ベストを引き出す最善の方法は競争

ベストを引き出すための最善の方法は競争することです。スポーツやイベントなどで競うのは一番を決めることが目的ではありません。みんなが手っ取り早くベストを尽くす方法が、人と競うことだからです。

競争が無ければ、何でも一番です。適当にやっていても一生懸命やっていても一番です。二番がないのでそれが凄いのか凄くないのか評価出来ません。比べることが出来ないからです。

行政改革行政改革と叫ばれていますが、競う相手がおらず比べることが出来ないことが一番の問題です。どれだけ対応が悪くても、行政のことは他で変わりが効かないので国民は我慢するしかありません。行政に一番必要なのは競争だと私は思います。

スポーツにおいて順番をつけることに異論もあるようですが、そもそも順番をつけるのは競うことでベストを尽くすことが目的です。順番は結果でしかありません。ベストを尽くした結果であれば、順番を気にする必要はありません。何故なら人には個人差があるからです。一番の人がいるためには二番や三番の人がいなければ一番にはなれないのです。ただ単にそういう個性なのです。努力すれば誰でも一番になれる訳ではありません。順番に意味があるのではなく、ベストを尽くすことに意味があるのです。他のことで一番を目指せば良いのです。たまたまその競争では一番になれなかったというだけです。

スポーツで勝つことが注目されるようになり、一部では商売に利用されることから、勝つことに意味があると錯覚してしまいました。勝つに越したことはありませんが、負けたら意味がない訳ではありません。

商売としてスポーツをしている人は勝つことが目的になっているのかもしれませんが、多くの人が競う目的を誤解している部分です。

組織でも競争が無ければ、改善は期待出来ません。競争が生まれると途端に改善をはじめます。例えば電力の自由化で突然割引競争になります。これは競争により最善を尽くさざるを得なくなることをあらわしています。このことからも行政にも競うことが必要だと私は思います。

医師や看護師には厳しさが必要な時がある?

ある人と話をしている際に医師や看護師には時として厳しさが必要な時があるかと聞かれました。
私は厳しさは必要無いのではないかと答えました。
そのような会話になったのは看護学校の入学の際の面接を想定してのことです。患者さんの命を守るために時として厳しくしなければならないことがあるのではないかということを想定しての会話でした。
私は相手を思いやる気持ちで接することは厳しさではなく、優しさだと思います。

例えばアルコールによる肝障害で入院している患者さんが隠れてお酒を飲んでいたとします。お酒のことを激しく問い詰めるということはありえることです。お酒を飲むと相手が傷つくことを伝え、お酒を取り上げることは厳しさではなく優しさです。ただしそこに怒りという感情を込めてはいけまさん。この感情が加わるからおかしなことになるのです。
お酒を飲むことで更に健康を害して困るのは患者さんです。他人の問題に踏み込む必要はありません。規則で病院内でお酒を飲むと強制退院になるなら、そのことを伝えるだけで十分です。怒る必要などありません。もし怒るとすれば、自分の管理責任を問われることを恐れてのことではないでしょうか?
医師や看護師に厳しさはいりません。相手を思いやる優しい気持ちで接するだけで良いと思います。ただし課題の分離を行い、相手の問題に踏み込む必要がないことを知った上で行動することです。

医師や看護師もこのことを知らない人が多いのではないかと思います。自分の立場を勘違いして患者さんを怒る医者はこのような考え方は知らないことでしょう。全ての看護師さんではありませんが、良く患者さんを怒る看護師さんを見るにつけ看護師ならぬ管理師だと思ったものです。この話は改めて書きたいと思います。

機械は既に人間を超えている

機械は既に人間をこえています。思考という意味ではまだまだ人間の方が優れているので、人工知能の発達をもう少し待つ必要があります。

しかし工場のロボットを見てもわかりますが、決まった動きという点では機械の方が人間よりも優れています。そして何年もの時間がかかる人間の熟練とは異なり、一度作ればすぐに全く同じ動きをすることが出来るようになります。職人と同じ動きを教えるのはまだ困難なため、職人技は機械に変わることは今のところありません。これは機械への支持の仕方が難しいため、費用対効果の問題で機械化されていないだけだと私は思います。

