大切なのは選択肢ではなく選択の仕方

大切なことは選択肢を選んだ結果ではなく、選択肢の選び方を伝えることです。 昨日のやってしまいがちな選択の間違いは相手が考える前に選択肢を提案してしまうことでした。昨日の文章の主旨は、まず無限にある可能性の中から選択肢を選び出すことに意味があるということです。

今回は選択肢を選んだ結果ではなく、選び方についてです。選んだ結果に対しての意見はよく聞きますが、選び方を検証していることはあまり聞きません。潜在的に結果論の考え方で、本来は選び方である経過にこそ意味があると私は思います(結果論と経過)。その選択はこういう理由でダメとかこういう理由で別の選択肢の方が良いと思うと言った選んだ結果に対しての意見や批判を聞きます。

本来伝えてあげるべきことは選び方のはずです。選択肢の選び方の中で選ぶ基準をまず決めて、その基準から選び方を考えることです。アドバイスする人にとってはあまりにも当たり前すぎて、みんながこのように選ぶことが出来るはずだと思い込んでいます。選ぶ基準すらわからない人がいることなど想像がつかないのです。そのため基準を決める当たり前だと思い込んでいることを伝えるのは時間短縮のために省略してしまい、代わりに選んでしまったり、見落としていそうなことだけを指摘するのです。何を基準にすればよいのか全く選び方がわからない人に、いきなり選択を迫ってもお互いが混乱するだけです。

相手が選択肢を選ぶ基準すらわからない前提に立って、基準の見つけ方から伝えてあげることが大切だと思います。

例えば中学生に、進学する高校を選ぶ際に、いきなりどこの高校に行きたいかを聞いても意味がありません。何故なら小学校も中学校もほぼ自動的に通う学校が決まっていたので、どのように学校を選べば良いのか全くわからないからです。中学生によっては高校に進学する意味も曖昧なまま、何となく就職はまだしたくないから高校に進学する人もいるでしょう。高校には進学したいけどどのように選ぶのかわからないまま、どこに進学したいのか聞かれるので混乱してしまいます。高校を決める基準が提案されないまま進学先を決めることになるので、偏差値を基準として進学先を決めることにつながります。高校を選ぶ他の基準を中学校や高校が提案しないので、単純に数字で決まる合否に相関する偏差値はある種便利な指標となっているようです。

高校に進学する意味や目的を明確にしてあげることが大切だと思います。どのように選べば良いのかわからない中学生に、高校を選ぶ基準を明確にしてあげるのです。例えば高校ではクラブを頑張りたい、友達を多く作りたい。などの希望があれば、自分のやりたいクラブ活動の熱心な高校に進学する基準をまず考えることが出来るでしょう。他には3年間毎日通学することになるので家からの距離も問題になりますし、義務教育でさないため授業料の問題もあります。友達を多く作りたいのであれば、体育祭や文化祭などこ学校行事を生徒が運営しているなどが基準になるかもしれません。

大学に進学するつもりで、高校卒業の資格を得ることだけが目的なら高校はどこでも良いでしょう。あえて選ぶなら大学の進学実績のある高校を選ぶ方が、希望の大学に進学出来る可能性が高まります。もし進学したい大学が決まっているのであれば、学校推薦がある高校を選ぶ基準もあり得るでしょう。まだわからない中学生には高校を選ぶ基準を見つける手助けをしてあげることからすると良いと私は思います。

社会に出ていても、選択の基準がわからず選択に迷っている人も良く見かけます。一言で出来るアドバイスは、選択の基準を提案してあげることです。

このように選択肢の仕方が大切です。具体的には選び方の基準を教えてあげることこそが大切です。最終的には自分で基準を見つけ出し、自分で選択できるようになることが一つの目標です。出来れば選択の基準を即座に見極めて人に提案できる知恵を身に付けたいものですね。

 

やってしまいがちな選択の間違い

やってしまいがちな選択の間違いがあります。
選択の間違いとは、選択肢の選び方ではなくそもそも選択肢を提案してしまうことです。
そのことを説明したいと思います。

選択におけるやってしまいがちな間違いは、選択枝の提案です。
確かに選択肢が全く思いつかない場合には、選択肢を提案してもらえると助かることはあります。
しかし人によっては選択肢の中から相手にとって最善だと思うものを選んであげる大人もいます。
選択肢を選んでくれる大人も悪気があってわざわざしているわけではありません。
大人から見たら迷うことなく最善だと思うことを提案しているつもりなのです。
場合によっては他の選択肢はあり得ないから考える価値がないとすら思い込んでいる場合もあります。

