常識が通じない人

常識が通じない人はどこにでもいるものです。幸いどこかの組織の中にいれば、その組織に所属する前にある程度選別されることが多いため、常識がある程度共有出来るのが一般的です。

例えば高校において進学校であれば、大学への進学が半ば常識となります。進学校でなければ必ずしも大学への進学が常識とは言えず、卒業後は就職する方が常識かもしれません。これはある程度高校入学時に選別されるからです。入学者も義務教育ではないため、目的を持って進学をするのでそれぞれの考え方が揃うのです。

中にはその選別をすり抜けて常識が通じない人が組織に入り込んでしまうと、混乱を生じます。その常識の通じない人の心理を考えてみます。

常識が通じないとは常識の概念が欠落している

そもそも常識とは誰でも当たり前だと考えるみんなの共通認識です。2つの意味があります。1つは常識に外れた無駄なことを考えないため、もう1つはみんなが快適に生活するためです。このみんなが快適に生活するために常識が存在することを知らずにいるのです。

例えばマナーを守るのが一般的な社会人としての常識ですか、そのマナーを知らないのです。例えば飲食店では過度に騒がないなどです。他の人が不快に思うことをしないのが常識なのですが、そのことを知らないのです。

相手を思い遣る概念そのものが欠落している場合もあるため、常識の通じない人とは会話が成立しない場合もあり得ます。概念そのものを短時間でしかも言葉だけで理解してもらうことは非常に困難だからです。こちらが常識で当たり前だと思っていることが、まさか相手が概念すら持ち合わせていないとは想像がつかないので会話が成立しないのです。

常識が通じない人の対処法

常識が通じない人の対処法は関わらないことが一番です。人は通常常識的に相手の反応を予想して行動しますが、常識が通じない人は行動が予想出来ないため危険です。不快な思いをする可能性が高いため関わらないことが一番です。

どうしても関わる必要がある場合には、常識を1から10まで相手の欠落している概念まで噛み砕いて説明する覚悟が必要です。その労力に見合うのであれば関わると良いですし、労力に見合わないと思えば早目に逃げ出す方が常識なのかもしれません。

相手も悪気がある訳ではありません。中には自分の都合の良いように常識が通じない人を装っている人もいるかもしれませんが非常に稀です。常識が通じない人は知らないだけなのです。人によってはアスペルガー症候群などの病気が原因で、相手の立場などを配慮出来ないだけかもしれません。

人によっては簡単に常識を理解してもらえるかもしれません。臨機応変に対応してみてください。

頑固で常識が通じない人は上記の対応が一番だと私は思います。

予備知識が無いと物事は理解出来ない

物事を理解するためには予備知識が不可欠です。その予備知識が無いまま物事を理解しようとしても無理があります。学校の勉強が苦手で授業がわからなくなるのもこの、理解するための予備知識の不足が原因です。

説明の上手な人は理解してもらうために必要な予備知識を含めて説明していきます。当然のことながら相手のレベルに応じて予備知識の説明は詳しく話したり簡略化したりして対応します。相手のレベルに合わせ予備知識を追加することが苦手な人が、説明が下手とみなされるのです。

例えば月食という天体現象を説明する場面を考えてみてください。予備知識として自分達が住んでいるのが地球だという予備知識が無ければ理解は非常に困難です。何故なら地球の影が月に映し出されるのが月食だからです。太陽と地球と月の位置関係から説明しなければ、正確に理解してもらうことは困難です。

複雑な物事は特に予備知識が足らなければ決して理解することは出来ません。新しい情報に触れた場合、すぐに理解出来なければ、理解するために必要な予備知識が何かを見極めることが大切です。

学校での勉強の目的は、理解するために不足している予備知識を見極めるトレーニングをしていると解釈するとわかりやすいと思います。だから小手先の答えの導き方を教えてもらったところで、一向に学力が向上しないのです。

