疑惑の一線市議、一線をこえて辞意表明

状況証拠から逃げ道がない疑惑の神戸市議がいつ辞めるのか興味がありましたが、先ほど辞意を表明したようです。

論理的に物事を判断するデジタル思考で考える人であれば、領収書を発行してくれた人が印刷をしていないと表明した時点で逃げられないことを瞬時に悟ります(そもそもデジタル思考で物事を考える人は先々考えるので、後で申し開きが出来ない行動は極力避けますが…)。逃げられないことを理解するために3日を要したようです。

3日で受け入れたことは政治家として生きていく可能性をギリギリ残したのかもしれませんが、かなり厳しいとは思います。

彼が将来政治家として生きていくことが出来るかどうかは、本当の意味で自分で辞める判断が出来たかどうかです。自分で判断して辞める決断をしたのであれば、生き残る事の出来る可能性が僅かに残りますが、党の人達から説得されて受け入れただけであれば判断力が乏しいので政治家は無理でしょう。

ここからは想像の域を出ませんが、領収書を発行した人が印刷していないと表明した致命的な事実にも関わらず、3日してからの辞意表明は自分での判断では無いように思います。何故なら自分で判断出来れば、致命的な事実により逃げられないことは明らかだから、即座に辞意を表明するはずです。もし即座に辞意を固めたものの、党の人達との調整をしていたのであれば大したものですが…。残念ながら質問の受け答えを見ている限りそこまでの大物ではなさそうです。

一線をこえるこえないで話題になった一線市議こと神戸市議、今回は一線をこえてしまったようですね。マスコミの前に立てば今度は一線をこえたということですか?と質問責めでしょうね。今年の流行語大賞にノミネートされそうですね「一線をこえる」。

肉食動物が空腹以外は動物を襲わない理由

肉食動物は空腹の時以外動物を襲いません。その理由は簡単です。他の動物を襲う際に反撃をくらうかもしれないからです。つまり自分の命の危険もあるため無駄な狩りをしないのです。

人類も進化の歴史において命がけで動物の狩りをする際、反撃される恐れがあるので無駄な狩りはしませんでした。現代でも狩猟採集生活をしている人達は食べる分以上の狩りをすることはありません。何故なら危険だからです。命の危険をおかしてまで無駄な狩りをしたりしないのです。

人間が知恵を働かせることでさまざまな武器を生み出し、狩りが反撃の恐れのない一方的な殺戮になったことで、歯止めが効かなくなったのです。ノーリスクだからこそ遊びで簡単に殺してしまう人達がいるのです。例えば木の棒しか武器が無ければ相手を殺そうとしても一撃で致命傷に至らないため、自分が無傷で相手を殺すことは困難です。木の棒で命をかけてまで遊びで人や動物殺す人はまずいないでしょう。

反撃されず相手を殺す知恵が高じて飛び道具が生まれ、更に研ぎ澄まされて一方的な殺戮の道具になってしまいました。一方的な殺戮出来る武器を手にすることは動物の世界では神のような存在です。何故なら反撃されないからです。相手の命をリスクを負うことなく、自在に奪うことが出来るからです。

人間はリスクを負うことなく相手の命を奪う道具を手にするという神のような力を持ってしまったのに、まだその意味を理解出来ずお互い殺しあう未熟な存在です。いわば子供が銃を持って振り回しているような状態ではないかと思います。

人間も動物の一種です。肉食動物が無駄な狩りをしない理由を理解し、反撃されないから理不尽に振る舞うのではなく、反撃されなくても節度を持って行動するようになりたいですね。もしかしたら人間が反撃されずに攻撃出来る武器の進化から、動物の範疇をこえることを恐れた先人達が宗教を生み出し、人類に無駄な戦いを避けるモラルを授けたのかもしれません。

せっかく人間に生まれたのですから、他者を思いやる心を身につけたいですね。別の言い方をすると、一方的に他の動物を殺すことが出来ることで動物の範疇をこえてしまった人間も、相手を愛しむことで無駄な殺しをしない動物の範疇に戻ることが出来るといいですね。

24時間はテレビ局を救う

あるテレビ局で24時間テレビ放送がされています。はじめた当時、夜中は放送は休止することが当たり前でした。その点で24時間放送することは画期的でした。更にチャリティーというコンセプトも他には無かったため、意味があったのだと思います。

