形を変えた不謹慎狩り 法律違反の報道

不謹慎狩りとは震災時に書き込みに対して、不謹慎だとして非難することを表すものです。震災という非常時だから慎んで然るべきという風潮をかさにきて、他人を攻撃することが目的です。詳細は不謹慎狩りをする心理をご覧ください。

今日テレビで偶然見かけたのは、河川敷を違法に使う人達を取り上げた報道です。違法ですよと声をかけ、その反応を取り上げていました。

不謹慎狩りと目的が似ているように思います。やめさせることが目的であれば、行政と連携してやめさせる方法を探すべきです。報道ではそのような行動はとらず、法律違反をかさにきて咎めることが目的のように拝見しました。構図は不謹慎狩りと変わらないと私は思います。法律に違反している訳ですから褒められるものではありません。それなら法律違反が放置されているのは何故かという取材が本来の姿だと思いました。構ってもらうことが目的の不謹慎狩りと、視聴率が目的の報道とでは変わりがないように思います。

形を変えた不謹慎狩り、物事を見る角度を変えてみると結構多いのかもしれません。

他人の物差し・尺度でしか判断出来ない人

他人の物差しや尺度でしか判断出来ない人がいます。誰かが正しいと言ったから信じる。誰かが美味しいお店だと言ったからお店に行ってみる。誰かが楽しい観光地だと言っていたから行ってみる。

他人の物差し・尺度を一つの知恵・情報源として活用するのは良いと思いますが、自分にも当てはまるかという視点が抜け落ちています。

他人の物差し・尺度に左右される一例としてミシュランの星があると思います。一定の基準をもとにして選ばれたお店で、ミシュランに選ばれたのだから美味しいと認識されます。昔で言えば宮内庁御用達といったところでしょうか?他人の選んだ価値観を有難がる風潮があるようです。

他人の物差し・尺度はあくまでもその人にとっての価値観です。自分に当てはまるかどうかはわかりません。自分と似たような好みの人であれば、その人の物差し・尺度は参考にはなるかもしれません。しかしミシュランに選ばれたから美味しいという価値観は、自分で考えることを放棄してしまっています。確かに他人の物差し・尺度に便乗する方が楽ですし、失敗してもその人のせいに出来るので便利です。楽で便利ですが、自分での思考が出来なくなってしまいます。

テレビや新聞も編集部の物差し・尺度を通して物事を伝えています。編集部は自分達の利益のために広告主の不利益は伝えません。その時点で物差し・尺度がお金で歪んでしまっているのです。その歪んだ物差し・尺度で人々が判断することになるのですが、他人の物差し・尺度に慣れてしまっているとそのことに気付くことは出来ません。

もしかしたら自分の物差し・尺度を身につけるために人々は勉強するのかもしれません。少なくとも他人の物差し・尺度で判断するのは極力避ける方が良いのかもしれません。

親戚付き合いをする意味

親戚付き合いをする意味を考えてみます。

昔はセイフティネットでした。盆や正月あるいは誰かの葬式や法事でしか会わない親戚ですが、付き合いをするのは何かあったときの保険のような意味合いがあったようです。国によるセイフティネットが整備される以前には、何かあれば親兄弟か親戚に助けてもらうしかありませんでした。そのため面倒でも親戚付き合いにいざという時に備えた保険に近い意味合いがありました。いざという時に遭遇しなければわからないながら、親戚付き合いにメリットがあったのです。だから面倒でも親戚付き合いをしていたのです。

最低限のセイフティネットを国が準備している現代においては親戚付き合いの意味合いが変わりつつあります。いざという時の保険という意味合いがなくなりつつあるのです。だからメリットがなくなり面倒だけが残っているのです。

親戚付き合いしなければいけない意味がわからないと思った人は正解です。以前のいざという時に備えるという意味合いがなくなったので、親戚付き合いをする理由がわからなくなってしまうのです。

人との繋がりを大切だと思う考え方を受け入れることが出来れば、親戚付き合いすることに意味があります。人との繋がりは関係ないと考えてしまうのであれば、親戚付き合いは負担に思ってしまうのかもしれません。

Amazon欲しい物に高額商品で騒ぐのは不謹慎狩りでは?

