謝罪について

謝罪について考えてみます。

謝罪とは悪いと自覚した場合に自分から行うものです。人から求められて行うものではありません。

謝罪を求めるのは相手が悪いと思っているからです。謝罪を求める目的は、何らかの償いを得ようとしているのです。過去の行いを責めることで何らかの償いを得る目的で謝罪を求めるのです。過去を利用して得をしようと考えると謝罪を求めるのです。どこかの国が数十年も前のことに対して謝罪を求めるのは、過去をお金にしたいのです。

関係改善が目的であれば、謝罪してもらう必要などありません。今後行き違いにより争いを起こさない枠組みを作ることこそ大切なのです。その取り組みの中で本当に悪いと自覚することが出来れば、自ら謝罪することに意味があるのです。

人から求められて行う謝罪に大した意味はありません。心から行う謝罪でなければ、言葉だけの茶番劇と変わらないのでは無いでしょうか?

様々な不祥事の謝罪会見を見ても違和感を感じるのは、言葉の端々に俺は悪くないと感じ取れるからです。試しに何が悪かったのですか?と質問してみると答えられないのでは無いかと思います。よく分からないけど謝っておく方が良さそうだと周囲の人達に諭されて謝罪会見をしているのが見え見えです。

過ちを2度と起こさない方法を探すことこそ、謝罪よりも大切だと私は思います。

そして常識ある人ならば、自分が過ちを犯せば謝罪せずにはいられないと思います。逆に過ちを謝罪できる常識ある人達と付き合いたいですね。そして自分自身も常識ある人でいたいと思います。

貴方は赤ちゃんに怒りますか?

貴方は赤ちゃんに怒りますか?
恐らく怒らないでしょう。
では人に怒ったり腹を立てたりしますか?人に対して怒ったり腹を立てたりしなければ良いのですが、もしかしたら人に対して怒ったり腹を立てたりしても無駄かもしれないのです。

赤ちゃんには怒らない理由

赤ちゃんには怒らないのに、人には怒るのは何故でしょう。相手が何歳くらいになると怒るようになるのでしょうか?恐らく言葉を理解するようになる2歳か3歳になるも怒るようになるのではないでしょうか?大人でなくても小学生や中学生になればしっかりと怒りの対象となることでしょう。

でも不思議ですよね。同じ子供なのに赤ちゃんだと怒ることなく、赤ちゃんに従うのに、成長と共に突然怒る対象になるなんて。

人を怒る理由

成長と共に相手を怒るようになる理由は言葉の理解です。こちらの言葉が通じない赤ちゃんには怒っても無駄だから怒ることなく、赤ちゃんに従うのです。赤ちゃんが泣けば赤ちゃんが快適に過ごせるように赤ちゃんに従うのです。成長と共に言葉が通じるようになると、途端に子供に対等の立場を無意識のうちに要求してしまうので怒りを感じますし、腹が立つのです。2歳や3歳なんて赤ちゃんと大して変りなくても、言葉が多少理解出来るだけで全て理解しているはずだと大人が勝手に誤解して怒るだけのことです。言葉が通じると自分の頭の中で考えていることまで相手は知っていると誤解してしまうのです。

子供からみればそんなの怒られても知らない、聞いたことないからわからないと思っていることでしょう。「そんなことしちゃダメでしょ!」と言われても子供の頭の中では「そんなことってどんなこと???」とはてなマークがいっぱいです。しかし余りにも一方的に怒られるので、何を怒られているのか理解も出来ず、言い返すことも出来ず困ってしまうのです。何を怒られているのか説明してもらえないのですから、子供にわかるはすがありません。それにも関わらず怒られているのですから、子供にとってはたまったものではありません。その上何がいけないのかわからないまま、怒られて教えてもらえないのですから次にも同じようなことをしてしまうのです。実は子供は怒られたことをわからないなりに手探りで、怒られない方法を探しているのです。同じようなことをして怒られるのでも、子供なりに違う行動を試していることも多いのです。大人にとっては駄目な行動が含まれているので、違いを子供が考えていることに気付いてあげられないのです。

