タイムセールの目的

タイムセールとは時間限定で販売する販売手法のことです。安く買うことが出来るので買う側からするとお得に感じます。スーパーなどでタイムセールを行いますが、インターネットなどでもタイムセールを行うこともあるようです。その目的を考えてみます。

セールは安くすることで人を集めます。タイムセールの目的は時間を限定することで、決断を焦らせることで「衝動買いの心理」を刺激することです。

タイムセールを行うことで欲しいという欲求を刺激し、どうしても欲しいと錯覚させてしまうことを利用します。時間限定なので、判断する時間が限られていることも特徴です。迷っていると品物が無くなってしまうため、冷静な判断をすることが出来ません。タイムセールを行うということは、衝動買いで良いので売り上げを上げることが目的です。

元々欲しい物がタイムセールになったのであればお得ですが、タイムセールだから買うというのは冷静に考える方が良いと思います。

衝動買いを避けるためには、10分程間を開けて改めて考えることをお勧めします。10分しても欲しいのであれば衝動買いではないと思います。10分したら欲しく無くなるのは、衝動買いの心理が働いた証拠です。

タイムセールの目的は衝動買いを促すことなので、目的を理解した上で買うようにしましょう。

偉そうに振る舞う人の心理

世の中には偉そうに振る舞う人がいます。本当に偉い人は偉そうに振る舞うことはありません。わざわざ偉そうに振る舞う必要がないのです。では偉そうに振る舞う人は何故偉そうに振る舞うのでしょうか?その心理を考えてみます。

偉そうに振る舞う目的

意識しているか意識していないかは別にして、人の行動には必ず目的があります(目的論)。偉そうに振る舞う人にも目的があるはずです。その目的は偉そうに振る舞うことで、周囲に自分が偉い人だとアピールすることです。そして偉い人のように扱ってもらうために偉そうに振る舞うのです。あるいは自信が無いからこそ、自信が無いことを見抜かれないために偉そうに振る舞うのです。いわば虚勢を張っているのです。

あるいは自分が偉い人だと勘違いしている場合です。偉そうに振る舞っても自分は許されることを確認する目的で偉そうに振る舞うのです。いわば自分が思っている通り偉いかどうか確認しているのです。

偉そうに振る舞う意味

偉そうに振る舞う意味は、分不相応な地位にいると解釈すると良いと思います。本来の能力に応じた地位であれば、偉そうに振る舞う必要などありません。本来の能力よりも間違って高い地位についてしまったと解釈するとわかりやすいと思います。

例えば医者が患者さんに対して偉そうに振る舞うのは、本来なら医者になる人間ではないにも関わらず医者になってしまったので虚勢を張っているのです。

他の例えであれば、議員が周囲の人達に偉そうに振る舞う場合、本来なら議員になる人間ではないにも関わらず議員になってしまったのです。議員であれば黙っていても相応の対応をしてもらえるにもかかわらず、偉そうに振る舞うのは、余程偉そうにしていないと自信が保てないのでしょう。

偉そうに振る舞う人の対策

上記のように偉そうに振る舞うのは分不相応な地位にいると解釈するとわかりやすいです。分不相応なことを見抜かれないために必死なのです。不快に思う必要はありません。分不相応な地位についてしまって可哀想だと理解してあげましょう。

これらのことを踏まえて、生暖かい目で見守ってあげると良いと思います。

ポケモンGOが旅行の意味を変える?

ポケモンGOが日本でも配信開始されたようです。
ポケモンGOは位置情報を活用してポケモンを探すゲームです。時間と場所により出現するポケモンが異なるため、幅広く遊べるようです。

地域限定のポケモンをゲットするために旅行をする人も出てくるかもしれません。このことを逆手にとって地域振興目的に県や市がPRのために予算を組んでポケモンGOに宣伝費としてお金を支払うことも考えられます。どこの自治体が初めにポケモンGOと提携するのか私は見ものだと思います。

ゲームで人の流れを作り出せる時代になったということです。凄い時代だと私は思います。

相手が知らないことを責めても意味がない

相手が知らないことを責めても意味がありません。
相手が知らない時点で怒っても仕方がないのです。何故なら知らないのですから怒ったところで、話が噛み合わないからです。
相手が知らない時点で喧嘩にもなりません。持っている情報に偏りがあるのですから、情報を持っている方が圧倒的に有利です。