例えば親子の間で進路について選択する場合を思い浮かべてみてください。
親は子供の性格から、最善だと思う選択肢を提案するのはよくあることです。
いくつかの選択肢を提案する場合は最終的には子供が選ぶ余地があるのでまだましですが、場合によっては選択肢の提案が一つだけのことがあるようです。その場合は提案とは言わず強要と言い換えることができます。
親からすれば、悪気があって選択肢を提案や強要しているわけではありません。お子さんの将来のことを考えて選択肢を考えてあげて、場合によっては更に考えて選択まで終えた結果を提案することもあります。進路は明らかに子供の問題です(問題論)。その本来子供の問題である進路を自分の問題だと勘違いして、勝手に考えてしまうのです。
そして進路を親が考えることに疑問を抱かない子供は迷うことなく親の言う通りにしてしまいます。
結果として、自分で考える力を身に着けることができないまま社会に出ることになります。
親が選んだ選択肢の中から選ぶことになるのですから自分で考えることが苦手なのは仕方がありません。

選択の間違いとは、選択肢を用意してしまうこと

選択肢を選ぶ時点で無限にある可能性の中から何らかの基準を元に、選択肢を選ぶことになります。その選ぶ時点で知恵が必要なはずです。その知恵を伝えることなく選択した結果のみを伝えることは絶対に相手のためになりません。むしろ大切なのは選択肢の作り方という知恵を授けることです。代わりに選択肢を作ってあげることではありません。選択肢を作ってしまう大人は、無限にある選択肢の候補の中から適切な選択肢を選ぶ作業を経験しないと、適切な選択肢を選ぶことができないことを知らないのです。
この大切なことを理解している人が少ないため、大人は間違いに気付きませんし、子供は社会に出てから混乱してしまうのです。

自分で無限にある選択肢の中から検討する余地のある選択肢を選ぶことに意味があります。最終的に選択した結果だけで判断しがちですが、選択肢を選ぶ経験をすることで、様々な知恵を身に着けることができるのです。結果論と経過論で経過にこそ意味がある考え方に通じるところがあるかもしれません。

選択する際に本当に大切なこと

今回の本論はまず無限にある選択肢の中から、選択肢となりえるものを選び出すことこそが大切ということです。
その意味で余談になりますが選択肢の選び方の間違いで多いのは、まず直感・感覚で選んでから選んだ理由を言い訳のように探すことです。
選ぶ過程にこそ意味があるので、選択基準を先に決めて選択肢を振り分けて選択していくことが大切です。
つまり選択基準を先に決めることこそが本当に大切なことです。
選択基準を先に決めてしまえば、明らかに選択基準から外れるものは検討する必要が全くないのです。

例えば親子の進路の話で例えれば、金銭的な選択基準です。
県内で自宅通学可能であれば私立も選択肢となりえるかもしれませんが、県外だと国公立しか余裕がないなどです。この場合は県外の私立の選択肢を進学先に考えても無駄に終わってしまいます。
こうした選択肢の選び出し方が何事においても大切です。
当たり前だと思われる方も多いかもしれませんが、相手が選択肢の選び出し方を本当に身に着けているのか一度確認してみるとよいと私は思います。
この選択肢の選び出し方を身に着けずに、社会でうまく生きていくことは難しいと私は思います。

絶対に失望しない方法

絶対に失望しない方法を考えてみました。

非常に単純です。期待しないことです。人にも将来にも自分にも期待しなければ失望することはありません。

失望しないために人に期待しないという考え方は、ある種適切だと思います。勝手に期待して勝手に失望するのですから、相手にとっては良い迷惑かもしれません。期待というのは一定の成果を求めることです。相手に期待する時点で、その期待する成果に対する認識が相手と自分とでズレていることも良くあります。この認識のズレから失望、場合によっては怒りという感情を生み出します。

例えば明日までに仕事を仕上げるように指示を出したとします。当然相手が明日までに仕上げることを期待してしまいます。結果的に相手は仕上げたつもりでも、自分が思っていたようには仕上がっていない場合も失望します。相手の仕上がりの認識と自分の仕上がりの認識がズレていることが原因です。取り返しのつくことであれば失望するだけで済みますが、取り返しのつかないことであれば全てが台無しとなってしまいます。相手がうまくやってくれるだろう、うまくやってくれるはずだと期待するから失望するのです。最初から相手がうまくやってくれると期待しなければ、こちらの仕上がりの認識やイメージを明確に伝え、お互いの認識を擦り合わせることで勝手に期待して失望することを避けることが出来ます。もう一つの対策は途中経過を確認することです。明日までに仕上げるのですから、夕方には目処が立っていないといけません。夕方に目処が立っていなければ何らかの修正が必要なことは明らかです。しかし人によってはその修正が出来ないのです。全ての人が修正出来ると思いがちですが、人に期待せず自分が途中で修正しなければいけないかもしれないと思っていれば失望を避けることが出来ます。

