俳優と女優にむいている人とむいていない人の違い

余計な御世話かもしれませんが、テレビドラマを見ていて気付いたことがあります。俳優や女優という仕事にむいている人とむいていない人の違いを考えてみます。以前はお笑いにむいている人とむいていない人の違いについて考えてみた延長です。

演技の上手・下手の違いとも言い換えることが出来ます。言い換えることは出来ますが、名俳優も名女優も演技をしている訳ではないと思います。

「0から思考」のように自分の個性や考え、経験などを一度リセットして、演じる人ならどのような立ち居振る舞いをするかを表現することが出来るのです。

俳優や女優は演じるというよりもその役になりきることの出来る人がする仕事で、イメージを真似ることを演技だと思っている人にはむかない仕事です。

具体的には、ある状況を設定されれば言葉が自然と出てくるような人は俳優や女優に向いていますが、言葉が出てこなければあまり向いていないのではないかと思います。

この違いを知らないまま俳優や女優の仕事をはじめる人は、しばらくすると見かけなくなってしまいます。逆に人気が出る俳優や女優さんは自然と出来るのか意識してなりきっているのかは別にして、演じる人の人格になっているのではないかと思います。

テレビドラマを見ていて思ったのは、本気で行動しているように見えるような演技の俳優や女優がいるなと思ったことです。逆に言えばカメラを意識して演技していますという作り物感満載の俳優や女優もいるということです。その差が余りに激しく違うことに気付いたので書いてみました。

乳酸菌とアレルギー

ある種の乳酸菌がアレルギーに効果があるというデータがあります。にわかには信じがたいデータですが、本当だとしたら何が起こっているのか考えてみます。

アレルギーの原因はまだ特定はされてはいませんが糖質を控えることで改善し、糖質負荷で再燃することから糖質の関与は間違いないでしょう。糖質を食べる順番で症状が変わることから血糖値の上昇が原因だと考えます。「0から思考」で考えると血糖値が上昇すると何らかのの反応を引き起こすと考えます。血糖値はブドウ糖の血中濃度ですが、ブドウ糖は分子が小さいため直接何かを引き起こすことは出来ないはずです。であるならばブドウ糖が何かと反応することで症状が起こるはずです。ブドウ糖は濃度が上がる程様々なタンパク質と結合する糖化という反応を起こし、糖化産物といわれるものを生じます。この糖化産物が何らかの反応を引き起こす可能性が考えられます(参考:アレルギーと糖化産物による病気の関係)。ちなみによく知られている糖化産物にHbA1c(ヘモグロビンA1c)があります。HbA1cは糖尿病の長期間のコントロール状態を知るための検査として活用されています。

糖化産物とアレルギーの関係は今の所仮説の域を出ませんが、糖質を控えること(糖質回避)で多くのアレルギーが改善するのは間違いない事実です。

ある種の乳酸菌とアレルギーの関係(仮説)

ある種の乳酸菌がアレルギーを抑えるのであれば何が起こっているのか考えてみます。

腸内細菌が肥満を起こす可能性があるのですから、腸内細菌がアレルギーを引き起こすと考えてもあながち的はずれではないかもしれません。元々アレルギーは腸内細菌が引き起こし、その腸内細菌の割合を変えることでアレルギーが改善すると考えれば納得出来る仮説です。ただ私の知る限り、肥満のように腸内細菌を入れ替えてアレルギーが引き起こされるというデータは見たことがありませんので可能性があるだけです。

今の所分かっていることから「0から思考」で考えてみます。現時点でわかっていることは血糖値が上昇するとアレルギーが引き起こされる可能性が高いこと。ある種の乳酸菌を摂取するとアレルギーが改善すること。このことから考えると、ある種の乳酸菌が血糖値を上げないのか、アレルギーを引き起こす反応を抑えるのかどちらかだと思います。糖質の吸収を緩やかにすると考える方が可能性が高いように思います。

データを見る限り症状が出なくなる訳ではなく、改善する程度のようです。またインターネットに掲載されている内容では作用機序までは触れていませんでした。有意に改善するという相関関係があるようです。

糖質回避をすればアレルギーそのものが失くなるので、わざわざお金を出して飲む必要はないと思いますが、糖質がやめられない人には有効な手段かもしれません。ちなみに腸内細菌の割合が変わることがアレルギー改善の理由であれば、継続して飲み続ける必要はないと思います。アレルギー症状が改善した時点で飲むことをやめても、症状緩和は持続できると思います。再び悪化すれば再度飲み始めれば良いと思います。