一般に頭が良いと言われる人は、自分で不足している予備知識を見極め、その予備知識を吸収出来るようです。人の手助けを受けずに出来るため、頭が良いと言われるのです。

自分で不足している予備知識を見極めるトレーニングをしてみましょう。きっと違う世界が見えるようになりますよ。

ちなみにディープラーニングは不足している予備知識を自分で探し出す新しいコンピュータの学習法です。正にコンピュータが人間をこえようとしています。少なくともすぐに機械に負けてしまわないために、ディープラーニングと同じことが出来るようになりましょう。

感謝したくない人の考え方とその心理

世の中には感謝したくない人がいるようです。

通常人は他人から何か自分のためになることをしてもらうと、相手に感謝をします。しかし中には感謝出来ない人もいるようです。わざわざ相手のためになると思って余分な時間をかけて何かをしてあげても、お礼の一言すら無いので相手のことが理解出来ず混乱してしまいます。場合によっては腹が立ってしまうこともあるでしょう。感謝したくない人の考え方と心理を考えてみます。

感謝したくない人と書きますが、実際には感謝出来ないのです。感謝したくない人は人から何かをしてもらったという自覚が無いのです。だからこそ何々をしてあげたでしょと言ったところでお礼は無いのです。

その人なりに感謝しなくて済むような話し方をします。具体的には人に物を頼んだりはしないのです。ただ聞こえるように困ったと言うのです。話している相手が手を差し伸べるのを待っているのです。相手が言い出したことだからお礼は要らないと勝手な都合で考えているのです。そもそもこういうタイプの人が困ったというのは、手を差し伸べてもらうことが目的です。プライドが許さないのかお礼を言わなければいけないことが嫌なのかはわかりませんが、自分から助けてと頼むのは嫌だけど、でも助けて欲しいのです。

一度でも助けてもらうことを目当てに困ったと口走り手助けしてしまうと、成功体験として何度でも繰り返します。困った状態を聞いても何もしてあげない自分が悪いような錯覚に陥ってしまうようです。そして相手はそのような心理につけ込むことに慣れているのです。

ここでしてあげたと覚えていると、何かをされてしまった場合に恩を仇で返されたと感じてしまいます。そもそも相手は恩だとは思ってはいませんからそのように感じても無駄なことです。何かをしてあげたとしても忘れましょう。そして次からは困ったと聞いても、大変ねぇと相槌だけ打って相手にしないようにしましょう。わざわざ手を貸して嫌な思いをする必要はありません。何故なら困っているのは自分の問題ではないからです。相手は善意につけ込んで都合良く思い通りに動かそうとしているだけです。そしてお礼すら無いの?と指摘されても別に自分から頼んだ訳ではないと言い訳まで準備しているのです。言い訳を準備というよりは本当に自分から頼んだ訳ではないからお礼など言う必要は無いと本気で思い込んでいるのです。指摘すると「お礼が言って欲しいの?なら言ってあげるわ。ありがとう」と言うような逆ギレする輩までいますので注意が必要です。

このような思考回路の人とは世間一般の常識的なやり取りは出来ません。お互い嫌な思いしないために頼まれてもいないことには関わらないことが一番です。

食べ物は楽しむ時代から選ぶ時代へ

人類の進化の歴史において長い間食べ物は探し回るものでした。約1万年前に農耕が始まり、自分達で意図的に栽培という手段により増やすことが出来るようになりました。農耕により、狩猟採集生活から開放されました。その後の文明の発達により食べ物が豊富になりました。そのおかげで文明国では飢えて死ぬことはほとんどなくなりました。それどころか文明国では、まだ食べることの出来る食料を捨てることもあります。生活が豊かになった証拠です。ある歌にありますが、かつては王様や貴族にしか楽しむことの出来なかったアイスクリームが、今ではコンビニに行けば100円前後で誰でも楽しむことが出来ます。

生活が豊かになった反面、問題も起こりました。糖質による害です。その害に気付かないまま多くの人々が糖質依存に陥っているため、糖質依存症とでも言うべき病気が沢山わかってきました。糖質による病気は肥満2型糖尿病や各種アレルギー、自己免疫性疾患、ニキビなど様々です。