親も仕方ない

しかし親も、親にとっていくら当たり前のことでも、一度は説明しなければ子供にはわからないことを知らないのです。親は自分が当たり前に知っていることは、自然に知ることで親が教えるのが当たり前だと知らないのです。その齟齬で怒っているのです。よく「親の顔が見てみたい」と言う言い方をしますが、的外れな指摘ではありません。子供が常識を身につけるのは親の責任です。そして親が子供に腹を立てるのは筋違いです。何故なら自分が教えていないから、子供が当たり前のことを知らないのです。親を腹立たせるような行動を取らせてしまったのは親の教育不足です。自分の責任で子供の行動に問題があるのですから、怒られるべきは誰でしょうか?自分のはずです。怒るなら自分を怒るべきなのです。喜劇では無いので自分を怒っても仕方がありません。怒らず、まだこんな基本的なこど教えていなかったか?と子供に謝っても良いと私は思います。謝らないまでも、笑い話にしてしまえば良いのでは無いでしょうか?

私はこのように考えているので、赤ちゃんに対しては怒らないのに言葉が通じるようになった途端に怒るのは不思議です。視点を変えて、怒る前に相手に何が不足している結果怒らせるような行動をとったのか考えてみるべきです。

怒りたい相手が大人の場合

相手が知らないのは自分の責任では無いだけで、大人でも考え方は同じです。相手に対して腹を立てて怒っても無駄です。わかっていて行動していれば、言うだけ無駄ですし、わからずに行動していれば知らないだけですから知らないことを伝えれば良いだけです。嫌な思いをしただけでなく実害があるのであれば、どれだけの損害があるのか客観的に伝えれば良いだけです。相手の落ち度であれば、そのことを理解させ、損害に対してどのように償ってくれるのか問い質せば良いだけです。赤ちゃんと違って言葉が通じるのですから、怒りという感情を使う必要などありません。

相手が赤ちゃんと同じだと思えば腹も立たないでしょう。理解出来ないのか、知らないのかのどちらかなのですから。

自分は許されるという勘違い

人と話をしていたり、人の言動により混乱することがあります。何故この人はこんな立ち居振る舞いが出来るのか不思議に思うことがあるのです。

例えばタバコの吸殻のポイ捨てや立ち入り禁止場所に立ち入るなど、普通の人ならしないことを平気で出来る人がいます。普通の人から見ると理解に苦しむ言動です。モラルが低いと言い換えることが出来るのかもしれません。

モラルが低い人には2種類のタイプがいます。簡単に分けるとやってよいこととやってはいけないことの区別の有無、モラルの概念の有無です。モラルの無い人は、家族や友達もモラルという概念の乏しいまま日常生活を送っているため人からモラルについて指摘されても理解することが困難です。何故なら自分の行動を相談する家族や友達が同じような考え方なので、違いがわからないのです。概念そのものが欠落しているので、説明してもなかなか理解してもらえません。出来れば関わらないことが一番です。

今回話題にするのはモラルや決まりは知っているけど、守らない人達です。

自分は許されるという勘違い

モラルや決まりを知っていても守らないのは、自分は許されると勘違いしているのです。もしかしたら自分だけは特別な存在という赤ちゃんや子供のような万能感を抱いたまま大人になってしまったのかもしれません。

少しだから良いとか、誰も困らないから良いとか、何らかの言い訳をしてモラルや決まりを守らないのです。そしてモラルや決まりを守らないことを人から指摘されないと、認められたあるいは許されたと勘違いを深めるのです。指摘してもこれまで同じことをしても何も言われなかったと言い訳する人も見受けられます。または何の根拠も無く自分だけは許されると平気で口にする人もいます。