熊本の被災中学がAmazonの欲しい物リストに高額商品をのせて批判が出ているそうです。

私は形を変えた不謹慎狩りだと思います。

支援しようとしている人達からすれば、高額商品が必要なのかという疑問はあるとは思います。疑問があれば高額商品は支援しなければ良いはずです。ただそれだけのことです。わざわざテレビで報道するのは、テレビが不謹慎狩りをしているように私は思います。

確かに支援しようとする人の善意に便乗している側面もあるかもしれません。しかし高額商品であっても、支援する人が納得して支援するのであれば、第三者がとやかくいうことではありません。そして欲しい物に高額商品が掲載されていることに納得出来なければ、支援しなければ良いだけです。それだけのことです。不謹慎だとして槍玉にあげるのは、騒ぐことが目的の正に不謹慎狩りではないでしょうか?支援者が支援する物品を選ぶことが出来ることは報道していませんでした。このような物を欲しい物リストにのせてどう思うかと、暗に非難する作りでした。不謹慎狩りを非難した同じテレビ局が、欲しい物リストに高額商品を掲載していたことを報道するのは不思議だと思います。

恐らく欲しい物リストにのせた人は、次々支援が届くので軽い気持ちでのせたのだと思います。ビデオカメラや生徒数を超える文房具などをのせていたそうです。その目的が私的流用なのか、被災と関係があるのは私にはわかりません。ただ支援者が支援する物を選ぶ余地があるので、支援してもらえるとラッキーくらいの軽い気持ちでのせたのではないかと思います。もしかしたらあると便利くらいの軽い気持ちだったかもしれません。テレビで報道される程問題になるとは想像すらしなかったと思います。

欲しい物リストに疑問があっても、目的によって反応が異なります。支援が目的であれば本当に欲しい物がわかりにくくなるから緊急の必要物品以外は取り下げるように被災者に伝えるはずです。騒ぐ必要などありません。目的が非難することだと、被災者に伝えず騒ぎ立てます。見て見てこんな物が欲しいって書き込んでいる!と騒ぎ立てるのです。正に不謹慎狩りです。

高額商品を支援した人が、高額商品が正しく使われていないと非難するのであれば当然だと思います。しかし支援もしていない第三者が非難するのは不謹慎狩りとの区別が私にはつきません。

現実に600万円相当の支援が集まったようですが、支援した人が納得していれば他人がとやかく言う筋合いではないと私は思います。

自分が困らない問題に口出しするのは課題の分離が出来ていない証拠です。非難する気持ちのある人は課題の分離が出来ていない証拠なので、気をつける方が良いと私は思います。

テレビ報道も、不謹慎狩りがおかしいと報道することもあれば、自らが不謹慎狩りをするようなこともあるようです。目的が視聴率なので論理の一貫性が保てないようです。

Amazonも震災支援では欲しい物リストを2段階にすることを検討しても良いのかもしれません。できるだけ早く欲しい物には優先順位をつけることで、被災者が不謹慎と言われることを避けることが出来るかもしれません。もしくは支援してもらった場合には、実際に使っているレビューを義務付けるのも一つの選択肢かもしれません。

高額商品を欲しい物リストに掲載したことよりも、支援された高額商品が被災者に役立っているのか実際の活用法の方が興味あります。実際には被災者に活用されないのであれば、今ならAmazonに返品という選択肢もあるのではないかとも思います。

数十年前には考えられないような技術(被災者からのAmazonの欲しい物リスト、情報を広めるSNSなど)が新しく出ているので、みんな手探りで使い方を探しているように思います。新しく問題が見つかっても、非難するのではなく、みんなが幸せになるより良い活用法を探すべきだと私は思います。まだ理想的な活用法を誰も知らないのですから、みんなの知恵を持ち寄って理想的な使い方に近づけていくしかないのです。そんな視点から物事を見ると、モラルなどの問題のある行動であったとしても怒るのではなく、よくそんな活用法に気付いたねと感心出来るようになるのではないでしょうか?そして次の仕組みを作る参考にすれば良いのです。