生物の進化と自然淘汰の関係

生物の進化と自然淘汰の関係がわかりにくいので整理してみます。

生物の進化と聞くと生物が生き残るために知恵を絞って狙って進化したような印象を受けます。環境に適した生物が生き残った結果を観察し、生物が生き残るために進化したと人間が解釈しているのです。実際には生物はただ生きているだけで、自然淘汰の仕組みにより環境に適していないものは死に絶えてしまうのです。自然淘汰として自然が生き残るものを選ぶのですが、生き残ったものを遡ってみると生き残るのに有利な性質を進化として捉えているのです。生物は意図的に進化を身につけた訳ではありません。遺伝ミスなどにより偶然得た性質が生き残りに有利であり、その性質が子孫に広まると後から進化したと解釈しているのです。

例えば擬態(周囲と区別しにくい見た目のこと)が上手な虫と擬態があまり上手ではなく少し目立つ虫がいたとします。目立つ虫は鳥などに食べられる可能性が高いため、子孫を残す可能性が低くなります。鳥に見つかる擬態は食べられてしまい、鳥に見つからない擬態が生き残るのです。気の遠くなる程長い年月をかけて繰り返すことで、結果として擬態の上手なものしか生き残ることが出来ないのです。

食べられる側の視点から書きましたが、食べる側(捕食者)の視点でも同じことが言えます。例えば目が良いとか耳が良いとか動きが素早いなど、獲物を捕らえるのに有利な性質を持つ者だけが生き残ることが出来ました。餌が豊富にある時には対した違いはありませんが、何らかの原因により餌が減った際に有利な性質を持つ者だけが生き残ることが出来ました。捕食者ならではの性質が自然淘汰の仕組みを生き残り、現代において進化したと解釈されているのです。

決して生物が意図的に進化している訳ではありません。持って生まれた性質が偶然環境に適していた結果自然淘汰の仕組みで生き残り、結果として進化したと解釈されるのです。

怒ることは無駄なこと

怒ることは無駄なことです。

何故なら怒ることで伝わるのは不快感を感じていることだけです。怒ることで、怒りという不快感を感じていることは相手に伝わるものの、怒っている内容の大半は理解出来ません。

そもそも人が誰かに怒るような状態は、何らかの認識の齟齬が原因です。相手が知らないことを怒って責めたところで意味はありません。知らないのですから怒られても、何故怒られているのかわからないのです。怒られれば怒られる程、怒られている意味がわからないとは言えません。怒られている内容から怒られていることを類推するしかないのです。その類推が当たっていれば良いのですが、外れていればまた似たようなことで怒られてしまいます。

例えば親が子に部屋を片付けなさいと怒ったとします。親は片付けるように言ったことで、片付けは出来ると思っています。誰でも簡単に出来ることだと思っているからです。子供にとって片付けという言葉はわかっても、片付け方がわからないのです。わからないから片付けられないのですが、片付けをするように怒られるので、片付けの仕方を知らないことは自分が悪いと思わされてしまうのです。怒られないように子供なりに考えて(類推して)片付けようとはするのですが、親の片付けのイメージと異なればまた怒ることになるのです。

片付けが出来ないことを怒るのではなく、片付けの仕方を教えてあげれば良いのです。もし片付けの仕方を教えるのは子供を甘やかすことになるので教えないと考える方がおられれば、目的は片付け出来るようになることではなく、自分が怒ることなのではないでしょうか?

子供が片付け出来ないから怒るのは、子供が片付け出来るようになることの妨げにしかなりません。怒ることが子供のためにならないのであれば、怒る目的は何か考えてみれば自分を不快にさせたことを怒っているだけではないでしょうか?確かに親が怒ることで不快感を抱いていることはわかるものの、怒られても子供は片付け出来るようにはなりません。お互いが嫌な思いをするだけです。時間がもったいないので怒らずに片付けの仕方を教えてあげましょう。

腹が立ってもすぐに怒るのではなく、相手が何を知らなくて自分が腹の立つような行動をとるのか考えてみましょう。その抜け落ちていることを指摘してみて、予想通り知らなければ怒っても仕方のないことです。片付けに関する上記の話であれば、子供に片付けの仕方はわかる?と聞いてみるのです。わからないと答えがあれば片付けの仕方を教えてあげれば良いだけです。怒ると子供は片付けの仕方を知らないとは言い出せなくなります。