絶えず相手が自分の期待通りには出来ないかもしれないと思いながら、対策を考えると失望しなくて済むようになります。

言い換えれば相手を信頼してしまわないことです。これまでの実績など裏付けを伴う信用することは構わないと思いますが、裏付けの無い信頼はしない方が良いと思います。

自分や将来に失望しないために、自分や自分の将来に期待しないのは一つの選択肢です。ただし人に期待しないのとは違って、自分や自分の将来は自分が変えることが出来る可能性があるのが大きな違いです。自分への期待は行動する動機付けになるからです。納得いくまで努力していれば失望とは違う感覚を味わうことが出来るかもしれません。

人に期待するのをやめて、自分に期待して前向きに生きてみませんか?

少なくとも私はそのように心がけたいと思います。

病気の容疑者が糖質だと伝えた際の反応

様々な病気の犯人が糖質だと疑われています。今のところ状況証拠しか無いので、容疑者の段階ですが糖質回避による病気の改善率をみてみると限りなく黒に近い灰色の状態だと思います。そしてこの改善率からまだ関係が証明できていないだけで、私は犯人だと確信しています。

様々な病気の容疑者が糖質だと伝えると様々な反応が返ってきます。原因が突拍子が無さすぎて全く理解出来ない方、何かと理由をつけて否定したい方、即座に理解されてお礼を言って帰られる方と反応は様々です。統計をとった訳ではありませんが全く御理解頂けない方は1割程度と少数派ですが、違う原因を探そうとされる方が半分くらいおられます。様々な病気の原因は糖質の可能性が高く、まだ証拠が揃っておらず証明はされていないので、残念ながら容疑者の段階ですが可能性がかなり高いと思います。

 

その後信じられるか信じられないかは患者さんの問題であって、私の問題ではありません。患者さん個人の問題であり、これまでの実績での改善率は先述の通りですが各患者さん毎に本当に原因かどうかは改善するかどうか試すしかありません。そういう意味で糖質を食べる食べないは一種の宗教のように考えると良いと思います。糖質回避教の提案です。何故なら糖質の害を理解し、信じる人だけが救われれば良いのですから。

理解できない

全く御理解頂けない方は、もしかしたら糖質依存に陥っておられるので糖質をやめるということに不安を抱き、やめることが想像すら出来ないのかもしれません。もしかしたらこれまで当たり前に食べていた食生活を捨て去るあるいは否定することに抵抗を感じるのかもしれません。時間をかけて糖質依存の考え方も含め、糖質の本性を受け入れて頂くのが一番かもしれません。

受け入ることが出来ない

はっきりと糖質が原因だと思いますとお伝えしていますが、即座には糖質が原因ということを受け入れることができない方がおられます。ストレスが原因ですか?とか、洗顔ですか?石鹸が原因ですか?などという質問が飛んできます。その質問の目的は糖質が原因だと認めたく無いため、必死で他の原因を探そうとされています。糖質以外に原因は考えにくく、改めて多分糖質が原因ですよと思いますとお伝えします。そのようにお伝えすると不本意そうで渋々ではありますが、糖質の話を御理解頂きます。残念ながら御納得は頂けず、不思議そうで怪訝そうな顔になられます。そこで実際に試して頂くことを提案し、可能であれば実践して頂くように説明し御理解して頂くようにしています。

その後信じられるか信じられないかは患者さんの問題であって、私の問題ではありません。患者さん個人の問題であり、これまでの実績での改善率は先述の通りですが各患者さん毎に本当に原因かどうかは改善するかどうか試すしかありません。そういう意味で糖質を食べる食べないは一種の宗教のように考えると良いと思います。糖質回避教の提案です。何故なら糖質の害を理解し、信じる人だけが救われれば良いのですから。

受け入れる

糖質がかなり犯人に近い容疑者であることを即座に御理解いただいて、すぐに糖質回避を始めようされる方もおられます。新しいことでも理屈が通っていれば受け入れることの出来る柔軟な発想の持ち主であるのか、病気に長年悩んでいるため藁をもつかむ思いで受け入れされるのかはわかりません。いずれにしても糖質回避の結果、かなりの方の病気が改善していることから、受け入れられる方がお得だとは思います。

糖質が病気の容疑者である考え方において貴方はどのタイプですか?

