつを替えて欲しいのか、暑いのか寒いのか、喉が渇いたのか抱っこしてほしいのか、寂しいのかはわかりません。泣いた時点で想像するしかないのです。
いずれにしても赤ちゃんは泣いた時点で何らかの欲求を満たす目的で泣いているのです。

赤ちゃんを観察していると、泣く前に表情が変わります。
表情が変わった時点で抱っこするなり、上記泣く理由を考えて先回りして対応することで泣くことを避けることができます。全く泣かさないことは当然不可能ですが、泣くのが仕事だから泣かせておけば良いというのは、ただの言い訳ではないでしょうか?
いかに泣かさないかを考えることこそが、子育ての本質だと思います。
赤ちゃんでもそうですし、子供になっても同じです。いかに泣かさないかを考えることこそが、子育てです。
ここで注意してほしいのは、泣かないように甘やかすということをお勧めしているわけではありません。赤ちゃんや子供が泣くのは目的があるので、その泣く目的を達成しないようにうまく回避すると泣くことを繰り返さないようになります。逆に泣くことで目的を達成してしまうと、成功パターンとして繰り返してしまうのです。

できるだけ泣かさないことが理想ですが、赤ちゃんや子供が泣いてしまうことは仕方のないことです。泣いてしまった状況をできるだけ繰り返さないように工夫していくことが大切だと思います。

今回の子育ての常識革命は赤ちゃんが泣くのが当たり前という常識から、赤ちゃんは泣かないのが当たり前で、泣かせてしまったら負けという考え方の提案です。

赤ちゃんは泣くのが仕事だと思っていると、意識として泣くのが当たり前だと思ってしまいます。
赤ちゃんが泣くのは仕方がないという言い訳をしているようなものだと私は思います。

泣かさない方法を探すことから逃げ出すための言い訳

多くの大人は泣かさない方法を探すことから逃げ出すための言い訳をしているのではないでしょうか?赤ちゃんが泣くのは仕方がない。泣かさない方法が存在するわけがないから、最初から探すことをせず言い訳を見つけたのです。
『赤ちゃんは泣くのが仕事』という言い訳を。
言い訳は問題と向き合わず逃げ出すためにすることです。
そのため言い訳人間は行動を改めることができません。
行動を改めることができないから赤ちゃんは泣き続けるしかないのです。
結果として赤ちゃんは『泣くのが仕事にさせられてしまう』のです。

赤ちゃんは笑うのが仕事だと私は思います。
子供も笑うのが仕事だと私は思います。

赤ちゃんは言葉が話せないので、感情で大人を動かすことしかできません。
泣くという感情で大人を動かすことを覚えると、大人を思い通りに動かしたければ泣けばよいと学習して育ちます。言葉が話せるようになっても自分の思い通りにならないと泣き叫ぶのはそのせいです。泣くことで欲求を満たしていた赤ちゃんの頃の名残なのです。
赤ちゃんが泣きだす前に表情から読み取って泣かないようにしてあげると、欲求を満たすためには泣かない子供に育つと思います。

改めて書きますが、言葉が話せるようになっても泣き叫ぶことで自分の欲を満たそうとするお子さんも対策を考えれば泣かないようになります。
コツは子供の泣く目的を探し、泣いてもその目的を達成できないことを伝えてしまうことです。(目的論
泣いても目的は達成されないから無駄だよと伝えるのです。

赤ちゃんや子供が泣くのが常識を書き替えてみましょう。
実際に泣かさないように子育てするのは大変ですが、もし実現できれば全く違う世界が見えてくるかもしれませんね。

首がすわればトイレトレーニング

子育ての常識革命の一貫です。赤ちゃんは何もわかるはずがないという常識・思い込みの革命です。赤ちゃんが実はわかっているとしたらどうでしょうか?今回の話は赤ちゃんは排尿や排便をわかっているということです。赤ちゃんは尿意や便意がわかっていても、どうしたら良いのかわからないから仕方なく垂れ流しているだけだとしたらいかがでしょうか?