悪気も無く本当に自分は許されると思い込んでいるので、説明して理解してもらうのも困難です。許されると思う根拠を聞いてみると良いかもしれません。何故許されると思うのかを聞いてみるのです。恐らくこれまで指摘されたことが無いから等、根拠にならない言い訳を並べると思います。

モラルや決まりを知りながら守れない人は、言い訳人間なのかもしれません。自分自身に暗示でもかけるように、自分自身に言い訳をしてモラルや決まりを守らないのです。出来れば関わらないようにしたいところですが、関わるなら許されると思う根拠を聞いてみるくらいしかないでしょう。

生暖かい目で見守ってあげましょう。

勉強が楽しくない理由

勉強が楽しく感じることが出来る人は残念ながら稀でしょう。何故なら勉強する目的がわからないまま、押し付けられるから面白く感じることが出来ないのです。子供にとって勉強は、大人にとっての仕事みたいなものだから必ずしなければならないという、子供には全く理解出来ない大人の理屈で無理矢理押し付けられるので楽しくないのです。

勉強を楽しむことの出来る人は、知らないことを知る喜びを知っているのでしょう。知ることそのものが楽しく感じることが出来るのです。そしてテストで良い点を取ると褒められるので、勉強の動機付けとしては最高の状態です。知ることが楽しいので、より深く知ろうとします。知識が深まるので余計楽しくなるのです。このタイプの人は優等生タイプで、放っておいても勉強していきます。人から強いられることは嫌でも、知ることが楽しいので自分から進んで新しいことを知ろうとするのです。周囲から見るとあたかも勉強が好きなように見えますが、勉強が好きな自覚はなく、知ることが好きなのです。勉強の目的もわからないまま、偶然学校の勉強を知ることが楽しいと感じることが出来ただけのことです。

多くの人達はわざわざ勉強という時間をかけて知ることで、何が変わるのかわからないまま知ることを強いられます。話の面白い人と面白くない人の違いで書きましたが、人は興味のない話は面白く感じることが出来ないのです。面白くもないことを勉めて強いるので勉強とはよくいったものです。

今では費用対効果という考え方もあるため、わざわざ時間をかけても得るものが無ければ無駄という考え方をする人までいるかもしれません。子供よりもその親が、勉強など出来なくても良いと考えてしまうかもしれません。

何の目的で勉強をするのか勉強の目的を教えてあげると良いと私は思います。例えば文字が読めなければ、目的地にたどり着くことが出来ないことや、食べ物を手に入れることも難しくなります。大人にとって余りにも当たり前過ぎることは、子供にとつても当たり前に知っているはずとして説明しないことがあるのです。他の例えとしては、計算が出来ないと買い物も不便です。所持金と欲しい物を交換するだけですから計算は出来なくても買い物は出来ますが、残りどれだけ買うことが出来るのかは計算が出来ないと不便です。お釣りの間違いに気付くことも出来ないかもしれません。地図の見方や太陽と星の動きなどから方角を知ることが出来ることなど、今では当たり前のことでもその知識のない昔の人達がどれほど苦労していたのかを対比して知ることで理解が深まると思います。人類は先人達のおかげでこれだけの文明を築くことが出来ています。先人達の見つけた知識を当たり前の勉強として覚えるのではなく、見つけるまでどんな苦労があったのか?見つけたことでどんな恩恵があったのかを合わせて知ることで、勉強が面白く感じることの出来る人達が増えると思います。勉強を教えるのが上手な先生は、これらの予備知識を付け加えることで知る楽しみを勉強の中で見つけてもらうことの出来るのです。全ての人達がこれらの予備知識に興味を持つわけではありませんが、少しでも多くの人達が知る楽しみを勉強の中で見つけることが出来ると良いですね。

子供が勉強が楽しくないのは、目的がわからないのか理解出来ないからなのかもしれません。勉強すると色々なことがわかるようになることを教えてあげましょう。理解出来ないのであれば、もしかしたらもっと以前に習ったはずの根本的なことが抜け落ちているのかもしれません。わからないところがどこかわからなくなっているため、自分ではどうしたら良いのかわからないのです。根本的なことから教えてあげると良いかもしれませんね。人は多少なりともわからないことがわかるようになると楽しいと感じるはずです。良かったらそのような視点で見守ってあげてみてください。