私が残念に思ったのはチャリティーとして大勢の人に募金を求めながら、自分達は商売にしている点です。人に募金を求めるのですから、当たり前にテレビ局の売り上げ、出演者の出演料も全て寄付されていると誤解していました。出演料などで週刊誌では騒がれていますが、少なくともテレビ局が公式にCM料など収益を全て寄付しているとは発表してはいないようです。収益を全て寄付しながら公式発表しないような奥ゆかしい企業だと良いのですが…。私の想像の範囲内であれば公式発表していない時点で、チャリティーとしながら当日の収益を寄付してはいないのではないかと思います。出演者が出演料、テレビ局が収益を全て寄付しているのであれば心より応援させて頂きます。しかし商売としてやっていながら、人に募金を求めるのであればそのことを公表した上で募金を募るべきだと思います。何故なら誤解してしまう人が多いからです。

愛が地球を救う

がスローガンのようですが、

24時間がテレビ局を救う

が真実ではないでしょうか?噂によるとイメージアップに繋がるので企業は積極的にCMを出すそうです。目的がチャリティーではなくてテレビの収益なのでテレビ局を救うと表現してみました。テレビ局を救うついでに寄付を集めているように思います。はじめた当初は純粋にチャリティーの気持ちから始まったのかもしれませんが、今はお金を目的にしているように見えてしまいます。誤解であって欲しいと思います。

資本主義の世の中ですから私企業が行う経済活動は自由に行っても良いとは思います。しかし視聴者に誤認させて募金を募るのは反則だと思います。いわば募金箱を持っている人がアルバイトで給料をもらっているような状態です。

以前は独特の募金箱を見かけたらしていましたが、このことに気付いてから募金はやめました。まずはテレビ局が24時間の収益全てを寄付してから人に寄付を求めるべきだと私は思います。24時間の収益全てを寄付するようになれば喜んで寄付したいと思います。

24時間はテレビ局を救いますが、愛があると良いですね。

国の行く末をかけた2人のチキンレース

国の行く末をかけた2人のチキンレースが行われています。どちらも望んでチキンレースを始めたわけではないと思いますが、結果としてチキンレースが繰り広げられています。チキンレースとはチキンが憶病者を表す言葉で、度胸試しのゲームです。元々はお互い向かい合って自動車を走らせ、恐怖を感じた方がハンドルを切り、先にハンドルを切った方の負けというゲームです。先にハンドルを切ると憶病者で負けというルールです。言葉や行動で挑発して先に軍事衝突をした方が負けというチキンレースを行なっています。

チキンレースの本当の勝ちはチキンレースから降りること。つまり逃げるが勝ちだと私は思います。少し前に流行ったドラマは「逃げるが恥」だそうですが、私は逃げるは勝ちだと思います。少なくとも負けではないと思います。

チキンレースを繰り広げる2人は逃げることは負けだと考えているのではないかと思います。一番の負けは軍事衝突、戦争に突入することです。軍事衝突や戦争になれば戦争の勝敗はつくかもしれませんが、失うものが圧倒的に大きく誰も得しません。その軍事衝突や戦争に至る可能性があるチキンレースは危険だし勿体無いと私は思います。

国の行く末をかけた2人とも戦争をしたい訳ではないことを祈っていますが、少なくとも戦争になれば被害が甚大になることはわかっていると思います。

チキンレースを繰り返すと何らかの偶発的な事柄で、軍事衝突が起こるかもしれません。ミサイルが狙った所からズレて領地に偶発的に当たってしまうことなどです。万が一人的被害が出てしまうと引くに引けなくなってしまいます。

グアム周辺に打つと警告したことを目的論で考えてみると、警告に対する反応を見極めることだと私は思います。本当に打ってしまうと取り返しはつきませんが、警告することでまずは反応を試しているのです。宣戦布告とみなすとの反応があれば思い留まるが、いつもと変わらぬ反応であれば試しに打ってみるか見極めているのだと思います。正にチキンレースです。

国の行く末をかけた2人のどちらからでも良いのでチキンレースから早く降りて欲しいものです。どちらが大人の人間かが問われていますが…。どちらも鶏だと…。

軍事衝突が起こりませんように。

裏付けのない論理は宗教と同じ

裏付けのない論理は宗教と同じだと私は思います。再現性はないかもしれないけど、信じている人を救うという意味で宗教と同じです。そしてただ信じているのです。裏付けがあって信用しているのではなく、裏付けなくただ信頼しているのです。

