人生は金じゃない

某有名人が書いた本のタイトルです。
有名人の本のタイトルには「!」がついています。

「人生は金じゃない!」

今回のタイトルに「!」を付けなかったのはタイトルに「?」を付けると全く反対の意味になるからです。

「人生は金じゃない?」

私は2つの意味の両方とも正しいと思うので、あえてタイトルに「!」も「?」も付けませんでした。

人生は金じゃない!

人生はお金を稼ぐためにあるのではありません。その一言に尽きます。

だから「人生は金じゃない!」のは当たり前のことです。しかし著者はわざわざその当たり前のことを本のタイトルにしてまで伝えたいようです。つまり人生はお金だと思っていたことがあったのでしょう。今は人生はお金を稼ぐことが目的ではない当たり前のことに気付くことが出来たのでしょう。

お金のためなら何でもする人がいますが、お金の魔法にかかっているに過ぎません。

人生は金じゃないと言えるのはお金に困っていない人だけかもしれません。

人生は金じゃない?

人生は金じゃない?とは逆説を使って人生の目的はお金だという考え方を強調する表現です。

賛否はあるとは思いますが、自給自足の生活をしていない限りお金が無ければ生活出来ないのはまぎれもない事実です。人生にお金が必要なのは誰にも否定は出来ないはずです。お金が無ければ今日食べるものを買うことすら出来ないからです。

人生にお金は必要なのです。贅沢をしなくても生きていくだけで生活のためのお金はなくてはならないのです。その意味では人生は金じゃない?とお金が必要なのは当たり前ではないか?と逆説で問いかけるのも正しいと思います。

お金の別の一面を知っている人もいます。命すらお金に換算されてしまうのです。命をお金で買うことが出来る訳ではありませんが、失われた命を償うのはお金が使われているのです。例えば事故で失われた命に支払われるお金は計算式まであるのが現実です。失われた命は取り戻すことが出来ないので、仕方なくお金で償う仕組みが用意されたのです。

この意味で人生はお金だと考えてしまう人もいるのかもしれません。

目的と手段を明確にする

一部の大人はお金のことを言うのは卑しいと考えています。しかしお金は生きる上で必ず必要なものでもあるので、お金のことは誰もが考えるべきことです。そこで人生とお金について考えてみます。目的と手段という言葉で分けて考えることで、誤解なく理解出来ると私は思います。

私は「人生は金じゃない」とは最低限のお金は必要だと考えるきっかけを与えてくれる言葉だと思います。そしてお金を目的だと捉える考え方ではなく、生きていく上で必要な手段としてお金を捉えるのです。

お金を目的だと考えると、稼ぐことに際限が無くなります。嘘偽り、人を騙してでもお金を稼ごうとしてしまいます。お金のために生きていると誤解してしまうのです。ちょうど多くの企業が利益を目的に追い求めることに似ています。無理をしてでもお金を稼ごうとしてしまうのです。

お金を生きるための手段だと考えると、最低限生きるために必要な分を稼ぐように考えます。決して無理をしてまで稼ごうとは考えません。ちょうど「利益は企業のためならず」を実践している企業のように利益を追い求めて無理をしたりはしません。

人がお金を必要とするのは、生きるための手段としてです。生きるための目的では決してありません。このことを誤解しなければ、多くの人が幸せになれると思います。お金を目的と考えるから、借金したり無理をしてしまうのです。お金は生きるための手段に過ぎません。その手段に振り回されて人生を棒に振ってしまうのは勿体無い話ではないでしょうか?

人生は金じゃない!?

この2つの意味を併せ持つ言葉の意味を理解し、お金に振り回されてしまわないようにしましょう。

食の常識革命! 糖質の食べ方の提案

食の常識革命を提案します。
日頃は糖質回避という考え方を提案しています。糖質を控えることで様々な病気が治ります。例えば糖質を食べないだけで2型糖尿病は治ります花粉症やアトピー性皮膚炎などの各種アレルギーやニキビやイボなどの慢性感染症も治ります。糖質を食べなければ治るのですが、糖質を食べていても治る簡単な方法を見つけました。そこで新しい食べ方の提案です。