親子だけでなく、大人同士でも同じことです。何かを知らないから不用意に行動しているだけのことです。明らかに過失があれば怒るのではなく、過失を挽回する行動をとってもらえば良いのです。過失を挽回出来なければ金銭的な負担をしてもらうことも含めて、どれだけの過失か相手に理解してもらうのです。怒ってもお互いが不快に思うだけで何も解決はしません。

事実から解釈を読み解く

事実から解釈を読み解くことを考えてみます。事実は事実ですから嘘や偽りがなければ受け入れるしかありません。事実から解釈の仕方を考えるのです。解釈の仕方は人それぞれですが、真実は一つのはずです。

事実に対する解釈は、多くの人は、深く考えずそういうものとして受け入れてしまいます。生まれてから当たり前で生活する上で困らなければ気にしないのです。

例えば重力を考えてみます。物は全て下に落ちます。全ての物が下に落ちるのが当たり前なので、ニュートンが気付くまで引力という概念に気付くとことは出来ませんでした。ニュートン以前は引力は当たり前すぎて認識出来なかったのです。

ニュートンは全ての物が下に落ちるという事実から解釈の仕方を考えました。何故だろうと。当たり前を疑ったのです。

結果としてアインシュタインにより重力で空間が歪むということがわかるまで、力の働き方をわかりやすく説明出来る万有引力の法則を発見しました。ニュートンが気付くまでみんなが同じ現象を見ているはずですが、当たり前過ぎて理屈を考えることが出来なかったのです。

この事実から解釈を読み解くということは、副鼻腔の存在する理由を考えた際に活用しました。事実から解釈を読み解くには「0から思考」が有効です。「0から思考」を行わないと先入観にとらわれてしまって正しい解釈を見つけることが出来ないからです。副鼻腔は存在することが事実です。目的は生存に有利だったはずです。逆に生存に関係がない理屈は存在する理由にはならないでしょう。解釈する際に自然淘汰を生き残った明確な理由を探す必要があるのです。

事実から解釈を読み解くのは「0から思考」の応用法です。例えば人間には体毛がほとんどない理由を考えてみます。人間は猿から分岐して進化したようですから、体毛を捨て去った訳です。これが事実です。体毛の有無が生存に有利・不利があり、体毛が少ない方が生存に有利で生き残る環境だったと考えることが出来ます。ポイントは自然淘汰の仕組みで体毛の多い子孫は淘汰され、体毛の少ない子孫が生き残ったという事実です。体毛が少ない方が有利なのは気温が高く、体温が上昇するような環境が考えられます。人類の進化の歴史を考えると、非常に長い時間をかけて食料を探していたようです。長時間走り回ると体温が上昇するため体毛が少ない方が有利だったのです。体毛があると長時間走り回ることで体温が上昇し、体温が下がるまで動けなくなってしまうのです。動けなくなった時点でライオンなどの肉食動物に襲われてしまうとひとたまりもありません。体毛が少ない方が動くことの出来る範囲が広いため、食料をより多く確保出来ます。こうして体毛が少ない方が子孫を残すパートナーに選ばれやすくなるのです。

現生人類には体毛が少ないことから、自然淘汰の仕組みをキーワードに読み解くと、猿と比較して体毛がなくなった理屈がわかります。

同じ要領で人間には眉毛やまつ毛が存在する事実から、それらが存在する理由を考えてみてください。このことを考える際のポイントは、自然淘汰を生き抜いたということです。眉毛やまつ毛があることで生存に有利な環境を生き抜いたことが考えられます。事実から解釈を読み解く例題として考えてみてください。

英語を話す目的を考える

英語は日本では義務教育でみんなが習ったことになっています。
しかし英語教育の視点が、日本語に置き換えて理解することを目的としているため、中学を卒業してもほとんどの人が話すことが出来るようにはなりません。
英語教育の制度設計をした時点で英語の論文を読んで、西洋の知恵を取り入れることを目的としていたからかもしれません。もしくは日本の英語教師の都合で採点しやすいように、日本語に翻訳するテストを行う結果かもしれません。つまり教師が楽をする目的で日本語に翻訳するテストをしているのかもしれません。