人は無限の可能性を秘めている

人は無限の可能性を秘めています。
大統領になれる可能性は0でも、日本国民であれば誰でも総理大臣になる可能性があります(実際には日本にも大統領制を導入する可能性を考えれば、大統領になる可能性ですら完全に0ではありません)。自己啓発書にあるような内容です。
しかし「人は無限の可能性を秘めている」とは、そんな通常は実現する可能性が限りなく0に近い夢物語ではなく現実に無限の可能性があります。

人は自分の持っている、無限の可能性に気付いていないだけです。例えば今日の夕食に何を食べるのかを考えても無限の可能性があります。食べる物一つとっても無限の可能性があるのです。家で食べる、外で食べるという選択肢から、外で食べるとしても近所で食べるのか遠くで食べるのかを考えても無限の可能性があります。食べないという選択肢すらあるのです。

人は無意識のうちに無限の可能性の中から様々なことを選択しています。いつも無限の可能性の中から選ぶのは大変なので、多くの場合は常識の範囲内から選択します。

例えば先程の夕食の話を考えてみれば、通常は家で食べるか外食するとしても近くで食べることが多いと思います。もしかしたらコンビニ弁当を買って食べるかもしれません。無限の可能性はありますが、無限の可能性の中からお金と時間という制約があるため、なかなか無限の可能性を感じることが出来ません。制約がある時点で無限の可能性ではないと錯覚してしまうのです。時間やお金の制約を受けたとしても、依然自分で選ぶことが出来るのねすから、無限の可能性は無限の可能性のままなのです。ただし無限の可能性と言っても何でも出来るという万能の力を持つ訳ではありません。選択肢の中から選ぶという限られた可能性ではなく、自分で選択肢を見つけるという意味で人は誰でも無限の可能性を秘めているのです。

例えば次の休みは家にいるのか、旅行に行くのかなど何をして過ごすのかを考えても可能性は無限にあります。家でもテレビを見るのかレンタルビデオを借りて見るのか、録画したビデオを見るのか、ゲームをして過ごすのか無限の可能性があります。旅行など行き先だけを考えてみても無限の可能性があります。行く先々で異なる展開や経験が待ち構えているのですから、無限の可能性が秘められています。無限の可能性の中から、自分で選んで行動することで可能性を絞り込んでいるのです。無限の可能性の中から、人に言われて行動したとしても、最後に可能性を絞り込むのは自分です。

視点を変えるだけで、人は誰でも無限の可能性を秘めています。それぞれの人の行動が他人に与える影響を考えると、更に無限の可能性が考えられます。もしかしたらちょっとした一言が人生を変えるような可能性を切り開くことになるのかもしれません。

人は誰でも無限の可能性を秘めている。そんな視点で物事を考えてみて下さい

テレビ・新聞とインターネットの違い

テレビ・新聞とインターネットの違いについて考えてみます。テレビ・新聞は過去のものでインターネットはこれからのものと考えることができますが、テレビ・新聞が生き残ることが出来るのかどうかという視点から考えてみます。

プッシュ型の情報伝達

プッシュ型の情報伝達手段とは、こちらが何も考えなくても相手から情報が伝えられる伝達手段ということです。

スイッチを入れてさえいれば情報が勝手に目に飛び込むプッシュ型のメディアの代表がテレビです。次に開きさえすれば目に飛び込むので半プッシュ型のメディアだと言えるのかもしれません。テレビ・新聞は情報を一定の基準で判断し、凝縮した状態で伝えます。何故ならテレビは時間という制約があり、新聞では紙面という制約があるため凝縮せざるを得ないのです。このことは必要な情報を効率良く手に入れたい視聴者や読者との利害と一致していました。本来なら情報を凝縮すべきテレビなど、伝える情報が少ないことを補うためにゲストのコメントを入れたり、情報を薄め時間を引き延ばして伝えたりします。テレビをリアルタイムで見てもらえなくなった原因の一つが、引き延ばして作られているからでしょう。

プル型の情報伝達

インターネットはプル型の情報伝達手段です。プル型とは引き出したい情報を選んで引き出したい情報を手に入れる伝達手段です。

手に入れたい元となる情報がなければ、情報がありすぎて選ぶことができません。テレビ・新聞の時間や紙面のような情報の制限が無いので、全てを掲載することが出来ます。全てを掲載出来るがために、必要な情報を得ることが出来るかもしれません。しかし情報が多過ぎて処理しきれない自体が起こり得ます。

