夢とお金の国

夢とお金の国、他の国からみるともしかしたら日本はそのように見えているのかもしれませんが、今回は別の話です。

毎年値上げしているあるテーマパークの話です。

子供向けを装っていますが、本来大人向けで言い訳のために子供も楽しめるように装っているというのが正しい解釈だと思います。中学生や高校生になっても楽しめるのは本来大人向けだからです。

そして毎年値上げしています。魅力が高まったから値上げしても入園者は減らないだろうという思惑が透けて見えます。お客さんのことを一番に考えていれば、待ち時間が長く、大して乗り物に乗れないので値上げはしないと思います。利益を目的にしているのは明らかです。企業であれば当たり前だと思われるかもしれませんが、企業が利益だけを追い求める時代は終わったと思います。少なくとも利益を求めない企業が現実にいくつか生まれています。それらの企業は目的が利益ではないのでブレないのが強みです。残念なのが日本の企業ではないことです。成功しているからこそ利益の考え方を「利益は企業の為ならず」のように切り替えてみて欲しいものです。

お金の魔法がかかっているのかもしれません。テーマパークの経営者もお客さんも。利益だけを追い求める企業は魔法が解けた時点で、手痛いしっぺ返しを経験するように思います。値上げしても入園者が減らないと、もしかしたら入園者が減るまでこれからも毎年値上げを続けるかもしれません。ただ一度入園者が減り始めると、魔法が解けた人が増えた結果なので慌てて値下げしても入園者が戻らなくなるかもしれません。

ちなみに大阪の夢とお金の国は、お金の国であることを隠そうとしていないので潔いと思います。ファーストパスがお金で買えることです。お金で並ぶ時間を買ってもらうという発想のようです。自分で余分にお金を払うかどうか選択できるのが理に適っていると思います。

魔法の解き方

夢とお金の国の、お金の魔法の解き方を考えてみます。夢とお金の国の中のことは、お客さんを喜ばせることが目的ではありません。目的は利益です。お客さんを喜ばせることは手段のようです。利益を最大化するために夢を見させてくれているのです。確かに楽しい夢かもしれませんが、お金を稼ぐために幻を見せられていると冷めた目で見てみると魔法も解けるかもしれません。

とはいえ恋人や子供達など、誰かの喜んだ顔を見るために、あえて魔法にかかるのも楽しいひと時なのかもしれません。

いずれにしても夢とお金の国、値上げしても入園者が減らないだろうとタカをくくっているように見受けられるので、入園者が減るとどのように方針を転換するのか興味深いなと思います。

実際には日本国内のお客さんの魔法が解けても、海外からお客さんを呼び込んで、テーマパーク自体は困らないのかもしれません。出来れば「利益は企業の為ならず」の考え方を取り入れて、どこにも負けない企業になって欲しいと私は考えています。

日本の人や物が世界で信頼される理由

日本の人や物が世界で信頼されています。かつて日本製は信頼出来ない物の代名詞だった時代もあったようですが、今では世界トップクラスの信頼を表すブランドになっています。日本で売れたということが、日本の市場に受け入れられたというブランドにすらなりつつある程の信頼感があるようです。今回ふと思いついた日本の人と物が世界で信頼されている理由を考えてみました。

当然日本人全てが信頼出来る良い人な訳ではありませんが、成功している日本人の多くが共通した考え方をしていると思います。相手のことを思い遣ることが出来るということです。

日本の人や物が世界で信頼されるのは、買った後のことも考えて物を売るからだと思います。日本人は人と長年に渡りより良い関係を築くことを目的として商売をしています。日本は歴史的にみると政治体制が長年安定し、人々が同じ場所で生活することが多かったのです。多くは農家で農業に従事していましたので、引っ越すことが出来なかったのです。商売人もわざわざ引っ越す必要が無かったので長年同じ場所で商売するのが基本でした。粗悪品を騙して売ったとしても長くは続けられません。長く商売するつもりなら、相手のためにもなる商売をするのです。買った後で相手が後悔すると信用を失い、例え利益が出たとしても良しとしないのです。そのため買ってもらった後でわかった不具合も、後悔させないために出来るだけの対応をするのです。あらかじめ不具合を生じないようにするのはもちろん、不具合がわかれば改善策を考えます。相手が困ることを避けるためです。未知の不具合にも備えるために、どうしても価格が高くなってしまいます。高い価格は信用代のようなものです。