あくまでも一つの提案です。首がすわればトイレトレーニングをしてみてはいかがでしょうか?
実はよく観察していると排尿や排便の合図をしています。赤ちゃんは排尿や排便のメッセージを出しているのです。メッセージとは表情であったり気張ることであったり泣くことであったり、場合によっては仕草であったり、赤ちゃん毎に様々です。そのメッセージをうまく受け取り、トイレ(乳児用のオマルです:商品名リッチェル プチポッティ グリーンなど)に連れていくようにトレーニングを始めると、赤ちゃんはメッセージを受け取ってもらえることがわかるので余計強くメッセージを伝えるようになります。
メッセージのやりとりが成功体験として蓄積され学習していくのです。
最初はトイレに連れていってもうまく出来ないと思いますが、繰り返すうちにうまく出来るようになると思います。

早くからのトイレトレーニングは親子共々お得です。
トイレで排尿や排便させる親のお得は、紙オムツが減らなくなりますしお尻拭きが減らなくなります。お尻に便がこびりつかないのでトイレットペーパーで簡単にふき取ることができます。しかもそのままトイレに流せばよいので簡単です。お母さんが頑張ってトイレに連れていくから、紙オムツやお尻拭きがあまりいらなくなるので、節約したお金でママ友とランチを楽しむのも良いですし家族で外食でも子育てが楽しくなると思います。楽しい目標のためにトイレトレーニングを楽しむのです。
赤ちゃんにとってのお得は、抱っこやスキンシップの回数が自然と増えることとお母さんにしっかり見てもらえることです。お母さんがしっかり赤ちゃんを観察していなければ、タイミングよくトイレに連れていくことはできません。お母さんにとって排尿や排便が終わったことがわかっても仕方ないので、絶えずメッセージを出していないか見ていることになります。泣いていないから大丈夫ではなく、泣かさないように気を配らないとトイレトレーニングはうまくいきません。赤ちゃんにとってしっかりケアしてもらえるので、愛情満点の表れで寂しくないと思います。
紙オムツやお尻拭きがあまりいらなくなるので環境にも優しいと思います。

紙オムツに排尿や排便する方が楽だと思う前にトイレで排尿や排便することが当たり前になってしまえば、紙オムツを外すのも簡単です。

首がすわればトイレトレーニングの考え方は、糖質回避教と同じで無理強いするものではありません。お得だと信じていただける方だけはじめてもらえれば良いと思います。

反対する人はわざわざトイレに連れていくのが面倒臭いと考える人か、紙オムツの商売に関わる人だと思います。そんな外野の意見に判断を左右される必要は全くありません。内心では余計なお世話だと思っても、心配してくださってありがとうございますとだけ伝えると良いと思います。

トイレに連れていっても最初はうまくいきません。赤ちゃんの様子を見ながら、空振りでも良いから何度も連れていっていると出来るようになってきます。慣れるまでは時間を決めてトイレに連れていっても良いと思います。そうして試行錯誤していると赤ちゃんからのメッセージを受け取ることが出来るようになると思います。

一例ですが生後4カ月でトイレトレーニングをしていて、夜中にトイレのメッセージがあったので何度か起こしていたそうです。夜中に起こされたくないのか夜中にはメッセージを出さなくなり、夜中には排尿も排便をしなくなったそうです。朝まで貯めておくようになったようです。ちなみに大人が夜中トイレにあまり行かなくてすむのはホルモンを調整して尿を濃縮出来るからです。赤ちゃんでもそのように促せば、尿を濃縮することが出来る可能性を示唆する例だと思います。

赤ちゃんに出来るはずがないと大人が勝手に思い込んでいるだけで、実は赤ちゃんは物凄い可能性を秘めているのに、大人がまだ気づいていないだけかもしれません。

子育ての常識革命

子育ての常識革命を考えてみました。
子育てにも常識として広く知れ渡っていることがあります。しかしそれは誰も検証しないまま当たり前として広く信じられているだけかもしれないのです。
わかってしまえばコロンブスの卵のように、何故これまで常識とされていたのか理解に苦しむこともあるかもしれません。常識が書き換わるのはよくあることです。今から考えれば信じられないことですが、かつて日本の薬局で麻薬が売られていました
これだけ糖質の常識が間違っていることがわかってきましたので、まだまだ当たり前とされている間違いは多くあると思います。

子育ての常識革命をしていきたいと思います。
例えば赤ちゃんや子供にはわかるはずがないという思い込みです。実は子供は多くのことを理解しています。赤ちゃんですら因果関係を考えながら、行動しているのです。その行動を大人が赤ちゃんだからわかっているはずがないと決めつけているだけのことです。赤ちゃんは泣くことで自分の欲求を満たします。少し泣くだけで欲求が満たされれば大泣きすることはありません。少し泣くだけでは欲求が満たされなければ大泣きをします。何度も少し泣くだけでは欲求が満たされなければ、最初から大泣きするようになります。自然と学習し、その集大成として性格が形成されていくのです。