どうせ食べるなら美味しいものを食べたいという人間の欲求が、資本主義の元で発展してきました。そのおかげで今日美味しくて豊かな食生活を楽しむことが出来ます。しかしこの食を楽しむことで知らない間に多くの人々が病気に陥っているようです。当時の知識不足から死者まで出してしまった脚気のように、現代の脚気とでも言うべき知識不足から病気を引き起こしてしまっているようです。

少なくとも食は毎日楽しむものではなさそうです。娯楽という位置付けで時に楽しむことに異存はありませんが、毎日楽しむと何らかの病気を引き起こしてしまう可能性が高まります。特に食と関連のある病気を既に発症しているのであれば、食生活により病気の発症を抑えることをお勧めします。例えば2型糖尿病の方であれば、その原因である糖質を控えることで解決します。食べる物をタンパク質と脂質を中心に選ぶことで病気が良くなります。

美味しい物を食べるという快楽の追求は手痛いシッペ返しをくらいます。楽しみはたまにあるから良いのであって、楽しんでばかりいると本当に病気になってしまうようです。知らないうちに糖質依存や糖分依存などの依存に陥ると自分の意思ではやめられなくなってしまいます。

食は楽しむ時代から選ぶ時代に変わるようです。というよりも食を選ぶ方が病気が治るのでお得だと考える時代がもうすぐやってきます。

恩を仇で返されたという間違い

恩を仇で返されるという考え方があります。私は根本が間違っていると思います。そもそも恩を仇で返されるとは、相手のためになること(恩)をしてあげたにも関わらず、こちらの害になる行動(仇)をとられた場合に使う言葉です。

ここには考え方の間違いがあります。受けた恩は忘れず、与えた恩は忘れるべきです。恩は受けるものであって与えるものではありません。恩を与えたと思っているから腹が立つのです。そもそも恩とは受けた側が感じるものであって、行動した側が感じるものではありません。与えた恩を忘れずに覚えておく時点で、見返りを目的とした浅ましい行動でしかありません。

相手のためになればそれでよいのです。見返りを求めるために行動しているから恩を仇で返されたと感じるのです。恩を仇で返されたと言っている人は見返りを求めて行動していた表れでしかありません。実際には見返りを求めて行動した訳ではないにしても、相手の思いがけない行動に驚いて、何か悪いことをしたか振り返ると恩を感じてくれても良いはずなのにと考えるのでしょう。そこで恩を仇で返されたと言ってしまうのだと思います。ただ見返りを求めて行動したので無ければ、あえて恩を仇で返されたとは言わない方が良いと私は思います。

世の中には色々な人がいるものです。人間関係や状況は刻一刻と変わります。人からしてもらった人として恩は忘れてはいけませんが、人にしてあげたことはすぐに忘れる方がお得です。何故なら相手が恩を感じるのか恩を感じないかは相手の問題だからです。相手が恩を感じているはずだと勝手に期待しても、何も感じていなければ意味がないからです。もし万が一にでも恩を感じてくれていれば、幸運くらいに考える方が良いと思います。

自分が覚えていなくても相手が覚えてくれていれば良いではありませんか?人のためにしてあげたことは早く忘れましょう。そうすれば少なくとも恩を仇で返されることは無くなります。何故なら相手にしてあげたことを忘れているから恩と仇という捉え方が無いからです。

ニキビは青春のシンボルというのは時代遅れ

ニキビ(尋常性ざ瘡)はかつて青春のシンボルと言われていた時代がありました。しかし21世紀では青春のシンボルでもなんでもありません。何故なら糖質回避により簡単に避けることが出来るからです。かと言って糖質をゼロにしなければいけない訳ではありません。

糖質を一食でも食べ過ぎるとニキビが新しく出来てしまいます。その際糖質の許容量をオーバーしてしまったのです。ニキビが新しく出来た時点で食べ過ぎと理解するのです。各個人で異なる、糖質を食べてもニキビを生じない糖質の許容量を見極めることです。

