人の落ち度を過剰に責めたい人の心理

人の落ち度や過失を過剰に責め立てる人がいます。その心理を考えてみます。

目的は自分の優位性を示すこと

人の行動には必ず目的があります。明らかな落ち度や過失を責め立てる人にも目的があります。反論出来ない状況で責め立てることで、自分の優位性を示したいのです。お店でモンスターと言われる人達は優位性を示す目的でちょっとした落ち度を過剰に責め立てるのです。目的が優位性を示すことなので、早い段階で話を終息させようとすると満足出来ないため、余計責め立てるのです。モンスターペアレンツと言われる人達も似たような心理です。先生達が言い返せないことをいいことに過剰に責め立てるのです。

過剰に責め立てることで、逆に非難される可能性があることを想像出来ないのです。自分は人を責め立てることの出来る立派な人間だと周囲に誇示する目的だけが独り歩きしてしまうのです。

ネットでは更に過剰に落ち度を追求する人達が現れます。何故なら実社会では何らかの形で個人が特定され責任を取らざるを得なくなる危険性がわずかながらありますが、ネットでは匿名で言いたい放題だからです。ネットでは実際に仕返しされる心配がほとんどないため、言いっ放しで過剰な表現を言いがちです。ネットでは絡んでもらうことが目的で過剰に責め立てる人もいるようです。

対策

過剰に責め立てることの目的は優位性の誇示なので、まともに相手をしないことです。相手をすればする程更に優位性を誇示したくて余計過剰に責め立てるようになります。落ち度は認めた上で謝罪し、話を打ち切ることです。それでも責め立てるのであれば、責め立てる目的を直接聞いてみることです。目的は優位性を誇示したい欲求を満足することとは答えられないでしょうから話が終わると思います。

デジタル思考とアナログ思考の違い

デジタル思考とアナログ思考という考え方を提唱しています(参考:アナログ思考とデジタル思考の見分け方)。デジタルが新しく、アナログが古いという分類ではありません。

デジタル思考

デジタル思考の考え方は0か1で、その間はありません。デジタル思考では曖昧さがないのです。0か1にはっきりと分けるのです。0.4は0ですし、0.5は1なのです。0.499でも0と見なすのです。0.5をこえるかどうかが明確な分岐点です。

そのため明確な分岐点、この場合は0.5をこえるかどうかを見極めます。一度確認して0.5をこえていれば1と見なします。念のため途中で確認することはあっても、0.5未満にならなければ判定が覆ることはありません。このことがデジタル思考の特徴です。判断が明確で素早いのです。デジタル思考の場合、判断基準を人に伝えるのも容易です。0.5をこえるかどうかだからです。数字で表すことの出来ないことでも、デジタル思考の場合明確な分岐点を決めることが出来るので、判断が素早く出来ます。判断や決断の早い人はデジタル思考をしている可能性が高いと思います。デジタル思考の場合、数字に限らず判断基準を明確に出来るので人に伝えるのも容易です。

デジタル思考が出来る人は、誰に責任があるのか明確に理解出来るので言い訳をすることはほとんど無いと思います。

物事を論理的に捉えることが出来るので、経営者や管理職、科学者に向いています。

アナログ思考

どちらかというとほぼ1だけど、でもまだ正確には1ではないので、まだ0になる可能性があると考えるのがアナログ思考です。アナログ思考では0.99は1に近くはあっても、まだ1ではないから0になる可能性が残っていると考えるのです。完全に1になるまでは1ではないと言い張るようなものです。いずれ1になるとしても、1になるまでは1では無いと主張するのがアナログ思考です。