情報を持たない人間は情報を持っている人間に従わざるを得ません。情報を相手が知らなければ、怒らず教えてあげれば良いのです。ただし情報の伝え方を上手にコントロールすることで、相手を従わせることが出来るのです。

相手が知っているべきことでも知らなければ怒っても仕方ありません。怒らずに教えてあげれば良いのです。ただし本来なら相手が知らなければいけないことであれば、如何に知らないことが常識に外れているのかを相手に分からせるだかで良いのです。伝えることで相手が理解すれば教えた意味がありますが、理解しなければ教えたことすら意味がありません。ましてや怒ったところで相手が理解出来る可能性はほとんどないでしょう。

相手が知らなければ、教えてあげれば良いのです。ただし知らないことが何らかの損害を招くのであれば、何らかの対価や労働で償ってもらうような仕組みを作ると良いと思います。知らなかったことで損をする仕組みをうまく作り出せば、相手も気をつけるようになると思います。

広告募集の空き看板が増えている理由

広告募集の空き看板をよく見かけるようになりました。私がそういう視点で見渡すから、余計目につくのかもしれません。

看板広告の意味の変化

実はここ数年で看板広告の意味が変わってしまいました。もしかしたらまだ看板広告をあげている広告業者の方は気付いていないのかもしれません。だからこそかつての広告料での看板広告を望んでいるため、時代の変化に取り残された結果、空き看板が増えていると私は思います。

どのように看板広告の意味が変わったかというと、かつては物事を調べるためには情報を自分で覚えておくか、タウンページなどで調べるしかありませんでした。情報を覚えてもらうきっかけとして何度も目にしてもらう看板には大きな意味があったのです。例えば病気や怪我で病院を探す場合、かつては看板で目にしたことのある病院を受診しようと考えました。いざという時に思いつきてもらえるかどうかが受診してもらえる違いになりました。だからこそすぐに受診に繋がらなくても、何度も目にしてもらえることでいざという時の受診のきっかけになり得たのです。日頃覚えているかどうかが行動を左右していたからです。

スマホの影響

ここ最近で人々の行動が変わったのはスマホの影響です。いざという時にスマホで検索すれば必要な情報が簡単に手に入ります。つまり日頃覚えているかどうかは、行動にはほとんど影響を与えないのです。スマホで検索した結果で、そういえば看板を見たことがあるなという程度の違いにしかなりません。

広告業者はまだ気付いていない?

看板広告による広告効果の変化に気付いた広告主は、看板広告を打ち切るのです。費用対効果を考えれば、ホームページを含めたインターネットでの広告と比較して明らかに効果が乏しくなっています。効果が下がっていることから考えれば、広告料が引き下げらるのが自然の成り行きです。しかしまだこのことに広告業者が気付いていないのか、気付かない振りをしているのかはわかりません。広告主と広告業者の希望の乖離により、金額的に折り合いがつきにくくなってきています。広告効果の変化に気付いた広告主に広告料の引き下げを求めますが、広告業者は引き下げを受け入れてはもらえないため、結果として空き看板が増えてしまうことになるのです。

今後の看板広告

これからもどんどん空き看板は増えていくと思います。余りにも急速にスマホでの検索が広まってきています。費用対効果を考える広告主から順番に取り下げていきます。これからも看板広告を出したままの広告主は、些細な広告料が気にならないくらい余程儲かっているのか、費用対効果という視点を持っていない広告主のどちらかだと思います。そんな視点で看板広告を見てみると面白いと思います。

そして恐らく2、3年もすれば空き看板は減ると思いますが、空き看板が減る時点で広告料が引き下げられたはずです。何故なら今更あえて看板広告に高いお金をかける広告主が現れるとは思えないからです。費用対効果を考えて、効果の方が勝っていると考えられる程広告料が下がることで空き看板が減ると私は思います。

ちなみに看板広告が今でも有効なのは、咄嗟に立ち寄る可能性のある業種だと思います。例えばガソリンスタンドやコンビニなどです。ただし費用対効果を考えれば、広告料に見合うだけの効果は期待出来ないと思います。開店直後とか、競合店が周囲にあるなど特殊な環境でなければ、咄嗟に立ち寄る業種でさえ、看板広告の意味がかなり薄れていると私は思います。

少し前までは奥まったところにあるためわかりにくい業者であれば、案内するための看板広告は意味がありましたが、カーナビとスマホのおかげで案内する必要がほとんどなくなりました。