糖質が病気を引き起こす

糖質を一定量食べると様々な症状を引き起こします。しかも食事の際に糖質を食べる順番により症状の出方が異なります。先に糖質以外のタンパク質や脂質、食物繊維を摂ることで症状が出にくくなります。そこで糖化産物が病気を引き起こす仮説を提唱しています。糖化産物の関与は今のところ定かではありませんが、状況証拠から瞬間的な血糖値の上昇が様々な症状を引き起こしていることは間違いなさそうです。

糖質の食べ方

糖質を食べることで様々な症状を引き起こしますが、血糖値の上昇が問題のようです。血糖値を引き上げるのは糖質だけです。糖質の食べ方で症状の出方が変わります。

そもそも糖質を食べないことで糖質依存から抜け出すのも一つの選択肢です。多くの人が糖質依存により糖質を食べ過ぎているからです。

今回の提案は糖質を食べながら血糖値の上昇を抑える食べ方です。一回の食事量を減らして、食事の回数を増やす方法です。まずは食事の回数を増やすことです。大してお腹が空いていなくても少量食べるようにするのです。少量食べることで血糖値の急上昇を避けることが出来るからです。小まめに食べることでドカ食いを避けることが出来るからです。糖質の食べ過ぎによる多くの症状は一回の糖質の量が多いと引き起こされます。一回の食事量を抑えるために食事回数を増やすのです。

血糖値の急上昇を抑えることが出来るので、糖尿病の治療にも使えるはずです。食事の際にご飯からではなく、野菜や肉魚などオカズから食べるのも一つの有効な対策です。

食事回数を増やし、オカズから食べるようにするだけで糖質を食べても症状が治まるかもしれません。

具体的な食事の提案の一つは、食後果物を食べている人はオヤツの時間(間食の時間)に食事とは分けて食べることです。果物の食べ方を分けるだけで食事回数を増やすのと同じ効果が期待出来ます。更に間食の時間に食べる場合にも、オカズ代わりの卵やチーズ、ソーセージや枝豆を食べてから果物を食べるようにすると効果的です。

食の常識革命

食の常識革命とは3食で食べる常識を、6食に増やすことの提案です。現実に6食に増やすことが出来るかどうかは別にして、考え方の方針を指し示すものです。手軽なのは上記の果物の食べ方です。

糖質の一回量が問題です。日頃気をつけていても、一回でもドカ食いしてしまうと症状が出るアトピー性皮膚炎やニキビのような病気もあります。少なくとも症状が出てしまえば、食べ方を改める方がお得です。その際に一回の食事量を減らして、回数を分けて食べるようにするだけで病気を避けることが出来るかもしれないのです。

糖質回避とは違う、病気を避ける知恵として理解してもらえればと思います。

私は食事の回数を増やすだけで、病気を治すことが出来れば魔法のような話ではないかと私は思います。

仕事や学校に通っていると現実に6食食べることは難しいかもしれませんが、出来る範囲で一回の食事量を減らす食べ方を探すのです。

一回の食事量を減らして、小まめに食べることで糖質依存からも抜け出すことが出来るかもしれません。不思議な考え方ですが、賛同していただければお試し下さい。

爆発する洗濯機に思う

ある国の洗濯機が爆発するそうです。世界中で100件もの事故が起きているそうです。日本の企業であればPL法の兼ね合いもあるため、即座に対応するでしょう。その企業の驚くべき対策は「デリケートモード」の使用を推奨したそうです。携帯電話の発火事故も起こっています。

企業の目的が利益を追い求めているからでしょう。日本の企業もほんの数十年前までは利益ばかり追い求めていたため、公害問題を引き起こしました。最近では安全性を確保することが前提で、利益を求めています。

日本より数十年遅れで目先の利益に振り回されているのでしょう。安全性が第一だと気付いてもらうことを待つしかないのかもしれません。船の沈没事故でも利益優先でした。

企業が利益を追い求めるのは仕方ないことかもしれませんが、21世紀になっても安全性よりも利益を求めるのは残念なことです。「利益は企業のためならず」という理想の追求は無理でも、少なくとも安全性は確保する考え方になって欲しいと思います。安全性を犠牲にして利益だけを追い求めること自体が結局自分達を追い詰めることを知ることになるのでしょう。