結果は0.99でも1でも変わらないのですが、1になるまでは認めないので決断に時間がかかります。0.99は1では無いと言い張るので議論も進みません。

言い訳人間に多い思考方法かもしれません。

経営者や行政のトップにはむかない思考方法です。

親戚付き合いの目的

かつて親戚付き合いは大事にされていました。実は明確な目的があったのです。
困っても誰も助けてくれることなない時代では、一種のセーフティネットだったのです。
だから日頃は面倒でしかない親戚付き合いを、いざという時に備えて渋々行っていたのです。説教ばかりするオジさんも、いざとなれば助けてくれるから、黙って聞いていたのです。
日頃のを顔合わせのために、盆正月の集まりや、法事などが行われるのです。ちなみにお釈迦様の説いた仏教の教えには先祖を敬う考え方はありませんでしたが、お坊さんの集金システムと親戚付き合いの顔合わせのきっかけとして法事という行事が生み出され定着しました。

国がセーフティネットを整備する以前は、困ったことがあれば親戚同士でお互い助け合うしかなかったのです。赤の他人は助けてはくれないので、いざというときに備えて親戚付き合いをしていたのです。昔は基本的に親戚は近くに住んでいたため、親戚同士の集まりも大した負担にもなりませんでした。

近代化に伴い生活が多様化した結果、都会で生計を立てる人が多くなり、親戚同士が離れてくらすようになりました。移動も大変になるため親戚付き合いも疎遠になりつつあります。実はセーフティネットとしての親戚付き合いの意味合いが薄れてきたことも、疎遠になりつつある一因です。親戚付き合いしなければいけない意味がわからないという考え方です。何故ならその親戚付き合いを促す親戚も、お互い助け合うという意味を理解していないのです。更に親戚が困っていても助けることの出来る余力のある親戚がいなくなっていることも、親戚付き合いが面倒でしか感じられない理由の一つです。

今後の親戚付き合いはもしかしたら薄れゆく運命なのかもしれません。

言い訳人間の対処の仕方

言い訳人間は何処にでもいるものです。とにかく言い逃れを繰り返します。言い逃れすることが目的ですから、人にどう思われるかは問題ではありませんし、全く気にしません。自分が責任を取らなくて済みさえすれば、どんな言い逃れでも言えるのです。後で嘘が暴かれたとしても、新たに言い逃れを言い始めるだけです。

言い訳人間の対処法は言い訳人間より知恵のある人間が矢継ぎ早に質問責めにすることです。言い訳人間は言い訳に慣れているので、ちょっとやそっとの質問では動じません。核心をつく質問を重ねることで言い訳を封じるしか手立てがありません。言い訳ではなく、自分から話さざるを得ない核心をつく質問をするしかありません。話さざるを得ない状況に追い込むのです。

例えば、言い訳人間である某都知事の釈明会見であった会った相手の名前がプライバシーの問題であかせないと言い訳しています。核心をつく質問とは「プライバシーで名前があかせないということはプライベートを認めるということですね?プライベートであれば報告書は虚偽記載になります。法律違反です。名前をあかせない時点で法律違反を認めてしまいました。世間の常識では半ば公費での飲み食いにプライバシーはありませんね?法律違反では無いことを証明するためには、名前をあかすしかありませんね。

最後にまとめて「プライバシーを主張する時点でプライベートだと認め、虚偽記載を認めることになります。名前をあかすことで虚偽記載では無いことを証明出来ます。名前はあかしますか?それともやはりプライバシーという言い訳をしたプライベートだと認めますか?」と詰め寄ります。このような論理で責め立てると言い訳人間でも言い逃れ出来にくくなると思います。

記者の中に言い逃れを封じることの出来る言い訳キラーが現れることを心から祈っています。そろそろ言い訳を聞くのも飽きました。

怒りとの上手な付き合い方

怒りとの上手な付き合い方を考えてみます。怒りは感情なので心の中で感じてしまうことは仕方ないのかもしれません。しかし怒りとして感情を人にぶつけるかどうかは別問題です。つまり怒りを感じるのは仕方なくても、表に出すかどうかは別問題です。