今私が注目しているのは、記録と検索についてです。かつて優れた記録を検索出来るシステムは人間の頭脳しかありませんでした。だからこそ瞬時に判断が求められる医師と弁護士は、大量に記憶した中から適するものを探すという作業を人間の頭脳に求めたのです。他に優れた検索システムがなかったから人間の頭脳を活用するしか仕方無かったのです。今ではデータの記録とその検索はコンピュータの方がはるかに得意です。この点では蓄えられるデータ量とその検索という意味で人間の頭脳は既にコンピュータに負けているでしょう。コンピュータに勝てるような優れた頭脳の持ち主ももしかしたらいるかもしれませんが、多くの人達の頭脳をこえてしまっているでしょう。このことに気付いていない人達が多いのではないでしょうか?記憶と検索能力では機械には勝てませんし、勝つ必要はありません。最低限の知識を手に入れ、検索システムを上手に使うことが出来れば記憶力が優れている必要が無くなりつつあるのです。

学校や塾で暗記力を伸ばすような勉強をお金をかけてしていますが、どれほどの意味があるのか一度良く考えても良いのではないでしょうか?時代は変わりつつあります。既にコンピュータが人間をこえつつあるのですから。

余りにも堂々と嘘をつかれると信じてしまう心理

余りにも堂々と嘘をつかれると信じてしまう心理が働きます。何故なら人は自信を持っている人を信じる傾向があるのです。そして人は確認すれば簡単に嘘だとわかることを言言いません。すぐにバレるから言っても意味が無いと思うのです。だから他人もわざわざそんな無駄な嘘をつくわけがないと思い込んでいます。そこに心理の落とし穴があいています。

嘘つき人間は全く逆の発想から嘘に辿り着きます。小さな嘘から始まり、得をすることで味をしめるのです。小さな嘘を隠すために大きな嘘に発展していきます。余り嘘が多いので、自分でもどこまで本当でどこから嘘かわからなくなってしまいます。だからその場がしのげれば良いのです。というよりもその場その場をしのいでいくしかないのです。そして嘘つき人間は経験的に堂々としていると怪しまれにくいことを知っています。嘘つき人間に嘘をつく迷いはありません。これまで幾度と無く繰り返しているので、躊躇する必要がないのです。

嘘つき人間は通常の人とはかけ離れた心理なので、理解出来ないのです。

普通の人は嘘をつきません。また確認すればわかる嘘をついても意味が無いので、そんな嘘をつく発想自体が無いのです。その隙をついてバレないように振る舞うのです。すぐにわかる嘘をつくという、そんな馬鹿なことをするはずがないという思い込みの上に成り立つ不思議な状態です。

これらのことからわかることは、念のため話の真偽を確認するという癖をみんながつけると良いのかもしれません。そんな癖が広まれば、詐欺事件も減ることでしょう。

嘘つき人間の心理

世の中には嘘が平気な人がいます。私は嘘をつくことで金銭的な得をすれば全て詐欺罪を適応すれば良いと考えています。多かれ少なかれ嘘は誰でもつきます。これまで嘘をついたことが無いという人はいないと思います。もし嘘をついたことが無いという人がいればそのことこそが嘘です。ここでいう誰でもつく嘘とは本音と建て前の建て前や、大袈裟に表現することなどを含みます。詳しくは嘘の是非 嘘の善し悪しをご覧ください。

しかしすぐにわかるような明らかな嘘はつかないのが通常です。何故なら嘘は後でわかると恥をかくだけでなく信用を失う分損だからです。嘘つきは泥棒の始まりという諺もあるように、嘘をつくことは良くないことだと教えられて育つのが普通です。

世の中には嘘が平気な人がいます。人は堂々としている人を信じる傾向があります。余りに堂々と嘘をつくと案外見破れないものです。そして嘘が平気な嘘つき人間は意外に多いのかもしれません。テレビに出て話題になった人だけでも、作曲出来ない自称耳の聞こえない作曲家、割烹着で悦に入った記者会見をした自称科学者、最近話題の学歴詐称が明らかとなった自称経営コンサルタントであるタレント、号泣議員など多数あります。

嘘つき人間の心理

有名になったから大問題になっただけで、嘘つき人間は意外に多いのかもしれません。その心理を考えてみます。嘘つき人間は嘘をつくことて損をすることなく得をして生きています。癖のようなもので、嘘に罪悪感がありません。息を吸うのと同じくらい自然に嘘が口をついて出てきます。そしてこれまで嘘をつくことで問い詰められたことがほとんどありません。もし嘘が発覚して嘘が通じなくなると、職場を変わったり引っ越したりして所属するコミュニティを変えることでまた嘘を繰り返します。