情報が溢れかえっているため、間違った情報に惑わされてしまう人がいるのです。

テレビ・新聞とインターネットの違い

テレビ・新聞とインターネットの違いは、知恵を使うのが誰かということです。テレビ・新聞は知恵を使った結果を伝えます。インターネットは全てを伝えるので、見る側が知恵を使う必要があります。そのことを書いていきます。

テレビ・新聞は編集という作業により、テレビ局や新聞社の伝えたい情報が選び出され凝縮された状態で届きます。全てではありませんが、ある程度真偽が確かな情報が伝えられます。

NHKに支払うお金は、情報の選択と凝縮料だと理解すると良いのかもしれません(情報の選択と凝縮に不備があっても支払わない選択肢が準備されていないことは残念ですが)。新聞を読むために支払うお金も、情報の選択と凝縮料だと考えてみるとわかりやすいと思います。この情報の選択と凝縮料が安いと思う人は新聞を買う方がお得ですが、高いと思う人は新聞は買わない方がお得になります。

インターネットは様々な情報を得ることが出来ますが、無料で得ることの出来る情報には限りがあります。莫大な情報の中から、価値のある情報の選択と凝縮には知恵が必要です。インターネットから必要な情報を取り出すことの出来る人は、テレビを見なくなりますし、新聞をわざわざお金を出して読まなくなります。逆にインターネットの情報の中から、必要な情報が取捨選択が出来ない人はテレビ・新聞から情報を得る方が良いのかもしれません(テレビ・新聞に都合の良いことしか伝えてはくれませんが…)。

テレビ・新聞の将来

テレビを見る人は益々減るでしょう。何故なら情報を薄めて伝えているからです。他に娯楽の無かった時代にはそれでも、見る人が多いので仕方ないのかもしれません。しかしこれからは見てくれる人は減ります。であれば必要な情報を凝縮して伝えるような番組だけが生き残ることになると思います。少なくとも録画して見る時代、コマーシャルを見てもらう代わりにスポンサー料を支払うビジネスモデルは破綻しつつあります。

もっと情報を凝縮する知恵を全面に打ち出し、必要な情報を詰め込んだ内容のテレビ番組を作るしかないのではないかと思います。

新聞も宅配モデルが破綻しつつあります。こちらも情報の選択と凝縮代という意味を伝えて、新聞の記事が情報を詰め込む知恵の結晶だということがアピール出来なければ淘汰されてしまうでしょう。

私はテレビ局や新聞社が全て潰れるとは思ってはいません。しかし上記のことが出来なければ淘汰されるテレビ局や新聞社が、近いうちに出てくると思います。

考え方を変える人と変えない人の違い

考え方を変えることの出来る人と考え方を変えることの出来ない人がいます。その違いを考えてみます。

考え方を変えることの出来る人は、今の考え方が完璧な訳ではないことを知っているのです。更に良い考え方を身につけるために、考え方を絶えず変更していくことが出来るのです。考え方を変えることの出来る人は、これからの未来のことを考えているのです。

考え方を変えることの出来ない人は、今の考え方が一番だと考えています。もしかしたら完璧だと考えているのかもしれません。だから変えることが出来ないのです。しかし本人はこれまで何とかなったことを根拠に、変える必要がないと思い込んでいるのです。考え方を変えると、これまでの自分を否定するような錯覚があるのかもしれません。過去に引きづられて考え方を変えないのです。

考え方を変える人と変えない人の違い

考え方を変える人は、これからの未来のために考え方を変えるのです。考え方を変えない人は過去のために考え方を変えないのです。

考え方を変える方が自然です。何故なら人は完璧にはなり得ないからです。より良い考え方があれば、良い方に変える方がお得です。

貴方はこれからの未来と過去のどちらが大切ですか?