まず怒りは何らかの齟齬が原因で生じるものです。こちらの常識が相手の非常識であったり、相手の常識がこちらの非常識であったりです。こちらが当たり前だと思い込んでいることが、相手にとっては初耳であったり、概念すら無かったりするのです。怒りを感じる場合、相手に何かが抜け落ちている可能性が高いのです。よくあるのは、言ったのに理解していないと怒る場面です。言った側は言ったつもり、言われた側は何となくわかったつもりで認識に齟齬があるのです。伝えようとした内容がキチンと伝わったか確認することを怠ると、お互い齟齬があることを知らないまま過ごします。そして何かあった場合、言ったのにしていないと怒り出すのです。

一つの提案は何が抜け落ちて怒りを感じるのか、客観的に見極めることです。怒りの感情に流されると冷静な判断が出来なくなります。そして怒りのまま、伝えようとしてもなかなか真意が伝わりません。結局伝わるのは不快な感情を感じていることだけです。怒ったところで、犬が吠えるのと大して変わりません。怒っている内容が感情に歪められて、客観的に伝えられないからです。

相手に何が抜け落ちているのかがわかれば、抜け落ちていることを伝えるだけで済むはずです。いかに当たり前なことであっても知らないのであれば仕方ありません。知らないことを教えてあげれば良いのです。知らないのですからどれだけ怒られても、理解出来ません。つまり怒るこもは無意味なのです。

怒りとの上手な付き合い方

怒りを感じるということは、相手が何か知らないか理解出来ていないことがあるのです。怒りとの上手な付き合い方は、怒りを感じた時点で何が抜け落ちているのか探すきっかけにするのです。何が抜け落ちているのかわかれば、怒ることすら馬鹿らしくなるようなことかもしれません。逆に相手の怒りに対しては、自分に何が抜け落ちていたのか探すのです。相手の主張と自分の持っている情報の齟齬を探すのです。何が抜け落ちているのかわかれば、その齟齬を解消するようにすれば良いだけです。相手が怒る時点で不快な感情を抱いていることだけはわかります。しかし怒りに任せて感情をぶつけられても何に対して怒っているのか理解出来ないことが多々あります。何が抜け落ちているのかを見極める視点で、相手が怒っている理由を聞き出し、抜け落ちていることを探すことをお勧めします。

怒りという感情を利用して人を支配しようとするのは幼稚です。発想は赤ちゃんと同じだからです。怒りとの上手な付き合い方を身につけましょう。

借りたお金を増えたと錯覚してしまう心理

借金で苦労する人もいれば、借金は絶対しないという人もいます。借金は金利も含めて返すことの出来るのであれば、自己責任ですから他人がとやかく言うことではありません。しかし借金を重ねる人の中には、借金することが出来た時点でお金が増えたと錯覚してしまう心理があるようです。返済に追われていると冷静に判断することが出来なくなってしまうこともあるようです。その際も返済するお金を新たに借りることが出来ると、返済した気になってしまうのです。何ら返済はしておらず、冷静に考えれば借金が増えて金利も増えているのです。新たに借りる労力が、返している錯覚に陥るようです。

家のローンでも同じです。お金が増えたかの感覚で、ローンの支払いは家賃のような錯覚に陥ります。確かに家のローンの場合は家の価値の分通常の借金と異なりますが、借金という意味では同じです。借金が支払うことが出来なく場合、担保である家を差し出しても借金は相殺される訳ではありません。家の価値が中古で目減りした分、借金だけが残ってしまいます。ここにも落とし穴があるのです。担保があるから家を差し出せば、借金は無くなると錯覚している人がいるのです。他国では借金と引き換えに担保を差し出すことで、帳消しになるようです。日本ではそうななっていないため、住宅ローンで破産してしまうことがあり得るのです。

借金は金利の分だけ余分に支払う必要があるのですが、お金を使うことに喜びを感じると借りてでも使いたくなるようです。そしてお金を借りることが出来た時点でお金が増えた錯覚に陥るので、しっかり使ってしまうのです。後で支払うのですから同じことですし、金利の分だけ損なのですが、お金が増えた錯覚で得した気分になるのです。