  • 理解できない
  • 受け入れることが出来ない
  • 受け入れる

糖質回避による病気の改善率もご参照の上で改めて考えてみて下さい。


 

ニキビ(尋常性ざ瘡)と糖質の関係

ニキビ(尋常性ざ瘡)と糖質には意外な関係があります。

ニキビは毛穴が詰まることで皮脂がたまり、細菌感染によって発症すると考えられていました。

確かに抗生物質は効きますし、毛穴の詰まりを改善する治療を行うと改善します。毛穴の詰まりと感染は関係はあるのだと思います。しかし原因では無さそうです。何故なら治療して改善はしても治療を中止すれば再発するからです。

ではニキビの原因は何でしょうか?傷の消毒をしないことの提唱者である夏井先生によると、ニキビの原因は糖質の摂り過ぎのようです。脂質代謝によってニキビが生じる可能性を指摘されています。(参考文献:炭水化物が人類を滅ぼす)

代謝異常や高度の腎機能障害がなければ糖質を避けることに害はなさそうですから、ニキビの患者さんに糖質回避を勧めています。結果的に9割の患者さんが改善しています。糖質回避で改善し、ラーメンを食べると次の日にニキビが出来た方が2人もおられます。

何故糖質を摂り過ぎるとニキビが悪化するのか病態はわかりませんが、どうやらニキビの原因が糖質の摂り過ぎであることは間違いなさそうです。

夏井先生の指摘される糖質の摂り過ぎによる脂質代謝によってニキビを発症する理屈では、糖質を食べ過ぎた翌日悪化することに矛盾があるように思います。私は糖質の摂り過ぎがニキビの原因菌に対する免疫機能異常を来し、ニキビを発症するのだと思います。同じ理屈でウイルスの慢性感染症である尋常性疣贅も糖質回避で改善が期待でき、実際に3人糖質回避で治りにくかった尋常性疣贅が改善しています。

糖質回避でニキビが改善し、糖質を食べることで明らかにニキビが悪化している患者さんがいることより、糖質がニキビの原因の一つであることは間違いなさそうです。

ニキビでお悩みの方はまず糖質回避をお試し下さい。

空腹感と戦わない方法

空腹感と戦わない方法は食べることです。何だか禅問答みたいですが空腹感と戦わない一番の方法は食べることです。 ただ一つ注意点があります。 食べ物を選ぶことです。

食べ物を選ぶことには二つの意味があります。

一つは食べ物を選ぶことで空腹感を我慢する必要はありません。好きなだけ食べて良いのです。そういう意味で空腹感と戦う必要が無くなります。

もう一つの意味は食べ物を選ぶことで強い空腹感が無くなるのです。強い空腹感が無くなるのですから、そもそも戦う必要が無くなります。何故なら強い空腹感は糖質依存(糖質中毒)の禁断症状です。だから強い空腹感を我慢しているとピークをこえたように強い空腹感が無くなります。禁断症状を抜け出した瞬間です。糖質を食べることで依存が継続されます。糖質を避けることで依存から抜け出すことが出来ます。依存から抜け出せば禁断症状である強い空腹感そのものが無くなります。

いずれにしても食べ物を選ぶだけで空腹感と戦う必要などありません。ダイエットで空腹感と戦うなど無意味です。空腹感と戦う意味をあえてあげるなら、ダイエットしているという自己満足が得られるだけです。

嘘について

先日嘘について書きましたが、世界を揺るがす大嘘が発覚したので改めて書こうと思います。
誰でも嘘はついてしまいます。最初から騙そうとしてつく嘘もあれば、咄嗟に言い逃れのつもりでつく嘘もあります。
それこそ嘘をついたことがないという人は、嘘をついたことがないということそのものが嘘です。

人は何故嘘をつくのでしょうか?その前にある種のお猿さんも嘘をつくことをご存知ですか?詳しくは参考文献の『現実を生きる猿、空想を語るヒト』をご覧いただければわかりますが、ある種のお猿さんは嘘をつきます。敵が来たと合図して仲間を追い払った後に自分だけ餌を独り占めするのです。仲間のお猿さん達は帰ってきても嘘つきお猿さんを責めることはしません。仲間の猿達は嘘だと見抜けないのか、オオカミ少年のように敵が来る情報が本当だったらいけないので嘘でも逃げて、責めないルールなのかは人間にはわかりません。ここで言いたいのはお猿さんにも嘘があるのですから、嘘は仕方のないことなのかもしれません。嘘だと見抜くのは人間にしか出来ないようです。