英語を話す目的

英語は言葉ですから人間同士が意思やの伝達をすることが目的です。言葉を発するのは基本的には相手に理解してもらうことが目的てす。あえて相手にわからないかもしれない言葉を選ぶのは暗号の要素を含んでいるのかもしれません。

ある大学で学長が式辞を英語で伝えたそうです。

私は英語で式辞を伝えた学長の目的が気になります。今からの世の中、英語が大切ですと伝えたいのかもしれません。もしかしたら学長が英語を話せることを自慢したいのかもしれません。もしかしたら英語を話せない人間は大学にいらないと考えているのかもしれません。

いずれにしても英語で式辞を伝えたということは、理解出来ない人の問題だと考えているのではないでしょうか?相手に理解してもらうのは説明する側の責任です。このことを説明する側が理解出来ていないのであれば、残念ながら大学としての将来は暗いかもしれません。これから英語の理解が大切だからそのことに気付いてもらう目的で英語の式辞であれば一理はあるとは思いますが。私の想像をこえるような目的で英語による式辞であれば、素晴らしい大学ですね。

建前としての言い訳ではなく、その学長が何を目的として英語で式辞を言われたのか興味があります。

企業内での英語について

幾つかの企業で公用語を英語としているそうですが、部外者からみるとその目的は判然としません。

海外と商談をする目的で英語というのであれば、社内全て英語にする必要はないはずです。英語の方が結論から話すので話が早いからというのも言い訳です。日本語の話し方の工夫で対応出来る話です。日本語でもまず目的・結論を告げてから、その理由を説明する話し方を導入すれば良いだけです。

もしかしたら英語を公用語として使うことで、内外にむけて先進的な企業だと印象っけることが目的なのかもしれません。つまり見せかけだけでも英語を公用語として使うようにしているなけなのかもしれません。

英語が出来ない人を切り落とす踏み絵として、英語を活用しているのかもしれません。

いずれにしても目的が明確でなければ、英語にしても混乱するだけです。建前ではなく、本音で英語を使う目的を伝えることをお勧めします。

日本人を相手にしている企業が英語を公用語とする目的が、理想とズレていないのとを祈るばかりです。

事実から論理・理屈を導き出し解釈し検証する

事実は事実です。
そして事実には必ず理由・理屈があります。
ただし人々が理由や理屈が論理として全て解釈出来るとは限りません。むしろ世の中の多くのこと、もしかしたら大半のことがまだ解釈出来ていないのかもしれません。解釈出来たことだけを使って生活しているので、あたかも世の中よことは全て解釈・理解出来ているかのような錯覚に陥っているのです。

例えば宇宙の起源はビッグバンだと言われますが、それ以前はどうなっていたのか誰も想像すらつきません。重力という静電気力に比較して非常に弱い力があることはわかっていますが、仕組みはまだわかっていません。ようやく波として伝わるらしいことがわかりつつあるだけです。

事実は事実

事実は事実です。
誰かが欺くために用意したものでなければ受け入れるしかありません。そしてその事実に合致する論理・理屈を考えるしかないのです。

信じられないような事実であっても事実は事実です。嘘や偽りだとして検討することなく拒絶する人もいますが、事実であれば無駄なことです。受け入れる受け入れないの問題ではありません。いつ受け入れるかの問題です。

例えばピラミッドという古代建造物があるのは事実です。文明が途絶えたため、目的や作り方は全くわかりません。事実は事実として受け入れ、誰がどのように、どんな目的で作ったのか論理・理屈を考えるしかありません。まず事実ありきです。ちなみにピラミッドの石は、直方体の石に円弧状の木の枠組みを取り付け、円柱型にし石そのものを転がして運んだそうです。実験によると丸太の上を転がすよりはるかに素早く、簡単に石を運ぶことが出来たそうです。円弧状の木枠が発見されたことでわかった事実です。

論理・理屈

かつて天動説から地動説に考え方が変わるのに100年を要したそうです。天動説を信じていた人達が死に絶え、素直に地動説を受け入れた人達が多数派をしめるようになったそうです。当時は情報のやり取りが非常に困難だったため、100年もの月日を必要としただけのことです。そして当時の観測技術では論理的思考の出来る人にしか理解出来ない程度の検証が限界だったからです。天動説を信じている人に衛星写真を見せて、地球が自転していることを見せれば嫌でも信じざるを得なかったと思います。当時はその一目瞭然の検証が出来なかったのです。