ちなみに一説によると、クレジットカードの取り扱いは20%売り上げを伸ばすそうです。一回払いなら金利は販売店の負担で消費者の負担がありません。一ヶ月とはいえ無金利の借金をしているのと同じことです。しかもポイントがつくので逆金利のような錯覚に陥ります。そうすると財布の中からお金ぎ減らないため、お金が増えたと錯覚し財布の紐が20%も緩むそうです。だからお店はクレジットカード会社に5%程度の手数料を支払っても売り上げが伸びるので、喜んでクレジットカードを取り扱うのです。実はお客のためではなく、売り上げを伸ばすためにクレジットカードの取り扱いをしているのです。

これらの心理を理解し、借金の罠にはまらないようにしましょう。

人は肩書きで情報の真偽を判断する

人は肩書きで情報の真偽を判断しがちです。弁護士が言っているから確からしい。医者が言っているから確かだと思う。大学教授が言っているのだから間違いないといった具合です。

判断する基準が明確ではないため、肩書きで情報の真偽を判断してしまうのです。弁護士だから正しいとは限りませんし、医者だから正しいとは限りません。大学教授が言っていることが正解とは限りません。確かに何の肩書きもない人の発言よりは信頼出来る可能性はあります。何故なら弁護士や医者、大学教授になる前に選別を受けているからです。注意が必要なのは弁護士や医者、大学教授になるための選別であって、その後の発言すべてを肩書きが保証している訳ではないことです。

いくら肩書きが立派でも、個別の発言はその人個人の見解の域を出ない可能性があることを知っておく方がお得です。その人が正しいとは限らないのです。学会などで多くの人が認めていても、最終的な真偽は実は自分で判断するしかありません。

このサイトで糖質のことや、様々な病気が治ることや糖質依存などの考え方を提唱しています。私は医者であることは公表していますが、所属や名前は公表していません。誰が言ったとしても真実は一つです。私が誰であろうとも、真偽に関係はありません。真偽はご自分で判断してもらえば良いと考えています。

医者などの専門家が必ず正しいと考えるのは間違いです。何故なら専門家といえど人間なので、損得を考える人が多いからです。損になることは言わない可能性が高く、自分自身の利益になることを言っているだけかもしれないのです。全員が全員、損得だけで行動する訳ではありませんが、専門家の中にも損得で行動する人が混じっていることを知っておいても良いと私は思います。特にテレビに出る専門家の人達は目的が正しいことを伝えるよりも視聴率を取ることに傾いている可能性があることも知っておいても良いかもしれません。

いずれにしても、専門家と言われる人達の発言を肩書きによって信じ込んで鵜呑みにはせず、自分自身で判断するようにする方がお得です。良かったらそのように考えてみて下さい。

都知事と都民のすれ違い

私は都民ではありませんが、余りにもテレビやネットを賑わせているのでふと思ったことを書き留めておきます。以前には第三者という言い訳という書き込みをしました。要点はお得意の第三者という言葉を使って、「都政はいつ第三者にみてもらうんですか?」と質問することをお勧めしています。

今回は都知事と都民のすれ違いを考えてみました。都知事はやめないことが前提でやめなくて済む方法を模索しています。時間稼ぎしながらやめなくて済む方法を必死で探しています。当初ボーナスをもらうまでの時間稼ぎだと思っていましたが、どうやら何があっても何を言われてもやめないことを決めているようです。だから何を言っても馬耳東風です。

第三者にみてもらった違法性は、虚偽や架空のものがなかった、詐欺には当たらないことを確認したようです。これを胸を張って主張出来るのですから、最も「政治家」にむいている人なのかもしれません。

都知事はやめないことを決めて、やめなくて済む情報を集めています。

都民は出てきた事実を判断して都知事に相応しくないと考えています。事業主が都知事と同じような不適切なお金の使い方をしていれば脱税として摘発されるのではないかと思います。だから怒る人が多いのです。