嘘つき人間は、本当の自分と理想の自分とのギャップに劣等感を感じることが原因です。普通の人は理想の自分に少しでも近づくために努力します。努力しても理想の自分に近づくことが難しければ、そのことを受け入れます。嘘つき人間は本当の自分を受け入れることが出来ないのです。理想の自分を装うために嘘をつきます。その嘘により得をすることがあれば更に嘘を重ねていきます。

嘘つき人間は言い訳人間でもあります。自分にも言い訳をして嘘をつくのではないでしょうか?

嘘に翻弄されないための対策

相手のことを無条件に信頼するのではなく、些細なことでも確認し信用するために裏付けをとることをお勧めします。何故なら人は誰でも嘘をつく可能性があるからです。後で困ることが無いように確認してみましょう。確認しようとすると、疑うことを非難する人がいますが、やましい心のある人が非難するだけです。やましい心のない人は確認されても何も問題ありませんので非難することはありません。

人は過去に執着する傾向がある

人は過去に執着する傾向があります。変化を嫌うのです。新しいことをしようとすると必ずと言っていい程反対する人がいるのです。過去と同じことをしているといつも同じ結果が得られるはずという錯覚が元になっています。状況は絶えず変わりますし、現状が最善であるとは限りません。むしろ人間の考えたことですから、不完全な可能性が高いと考える方が妥当です。

人類の歴史から考えると過去に執着することは一定の意味がありました。人は食べるものすら決まっていません。全て自由な反面、知恵がなければ何を食べて良いかわからない不思議な生き物です。過去に食べて大丈夫だった物は、次に食べても大丈夫だろうという意味で過去にすがる面がありました。過去に食べてお腹を壊したら、次に食べてはいけない知恵として過去を活用するのです。つまり過去を知恵として使う必要はあるのですが、過去に執着して新しいことを拒絶するのは得策ではありません。何故なら過去には戻れないからです。そして周囲の環境は絶えず変化をしているのですから、その変化に対応するために必ず変わらなければならない時が来るからです。

人間関係でも過去に執着する考え方があります。あの人はこうしたから許せない。この人はあんなことをしたから信用してはいけない。確かに過去にしてしまったことは消せませんが、今後どのように生きるかが大切なことです。過去の人の行動の原因を考えても意味がありません。何故なら人の行動はその時その時のちょっとした気の持ちように左右されてしまうからです。人間関係においては目的論によって考えると過去に執着することなく、建設的な考え方をすることができます。

過去の上手な使い方は知恵として活用するだけです。これからの行動を制限する言い訳にしてはいけません。

2人以上出産発言校長、勘違いを露呈も自覚無し

公務員を見張る仕組みの導入を切に願う私ですが、やはり未来を担う子供たちへの影響を考えると教師を見張る仕組みをまず作るべきだと思います。何故なら学校において怪我人や死人が出ているからです。死人とはイジメなどが原因の自殺、怪我人とは体罰や稚拙な監督の元での事故です。全ての責任を負うべきと主張する訳ではありません。ただ仲間である教育委員会ではなく、第三者が言動を見張る必要があるのでは無いかと考えます。これらのことは深くコメントしませんが、隠蔽しようとすることに問題の根があります。起こってしまったことは仕方ありません。再発防止にこそ意味があるのですが、そのことを理解していないのであちこちで同じことの繰り返しです。

今回の問題は以前にも書いた校長の思い違いが根本原因ですが、誰もその思い違いを指摘し本人に理解させることが出来ないことが問題です。教育委員会に呼ばれ、走れメロスのメロスの心境で行ってきたと語っていました。メロスは自分の非を自覚していますが、校長は自覚していないので的はずれです。心境を語るなら無実の罪で事情聴取を受けるという意味で、冤罪の被害者の心境と言うべきでしたが、良く理解されていないようです。

全てを通して聞けばわかってもらえると豪語されていますが、結局大切なことは出産と言い訳していました。その上で自分の子供が何人いるかは明らかにしませんでした。もし1人しか子供がいなければ「女性として最も大切なことを果たしていないという奥様の心境をお察しします」と記者がコメントし、その反応をカメラにおさめると良かったかもしれませんね。もし独身で子供がいなければ…。