勉強が好きになるために

まずは何でも良いので知る喜びを理解することです。分野は何でも構いません。興味のあることを対して知る喜びを感じるのです。楽しいと感じると更に知りたいと思うようになります。その範囲を少しずつ広げるのです。わからないことがわかると楽しいと知ることが第一歩です。最初は勉強でも知ると楽しいことを寄り添って教えてあげる必要があるかもしれません。楽しいと感じるように手助けするだけで違うと思います。

ちなみに私は知らないことを知るのが大好きなので、面白そうでまだ知らないことを絶えず探しています。最近では人類の進化の歴史や様々な科学の歴史と宇宙について情報収集しています。

暴言を吐く人の心理

私は余り経験がありませんが、世の中には暴言を吐く人がいるようです。暴言を吐く人の心理を考えてみたいと思います。

暴言を吐く人には2種類あります。暴言を吐いている自覚があるか自覚がないかです。自覚していない場合は、暴言そのものの意味がわからないだけで悪気はありません。しかし人を傷付ける言葉を発している自覚がないので、厄介です。言葉が人を傷付けるという概念から教える必要があります。出来るだけ関わらないことが一番です。

暴言を吐いている自覚のある場合、行動には必ず目的があります(目的論)。行動の原因や理由を求めても、その時その時で簡単に変わってしまうので原因や理由を考えても無意味です。そこで目的を考えてみましょう。

暴言の目的

暴言を吐く目的は何でしょうか?人それぞれと言ってしまえばそれまでですが、私は相手を心理的に支配することだと思います。暴言を吐いてみて、相手が受け入れるかどうかを見極めているのです。心理的に支配出来ることが分かれば、次にどの程度まで支配出来るかを見極めるために暴言がエスカレートするようです。自分は暴言を吐いても許されると勘違いしているのです。

第三者からみれば滑稽な程理不尽な暴言を吐く人がいますが、自分は許されると勘違いしているので暴言だという自覚はありません。自覚が無いのですから、指摘しても理解することは困難でしょう。

例えばお店で暴言を吐くお客さんは、どんな横暴な言い方をしても許されると勘違いしているのです。お客様は神様だと勘違いしているからこそ、出来る行為です。

暴言を吐かれたら

暴言を吐いた相手は受け入れるかどうかを見極めているのです。受け入れられると暴言を吐いた自分が正しかったと、勘違いを深めます。どこまで受け入れるか試すために、更にエスカレートしていきます。

目的が相手を心理的に支配することだからです。

暴言を吐かれた際の対策は離れることです。否定してもそれなりの理屈を持ち出してきて言い返せないかもしれません。そんなリスクをおかすことの無いように離れるのです。拒絶しても暴言の正当性を必死に認めさせようとするので逆効果です。

言っていることが理解出来ないので時間を下さいと申し出るのです。相手が感情剥き出しで迫ってくるようなら、逃げ出しても良いと私は思います。暴言だけでなく感情も駆使して、相手を心理的に支配したいだけだからです。改めて書きますが、相手を心理的に支配することが目的です。もしくは承認欲求を満たすことです。

離れようとすると甘言を弄して必死で止めようとするでしょうが、一時の感情に流されない方がお得です。暴言を吐くことの出来る人は自己中心的な考え方をする傾向があるので、離れない限り自分の都合良く物事を解釈してしまいます。

良かったらご参考まで。

勉強は自己トレーニング法を見つけるための手段

以前学校で勉強する目的は何のためと書きましたが改めて考えてみたいと思います。学校で学ぶ勉強は本来一般常識を身につけるためのものです。基本的な学力を身につけることで、更に様々なことを学ぶ基礎となるのです。