都民は一つ一つ物事を判断してやめざるを得ないのではないかと考えます。

都知事はやめないことが前提で、都民は出てきた情報から判断している。そもそも都知事は何があっても辞める気がないので、感覚のすれ違いを生じているのです。誰かこのすれ違いを埋めて下さい。そうすればテレビやネットが静かになりますから。

第三者という言い訳

第三者という言葉がテレビを賑わせています。都知事の釈明会見が第三者という言い訳をした弁護士により行われました。第三者とは言葉だけで、報酬は都知事が支払うのですから都知事の弁護士でしかありません。だから言い訳なのです。

弁護士なのですから弁護するのが仕事です。客観的な視点ではなく、都知事を弁護する視点で依頼人の不都合なことは黙秘権と同様に開示出来ないはずです。

違法ではないが不適切だと表現するのは、完全に合法とは言えないため反省すべきところがあることを認めることで司法の判断を回避することを目的としているようです。

自分のお金の使い方を他人である第三者に見てもらわないと判断がつかない人が、税金の使い方を決めることが出来るとは思えません。私なら第三者という言い訳を逆手にとって「都政はいつ第三者にみてもらうんですか?」と質問を投げかけます。自分のお金の使い方がわからないくらいだから、都民のお金の使い方がわかる訳がないというポイントをつく指摘です。お得意の「第三者」という言葉を都政に使うと、それは辞任を意味するので言えないはずです。誰か取材する記者か都議会議員に「都政はいつ第三者にみてもらうんですか?」という質問を伝えてあげてください。多分都知事は固まると思います。

私は都民ではないのでとやかく言う立場にはありませんが、これだけテレビ・ネットで第三者という言い訳が蔓延るとコメントしてみたくなりました。

ちなみに都議会議員がこれ以上追求しなければ、自分達にも不適切な支出があるため追求出来ないことを表します。都議会議員の動向も楽しみに見守りましょう。

世の中の仕組みを知る

生きていく上で大切なことは世の中の仕組みを知るということです。仕組みには様々なものがあります。人間の作り出した法律も国の仕組みですし、重力など自然界の法則も自然の仕組みです。その仕組みを知らなくても生きていくことは出来ますが、仕組みを知らなければ、上手に利用することは出来ません。仕組みを知ることで、どのように変えることで結果が変化するかがわかります。仕組みを知らなければ、変えることによって何が起こるかわからないのです。

例えば法律の仕組みを知らなければ、いつの間にか犯罪者とはいかないまでも、思いもしないような交通違反などで捕まってしまうかもしれません。踏切などの一時停止は車やバイクの車輪の回転が完全に停止しなければ、違反となります。このことを知らないと、左右の確認が出来たからゆっくりと進むと違反とされます。一時停止の目的が左右の確認ではなく、車輪を一端止めることだという法律の仕組みを知らなければ陥る罠のようなものです。法治国家に住んでいる限り法律はみんなが守るべきものです。法律の仕組みをキチンと知らなければ、違反とされるのです。私はバイクでの一時停止は車輪が完全に停止し、片足をついた状態になるということを知りませんでした。警察官は車輪が完全に停止しているかどうかを見ているのです。

自然界の法則では黒い衣服は太陽の光を吸収するので夏には不向きですが、冬には暖かく有効です。このことも色により太陽の光の吸収具合の仕組みを知ることで、暖かい日には白い衣服、寒い日には黒い衣服の方が過ごしやすいことがわかります。

私達の周囲には様々な仕組みが隠れています。特に自然界の仕組みは人間が生まれた時点で存在するため、意識しなければ存在することにすら気付くことが出来ないのです。物が下に落ちるのが当たり前で、仕組みを考えることをしなければ重力は理解出来なかった。仕組みがわかったからこそ様々な応用が出来るようになっています。

人々が様々な仕組みを知ることが勉強です。実際には勉強という表現は適切ではありません。勉めて強いられるものではないからです。より快適に生きる目的でお得な知識を得るのです。その一つとして様々な物事の仕組みを知ることが大切です。仕組みを知らなければ損をします。損をしないために様々な仕組みを出来る限り知りましょう。