一方国の体制が何度も変わり、隣人が何度も変わるのが前提の国々では日本人のような発想は理解できません。騙された方が知恵が足らない分、間抜けだと思われるのです。お金と物を交換した時点で終わりです。不具合が後で分かっても、買う時点で見抜けなかった買い手の落ち度だと考えるようです。苦情を言ったとしても納得してお金を支払ったのだから、筋違いだとされるようです。連絡先のわからない露天や行商人、訪問販売での一度きりの商売のような関係性です。

わかりやすく言えば、日本人は後々のことを考えて落ち度なく万全な商品を売るのに対して、他国は安くする分お金を受け取った時点で終わり、売った切りです。何度も購入する商品であれば、次から購入しなければ良いのですが、船や列車など長年使うものはこの違いを良く理解しておくべきです。そして理解されているからこそ日本の人や物が世界で信頼されているのだと思います。

日本人にとっては当たり前の相手の信頼を得ることを、無駄だと考える人々がいることを知っておくと商品の売り方が変わると思います。信頼に対する考え方の違いが理解されないと製品の価格だけで判断されてしまうことになります。

全ての元になるのが、日本人は「和」を大切に考えているからだと思います。周りの人達と仲良くすることを島国の中で長年かけて培った日本人にとって何より大切なのは、お互いより良い関係を築くことです。だから日本語は相手の顔色によって語尾を変えることが出来るのです。日本語の仕組みは諍いを避ける目的に、語尾によって簡単に意味を反対に出来るのです。外国人から日本語が曖昧だと言われるのは、日本語の言葉をそのまま翻訳するからです。日本語の言い回しを翻訳するから曖昧に聞こえるだけで、日本人同士ははっきりと意思の疎通がはかれています。翻訳の齟齬により曖昧な印象をなだけです。

私は日本の人や物が世界で信頼されているのは、「和」を輸出しているからではないかと思います。

Kindleが1巻無料にする理由

Amazonの電子書籍のサービスであるKindleストアですが、画期的なサービスがあります。
通常の書籍は定価販売することしかできませんが、電子書籍は割引販売することもできるようです。通常の書籍と異なり電子書籍はデジタルでコピーが簡単で、ほとんどが管理費で通信費はかかるかもしれませんが、コピー自体にはお金がかかりません。
そのため大胆な試みが行われています。
Kindleの電子書籍では1巻が無料であったり、期間限定で1巻~3巻まで無料だったりします。無料でなくても9割引きの本もあります。

Amazonも慈善事業で無料にしているわけではありません。
当然目的があります。
一つは顧客サービスだと思いますが、もう一つの目的は続きを見てもらうことです。
いわば1巻丸々立ち読みしてもらって、お金を払ってまで見たいと興味をもってもらった人だけに続きを購入してもらうというビジネスモデルです。
面白いのは期間限定の無料サービスがあったり、電子書籍の値段が変わることです。
今はいらないからもう少し待ってみようと思っていると、値上がりしたりします。
つまり今買わないと損をする仕組みが作られているのです。

これは衝動買いの心理を巧みについた商売です。
ついつい買ってしまう人は衝動買いの心理の話を読んでみられることをお勧めします。
対策は1巻を読み終わってすぐに購入してしまわないことです。
すぐに読みたい心理に陥りますが、そこに罠があります。
1巻を読み終えた直後だと続きが知りたくて、お金を払ってでも買いたいものだと錯覚してしまうのです。お勧めなのは30分程度経ってからお金を払ってでも続きを知りたいかどうかを冷静に考えることです。
ちなみにお店で見かけた商品を衝動買いしそうになったときにもこの作戦は有効です。一度その売り場から立ち去るのです。