教育委員会がたしなめることが出来なければ、仕組み自体に問題があることを露呈してしまうことになります。

校長が国語の教師であることも驚きでしたし、記者会見に「他の教師も勉強になるから来い」と発言していたのにも驚きました。国語の教師であれば言葉の使い方を子供たちに教える立場です。ということは言葉の持つ意味合いを教えるにも関わらず、自分の言葉がどのように人に理解される可能性があるのかわからないのです。

気持ち良く授業風の記者会見をされていましたが、勘違いがはっきりと浮き彫りになっていました。私はどの程度の勘違いぶりか確認する目的で見ていましたが、見ていて痛々しくなる程勘違いされていました。子供たちは純真無垢だから教師に反論したりしませんから授業が成り立つのでしょう。その純真無垢な子供たちに偏った考え方を一方的に伝えることにこそ問題があります。

どんな勘違いをされているのか確認してみて下さい。確か同じ大阪だったと思いますが、社会人から校長を登用してトラブルがありました。社会人から校長になった人だけでなく、教師から校長になっている人にも問題があるのかもしれません。

客観と主観の違いがわからない人が校長をすることに問題があると思います。誰か客観と主観の違いを教えてあげて欲しいのですが、違いを知らないという自覚がなければ聞く耳を持たないでしょう。

「裸の王様」の寓話が頭に浮かぶのは私だけでしょうか?

ある校長の発言 女性の最も大切なことは二人産むこと

ある公立中学校の校長が「女性にとって最も大切なことは子供を2人以上産むこと」という発言をし問題となっています。

校長本人は問題だと指摘されていること自体が理解出来ないと思います。何故ならこの発言の仕方でどのように受け取ることが出来る可能性があるのかが理解出来ないからです。その問題点を考えてみます。

問題点を校長は理解出来ない

人が失言する理由と対策に書きましたが、失言する人は人が言葉をどのように受け取る可能性があるのか想像力に乏しい人が多いのです。そして真意を理解出来ない人の問題であって、自分は悪くないと考えています。その証拠に一時ホームページに発言内容が掲載されていました。読んでもらえば真意はわかるはずだと思い込んでいた証拠だと私は思います。

インタビューされても話がかみ合わないのは、何が問題になっているのか理解出来ていないからです。そしてインタビューする人にとっては、校長は何が問題かわかっていて当たり前だと思い込んでいるのです。

校長の価値観がみんなの共通認識だと思い込んでいるので、違う考え方があることを想像出来ないのです。そのことを解説してみます。

校長の視点

このままでは人口が減ってしまう。そのためには男性は産めないから、女性が多く産むしかない。国が存続するためには女性が多く産むしか選択肢がない。人口を減らさないためには夫婦2人に対して、次の世代である子供たちを2人以上産むのは最も大切なことであり当たり前である。

校長の視点の問題点

  1. 言い方が女性の最大の価値を産むことだと錯覚させる
  2. 人口が減ることが悪いことだと決めつけている
  3. 人口を増やす方法が女性が産むことだけに限定している

一番問題と考えられるのは、共通認識とは言えない「子供を産むことが一番大切」という価値観を中学生に一方的に伝えたことです。一つの考え方として伝えることはあっても良いと思います。しかしこの価値観がみんなの共通認識の如く主張することに無理があります。校長は自分の中では当たり前でみんながこのように考えていると錯覚しているのです。だからこそ堂々とホームページにも記載したのです。

1.「女性にとって最も大切なことは2人以上子供を産むこと」という言葉は言外に産んで当たり前という意味が込められています。女性が産むこと以外の生き方を認めない考え方に基づいています。

恐らく校長の頭の中には女性が子供を産まないという選択肢が無いのか、産まないことが許せないのだと思います。そのことが言葉に表れていることをメディアも指摘したいのですが、言葉の問題でうまく伝えられず齟齬を生じ問題がわかりにくくなっているようです。

2.人口が減ることが悪いことだと決めつけています。人口が少なくなっても快適な生活を出来る知恵を探すという選択肢もあるはずです。人口が減る方が良いか増える方が良いかは議論の余地があります。人口が減る方が、ゆったりと生活出来るためより人間的な生活が出来るかも知れません。これも人口が減っては絶対に困るという価値観を元にしています。そう思い込んでいるので、みんなの共通認識だと錯覚しています。人口が減ると困るのは労働力ですが、機械が進歩すると人が少なくても今と同じ生活が維持出来るかも知れないのです。むしろゴミなどは減るため環境には良いかも知れません。そういう視点からも物事を考える余地があります。