三菱自動車の燃費不正に思う。性善説は言い訳

三菱自動車の燃費の燃費の不正が発覚しました。
内部告発ではなく、納入先からの指摘でした。

燃費の計測の仕組みが、メーカーから提出されたデータをそのまま使うそうです。性善説の観点で制度設計したのはただの怠慢だと私は思います。ズルをして発覚したとしてもペナルティーが小さければ、ズルをする人はいるでしょう。何しろ少し賢いお猿さんですら嘘をつくのですから、バレないと考えれば人間が嘘をつくのは当たり前です。もしバレてもペナルティーがズルをしたことで得られるメリットよりも小さければやるのが人間です。

日頃は嘘をつかなくても、バレないという隙があれば嘘をついてしまうのが人間です。誰にでもその可能性があるので、性善説での制度設計だから仕方ないというのは怠慢を隠すための言い訳に過ぎません。その隙をなくすように制度設計をするべきです。もしくはバレたら全てを失うもしくは負債を背負う程のペナルティーを用意するべきだと思います。制度設計する人がズルをする隙を残してしまっているのです。

少なくとも抜き打ちで極一部でも実際に検査をすること。不正が見つかった場合には、言い訳を許さず全ての許可を取り直すようなペナルティーを準備するべきだと私は思います。

私が政治家であれば、今自主申告すればペナルティーは無しか最小限で、ある期限をこえると上記のようなペナルティーを課します。ちょうど刑法の自主と同じように扱うのです。知恵のある経営者なら自主申告すると思います。性善説ではなく、人間の本来に沿った制度設計して欲しいですね。

競うのはお得だけど争いは損な理由

競うのはお得で争いはお互いが損です。

競うこと

競争相手がいなければ良いのにと考えてしまうことがありますが、実は競うことでお互いが高め合うことが出来ます。スポーツなどで競うのも最大限の努力を引き出すためです。そもそもベストを尽くす目的で競うのです。競って勝つことを目的と取り違えている人もいますが、本来は最善を尽くすために競うのです。競うことにより、お互い同士が高め合うことが出来るのでお得です。

競うことはお互いの目的が同じ方向を向いています。勝つことが目的ではなく、最善を尽くすことです。そのため競うことは足し算、場合によっては掛け算です。だから運動会で順位をつけないということは、本来の意味がわかっていない証です。

争い

争いはお互いが潰し合うので勝ち負けが出ても、争う前から考えると何も生み出しません。最大の争いである戦争を考えてみると明らかです。勝ち負けにより賠償金として多少の富の移動はあっても、争いによって失うものに比べたら得る物は極僅かです。

争うことはお互いの目的が相手に勝つことです。相手に勝つために争うので、目的が向き合ってしまいます。お互いの関係を壊してしまったり、直接危害を加えたりしてしまいます。そのため何も生み出さず、何かが壊れてしまうので引き算です。後始末を考えるともしかしたらマイナスの掛け算なのかもしれません。

争うのは無駄なこと

競うことはお互い高め合う意味がありますが、争うことは何かを壊してしまうだけで意味はありません。意味のないことをするのは無駄です。

無駄な争いを仕掛けられても、争わなくて済む方法を探すべきです。確かに降りかかる火の粉は払わねばなりませんが、極力争うことは避ける方がお得です。争うことで何も生み出せないからです。

火の粉が降りかかることのないように、前もって知恵を働かせる方が更にお得かもしれません。

今の政治は競うのではなく、争っているように感じるのは私だけでしょうか?

今度から気をつけますは結局何もしない

何か問題があれば、今度から気をつけますと言い訳する人がいます。
これまで気をつけていないことを認めるのであれば、少しは意味がありますが、多少でも気をつけていたのであれば、反省する振りはするけど何もしないということです。

反省する振りだけならお猿さんでもする(かつて流行った反省猿です)ので、人間ならば具体的な改善策を提示することです。

言葉だけなら誰でも何でも言えます。お猿さんですら嘘をつくのですから、お猿さんより賢い人間が嘘をつけない訳がありません。

今度から気をつけますと言って、その場を言い逃れようとしているのです。具体的な改善策が提示されなければ、反省する振りはするけど結局何もしないということです。

今度から気をつけますと言われたら、どのように?と聞いてみましょう。言葉に詰まれば何も考えてはいないでしょう。その場を取り繕うのが目的です。どのように気をつけて再発を防止するのですか?と質問しましょう。この質問で反省しているのか、反省している振りをしているのかがわかります。