その勉強が社会に出て役立つことはほとんどありません。では何のために勉強などするのでしょうか?勉強は知らないことを知るための手段の習得が目的です。より効率的な知識の吸収の仕方、自己トレーニング方法を探すために勉強するのです。上手な習得方法を見つけることが出来れば、その後の知識の吸収は格段に効率的になります。

つまり学校での勉強は必要な知識を吸収するための効率的な習得方法を身につけるために行うのです。一般的に勉強で必要な知識は学校の教科書として事前に準備されています。事前に準備された内容を理解し知識として吸収することが求められます。ルールは教科書とし準備してもらってあるのです。教科書というルールの中で作られた試験問題というパズルを解く能力を競うのがテストです。習得度合いを教科書の理解度としてテストするのです。いかに効率的な習得の仕方を身につけるかが競わされているのです。

学校の勉強では教科書というルールがあるので、そのルール内で理解出来ていないところを探して理解していくことが求められます。自分に足らない知識を探し出し、そのことを習得するようにするのです。この自己トレーニング方法を身につけるために勉強をするのです。勉強そのものに大した意味はありません。自己トレーニングの手段なのですから。筋力トレーニングの手段であるバーベルやダンベルが日常生活で役立つことが無いように、勉強の手段である教科書に大した意味は無いのです(教科書の中には日常生活に役立つこともありますが)。バーベルやダンベルは効率的な筋力トレーニングの方法を身につけるための手段でしかないのです。バーベルやダンベルはどのようにすれば効率的な筋力アップが出来るか試すための手段なのです。学校の勉強もどのようにすれば、自分の頭の使い方が効率的な考え方が身につくか探すための手段なのです。

例えば三角比など知らなくても日常生活は出来ますし、逆に今の日常生活で三角比を使う場面は思いつかないでしょう。しかし頭の使い方を学ぶために勉強するのです。そんな視点で勉強について考えてみましょう。

話の面白い人と面白くない人の違い

世の中には話をしていて、話の面白い人と面白くない人がいます。今回はその違いを考えてみます。

話の面白い人

話が面白いと感じるのは興味の湧く話題をわかりやすく話してくれるからです。興味の湧く話題で知らないことを理解出来るように話してくれるのです。

話し方として相手の知らないことを一言で伝え、その理由や詳細を追加で伝えると話が面白く感じます。話に引き込まれる印象を与えることが出来ます。

特に話が上手で面白く話すことの出来る人は、相手の知らないだろうことをまず一言で伝えて反応を見ます。驚き具合や興味の有無など相手の反応によって一瞬で話す内容を変えることが出来るのです。相手の反応が良ければ話を広げ、相手の反応が乏しければ話の方向を切り替えることの出来る人もいます。

話の面白い人は何度も面白い話を提供してくれます。これは偶然ではなく、相手がどのような情報を求めているか絶えず考えているからです。この新しい情報だとこの人が喜ぶ。あの情報ならあの人が楽しめるのでは無いか?と絶えず情報の扱い方を考えているのです。そしてこの人と話す場合には、この内容だと興味を持ってもらえると思える内容を事前に準備してくれているのです。話の面白い人は偶然面白い話を思い付く訳では無く、話す内容を相手に合わせて絶えず探している場合が多いのです。

言い換えると話の面白い人は気配りの出来る人でもあります。気配りが出来なければ相手に合わせて面白い話を探せないからです。そんな視点で話の面白い人を観察してみてください。

話の面白くない人

話の面白い人とは

反対に興味の湧かない話題であったり、興味はあっても理解出来ない話し方だったり、既に知っている内容だと面白く感じることは出来ません。

また話の目的が話している人の自慢であることがわかっている場合も白けてしまって、面白く感じるのは難しいのかもしれません。

話の目的や意図が明確では無い場合、話の途中で内容がブレてしまうのでダラダラと時間だけが過ぎてしまいます。相手の知らないことを把握せずに話していると、相手の知っている話と知らない話がバラバラに出てくるのでわかりにくく、面白くない話になってしまいがちです。