意図的につくか意図してつくかは別にして、どうしても小さな嘘をついてしまうことは誰にでもあることです。言葉にした時には本当だったとしても結果的に嘘となってしまうこともあり得ることです。

しかし日頃から日常的に嘘をつく人と、ほとんど嘘を付かない人は大きく分かれます。その違いは何でしょうか?お猿さんでも嘘はつくのですから、誰でも嘘をつく要素は持っています。しかし日常的に嘘をつくかつかないかを分ける決定的なことがあります。

それは嘘によってこれまで得をしたか損をしたかです。嘘をつくことで得ばかりの人は嘘をつくことが当たり前となります。特に嘘をついて見破られたり追求されたりといった損をしたことがなければ、嘘をつかない正直な生き方は損だという錯覚に陥ります。通常は嘘をつくと周りの人の信頼を失うため、結果的に損をするのですぐにバレる嘘はつかなくなります。嘘が平気な人はこれまで嘘で損をしなかったのだと思います。

嘘つきの対策は嘘をつくと損をする仕組みを作ることが大切です。そして嘘をつくと何らかの矛盾点を生じるので、その矛盾点を追求し嘘を認めさせ、損をさせることが一番の対策となります。

ちなみに嘘は自分が得をしようとする私心から生じます。企業の嘘も利益至上主義の結果、嘘が蔓延してしまいます。私の提唱する『利益は企業のためならず』の理念を全てこ企業が持てば、企業が嘘をつくことがあり得ない世の中が実現するのですが、そんな世の中はもう少し先の未来の話のようです。

それにしても今回の自動車会社の嘘はこれまでの企業の嘘のレベルをはるかにこえた嘘で、企業の行った詐欺的行為と言っても過言ではないと思います。今後の対応が見ものです。

アトピー性皮膚炎を治す方法

タイトルを見てアクセスしていただいた方に先に断っておきますが、アトピー性皮膚炎を治す治療法はありません。アトピー性皮膚炎を治す治療法はありませんが、アトピー性皮膚炎を治す方法はあります。何だか禅問答みたいですが、アトピー性皮膚炎は治ります。

薬は必要ありませんので、究極の脱ステロイド療法かもしれません。答えは簡単です。アレルギーの原因が疑われている容疑者である糖質を避けるだけです。糖質回避教を信じて実行するだけで改善が期待できます。糖質を食べ過ぎて症状が悪化すれば、ステロイド剤や抗アレルギー剤で対症療法を行います。そして次から糖質を食べ過ぎないように気をつけることで、対症療法が必要となる程悪化させないように自己調節することが出来ます。

糖質を避けるだけですから治療法とすら呼べない方法です。それだけでアトピー性皮膚炎が改善するのですから、正にコロンブスの卵のような話です。

糖質回避によるアトピー性皮膚炎をはじめとした病気の改善率はこちらをご参照ください。

嘘について 〜嘘の是非〜

嘘について考えてみます。

一般的に嘘はいけないことだと教えられて育ちます。日本では嘘つきは泥棒のはじまりとして嫌われます。しかし誰でも多かれ少なかれ嘘はついてしまうものです。この文章を読みながら、自分は嘘は付かないと思われた方は自分のついた嘘が認識出来ないだけです。例えば日本人の共通認識の『本音と建て前』と言う概念がありますが、本音が真実で建て前は真実を隠すための嘘以外の何物でもありません。日本人は狭い国土で隣人が変わらないため、争いを出来るだけ減らす『知恵』を考えて行き着いた先が『本音と建て前』の使い分けです。『嘘』を『建て前』という理想で包んで、角を立てないようにする『知恵』でした。言い換えればお互いのための『嘘』を『建て前』として受け入れて、争いを避けたのです。そう考えばお互いのための『嘘』であれば受け取ることが出来るのかもしれません。最近では『本音と建て前』が嘘を巧妙に隠すための言い訳として使われているのが残念です。

そして日本には『嘘も方便』と言う諺があります。方便とは相手を気遣う嘘のことです。やはり狭い国土で皆が仲良くするための『知恵』でした。勘違いしている人は嘘も時には許されると、大きな誤解をしています。相手を傷付けないための嘘が許されるだけです。