根拠もなく、こうすれば健康になります。これを飲めば健康になりますなどです。ここでは具体的な名前はあげませんが、本当かどうか怪しいと思うものは根拠をみていくと根拠の部分を曖昧に誤魔化しています。

話をしている人達はそのように信じているのですが、根拠を聞いても明確な答えはかえってはきません。その点が宗教に似ているのです。ただ信じているのです。

ステロイドという薬がありますが、毛嫌いされる方がおられます。根拠を聞くと副作用が怖いとおっしゃいます。具体的に心配されている副作用を聞くと明確な答えはかえってきません。ただ怖がっておられるのです。ステロイドの場合、飲み薬や注射は量にもよりますが、量が多ければ必ず副作用が起ります。しかし塗り薬の場合には短期間で起こるとすればニキビ程度です。誤った薬を長期間使えば、多毛や皮膚の萎縮や血管拡張などは確かに起こり得ますが、短期間ではニキビくらいです。そのニキビを恐れて薬を使わないのは不思議な心理です。ステロイド忌避教とでもいうべき心理状態なのかもしれません。

裏付けのないまま主張し信じてもらおうとするのは布教活動に似ています。偶然起こった再現性のない極端な話を信じてもらう手段に使うことが良くあります。いわば私は宝くじを買ったら当たったから、貴方も信じて買いなさいというのと似ています。どちらも再現性がないからです。信じることで具体的にどのように違いが出るのかを明確にしないことも宗教に似ています。ただ信じた人の気が済むのです。

怪しい話は根拠を聞いてみましょう。根拠がしっかりしていれば裏付けのある論理です。根拠が曖昧であったり、その人がただ信じているだけであれば裏付けのない論理で、宗教と似ています。信じることで心が救われるという意味がありますが、お金という見返りを求められることが多いです。

信用に足る裏付けのある論理を信じるようにしましょう。

例えば天動説と地動説は人類の歴史においては、かつては天動説が主流でした。わずかな力しか持ち得ない人間にとって地球を動かす力が理解出来なかったのですから仕方がありません。しかし現在宇宙に向けてロケットや人工衛星を打ち上げることが出来るようになり、様々な観測から地動説で間違いないことが裏付けられています。地球を宇宙から観測することで自転していることを観測し証明することが出来ます。ただ天動説が主流の当時、地動説を裏付ける方法が乏しかったためなかなか信じてもらえませんでした。今なら星までの距離もわかるので、天動説が事実だと仮定すると星の移動速度が光の進む速さを遥かにこえてしまうことからも、天動説が矛盾していることは容易に理解出来ます。このことからわかるのは、人類は思い込みにより間違いを正しいと錯覚してしまいます。どんなに当たり前だと信じていても、裏付けをとってみることです。

ちなみに糖質回避教論理的宗教だと主張していますが、糖質を控えることでかなりの確率で明確な違いが出ます。私の考えている根拠は糖質を控えることで病気が改善することが予測出来ることです。病気を避ける理想の食べ方は具体的には血糖値の上がりにくい食べ方です。血糖値の持続測定により簡単に裏付けをとることが出来ます。正確にはリブレ 血糖値持続測定による測定結果から導き出した食べ方です。確かに血糖値を上げない食べ方が病気になりにくいのは、何人もの改善という状況証拠しかありません。まだ裏付けが十分とは言えないかもしれませんが、怪しい外国産の未認可の薬よりは信用出来ると思います。

信じる場合には根拠を確かめてみましょう。納得出来る根拠を示すものだけ信じるようにしましょう。

沖縄・北方担当相の失言の心理

通常の場合、失言する人の心理は他の人の受け取り方まで思い至らないことです。しかし今回の沖縄・北方担当相の失言は心理が少し異なるようです。その理を考えてみます。

一言で言えば舞い上がってしまっているのでしょう。何年か前に現在タレントとして活躍している元議員が、当選直後給料や待遇をテレビで大喜びして話題になりました。その心理と似たような状態なのだと思います。

2人に共通しているのは分不相応な地位を思い掛けず獲得してしまったことではないでしょうか?。

失言の際の表情は2人共喜びに満ち溢れています。通常の失言はうっかりというか聞き手の受け取り方の認識不足ですが、今回の表情からは遊園地にでも行く予定ではしゃぎ回っている子供のように見えます。