3.人口を増やす方法は女性が産むだけとは限りません。海外から移民を受け入れる選択肢もあります。議論の余地がある話を当たり前のように女性が産むしか無いと言い切ったところに問題があります。校長は海外からの移民の選択肢などあり得ないと思い込んでいるのではないでしょうか?だからこそ当たり前に考えて産むしかないと思い込んでいるのだと思います。

本来なら子供たちが考えること

私は人口は減る方が良いとか移民を受け入れるべきだと言いたい訳ではありません。それらの選択肢を含めて日本の未来を創り出すのが今の子供たちです。その考える余地を奪うような一方的な考え方を中学生に伝えたことが問題の根本だと思います。校長は自分の考え方が正しいし他にはあり得ないと思い込んでいたのでホームページに堂々と掲載したのではないでしょうか?掲載ことで大問題に発展してしまいました。誰かがこれらの視点が抜け落ちていたことを伝えることが出来れば、事はここまで大きくはなりませんでした。

子供たちに考えるきっかけを与えたいのであれば、事実を伝えるだけで良いのです。「このままでは人口が減ります。世の中の女性達が子供を産まなくなっています。それで良いのか悪いのか君達が考えてみて下さい。その理由と対策を考えて、日本の未来を切り開いて下さい」と。

やはり以前別人の万引きで自殺について別人の万引きで自殺 否定しなかった理由で書きましたが、教師を見張る仕組みが必要です。本来なら公務員を見張る仕組みが必要ですが、子供たちへの影響を考えるとまず教師を見張る仕組みを作るべきです。教師は学校では強大な力を持つ権力者です。その権力者の言動に問題がないか見張る仕組みが必要だと私は思います。

問題を見つける人と文句を言うだけの人の違い

機械に負けないために問題を見つける視点を持つことを、提案しています。一方文句ばかり言う人もいます。問題を見つける人と文句を言う人の違いは何でしょうか?

問題を見つけるのは解決策を探すことが目的です。解決策を探す視点で問題を見つけるのです。

一方文句を言うだけの人は、解決するのは自分以外の他人であって解決する気がないのです。むしろ問題が放置され、解決されていないことに対して文句を言うのです。文句を言う人は自分が中心です。自己中心的な考え方の持ち主なのかもしれません。文句を言うだけだとただの我が儘と区別がつきません。

文句を言うだけの人は、解決策を探すという視点がありません。だから好き勝手なことを言います。全員とは言いませんが、評論家やコメンテーターは解決策を示すことなく文句ばかり言うのと変わりません。文句の中には言いがかりに近いものもあるため、聞いても時間の無駄ということもよくあります。

解決策を求めると文句も減ると思いますし、解決策を探すようになると文句を言うだけだった人が問題を見つけることが出来るようになります。貴方のしているのは問題を見つけることですか?文句をつけているだけですか?

解決策を探すために問題を見つける視点を持つようにしましょう。

別人の万引きで自殺 否定しなかったとされる理由

別人の万引きの濡れ衣で高校入試の推薦をしてもらえないことを悲観し中学3年生が自殺してしまったという悲しいことがありました。亡くなられた方の御冥福を心よりお祈りいたします。

タイトルにある亡くなられた生徒さんが否定しなかったとされる本当の理由は生徒さんにしかわかりません。わかりませんが、わかっていることからスーパー心理学で当時の心理を考えてみたいと思います。あくまでも推測であることをご了承ください。この文章の目的は同じようなことの再発防止です。教師を責めたい訳でもありませんし、責めたところで生徒さんが生き返る訳でもありません。再発防止をするために何が必要かを考えることです。

教師が嘘をついているか嘘をついていないかによって本質が全く異なります。自殺を病死と発表するという組織絡みの嘘が判明しているので、教師が自分自身を守るために嘘をついているかもしれないと考えるのは当然の流れです。生徒さんが亡くなられているので、本当のことは教師にしかわかりません。教師の嘘が無いものとして考えてみます。