話の面白く無い人は、事前に準備することなく話をしてしまうため話の途中で支離滅裂になることも多々あります。話の面白く無い人は、気配りする余裕の無い人なのかもしれません。そんな視点で話を聞いてみると人の振り見て我が振り直せで良い反面教師になってくれるのかもしれません。

定年後再雇用で同一賃金の判決

定年後再雇用で同一労働であれば同一賃金することを求める判決が出たようです。

定年後の再雇用では賃金が下がることが多いようです。企業は安い賃金で雇用することが出来るので利益が見込めます。実は再雇用してもらうことで賃金が下がっても、他の企業への再就職よりも賃金が高いため労働者としてもメリットがあったのです。

今回の判決で今後様々な変化が起こると思います。再雇用しても同一労働同一賃金を保つ必要があることになりそうです。まだ過渡期なので考え方は色々あるとは思いますが、方向は2つあると思います。1つは再雇用しても同一労働にならないように、少しだけでも労働内容を変えることで賃金を下げようとすることです。もう1つは再雇用前に前もって賃金を下げてしまうことです。過渡期なので年代によって多少の損得があると思いますが、企業はトータルの賃金が上がることは避けると思います。何故なら労働力が変わる訳では無いからです。再雇用される人の賃金が上がれば、誰かの賃金が下がるしか無いのです。

同一労働同一賃金という考え方であって、企業の裁量で決めることの出来る賃金を下げてはいけない訳ではないため、抜け道を探すだけのことでしょう。そもそも労働力をコストという考え方をしているため、少しでも安くしようと考えるのでしょう。もし労働力を人を財産と考える人財という考え方であれば、無理に下げようとはしないはずです。会社の対応により社員に対する考え方がわかると思います。残念ながら多くの企業は賃金を少しでも下げようと考えているので、そのことを改めて実感することになるでしょう。

いずれにしてもトータルの賃金はそれ程変わりはしないだろうということです。どこかにしわ寄せがきてしまいます。新たに嫌な思いをする人が出てしまうでしょう。具体的には再雇用に備えて定年前から賃金を下げられる人達が出てくることでしょう。全ての事柄を考えて制度設計をするべき時なのかもしれません。

この判決を再雇用される立場の人達は喜んだかもしれませんが、実は大変な問題を巻き起こす可能性を秘めています。みんなが嫌な思いをしなくて済む制度設計ができるといいですね。

見返りを期待するから腹が立つ

人は行動する時にどうしても見返りを期待してしまいがちです。何かをしてあげたから何らかのお返しをしてくれるはずだと考えてしまうのです。見返りを求めて行動するから、見返りが無いと腹が立つのです。相手も悪気があってお返しをしない訳では無く、何とも思っていないのかもしれません。もしかしたらやってもらって当たり前で感謝したくない人なのかもしれません。

何かをしてあげたとしても見返りを求めないことです。そして人にしてあげたことは忘れることです。覚えているから恩を仇で返されたとして余計腹が立つのです。

見返りが無くても行動出来るかどうか

そもそも行動する際に見返りが無くても行動出来るかどうかを基準に考えることを提案します。何らかのメリットや見返りなどが無くても行動出来る範囲で行動することがお勧めです。それなら腹も立ちませんし、無理もしないからです。見返りを求めて行動すると、どうしても見返りが欲しくて無理をして行動してしまうからです。言わば勝手に無理をして行動したにも関わらず、見返りが無いことが無理をした分余計腹が立つのです。

無理をして見返りを求めるのではなく、無理をせず見返りが無くても出来る範囲で行動するようにしましょう。

都知事の言い訳 封じるには

私は東京都民ではありませんから完全な部外者です。ただテレビやネットで言い訳が流されているので言い訳人間だなと思いながら見ています。以前もコメントしてしまいましたが、改めてコメントしてみます。