広告募集の空き看板に思う

電話番号の掲載された広告募集の空き看板は見かけますが、定価の広告料が掲載されていない時点で当分空き看板のままだろうなと私は思います。何故物事を伝えることが目的の看板に、最も重要な情報の1つである価格が書かれていないからです。今時わざわざ電話してまで広告を打ちたい広告主が増えるとは思えないからです。

もしかしたら相手によって広告料を変えるため、あえて看板には広告料を載せていないのかもしれません。それはそれで広告主としては気分の良い話ではありません。いずれにしても看板広告という広告は役割を終えつつあるのかもしれません。

お土産の意味・目的

旅行に行くとお土産を買ってくることがあります。
様々な意味合いがあるため、その意味を考えてみました。

お礼

日頃お世話になっていることの感謝のしるしとして、お礼を伝える意味合いとしてお土産を買ってきます。お中元やお歳暮に近い意味合いと言えると思います。
お中元やお歳暮ほど形式ばった物ではなく、気軽に渡せるのがお土産の特徴です。
感謝の気持ちを込めてお土産を渡します。

お返し

以前お土産をもらったのでそのお返しをするという意味でお土産を買ってきます。
もらったお土産に見合うお土産を選ぶことになります。

お詫び

主に職場の人や家族に対してですが、旅行に行った自分がいないことで迷惑をかけたことに対する謝罪という意味合いです。特に周囲に無理を言って出かけた旅行の際に、お詫びの意味合いが強くなると思います。
お詫びの気持ちを込めて、すいませんと言いながらお土産を渡します。

喜びの共有

一緒に旅行には行けなかったけれど、相手を喜ばせてあげたいという意味でお土産を買ってきます。その土地でしか買えない品物を買ってきてあげることで、旅気分を共有したいという思いでお土産を買ってきます。物流が発達したためその土地でしか買えないものは減りつつありますが、逆に今でもその土地でしか買えないものにはお土産としての価値があります。

記念

自分で買うお土産に多いと思いますが、旅先の思い出となるものをお土産とすることです。
土地の名前の入った提灯などが良い例です。
訪問地を思い出すきっかけとしての意味合いがありましたが、今では手軽に写真を撮ることができるようになったので訪問地を思い出すきっかけそのものが必要なくなりました。
記念としてのお土産の意味は急速に薄れつつあると思います。

ただし家族や友達で一緒に旅行した思い出を共有するという意味で、キーホルダーなどを共に持つということは残るのかもしれません。しかし一緒の写真を携帯に保存できるので、どこまで記念という意味合いでお土産という文化が残るのかはわかりません。

コミュニケーションのきっかけ

コミュニケーションをとるきっかけとしてお土産が利用されていました。
日常において新しい話題を提供するきっかけとして、お土産が活用されていました。
どこそこに行ってきたのでお土産ですと手渡せば、自然と旅先の話をすることができます。
旅先での話をするためのきっかけとして、話をしたい相手にお土産を買ってくるのです。

遠方に住む友人・知人に会う口実としてお土産を買ってくる意味はあると思います。
しかしSNSが発達してきていることもあり、わざわざ会うことも少なくなりつつあります。
わざわざコミュニケーションをするためにお土産を買ってくる意味合いも少なくなっていると私は思います。

自慢

羨ましいと思われる目的でお土産を買ってくる人がいます。
海外や人気スポットへ旅行する人に多い傾向があると思います。
凄いと思ってもらうことが目的なので、高価で派手なお土産を買ってくることが多いと思います。
自慢したいタイプの人は、凄いでしょ?羨ましいでしょ?という気持ちでお土産を渡します。

お土産の意味・目的

お土産の意味を分解してみると上記のようなものですが、実際には一つの理由・目的でお土産を買ってくるわけではなく様々な意味合いが折り重なってお土産を買ってきます。
必ずしも上記の目的から考える訳ではなく、いつもお世話になってい効果るから買っていこう。迷惑をかけたから買っていこう。いつもお土産をもらうから買って行こうなどと考えてお土産を買ってきます。

目的を考えてみた際お礼やお詫びなどの意味合いでお土産を買っていくことに意味はありますが、自分の心の中に自慢の意味合いが少しでもあれば控える方が無難だと思います。何故ならせっかくお金を出してお土産を買ってきても、自慢する人として自分に対する評価が下がるかもしれないからです。