記録には万引きの記載があり、教師は万引きが事実だと思い込んでいたのでは無いかと思います。進路指導を廊下で行ったという事実からも、事実の確認を行うだけのつもりだったのではないでしょうか?教師が万引きが事実だと思い込んでいれば、心当たりが無いと生徒さんが言っても言い訳をしているとして聞く耳を持たなかったことが考えられます。生徒さんは真面目で優秀だったと報道されています。そもそも生徒さんに全く心当たりが無ければ返事に困ったことでしょう。記録にあると言われ、やっていないことの証明が出来ず途方に暮れてしまったのではないでしょうか?報道では万引きが間違いだと知った上で考えています。だから何で確認しなかった?と思ってしまいます。しかし当事者達は間違いがあることを知らなかったのです。
先生はともかく、生徒さんはどうしたら良いかわからなくなったのではないでしょうか?そして家庭で人の物を盗ることは絶対にしてはいけないと教えられて育っていれば、先生には信じてもらえなかったから親御さんにも信じてもらえなかったらどうしようと考え込んでしまって親御さんにも言い出せなかったのかもしれません。

たとえ話に置き換えてみます。
何か行動をしようとしたら前科があるから無理ですよと言われたとします。あくまでも例え話なので現実に前科があると出来ないことが思い浮かびませんが、そのように他人から指摘されたと考えてみてください。前科が無いことを証明するのは非常に困難です。少なくともネットには書いてあるから仕方ないと言われたらどのようにすれば良いのでしょうか?。もし同姓同名だと言ったとしても信じてもらえなかったら途方に暮れるのではないでしょうか?もしくは誤認逮捕がネットで記事になり、後日間違いだったと分かったとしてもその記事だけが残っていたとしたらどうでしょうか?記事が削除されていなければネット上では犯罪者のままではないでしょうか?
無実にも関わらずネットに情報があることを指摘され、就職など行動が制限されてしまうことを想像してみてください。
同姓同名であれば、年齢や住所など自分とは異なることから無実の証明は出来るかもしれませんが、誤認逮捕だったとしたら無実証明書など発行してくれる訳ではないのでネットの記事が消えなければ非常につらい立場になることが考えられます。

やってしまったことの証明は比較的簡単ですが、やっていない証明は非常に困難なのではないでしょうか?それを教師から求められ、記録があるからと聞く耳を持ってもらえなければ中学3年生がどうして良いかわからなくなっても仕方がなかったと思います。

現時点で万引きが間違っていることがわかって見ていますが、当時は間違っていることを教師自身も疑っていない状況を想像してみてください。

あくまでも想像ですが、ありえるやりとりを想定しみました。
教師は万引きをしたと思い込んでいて、万引きしたのに推薦なんて受けられる訳がないと思っています。ずうずうしいと思っています。あくまでも想像ですが、記録にあるのだからわざわざ確認する必要はないだろうと考え、面倒くさいとも思っているかもしれません。
生徒に確認するために聞くのですが、廊下で推薦出来ないことを伝えます。
当然生徒さんは何故ですか?と質問があります。
当然わかっていると思っていますから、『3年生の時じゃないよ。1年生の時に問題行動をしたでしょう?』と言う具合に具体的に『万引き』という言葉は使わなかった可能性が考えられます。教師は記録にあるので間違いないと思っていますので、わざわざ『万引き』という言葉を使わなかった可能性が考えられます。『問題行動』と言い換えたために、ガラスを割ってしまったとか思い当たったところがあったのかもしれません。それで曖昧な返事になったのではないでしょうか?

最終的には親に言うという話になったので、途中ではっきりと『万引き』という言葉が使われたと思いますが、最初に曖昧な返事をしている時点で嘘をついていると思い込んだ可能性が考えられます。後から『万引きなんてしていません』と一生懸命訴えたとしても、一度認めたと思い込んでいるため聞く耳を持たなかったのではないでしょうか?

以上教師の話が全て本当だったと仮定して心理を考えてみました。
教師の話に嘘があれば、全ての前提が崩れます。
自殺から発表までの3ヶ月かけて作った嘘のストーリーではないことを祈るばかりです。

死んでしまった命は元に戻りません。
二度と戻らない命を無駄にしないために唯一出来ることは再発防止です。
そのためには嘘偽りのない真実から解決策を探すことです。
生徒さんが亡くなってしまった後も嘘で辱めることがないことを祈っています。

前回も書いていますが、公務員を見張る仕組みを作るべきだと思います。
まずは子供達の命を守るために、教師を見張る仕組みから作ってはいかがでしょうか?