安全性を確保することが企業にとって一番お得だということを多くの日本の企業は理解しています。日本の企業の製品は万が一に備えた安全性まで考えているから高くなってしまうのです。性能だけ真似してもハリボテのようなもので、安全性の担保が無ければこれからは誰にも相手にされなくなるでしょう。

日本の企業と某国の企業とでは、前提が全くことなるようです。多くの日本の企業は安全で当たり前、某国の企業は利益最優先が当たり前。世界中で安全が当たり前の世の中になることを願っています。

議論の仕方 理由ではなく目的を議論する

今回は議論の仕方を考えてみます。多くの議論はその理由を話し合います。理由は言い訳や建て前が紛れ込むため、一つの理由を論破しても次の理由が出てくるだけです。議論が論理的に行われるのであれば理由を話し合うことに意味があります。しかし多くの議論が、論理的に行われるのではありません。先に賛成や反対の結論を決め、その結論に至る言い訳を探すのです。判断の根拠としての理由であれば議論の意味がありますが、賛成や反対を引き寄せるための言い訳を聞いても時間の無駄です。何故なら本音を隠すための言い訳に過ぎないからです。理由は判断の根拠なのか、言い訳なのかを吟味する必要があります。巧妙に言い訳されると判断の根拠と錯覚させられてしまうこともあります。吟味そのものが時間の無駄です。

理由は後ろ向きなので、幾らでも出すことができます。言い訳の中から賛同の得られそうなものから理由としているに過ぎません。言い訳を議論する程無駄なことはありません。何故なら判断の根拠ではないからです。

理由が言い訳なのか判断の根拠なのか見分けるのは実は簡単です。その理由がクリアされれば判断が変わるかどうかです。クリアされることで判断が変わるのであれば判断の根拠です。クリアされても次の理由を出してくるならただの言い訳に過ぎません。

理由を話し合うことの無意味な点は、状況が変われば理由そのものが無くなる可能性があることです。理由を話し合うと、状況が変わる度に話し合う必要があります。

目的を議論する

人の言動には必ず目的があります(目的論)。その目的を話し合うのです。

目的を議論するようにすると、理由のように言い訳が出来なくなります。何故なら目的はこれからのことを指し示すからです。到達点である目的を先に決めてしまうのです。目的を議論し目的を定め、その目的に基づいて結論を出すのです。

目的を定めてしまえば、私利私欲の影響する余地が無くなります。後は目的に沿っているかどうか合理的な判断をするだけですみます。

まず目的を議論しましょう。更に目的に沿っているかどうかを議論していきましょう。理由をいくら話し合っても時間だけが過ぎ、議論は前には進みません。

営業職と人工知能

あるサイトを見ていると人工知能に置き替わりにくい仕事という内容がありました。
経営者や企画が人工知能に置き替わりにくいとあったことには納得出来る内容でした。
しかし営業職と弁護士が置き替わりにくいとあったことには疑問があります。
先に弁護士のことを書くと、確かに裁判所の法廷に立つのは生身の人間が残ると思います。しかし下調べの過去の判例の検索は既に人工知能が活用されています。法廷に立つことを除くと生身の人間である必然性は乏しくなりそうです。少なくとも今の弁護士の人数は必要無くなるでしょう。

営業職が人工知能に置き替わる可能性が低いとありましたが、営業職の内容で分けてありました。技術系、金融系の営業職は残り、単純な営業は人工知能に置き換わるという内容でした。

私は営業職はほとんど無くなると思います。何故なら情報社会であり、人は欲しい物があれば自分で検索するからです。自分でも気付いていない欲しいものを提案してくれる営業職には価値があります(理想の営業マン)が、偽りの営業マンである説得マンはいらないからです。そして多くの営業マンは実は説得マンに過ぎません。お客さんの要望に合わせるのではなく、説得によりお客さんに合わせてもらうのです。

将来営業マンがいなくなる合理的な理由に書きましたが、営業マンの多くが説得マンなので人々が営業マンと話すこと自体を警戒してしまうのです。営業マンと話すと「衝動買いの心理」を刺激して買うように仕向けるのです。お客さんの必要な物を売るべきですが、売り上げを上げるために欲しいと錯覚させて買わせようとするのです。営業マンが「衝動買いの心理」を刺激して買わせようとすることを知っている人は、営業マンと話すことはしません。時間の無駄だからです。このことを知る人が次第に増えるので、営業マンの仕事は減ってしまうでしょう。