理由を聞いてもそれらしく聞こえる言い訳を考えてくるだけです。その言い訳を考えるために調査する時間が必要なのです。

私的な領収書が紛れ込んだと言い訳していますが、個人事業主がそのようなことをすれば脱税だとされます。だから一般人には私的な領収書が紛れてしまうことは通常考えられません。

例え話

スーパーで品物を持ったまま、他のことに気を取られてつい店を出てしまいました。そう言えば会計を忘れていました。指摘を受け確認しましたら確かにお金を払っていませんでしたので、お金は払います。お金を払ったので問題ないです。

これで済むなら世の中から万引きという犯罪は無いことになりますね。

今回の話に置き換えてみてください。

質問の仕方

私なら過去の言い訳について取り合ったりしません。切り崩しても他の言い訳を探すだけだからです。私なら他の逃げ道を塞ぎます。

私的な領収書が紛れていたそうですが、時間をかけて調査された結果、他にありませんでしたか?

無いとの返事なら、他に見つかれば隠蔽だと認めるという事ですね。という事は他にも不適切なものが発覚すれば、辞任は当然ですよね?

不適切だった領収書が紛れていたことが、他にも有るなら自ら公表しましょう。他にも有るが公表しないなら公表しない理由では無く、出さない目的を教えてください。

調査していないと言えば、それだけ自信があるという事ですね。それなら見つかれば隠蔽と認めるという事でしょう。

膨大な数なので見切れないと言われれば、多過ぎて適切に処理出来ないということですか?

突然起こり出せば、怒る目的は何ですか?何を隠すために怒っているのですか?と質問すると良いと思います。

とここまで今日の記者会見前に下書きしていました。記者会見で第三者に精査してもらうとネット上に掲載されたのできちんと対応するのかもしれないと思い掲載しないことにしました。しかし記者会見の録画を第三者に精査してもらうを繰り返すばかりでした。言い訳人間の典型のような答弁なので、やはり掲載することにしました。

第三者とは?

私があの記者会見の記者なら、第三者というからには利害関係の無い人間ですよね?と質問します。

現実的には知事が選び、知事が報酬を支払うそうです。それは第三者とは言わないように思います。

言い訳を考える時間稼ぎをするようです。

私なら第三者に精査を依頼する目的は何ですか?と質問します。人は必ず目的を持って行動するという目的論に基づいて質問するのです。理由だと様々な言い訳を探すことが出来ますが、目的は相当頭の回転が良くないと偽ることが困難です。目的は身の潔白を証明するためですか?それとも都合のいい言い訳を考える時間稼ぎですか?と質問します。

身の潔白の証明が目的であれば、それこそ第三者が用意した人物による精査が一番ですね。そのようにしませんか?出来ないならやましいことがあると認めるということですね?

第三者による精査の結果で進退は?という主旨の質問にも精査の結果待ちですとしか答えませんでした。問題があれば辞めますよね?と改めて質問するべきでした。そこで問題があれば辞めますとはっきり言わなければ、問題を指摘しない第三者を選ぶことを意味するということですね?と私なら畳み掛けます。

あと答弁からは辞めないことが前提です。本来であれば精査の結果次第で問題があれば辞めますとしか言えないはずです。精査の目的が問題の有無の追求であれば。そのように返答出来なかったのは精査の目的が問題の有無の追求ではないことが、類推出来ます。

あの記者会見では突っ込みどころ満載でしたが、目的が時間稼ぎのようですから目的は達成されたのでしょう。

余りに典型的な言い訳人間ぶりについ掲載してしまいました。まだまだ色々と出てきそうですね。都民ではない私には関係ないので考えるのはやめますが、テレビでこれらのことが流れ続けるのは何とかして欲しいですね。都知事を選んでしまった東京以外の人には関係無いと思うんですが、野次馬の心理で視聴率が取れるから放送するんでしょうね。

言い訳人間のようですから、封じるのは難しいのかもしれません。封じることが出来るとすれば行動の目的を質問するしかないと思います。