ニキビは青春のシンボルと言われたのは、中学生や高校生の青春時代に出ることが多いから言われたことでしょう。まさか糖質の食べ過ぎでニキビが出来るとは思いません。ちょうど成長期で御飯を食べる量が増えるため、中学生や高校生にニキビが増えるのでしょう。

ニキビは青春のシンボルと言われれば、仕方ないと諦めるしかないかもしれませんが、糖質回避という知恵一つで簡単に避けることが出来ます。

初めて話す、初めて聞き取るの違い

赤ちゃんが初めて言葉を話すと親としては大喜びします。

しかし赤ちゃんは親が聞き取るもっと前に、話をしているようです。だから初めて言葉を話したというのは大人の理屈です。正確には赤ちゃんが話している言葉を初めて理解出来たようです。いずれも嬉しいことに変わりはありませんが、赤ちゃんが大人が考えているよりもはるかに能力が高いようです。ただ大人は赤ちゃんの頃のことを忘れてしまっているので、理解出来ないのです。

赤ちゃんの発する意味をなさないと考えられている喃語は、赤ちゃんなりに大人の言葉を真似しようとしているのかもしれません。ただ声の発し方がわからないため大人が聞き取ることの出来る声が出せないだけのようです。赤ちゃんに話しかけると言葉として聞き取ることは出来ませんが、音程の変化は真似しようとしていることから考えつきました。

赤ちゃんは言葉と話すことの出来るようになるずっと前から、言葉を理解し、真似しようとしているようです。赤ちゃんは言葉を話すようになるまで言葉はわからないと考えられがちですが、大人が考えている以上に能力を秘めているようです。赤ちゃんのそんな無限の可能性を見出してみてあげて下さい。

義の心

義の心とは私利私欲にとらわれないことです。
少なくとも政治家には義の心が備わっているべきでしょう。
出来れば公務員の方にも義の心が備わっていて欲しいものです。

医者にも義の心が備わっているべきだと私は思います。

政治家や公務員における義の心

まずは政治家に求められる義の心とは私利私欲にとらわれることなく、国民の生活を一番に考えて行動することです。贅沢な暮らしをすることが目的で、手段として政治家をしているひとが見受けられます。そのような人には義の心が無いのでしょう。もしかしたらそのような政治家には、義という概念そのものが欠落しているのかもしれません。義の心を持ち合わせていない人を見分ける手段が今の所ないため、見極めるのが難しいのが現状です。
多くの公務員の方は義の心で働いておられると思いますが、一部の公務員の方が利権の確保や天下り先の確保が目的となってしまっているようです。これも義の心が無い人を見極めるのが難しいことが問題です。何故なら義の心の無い一部の公務員が集まってしまうと、義の心が無いことが常識となってしまうからです。そもそもそのような集団の中では義という概念が存在しないのかもしれません。利権や天下り先は私利私欲ではなくみんなのために確保すると信じているのだと思います。ただしみんなが国民ではなく、一部の公務員という限られた集団だということです。税金から給料の支払われる公務員誰は、誰からみても義の心を持ち合わせた人達であって欲しいですね。

医者における義の心

医者にも義の心が無い人がいます。何故なら自分の利益のために歪んだ診療をしている医者がいるようです。症状も無いのに不必要な薬を出し続ける医者がいるのです。特徴は患者さんのためを装って、患者さんを怒りながら薬を続けるようです。自分の利益が減るから怒っているに過ぎません。義の心を持ち合わせている医者であれば、自分の利益ではなく患者さんの利益につながることを自然とするはずです。病気を治してしまうと通ってもらえないから、治さないなどということは無くなると思います。

企業における義の心

本来利益を追求するために存在する企業は義の心は無縁のようです。企業が利益を目的にすると判断を誤ります。何故なら企業と顧客の利益が相反するからです。しかし企業においても義の心を発揮することは出来ます。利益の考え方を変えるのです。利益を目的とせず、手段とした時に義の心が発揮できます。