現時点で製薬会社の営業マンであるMRさんは減りつつあります。リストラを勧めています。これまで人海戦術で医者に処方をお願いしていましたが、営業により処方内容が変わることが患者さんの不利益につながるので営業を控える製薬会社が出てきました。患者さんの利益になる情報以外は案内出来なくなるかもしれません。

そもそも薬剤の必要な情報はインターネットで収集することが出来ます。わざわざ処方して欲しい気満々の営業マンからもたらされる情報は、処方して欲しいバイアス(情報の偏り)がかかっています。そのバイアスを取り除いて判断する必要があるので、営業マンと話す際には注意が必要になります。自分の好きな時間に情報収集出来るインターネットにとってかわられてしまうでしょう。

営業マンの顔を立てて買って下さいという説得マンが成り立つのは、長くて5年程度だと思います。その先も営業マンが生き残るためには、相手の欲しい情報を提供出来るようにすることです。特にお客さんがわざわざ検索する程ではなくても興味があることを、検索無しで即座に提供出来る営業マンは生き残ることが出来ると私は思います。話の内容から検索したいことを類推する能力を手に入れることが営業マンとして生き残る手段だと私は思います。そのためには専門分野にとらわれない幅広い知識を身につけるしか無いのかもしれません。

医者も余るし歯科医も余る時代、営業マンも仕事は減らそうです。今の子供達はどんな時代を生きることになるのでしょう。不安では有りますが、楽しみでもある未来がすぐそこまできています。

歯科医師の将来性

医者が余るのは間違いありません。何故なら人工知能により全ての診断を生身の医者がする必要がなくなることと、糖質回避により糖質による病気そのものがなくなるからです。詳しくは近い将来医者が余る二つの理由近い将来医者が余る三つ目の理由をご覧ください。

虫歯予防のおかげで虫歯が激減するため歯科医師は余ると思います。というよりも既に歯科医師は過剰な状態です。開業できる甲斐性のある歯科医師は開業していますが、開業する甲斐性のない歯科医師は勤務歯科医として雇われるしかありません。そのため勤務歯科医は過剰なため、需要と供給のバランスで待遇が悪くなっているのが現状です。

人口も減少しますし、予防医学の発達により更に虫歯は減る見通しです。その意味では歯科医師の将来性は暗く思えますが、実は医者よりは明るいと思います。何故なら予防医学が発達したとしても、虫歯そのものが無くなることは無さそうだからです。更に歯科医師の手技を機械に代替することは、現在の技術の延長線上では非常に困難だからです。現時点で処置点数が低いため、機械化する費用は賄うことは出来そうもありません。経済的な観点から歯科医師の手技が機械化される可能性は極めて低いと思います。この意味で医者よりも歯科医師の方が将来性があると私は思います。実際には医者の将来性は診療科によって異なるので一概にはいえませんが、全体的に考えれば歯科医師の方が機械化の可能性が低い分将来性が明るいように私は思います。

医者と比較すると歯科医師の方が将来性が明るいようですが、今の歯科医師と比較すると将来性は明るくはなさそうです。工夫する知恵のある歯科医師だけが生き残ることが出来る時代がやってくるのでしょう。

ガラケー遣いとスマホ遣いの違い

ガラケー遣い

日本独特の進化を遂げた携帯電話のことを、ダーウィンの進化論の舞台になったガラパゴス諸島になぞらえてガラパゴス携帯、通称ガラケーと言われます。電話とメール機能、iモードなど限られたインターネット機能に特化した携帯電話です。ガラケーを使っている人のことをガラケー遣いと表現してみます。

スマホ遣い

スマホとはスマートフォンの略称です。スマートフォンは元々は賢い電話という意味で名付けられたものて、高性能な電話でいわば手の中のパソコンです。その賢い電話を使う人のことをスマホ遣いと表現してみます。

ガラケーとスマホの違い

ガラケーは限られた機能に特化した電話です。ソフトという概念がほとんどない携帯電話で、電卓やワープロ専用機のような一つのことだけ行う機械です。機能が特化されているのであれこれ悩む必要がありません。情報の取り扱いも電話での会話とメール程度に限られるので情報が多過ぎて混乱することがありません。利用料金が安いのも特徴です。