物がなかった時代にはお土産というのは貴重な文化でした。
物が溢れる現代ではお土産という意味合いは急速に変化していると思います。

お土産の本質を考えてみることで、本当に必要なものかどうかがわかると思います。
経済的に考えてもお土産として認識されれば、多少高くても、場合によっては高いからこそ価値があると考えられます。しかしお土産は本来の日常品の値段よりも高いので、お祭り価格のようなものだと思います。みんなの考え方が合理的になると、わざわざ高い買い物をするお土産という文化・風習はなくなるのではないかと私は思います。

お返しという意味合いがあるのですぐにお土産という考え方がなくなるわけではありませんが、バレンタインと同じで誰かがやめようと言い出して浸透すれば、無くなってしまう風習だと私は思います。

嫉妬しない人の心理

検索キーワードを見てみると「嫉妬しない人」とありました。嫉妬する人と嫉妬しない人の違いを書いていたのでそちらがヒットしたのだと思います。「嫉妬しない人」が気になる方がおられるようなので、改めて「嫉妬しない人」の心理を考えてみます。

嫉妬とは?

嫉妬とは人の行動を羨ましいと思うことです。嫉妬しない人は羨ましいとは思わないということです。羨ましいと思う深層心理には、口には出さないものの「同じはずなのに」という前提があるのです。つまり同じだと思っているから嫉妬してしまうのです。客観的に他人から見れば明らかに違うから仕方ないことにも関わらず、同じだと思うことで嫉妬するのです。自己を客観視出来ない人が嫉妬します。

嫉妬しない人

嫉妬しない人とは、他人との違いがあることを客観的に認識しているだけです。人にはそれぞれ違いがあるのが当たり前で、嫉妬しても仕方ないと理解していると言い換えることが出来ます。

自分の方が優れているのか劣っているのかは別にして、他人とは違うことを知っているのです。そして人の優劣を比べたところで大した意味がないことを理解しているのです。自分の方が優れていれば嫉妬する心配はありませんが、自慢してしまわないように気をつける必要があります。人の方が優れていても、元々の才能が違うし努力の程度が違うのかもしれません。そなことを知ってさえいれば嫉妬することは出来ませんし、嫉妬する必要などないのです。

嫉妬しない人の中には誤った自己認識により、自分が優れていると錯覚しているので嫉妬しないで済んでいる人もいるかもしれません。他人とトラブルを起こさなければ、自分が優れていると錯覚出来るということは幸せなことです。

嫉妬が嫌がられる理由

嫉妬が嫌がられるのは、同じはずなのに扱いが異なると錯覚しているからです。同じ扱いをしてもらって当然という深層心理があるからこそ、嫉妬することが出来るのです。この嫉妬を引き起こす前提条件である同じ扱いをしてもらって当然という考え方が周囲の人には理解不能なため、嫌がられるのです。

周囲の人は努力の程度が成績の違いとして結果が出ていることを知っています。しかしながら本人は努力の違いは差し置いて条件は同じだと錯覚・思い込むことが出来るのです。結果として周囲の人には嫉妬する深層心理が理解出来ないので、嫉妬する意味がわからず嫌がられるのです。

お子さんが学習障害と言われたら

お子さんが学習障害と言われて悩んでいる方のお話をお伺いしました。養護学級に入るためには親の承諾が必要です。なかなか親の承諾が得られないとも良く聞きます。実際には親としてどうすれば良いのかわからないというのが本音ではないかと思います。

よく聞くのが、お子さんが養護学級に入るのが可愛そうという親御さんの声です。実際には普通学級にいる方がお子さんにとっては可愛そうです。何故なら小学生がいきなり高校生の授業を受けるようなものだからです。更に普通学級は減点法での評価です。あれも出来ないこれも出来ないでは、自己肯定感を養うことが出来ません。自分は駄目な人間だと思い込ませてしまいます。そうならないために早い段階での養護学級での勉強を検討する方がお得です。

そんなことが無ければ良いのですが、お子さんが可愛そうなのではなく、自分が可愛そうで養護学級に入らせない親御さんもおられるのです。養護学級に通うお子さんを持つ親の私が可愛そうだから養護学級に入らせないという心理です。自分が可愛そうとは言えないので、お子さんを代理に仕立てているのです。