『本音と建て前』の嘘も『嘘も方便』の嘘も相手を気遣うことが目的であれば許されると私は思います。しかし自分のための嘘は許されるはずがありません。

誰のための嘘か簡単にわかる方法は、嘘によって誰が得をするのかを考えることです。相手の人か第三者が得をするのであればそれは方便かもしれません。しかし自分が得をするのであれば、自分のための嘘です。倫理的には詐欺師と何もかわりません。違いは犯罪とされているかいないかだけです。だから嘘つきは泥棒のはじまりと言われるのです。

適切な倫理観を身につけず、嘘をつくことに抵抗が無い人がいます。ただ嘘が発覚すると自分が損をするので、通常はバレるような嘘をつく人は稀です。ごく稀にバレるような嘘を平気でつく人がいます。嘘が許さないことを知らないのかバレることが理解できないのかわかりませんが、一般の人と感覚がずれている人がいます。国家として嘘が平気な国もあるくらいですから仕方がないことかもしれません。

嘘・偽り・誤魔化しが平気な人は、小さなことの積み重ねで誰からも指摘されなかったため、問題が無いと思っているのです。何故ならこれまで指摘されなかったから。

嘘・偽り・誤魔化しが嫌われるのは、嘘・偽り・誤魔化しのせいで時間やお金を損したり無駄が増えるからです。嘘・偽り・誤魔化しをするとかえって損をする仕組みを編み出すべき時かもしれません。

すぐにバレる嘘を平気でつく人は相手にしないのが一番なのかもしれません。

日本の高校生が自信を持てない理由

日本の高校生は他国と比較して自分に自信が持てない人が多いという調査結果が国立青少年教育振興機構より出されています。以前書いたように、何らかの比較をしてはじめて認識することが出来ます。高校生は自信を持てないといっても比較しなければ、当たり前過ぎて疑問にも思うことが出来ないのは、以前書いた通りです。

何故日本人は自信が持てないのでしょうか?

私は学校で減点法で評価された結果だと思います。100点を基準とし、何点足らないかをはかる試験を繰り返されることで如何に未完成かを突き付けられたことに起因すると思います。特に偏差値を持ち込んで高校を序列化した受験を乗り越えた高校生の調査だからこそ、自信を無くしている結果が出るのだと思います。

減点法での評価と偏差値での序列化の結果、日本の高校生は自信が持てなくなってしまうのだと思います。減点法だけであれば自分の未熟さを痛感するだけで、自信を失うことは無いと思います。人と比較して劣っていることを知ってしまった結果、自信を失ってしまうのではないかと思います。最大限の努力を引き出すために競うことに意味はありますが、競うことで自信を失くしてやる気を削ぎ落としてしまうのはもったいないことです。
まるで楽しむためにはじめたスポーツで勝負にこだわりすぎて、自信を失くしてスポーツ自体を苦痛に感じているようなものです。

自信を失う元となる減点法と偏差値ですが、元々は勉強の記憶と理解度をはかり、相対的に評価することが目的です。
本来であれば勉強を理解出来ているかどうかをはかるだけで良いはずですが、相対的に評価するためにわざわざ差がつくように問題を調整するのです。一定のレベルをこえると差が付かないから減点法で減点出来る部分を探し出して、無理矢理差を付けて評価するのです。

加点法でも評価は出来るはずですが、評価する側の負担が大きくなり過ぎるため評価する側の都合で減点法で評価しています。減点法の問題の質により、減点する度合いが異なるため、偏差値という考え方が導入されました。これも評価する側の都合です。
評価する側の都合によって評価されてしまった結果、自分に自信を持てない高校生を増やしてしまったのではないかと思います。

そろそろ100点満点のテストでの減点法による評価をやめ、加点法での評価をはじめる学校が出てきても良いのではないかと思います。

例えばこの公式を使う問題を作りなさい。という出題された問題を解くというスタイルではなく、発想次第で無限に広がる公式を使った問題を考えなさいという出題をすれば、もしかしたら学校の先生達をこえるような才能を見出すことが出来るかもしれません。

あと何年すれば日本の教育が、減点法と偏差値の呪縛から解き放たれるのか個人的に興味があります。全体には広がらなくても、呪縛から抜け出した最初の1校がいつになったらあらわれるか楽しみです。私が生きている間には一つくらい減点法や偏差値にとらわれない学校があらわれるといいですね。