スマホはいわばパソコンのようなものです。インターネットに容易に接続出来るため、欲しい情報を手に入れることが出来ます。アプリがなければ何も出来ませんが、アプリさえあれば可能性は無限に広がります。使い方次第で何でもこなすことが出来るのが特徴です。

一言でまとめるとガラケーは悩ます扱うことが出来、スマホは使う人が何をするか考える必要があるようです。

ガラケー遣いとスマホ遣いの違い

ガラケー遣いは電話、メールしかしません。他のスマホの持つ機能を必要としないことが特徴です。このことからガラケー遣いとスマホ遣いの違いを考えてみます。一言で言えば情報の取り扱いの違いです。

ガラケー遣いの人は情報を持て余しているのです。もしくは情報を得ることを余り重要だとは考えていません。携帯電話から得られる情報を必要としないのでガラケーで十分なのです。

一方スマホ遣いの人は情報を使いこなしています。何をするにもまずスマホで情報を得ることが優先されます。何故ならスマホで得られる情報は手に入れておく方がお得だからです。例えば行きたい場所の検索をしてみると、割引券があったら、空いている時間を教えてくれたりします。スマホに打ち込んで検索をかけるというほんの少しの手間だけで、簡単に情報が手に入るのです。たまたま検索せずに後でお得な情報があったことを知ると非常に損した気分になります。その経験が次の検索につながるので、益々検索するようになるのです。

一度スマホの便利さを手に入れると、手放すことは困難になります。ガラケー遣いの人の考え方がスマホ遣いの人にとって理解出来ないのは、情報の価値を知らないことが想像出来ないからです。

ガラケー遣いの人とスマホ遣いの人の違いは、情報の価値の感受性の違いです。

スマホ遣いの人からみると検索出来ないガラケーを持つことは不安に感じますが、ガラケー遣いの人は検索するつもりがないので不便でもなんでもないのです。

とはいえスマホ遣いと言ってもゲームしかしていない人も多いのかもしれません。高いスマホを使ってゲームをしているのであれば、安い料金でガラケーを使う方がお得かもしれません。少なくともガラケーはゲームによってガラケー遣いの時間を奪ったりしないからです。

人がミスを隠そうとする理由

人はミスを隠そうとしてしまいます。その理由はミスを人から怒られたり責められたりするからです。ミスを隠そうとする目的は、怒られることや責められることを避けることです。逆に責められることがなければ、隠そうとはしません。

ミスを隠すと更に深刻なミスを防ぐことが出来ません。だから深刻なミスを未然に防ぐためにミスを分析する必要があります。小さなミスから深刻なミスを防ぐ目的で行われるのが、医療業界におけるヒヤリハットという考え方です。ヒヤリとしたりハットするような経験から、ミスをする隙を無くすために自己申告する仕組みです。更に深刻なミスを防ぐ目的なので個人を怒ったり責めたりしないことが特徴です。怒ったり責めたりすると無意識のうちに隠そうとしてしまうからです。

ミスを隠そうとすることを責める人がいますが、二重の意味で勿体無いと私は思います。責めるから隠そうとするのです。責めたところで一度起こったミスは取り返しはつかないのです。つまり責めても無意味です。無意味な上に、わざわざ隠されるのを暴かなければいけませんから二重の意味で勿体無いのです。故意にしたことであれば、再度同じような行動をさせないために責める意味はあるかもしれません。しかしミスであれば責めても無意味です。

責めている限りミスを隠そうとするのは仕方ないことです。目的が懲罰を与えることであれば責めるのも仕方がありませんが、再発防止を目的としているのであれば責めないことです。責めないこと明確にすると隠そうとはしなくなります。ミスの根本原因を見つけ出し、ミスをする隙を無くす仕組みを考えましょう。

質問に答えられない人の対処法

人と話をしていて質問に答えられない人に出会うことがあります。
はぐらかしている訳ではなくて、質問に答えられないのです。

質問するとすぐに話し始めたとしても、的はずれのことを話します。質問の意味がわからないのであれば、どのように答えれば良いか確認すると良いのですが、質問の意味がわからないことを理解していない場合があります。つまり質問の意味がわからないことを理解出来ずに質問をやり過ごそうとするので、そのまま質問を続けても時間の無駄です。