養護学級に通うお子さんが可愛そうというのは、親の視点でしかありません。学校の授業がわからないまま、お経を聞くようにただ座っている普通学級の授業より養護学級の授業の方が有意義だと思います。

日本では養護学級の適応があっても、親御さんの承諾が得られないため、普通学級で学ぶ方もおられるようです。欧米では合理的な思考をする人が多いので、養護学級で特別な授業を受ける権利があると考えるそうです。だから適応があれば進んで養護学級の授業を受けようとするそうです。

話題を少し逸らしますが、私は逆立ちは出来ませんし、泳ぐことも出来ませんし、音楽の才能もありません。しかし毎日楽しく生きています。学校の勉強は多少出来ましたが、出来ないことも多々あります。ただそれだけのことです。勉強の出来る出来ないはその人その人の個性でしかないのです。学校の勉強が全てかのような価値観の人にとっては何よりも大切なのかもしれませんが、勉強が出来なくても社会で成功することも十分あり得ます。

学校の先生から養護学級を勧められたとしても、普通学級で本人が楽しいのであれば私は普通学級が正解だと私は思います。しかし本人が少しでも学校の授業が楽しくないと感じているのであれば、養護学級の授業を受ける方がお得だと私は思います。

本来であれば、本人のために養護学級の適応があれば自動的に養護学級にさせてあげるべきだと思います。何故ならお子さん本人にとって有意義だからです。親御さんの承諾がいる時点で、行政も言い訳というか暗に差別しているように感じます。もしくは承諾をしてもらえないから仕方ないとして、行政が逃げ出す隙を作っているように感じてしまいます。

養護学級にも様々な先生がおられるとは思いますので現場で実践されているかどうかは知りませんが、理にかなった養護学級の教育方針は加点法で評価してあげることです。出来たことを認めてあげることです。丸を書けること、バツを書けることなど1つ1つを認めてあげることです。そうすれば楽しくなって次々と新しいことを楽しむはずなのです。あれも駄目、これも駄目では摘み取ってしまうことになってしまいます。

もしお子さんに養護学級の適応があるのであれば、養護学級で学ぶ方がお子さんがお得かもしれないという視点で考えてあげてみてください。

ルール・決まり・法律の出来た理由

現代社会はルール・決まり・法律により社会生活が守られています。これらは何故あるのでしょうか?その理由と目的を考えてみます。

そもそもルール・決まり・法律が無くても、みんなが人の嫌がることをしないという考えで秩序を保つことが出来ていれば何の問題もありません。しかし現実には思いやりのある人だけではなく、自分勝手な人など様々な考え方をする人達がいるため、ルール・決まり・法律が出来たのです。
誰も盗み取ることが無ければ、盗んではいけませんというルールは出来ませんし、誰も人を殺さなければ殺してはいけないという法律もないはずです。

人類が木から下りて大地を歩き始めた頃には、法律はもちろん明確なルールや決まりなどは無かったはずです。盗ったもの勝ちのお猿さんの世界と同じで秩序がない状態です。人々が離れて暮らす狩猟採集生活の場合にはそれ程問題にはなりませんでした。

宗教が秩序を作った

人間は農耕という知恵を習得したため発展することが出来ましたが、集団生活をすることを余儀無くされました。何故ならかつての農耕は人手が必要だつたのです。同時に畑を耕して種蒔きをし、同時に刈り取りをする必要があったのです。多くの人々がいつも一緒に生活をする中で、盗ったもの勝ちでは都合が悪くなりました。そこでルールが出来たのです。盗ったものは相手にしない、ルールを守る人とだけ相手にするようになったのです。まだ人々が文字を持たない時代には、口伝えでルールが広まりました。ルールに従う証に神や仏を信じるようになったのです。つまり宗教が生きる上でのルール・指針となったのです。宗教のおかげでお猿さんの世界にヒトとしての秩序をもたらせたと言っても過言ではありません。

宗教の目的

同じ宗教を信じているもの同士は同じ考え方・常識を共有出来るので、価値観が似通うため共同生活が楽に行えます。逆に違う宗教同士だと、考え方・常識が異なるため、共通する価値観が見出せないためお互い相手にしないようにしたはずです。元々はお互いが仲良く秩序立てて生活するために宗教が生まれたのです。宗教が死後の世界を説くことが多いのは信者を集めるための手段です。誰も見たことのない死後の世界を引き換えに信教を迫るのです。貴方はまだ知らない死後の世界を教えてあげるから、我が宗教を信じてくださいと布教するのです。この死後の世界観の方が有名になってしまったため、本来の宗教の目的である皆が仲良く暮らすという価値観が薄れてしまったのです。