検証

論理・理屈の検証は、同じことが再現できるかどうかです。
かつて古代文明では支配者が日食や月食を予言し、自らの神秘性を高めたそうです。理屈が全くわからない古代の人々はさぞ驚いたことでしょう。支配者が太陽や月を隠してしまったと思ったかもしれません。

先程のピラミッドの石の運搬も木枠をつけることで石が運べるかどうか実際に実験しています。円弧にロープを巻きつけて引き上げることでロープを引く力がそのまま回転する力に変換されるため、非常に簡単に石を引き上げることが証明されました。

見て覚えろという人はケチか説明が下手なだけ

見て覚えろという人がいます。お互いに無駄な時間を省くために、教えてあげれば良いと私は思いますがそうはいかないようです。

その心理を考えてみます。

ただ単にケチなのか、説明が下手なのかのどちらかではないかと思います。

ケチとは自分自身が苦労して身につけたことを簡単に教えるのはもったいないと考えることに由来します。もったいないと考えるから、ケチな心理で教えたくないのです。目的は自分が苦労したことを理解してもらうことです。

説明が下手とは、うまく説明出来ないことを隠すために見て覚えろというのです。目的は説明出来ないことを誤魔化すことです。

病気の説明はネットで各自で見てもらう時代

現在は医師は問診を行い、病気を診断し、病気の説明を行い治療しています。

診断をつけるまでは同じプロセスであっても、病気の説明はネットで見てもらう時代が来るのではないかと思います。何故なら診察時間には限りがあるからです。病気を診断した理由を論理的に説明し、病名を告げるのです。病気の説明と治療方針をネットで各自確認してもらい、選択した治療法を医師に伝え治療していく時代がやってくるでしょう。既に自分のホームページに病気の説明と治療法を掲載している医師は診察中に簡単な説明を行い、詳しくはホームページをご覧くださいと伝えていることでしょう。このことが進むと病気の説明は医師の仕事では無くなる可能性があります。むしろ生身の人間が行うよりも待ち時間が短くなる分お得ですし、ネットで説明してもらう方が、深く理解出来る可能性があります。Q&Aも合わせて掲載することで、抱いている疑問も解決されると思います。

少なくとも説明の下手な医師に説明を受けるよりは、ネットでの説明の方がわかりやすいのではないかと思います。

現時点ではホームページでの説明は各医師が独自の判断で行っているだけです。近い将来病気の治療法がしっかりと確立され、医師による治療のばらつきが無くなることで、ネットで説明を受ける時代になるでしょう。実際には病気の治療法の確立が難しいかもしれませんが、もう少ししたら広まりはじめると私は考えています。

私は医者が余る時代を予測しています。人工知能が診断と治療を行うようになることで余ることを考えていますが、その前にまず説明分野はネットを活用することになるのかもしれません。

失言から日頃考えていることがわかる

失言して話題になる人がいます。失言については以前人が失言する理由と対策に書きましたが、失言したという自覚がない人が大半です。何故なら自分の真意は違うから失言ではないと思っています。

今回もある校長が問題発言をし、結局辞めることになりました。最近では国会議員が巫女さんを蔑むような発言をして話題になっています。

失言をする人は何度も繰り返します。何故なら人がどのように言葉を受け取るか考えていないからです。どのように受け取られるのか想像力が足らないために、誤解を招く表現をしてしまうのです。そして誤解なら良いのですが、人に対する日頃からの見方が言葉に表れています。

例えば話題の校長であれば女性軽視、話題の国会議員であれば職業による貴賎の意識が根底にあることからあのような発言に至ったと類推出来ます。自分と対等だと考えていれば、あのような物言いにはならないと私は思います。校長も国会議員もただの一つの職業です。偉いかどうか、つまり尊敬に値するかどうかは周りが判断することで自分からアピールするものではありません。多くの場合、偉そうに振る舞う人で尊敬に値する人はいません。何故なら本当に尊敬に値する人であれば、偉そうに振る舞う必要がないからです。ちなみに偉そうに振る舞う人はコンプレックスの現れです。自信や実力が無いことを隠し偉いと思ってもらうために、必死で偉そうに振る舞うのです。

人の立ち居振る舞いは日頃の考え方があらわれるものです。謝罪会見などは前もって準備して取り繕うことは出来ても、質問の返答など即興で答えると日頃の考え方が滲み出てしまいます。

失言から考え方を類推してその人の本質を見抜くようにするのも面白いかもしれません。