利益は企業の為ならず

利益は企業のためではなく、顧客のためにあるという考え方です。顧客により良いものものを提供するために、運転資金としての利益を得ることを考えるのです。良いものを提供するために存在するのですから、利益を取りすぎることもないはずです。企業の経営者に義の心があれば、利益は企業の為ならずの考え方を理解し実践出来ると思います。事実既に利益を目的にせずに顧客により良いものを提供することを目的に経営している企業がいくつかあります。当然のごとく大躍進しています。どの企業がこのような考え方で経営されているか考えてみて下さい。

情報を集める前にするべきこと

情報を集める前にするべきことがあります。わかっている人には当たり前の常識ですが、わからない人もいると思いますので敢えて書いてみます。

情報を集める目的を考えることです。目的もなく情報を集めることは、野次馬的好奇心と変わりません。

情報を集める目的をまず明確にすることです。情報を集めることで何を知りたいのか、何がわかるのか前もって考えることです。ただ知りたいことを集めると野次馬的好奇心で情報を集めてしまうかもしれないのです。野次馬的好奇心から集めた情報は、使い道がないので時間の無駄です。

情報を集める目的をまず考えてから、どの情報を集めるのか検討することです。目的が定まることで必要な情報が明確になります。情報を集める最終的な目的は何らかの判断をすることだと思います。逆に言えば判断を左右する情報だけを集めると良いのではないでしょうか?先に情報の目的・使い道を考えてから情報収集をすると無駄な情報をわざわざ探す手間を省くことが出来ます。

情報を集める際に、情報を集める目的を考えることなく、手当たり次第に情報を集めていませんか?

例えば家族旅行を考えた際に、候補地を探す場合、予算や宿泊日数を考えることなく手当たり次第に楽しそうな候補地を探しても無駄が多くなかなか決まりません。一泊2日で移動に片道1日近くかかる場所は、候補地には相応しくありません。先に一泊2日が決まっていれば移動にかけることの出来る時間は多くても半日でしょう。先に一泊2日で予算は5万円と情報を集める目的を決めてから情報を集めると、無駄な候補地を探す手間が省けるのです。

仕事の早い人や手際の良い人は、情報の集め方が上手なのかもしれません。

物事の考え方は参考文献「自分の頭で考えよう ちきりんさん。」をご参考ください。

医者を選ぶのも寿命のうち

医者を選ぶのも寿命のうち  とは、医者を選ぶ時点で寿命が決まるかもしれないという話です。

残念ながら医者も人間ですからミスも知識不足もあります。私は患者さんを不幸にしたくはないので、出来る限り医療ミスや見落としが無いように最悪の可能性を考えながら診療しています。

しかし残念ながら医者によってはそのようには考えられないようです。この違いは医者としての初期教育によるのかもしれません。私は若い頃訴えられる診療と訴えられない診療の違いを叩き込まれました。実際に殴られたので本当に文字通り叩き込まれたのですが、今となっては懐かしい思い出です。そしてこの経験のおかげで色々なことがわかるようになりました。そのようなトレーニングを積んでいない医者には、訴えられると裁判で負けるという発想は皆無です。裁判に負けないために診療をする訳ではありませんが、最低限訴えられない診療を行うのは医者として最低限の心得のようなものだと私は思います。

例えば長年診療しながら病理を確認することを怠り、癌を見落としていた事例が2件あります。肉眼で癌には見えないから病理を確認しなかったらしいのですが、本来なら治るはずのものが治らなければ、万が一の可能性を考えて病理を確認するべきす。2人とも癌の可能性を完全に否定していました。万が一の可能性を考えて、念のため反対を押し切り確認したところ癌細胞が見つかってしまいました。それぞれ別の医者です。2人とも専門医を持っていることが自慢でしたが、長年診ていながら1人の患者さんでも癌を見落としてしまえば専門医には何の価値も無いと私は思います。幸か不幸か裁判にはならなかったようですが。