元議員で現在タレントは舞い上がった状態から通常の心理に落ち着いて議員を続けましたが、今回の沖縄・北方担当相はどうなるのでしょうか?舞い上がっていたことを素直に認め、今後は地に足をつけ落ち着いて仕事をすると宣言すれば続けることが出来るかもしれません。舞い上がっていたことを認めなければ、他の失言大臣と同様辞めざるを得ないと思います。とはいえ任命責任を問われるので即座に更迭させることは出来ないので、更なる混乱が予想されます。

政治が混乱するのは残念なことです。

言葉により仕事を失ってしまう失言、気をつけなければいけませんね。

病気の先の糖質回避

転ばぬ先の杖の諺から新しい諺を考えつきました。

病気の先の糖質回避

です。まだ証明されてはいませんが、多くの病気が糖質によって引き起こされているようです。今のところ明らかに証明されているのは2型糖尿病くらいかもしれません。しかし糖質回避によりいくつもの病気が改善あるいは消滅する状況証拠から、病気の原因が糖質であることが示唆されます。

糖質による明らかな病気があれば、病気を失くす目的で糖質回避することを以前から提案しています。今回は現在明らかな病気がなくても糖質回避をすることの提案です。病気を避ける理想の食べ方を盛り込んだ諺を作ってみたに過ぎません。

少なくとも花粉症やアトピー性皮膚炎、ニキビはかなりの確率で改善が期待出来ます。イボなどの腫瘍性病変も食べ方により改善が期待出来ます。逆に言えば食べ方によって病気を発症しているだけなのかもしれません。食べ方による病気は身体の発するSOSなのかもしれません。身体に負担のかかる食べ方をしていることを、病気として知らせてくれているのです。

病気の発症する先の糖質回避を促す諺が「病気の先の糖質回避」です。簡単な食べ方の工夫で病気になる確率が変わるのであればやらなければ勿体無いと私は思います。良性腫瘍であるイボが糖質回避により改善するので、悪性腫瘍に対しても効果が期待出来ると考えています。

まだ状況証拠しかない不確かな宗教のような話です。しかし糖質回避という身体に負担のない食べ方で病気が避けられる可能性があるのなら試してみて損はないと私は思います。もし信じて頂けるなら糖質回避あるいは病気を避ける理想の食べ方を試してみて下さい。

72回目の原爆の日

72回目の原爆の日を迎えました。
人類が初めて実験ではなく武器として核兵器を使ってしまった日です。日本としては使われてしまった日です。

人間としてまだ未熟な幼児が、間違って銃を手にして撃ってしまったようなものだと思います。幼児が刀を持って振り回しても、自分が怪我をしても大人を殺してしまうことはないでしょう。しかし銃は違います。幼児でも引き金をひくことさえ出来れば、大人を殺してしまうことがあり得るのです。そもそも幼児が武器を持つことは通常ありませんが、間違って手にしたとしても刀であれば間違いは起こりません。しかし銃であれば間違いが起こり得ます。つまり銃は幼児にとって予測不可能な結果を招く分不相応な武器だと言えると思います。だから銃は間違っても幼児が手にしないように厳重に管理されているはずです。人類がまだ分別がつかないまま手にした武器が核兵器だったのだと思います。

人間が未熟であれば未熟である程、武器は威力があればある程使いたくなってしまうものです。人類が成熟してから手にすべき破滅的な威力を持つ核兵器を未熟なうちに手にしてしまった結果、使ってしまったのです。

その直後に長崎では使われてしまいましたが、その後72年間攻撃に使われることはありませんでした。使われなかったことわ幸いですが、残念なことに人類が成熟した結果使われなかった訳ではありません。銃を突きつけ睨み合うのと同じように、核兵器をお互いが突きつけ牽制した結果使うに使えなかったに過ぎません。過程はともかく、核兵器が使われないで済むことが何より大切です。

広島と長崎の惨状から本来人類が使ってはいけない兵器であることを理解した一面もあるとは思います。核兵器廃絶は絵空事ですが、自分達からは先制核攻撃しないことを全ての核保有国が約束することで結果として誰も核攻撃をしないことになります。

原爆が人に対して使われてしまった事実は変わりません。その事実は変わらないのですから何を学ぶかが大切です。人類が2度と使ってはならないと学んだのであって欲しいと私は思います。

私は核兵器だけでなく武器が必要なくなる世の中を望んでいます。

今後も核兵器が使われることなく、人類が成熟することを望んでいます。私達が生きている間に、争うことがなくなり武器が必要無い世の中になるといいですね。

73回目の原爆の日も平和に迎えられることを心より望んでいます。そして100回目も200回目も平和に包まれた平和祈念式典が開かれるといいですね。

原爆で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り致します。

平和の押し売り?