宗教の決まりを守らなければ、死後に罰を受けることになると考えられるようになったのです。死後の世界を人質に現世で決まりを守るように促したのです。世の中のことが良くわかっていなかった時代には、宗教の世界が全てだったので上手く秩序を作ってくれていました。

単純な社会生活で成り立つ時代には、宗教があれば十分でした。しかし社会生活が複雑化するにつれて、宗教の考え方だけでは判断出来ないことが出てきました。同じ宗教によって国が成り立てば、問題ありませんが、異なる宗教同士が一緒に生活するようになると明文化されたルールが必要になりました。何故ならはっきりとした決まりが無いから、やったもの勝ちになってしまうからです。

国の出現

人類の歴史の上で農耕の結果、富という概念が生まれました。力ずくで奪おうとする輩が出てきたため、武力という概念が生まれました。奪われないためにお互いが協力して守る概念が生まれ、国が出来ました。国に秩序を作るために法律が出来たのです。皆に守るように求め、守らなければ罰を与えるのです。法である決まりを律である罰をもって守らせるのです。

 ルール・決まり・法律の出来た理由

ルールや決まり・法律は守らない輩が出現した時点で明文化されたのです。暗黙の了解でみんなが守っていることは、ルールや決まり・法律にする必要が無いのです。マナーと言われる言わば常識が明文化されていないのは、みんなが暗黙の了解で当たり前に守るからです。マナーが乱れマナーを守らない輩が増えてしまえばルールや決まり・法律になるのです。

逆に言えば守らない輩が出現した時点でルールや決まり・法律が作られるのです。少しずつ変えながら継ぎ足し継ぎ足し変えていますが、そろそろ仕組みそのものを変える頃合いかもしれません。

無料なのについ課金してしまう理由

無料なのについ課金してしまうことがあります。その仕組みを考えてみます。簡単に説明すると、途中までは無料で、更に楽しみたいとお金を支払う仕組みです。そこには「衝動買いの心理」が関係してくるのです。本来なら食べ物を得る際に危険を顧みず行動させるために用意された脳の仕組みが、衝動買いを引き起こします。必要以上に魅力的に錯覚させることで行動させるのです。

無料ゲームの場合

例えば無料ゲームは誰でも無料でゲームを楽しむことの出来る仕組みです。
ゲームの開発費や運営費など明らかにお金がかかっていますから、誰かがそのお金を支払わないと破綻してしまいます。その費用を課金する人から得ているのです。

無料ゲームは無料で楽しむことが出来ますが、その仕組みは一定時間を経過する毎に貯まるポイントでゲームを行います。時間をポイントとして活用し、ゲームをしてもらうイメージです。その時間を待つ代わりに、お金で買うのが課金という仕組みです。

あとちょっとで勝てるとか、あとちょっとで何かもらえるといった具合に衝動買いの心理を刺激するのです。課金するつもりがなくても、衝動買いの心理をコントロール出来ないとつい課金してしまうのです。気付いたら思った以上に課金していた経験のある人は、衝動買いの心理に上手く付け込まれた可能性があります。

衝動買いの心理が脳を騙して課金を迫るのは10分間です。その10分間は他のことを考えるようにしましょう。

無料コミックの場合

最近では無料コミックなるものが出現してきました。広告を表示することで無料でコミックを楽しむことの出来る仕組みです。しかしビジネスモデルとしてここにも「衝動買いの心理」が使われています。

無料コミックの特徴は15分とか30分などの1日当たりの無料持ち時間内でコミックを楽しむことの出来る仕組みです。その時間をこえた場合、翌日からまで待つか課金するようになっています。衝動買いの心理を上手く活用していると思います。今読みたいと思わせるのです。何人かに1人でも課金してくれれば成り立つビジネスモデルのようです。

対策は課金したいと思った場合、10分間待ってみることです。10分間してから再度課金するかどうか考えてみて、やはり課金しようと思えば冷静な判断ですが、やめておこうと思えば衝動買いの心理によるものだったのです。

衝動買いはもったいない

私は課金することに反対している訳ではありません。ただ「衝動買いの心理」で課金するのはもったいないと思うのです。10分間待ってから改めて考えることをお勧めします。