医者によっては知識不足と自信過剰と思い込みなどの様々な可能性により診断を誤ってしまうことがあるということです。そして私を含め生身の医者であれば誰でも似たようなことが起こりうるという話です。そのような不幸なことを起こさないために、最悪の可能性を考えて医者は診療に当たるべきなのです。そして患者さんも医者を選ぶべきなのです。命に関わらない病気であれば、そこまで神経質になる必要はないかもしれませんが、命に関わるかもしれない病気であれば慎重に医者を選ぶ必要がありそうです。

最悪の可能性を考えて診療を行う医者は信用出来ると思います。考え得る最悪の可能性の中から情報を集めることで、やはり最悪の状態なのかそうではないのかふり分けることが大切です。

今回このようなタイトルの記事を書くのは、知り合いの家族の話を聞いたからです。首に腫瘍が出来て開業医から総合病院を紹介され、癌の一種だと言われたそうです。手術にするか化学療法にするか家族で話し合って決めてきて欲しいと言われ、悩んでいるとの相談でした。結局家族では決めることが出来ないまま受診すると、院内の話し合いで首のものが原発ではない可能性があるという話になりました。つまり胃癌など他部位からの転移ではないかという話になったそうです。話が二転三転するため不信感を抱き、他院への紹介を願い出たそうです。通常病理を確認してあると原発のおよその検討はつくはずなのでおかしいなと思いながら話を聞いていました。詳しく聞いてみると、家族からの伝聞ですから確かなことはわかりませんが、悪性と断定し手術か化学療法の話が出ているにも関わらず病理での確認はされていなかったそうです。つまり確定診断がなされないまま、癌の治療が始まっていたかもしれないのです。一連の話から他院へ紹介してもらって正解だと思いました。

結局他院で行われた検査では、首に出来た腫瘍は悪性のものではなく、結核の可能性が高いそうです。これは上記の悪性を見落とした話とは反対で、思い込みにより確定診断せずに治療しようとした例です。結果として悪性ではなさそうなので幸いでしたが、医者を選ぶのも寿命のうちと改めて思いました。

実は後で聞くと何故主治医がそのような治療法を選んだのか理解に苦しむことがあります。病院の利益のためか、治療経験を積みたかったのか、実績としたかったのかその目的はわかりませんが、患者さんのために治療法が選ばれたとは思えないこともあります。もしかしたら医者によって医者をしている目的が異なるのかもしれません。

他にも医者が病気のことを良く知っていれば治るかもしれない病気でも、医者が知らないと治るものも治りません。例えば2型糖尿病は糖質回避により治ります。アトピー性皮膚炎やニキビも簡単に治ります。幸いアトピー性皮膚炎やニキビで命を落とすことは通常ありませんが、2型糖尿病では透析が必要になる可能性や足の切断が必要になる可能性があります。最悪命を落とす可能性もあります。近い将来糖質回避を患者さんに説明しなければ、訴訟の対象になるかもしれません。医者が従来の常識にとらわれていると、患者さんに不利益をもたらすかもしれません。

糖質の害を知っている医者を選ぶか知らない医者を選ぶかで、もしかしたら寿命が変わるかもしれません。病気によっては糖質の害を教えてくれる医者を選ぶようにしましょう。少なくとも納得出来る医者を探すようにしましょう。説明に納得出来なければ思い切って別の医者にかかるのも一つの選択肢です。

医者を選ぶのも寿命のうちです。

医者であれば医師免許は持っているので最低限のレベルは確保されていますが、実際には知識や医療レベルは医者によって様々です。専門医があるからといっても、安心は出来ません。むしろ過信しているかもしれません。ちなみに2型糖尿病に関してある糖尿病専門医に糖質回避を進言しましたが全く受け入れられませんでした。

このようにバラツキのある生身の医者よりも人工知能による最適な治療が実現する方が、患者さんのためなのかもしれません。それまでの間は納得の出来る医者を探すようにしましょう。