赤ちゃんや子供にはわかるはずがないという常識が間違っているとしたらいかがでしょうか?言葉が話せるようになるのは1・2歳からですが、恐らく話せるようになるよりもずっと早く言葉は理解している可能性があります。もしかしたら生後三ヶ月くらいには話していることがわかっているかもしれません。話せないからわかるはずがないと思い込んでいるのです。話していること全てを理解出来る訳ではないでしょうが、話しかけると理解している可能性があります。

英語を学ぶ際に話すより聞く方が幾分簡単なことを思い浮かべてみて下さい。赤ちゃんは話せないだけに、理解しているか確認出来ないのです。自分の赤ちゃんだった頃のことは覚えていませんし、確認出来ないから言葉が理解出来るはずがないと決めつけてしまうのです。駄目元で赤ちゃんに話しかけてみると返事をしてくれるかもしれませんよ。

まずは首がすわればオマルでトイレをしてみる。赤ちゃんが食べたそうにすれば三ヶ月か四カ月で離乳食をはじめてみる。離乳食といっても赤ちゃんは噛みたいので細かくすり潰さず噛む感覚を経験させるなどです。

どうやらこれまで常識とされた育児書が正しいとは限らないようです。ちょうど三大栄養素の炭水化物を食べなければいけないとみんなが思い込んでいる常識が、崩れつつあるのと同じです。余りにも当たり前過ぎて炭水化物が本当に必要かどうか吟味されてはいなかったのと同じです。

これまでの育児書が書き換わるような、子育ての常識革命について書いていこうと思います。

身体を動かすことを教えるのが下手な理由

身体を動かすことを教えることの上手・下手は物事を伝えることに通じるのですが、説明の時と同じで教える相手が身体の動きを客観視出来るか出来ないかで大きく異なります。身体の動きを客観視出来る人は、身体の位置を把握出来簡単に思い通り動かすことが出来るのでどのような教え方をしても上手にこなすことが出来ます。一方身体の動きを客観視出来ない人もいるのです。ダンスなどが苦手な人などがこれにあたると思います。自分の手足の位置が客観的に把握出来ないため、人の動きに合わせたりすることが苦手です。

身体を動かすことは誰でも出来ますが、身体の動きを客観視出来るかどうかは人によります。自分の身体の動きを他人の身体の動きのように客観視出来る人もいれば、全く出来ない人もいます。客観視出来ない人にとっては身体の動かし方を教えてもらっても、きちんと出来ているつもりだけに違いが理解出来ないのです。

そして教える側が自分と身体の動きを客観視出来ない訳がないと思っていると、教える側と教えられる側の認識の齟齬が起こります。伝えている内容の齟齬があるため、上手になれません。名選手、名監督にあらずとはこのことを表しているのです。名選手はみんな同じように身体を動かすことが出来ると思っているので、教えても普通の選手には伝わらないのです。名選手は身体の動かし方をアドバイスされればその通りに動かすことが出来るたので名選手なのです。みんなが同じように、アドバイス通りに身体を動かすことが出来ると思ったまま監督になると失敗してしまいます。

自分の身体の動きを客観視出来ない人がいることをわかっている人は教えるのが上手です。何故なら動きを客観的に伝えても理解出来ないので、具体的に身体の部分部分の動かし方を伝えます。一言で言うと客観的に伝えるのではなく、具体的に差を伝えるのです。今よりも右手を外側に5cm大きく回すなどです。それでも相手に伝わらない場合にはビデオで客観視させてあげれば良いのです。一緒にビデオで確認しながら改善点を指摘するのです。それでも伝わらなければ、理想の形を自ら実演し、これもビデオに撮って見比べることで差を明確にして伝えるのです。

自分の身体の動きを客観視出来ない人がいることを知らない人は、具体的な身体の動かし方を伝えることなく、やり方を見せて自分で汲み取るように教えます。自分の身体の動きを客観視出来る人には伝わりますが、自分の身体の動きを客観視出来ない人には理解出来ません。つまり客観視とは差を読み取ることが出来るかどうかです。そしてその通りに自分で修正出来るか出来ないかです。客観視出来ない人がいることを知らない指導者が残念なのは、教えても理解出来ないのは、教えられる側の問題だと勘違いしていることです。実は教える側の問題なのです。教えられる側は自分は身体の動きを客観視出来ないため、まさか身体の動きを客観視出来る人がいるなんて想像すらつかないので、教えてもらっても全く理解出来ません。教える側は真似するだけだと言い、教えられる側はその意味がわからず混乱します。

解決策は、身体の動かし方を具体的に理想の動きとの差として教えてあげることです。そして相手に伝わる方法で教えてあげることが大切です。場合によってはビデオなど文明の利器を活用して伝えることで時間の短縮をはかるのも有効だと思います。