当たり前すぎて平和の有り難みを意識出来ない人もいるとは思いますが、平和に対する押し売りが散見されて私は悲しく思います。私が平和の押し売りのように感じてしまうのが8月6日が小学校の登校日ではなくなったことを報道する姿勢です。

平和は平和ではないことを知らなければ実感出来ません。だからこそ平和学習は大切だと思います。しかし8月6日が登校日では無くなったからといって平和の意味が変わる訳ではありません。逆に8月6日を登校日では無くしたことを問題にするのは不謹慎狩りの心理なのではないかと危惧します。8月6日を登校日から外すのは不謹慎だという考え方が根底にあるように私は思います。登校日が変わったからと言って8月6日の意味が変わる訳ではありません。実際に報道されている方も悪意があって8月6日の登校日が変わることをわざわざ報道される訳ではないと思います。

登校日は教師と児童とその保護者の問題です。問題と関係無い部外者がどのように思おうと、口出しするのは越権行為です。争いの元は他人の問題に口出しすることから始まります。平和の話をしながら他人の問題に口出しをするのは、争いの種を蒔いてしまっているように思います。

少なくとも自分が困らない問題で他人を非難や口撃することはやめましょう。それが平和の第一歩です。

教師や児童・その保護者からやはり8月6日は登校日に戻して欲しいという要望があれば、改めて検討すれば良いのではないでしょうか?8月6日を登校日から外すことに、もし憤りを感じてしまうのであれば不謹慎狩りの心理に陥ってしまっているのかもしれません。平和のために心を鎮めるようにしましょう。

平和は争う心を捨て去ることから生まれます。自分が正しいから自分に従えという考え方は平和を振りかざした押し売りに思えます。

平和はまず自分が争う心を捨て去ることが第一歩です。何故相手が憤るのか理解することが第二歩です。お互い歩み寄ることの出来る解決策を見つけるのが第三歩です。

8月6日の登校日にこだわるよりも、どうすれば子供達に平和の有り難みを理解してもらえるかを報道して欲しいですね。

明日は72回目の広島の原爆の日です。長崎の原爆の日8月9日と共に理不尽な暴力で死ぬことのない平和の有り難みを思い起こすようにしたいですね。

平和のために自分に何が出来るかを考えたいですね。

人工甘味料は危険?

人工甘味料が危険と考える人達がいます。私は一種の宗教のようなものだと思います。はっきりと安全だというは答えは無いからです。安全だという保証がないから危険だと疑っているのです。何かいるかも知れないから暗闇を闇雲に怖がることに似ています。

正直なところ人工甘味料が絶対安全だと保証出来るだけの情報を持ってはいません。しかし明らかな健康被害をもたらす程危険だとは思えません。それよりも糖質の方が余程危険だと私は思います。何故なら糖質は様々な病気を明らかに引き起こすからです。

一つ人工甘味料が害が無いと私が推測する根拠があります。それは人工甘味料がどれだけプールの中にあるか調べた結果についてです。人工甘味料がプールの中で検出されることがあるそうです。実は排尿の際に人工甘味料はそのまま排出されるため、プールの中の人工甘味料は排尿を表すそうです。ということは人間の身体を素通りすることを意味すると思います。素通りするものがそれ程悪さをするようには思えません。

かといって人工甘味料は絶対安全と証明されている訳ではありませんので、証明されるまでは摂り過ぎに気をつけながら上手に付き合う方が良いのでは無いかと思います。根拠も無く恐れるのは宗教変わりませんので、人にも恐れるように強要はしないことです。人の問題に立ち入らなければ、争いは起きないからです。

人間の身体を素通りする人工甘味料を恐れる宗教を信じるか、恐れない宗教を信じるかのどちらかです。私は身体を素通りする人工甘味料を恐れない宗教を信じています。砂糖には明らかな健康被害がありますから、人工甘味料の方が余程安全だと今のところ考えています。

物事の考え方の参考になれば幸いです。