意図・目的を明確にする

質問した相手が質問に答えられない人であれば、質問の仕方を変えるようにしましょう。特に有効なのが質問の意図・目的を伝えて、改めて質問することです。何を目的にして質問しているのかを明確にするのです。

物事を考えることが出来る人で答え方に困っていたのであれば、意図や目的を明確にすることで答えてくれれと思います。

意図・目的を明確にしても答えてもらえない場合

意図や目的を明確にしても答えられない場合、物事を考えるのが苦手な人なのかもしれません。物事を区別して考えるのが苦手なことが考えられます。この場合あらかじめ選択肢を用意して選んでもらうと良いと思います。

いくつかの選択肢を用意しても選んでもらえない場合には、yesかnoの二択にして選んでもらうしかないのかもしれません。二択でも選べないのは、政治家の答弁などでよくみられるように実は答えたくないのかもしれません。

二択で詰め寄っても答えてもらえなければ、二択を補強するように言葉を足して選びやすくしてあげるしかありません。二択を答えてもらえなければ、深くものを考えていない可能性もあるので、答えを期待しない方がよいのかもしれません。答えてもらえなくても何とかなる方法をこちらが考える方が現実的かもしれません。

様々な角度からの視点の勧め

様々な角度から物を見る必要があります。何故なら人は意識しない限り、自分の視点しか持てず、どうしても主観にとらわれているからです。他の人からの視点という立場に立たなければ、自分の考え方が絶対正しいとしか思えなくなってしまいます。他人からの視点を無視した、独りよがりの主張をしても誰も聞き入れてくれません。聞き入れてくれないだけならまだ良いのですが、他人の視点を意識していないと誤解されて自分自身が損してしまいます。失言して後で言い訳している人の多くは、他人の視点を意識していないことが原因です。

失言する人は誤解する人が悪いとさえ考えています。だから失言の謝罪会見が私は誤解させた人の伝え方の問題だと思います。

言葉は様々な意味を持ち合わせています。その意味の中から文脈、話の流れの中から無意識のうちに適切な意味を選んで解釈しているのです。例えば「御飯」という言葉一つでも、「お米を炊いたもの」という「御飯」と、「食事」という意味の「御飯」とがあるのです。「御飯」という場合、相手が「お米」という意味で受け取ったか「食事」という意味で受け取ったかを確認する必要があるのです。確認をしないまま話を進めてしまうと、誤解を生んでしまいます。

言葉のもつ様々な意味を考えて使わなければ、誤解されてしまいます。普通の人は誤解されては損なので、誤解されにくい言葉を選んで使います。普通の人とは他人の視点を意識している人という意味です。選んだ言葉がどのように解釈されるか様々な角度から考えて使います。

様々な角度から考える勧め

様々な角度から物事を考えることで、考え方の幅が広がります。例えば医者の視点しかなければ、仕方ないで片付けてしまうことでも、患者さんの視点から考えると解決策を見出すことが出来るかもしれません。医者は待ち時間が長くても仕方ないと考えてしまいがちです。しかし患者さんの視点から考えれば、病院内で待たなくてもよければ待ち時間の間に買い物などの用事を済ますことが出来ます。同じ待ち時間でも医者と患者さんの視点では違いがあるのです。患者さんの視点から考える医者は少しでも病院内での待ち時間を減らすために予約制を導入します。病院内でひたすら待たせるのは流行っている病院だと印象付ける行列効果を期待して、病院の宣伝のために待たされているのかもしれません。

自分だけの視点では物事の本質には辿り着けません。他人の視点を意識することが視野を広げる一つのきっかけになります。卑屈になる必要はありませんが、他人の目を意識するだけでも考え方に幅が広がると私は思います。

ちなみに特定の人の視点から物事を考えることが出来るようになると、自然と仕事の出来る人になることが出来ます。何故なら上司の視点で物事を考えることで、一歩二歩先を読んで行動出来るからです。あるいはお客さんの視点で物事を考えることで、お客さんの望むものが前もって理解出来るからです。良かったら様々な角度からの視点で物事を考えてみてください。