自慢する人の心理

本人は事実を伝えているだけで自慢している自覚はありませんが、聞いていると自慢している言動をする人がいます。本当に優れていればわざわざ優越をアピールする必要はありませんが、あえて自慢するのは何故でしょうか?その心理を考えてみます。

自慢する人も自慢する目的があります(本人は自慢している自覚はほとんどの人にありません)。自慢する目的は、自慢により賞賛されることです。ただ驚かれるだけでも心理としては賞賛されていると受け取ります。驚かれることを期待して自慢する心理が働きます。驚かれることが人に認められたいという承認欲求を満たしてくれるのかもしれません。

自慢は人より劣っているという劣等コンプレックスの裏返しの考え方で、劣っていることを隠すために優れていることをアピールするようです。優れていることを認めてもらいたいという優越コンプレックスの表れとして自慢するのか、何らかの劣等コンプレックスを隠す目的で自慢しているのかもしれません。

自慢しても驚かれないなど期待した反応がないと不機嫌になったりがっかりしたりすると、承認欲求の強い人なのかもしれません。あまり人に認められることがないので、自分からアピールしないと認めてもらえなかったのかもしれません。自慢しても期待した反応がなくてもがっかりしたりせず、次々他の自慢が続くようなら何らかの劣等コンプレックスを隠す目的で必死で自慢:自己アピールしているのかもしれません。

承認欲求の強い自慢タイプの人は、本来ならもっと認められていても良いはずだと勘違いしていることから自慢がはじまります。もっと認めて欲しいんだなと暖かい目で見守ってあげましょう。劣等コンプレックスを隠す目的で自慢する人は、何の劣等コンプレックスを隠したくて自慢するのか考えてみるのも面白いかもしれません。

とはいえ人は多かれ少なかれ、他人に認めてもらいたいものです。他人に認めてもらいたいと思って人に自分のことを伝えても、伝えられた側がそんな自慢してと受け取る場合もあります。程度の問題でもあるようです。いつも人に認められたいと思っていると、いつの間にか自慢しかしない人と思われてしまうかもしれません。

本当に優れていれば、自慢して人に認めてもらう必要はないはずです。そんな人になりたいですね。

笑顔の子育て 北風と太陽

笑顔の子育て
北風と太陽の童話になぞらえて考えてみます。
童話では旅人の衣服を脱がせようとして北風と太陽が競います。まず北風が強い風で衣服を剥ぎ取ろうとしますが、衣服が脱げると余計寒くなるので必死で抵抗しますから服は脱げません。一方太陽はジリジリと照りつけるだけで旅人は暑くなって服を自分から脱いでしまいました。
旅人の立場からどうすれば衣服を脱ぎたくなるかを考えればよかったのです。

子育てにおいてもどうすれば子供がどうすれば目的は社会に出ても恥ずかしくない常識を身につけることが出来るかを考えてみるのです。
北風と太陽のように、怒ることと笑顔で伝えることの2つの選択肢があります。北風のように怒ることで常識を身につけることが出来るでしょうか?恐らくできないと思います。何故なら子供は怒られたら、怒られたことを受け入れるよりも拒絶してしまうからです。
笑顔で伝えることで伝えられたことを素直に受け入れるのではないでしょうか?

子供の立場から、どうすれば人のいうことを聞く気になるかを考えればよいのです。
片方は怒っています。片方は笑っています。
どちらのいうことを聞きたい気分になるでしょうか?

腹が立っているのに笑顔で接するなんて無理!と考える方もおられるかもしれません。
しかし、子供の行動を認識して怒るという感情を選んだのは自分です。
視点を変えて面白いところ、ほほえましいところ、褒めることができるところを探すのです。
例えば以前から言い聞かせている約束を破ったとしても、正直に言ってくれたことを褒めるのです。例えば気を付けるように言っていても怪我をしたとしても、大怪我ではなかったからよかったねと褒めるのです。
この考え方の詳しくはアドラーの心理学をご参照ください。

何より子供がとる行動はそれまでの期間育てた結果です(詳しくは子供のの行動はこれまでの育て方の集大成)。
誰がそのように育てたのかを考えれば親は子供を怒るなんてことがあってはならないはずです。子供の行動の責任は親にあるのですから、子供を怒るなんて自分の育て方が間違っていることを子供に怒るようなものです。怒るならそのように育てた親を責めるべきでしょう。

どうしたら子供の笑顔を引き出すことができるか考えてあげてみてください。

子供の笑顔に必要なのは、北風でしょうか?太陽でしょうか?