Kindleストアの上手な使い方は、まずほしい本を決めることです。
良い本がないかなと思いながら探していると、衝動買いしてしまうからです。
欲しい本が安くなっていれば購入することです。
特に0円になっている場合には購入します。
続きの購入は改めて考えることです。
衝動買いしないためでもありますが、残りの本も値段が上下することも理由の一つです。せっかくなら値段が下がるまで待つつもりでいると、衝動買いしてしまわなくなります。

あくまでも空想に近い予想ですが、もしかしたらAmazonはプライムビデオのように将来書籍も定額読み放題サービスをするつもりなのではないかと思います。
そうなると消費者にとってはありがたいことですが、作者は困る時代になるのかもしれません。

飾り消費は見栄消費と贅沢消費

先日実消費と飾り消費について書きました。
消費には飾りを削ぎ落とした最低限の消費である実消費と様々な付加価値のついた飾り消費に分けることができるという考え方です。
様々な飾りがつくことで楽しく感じたり魅力を感じたりするようになっており、その満足感に対してそれなりの対価を払うようになっています。

今回は飾り消費を更に二つに分けてみます。
見栄消費と贅沢消費です。この二つは重なる部分もあり、見栄消費でもあり贅沢消費でもあるということもあります。
見栄消費とは人に見られることを前提とする自慢の意味を含む消費のことです。
本人が意識しているか無意識しているかは別として人に見られるところでの消費は、見栄消費の一面があります。人に見られるから高いものを選んでしまうというのは見栄消費の典型的なものです。
腕時計やネックレスなどの身に着ける装飾品は見栄消費の一面があります。
年収1000万の人が、自分は年収が高いのだから高級車に乗らないといけないあるいは恥ずかしいと考えるのも典型的な見栄消費です。
贅沢消費とは人に見られることを前提としない、自己満足の消費のことです。
人に見られない自宅のソファーなどに高級なものを買うのは自己満足ですから贅沢消費です。しかし人を招いてソファーを人に見せることが前提であれば、それは見栄消費でもあります。

自己満足である贅沢消費は自分自身で満足感を得るという意味がありますが、見栄消費は人に見られることを前提としており、人がどう思うかを勝手に先読みして消費するのであまり意味がないように思います。
人に見られるものに高いものを使う深層心理には見栄消費の一面があるのではないでしょうか?

よほどお金に余裕のある方は見栄消費も贅沢消費をしても問題ないと思いますが、普通の人が見栄消費や贅沢消費をしていると気が付いたときにはお金がないということになりかねません。自分の消費が実消費なのか見栄消費なのか贅沢消費なのかよく考えてみましょう。

実消費と飾り消費

消費、つまりお金を使うことには二つあります。
実消費と飾り消費です。
実消費とは必要最低限の消費を表します。
食事では身体を維持することを目的とした食事のことです。
美味しいとか楽しいということはそぎ落とした、栄養補給としての食事です。
他にも衣食住という言葉がありますが、衣料に関しても人に不快感を与えない程度の最低限の衣服を身にまとうことを表します。住まいに関しても広い狭いに関わらず、雨露がしのげることを表します。

実消費に快適性や楽しみという飾りを施すことで、より魅力的に見える商品になるのです。
飾りをそぎ落としたものが実消費です。

飾り消費には、明確なメリットを生み出すことを含みます。
例えば時間が短縮できる・便利になるなどの明確なメリットを生み出す場合です。
時間短縮は飾りでもありますが、限られた時間を有効に使うという意味では実消費でもあります。飾りの中には実消費と曖昧な部分もあるのです。
例えば東京大阪間を移動することを想像してみてください。
移動するというだけであれば、鈍行列車、自家用車、新幹線、高速バス、飛行機などが考えられます。
移動という観点だけで見れば実消費は鈍行列車や一般道を走っての自家用車での移動を表します。実際には自分の時間価値を考えると、移動時間が長くなることは移動費よりも時間の損失が大きくなるため、現実的な実消費は新幹線、高速バス、飛行機での移動と言い換えることができます。これらの中で飾り消費を表すと、新幹線でいえばグリーン車、高速バスや飛行機での特別席も飾り消費です。移動時間は変わらないにも関わらず、座席の快適性という飾りをお金を払って手に入れるのです。
時間短縮という明確な違いがあれば、それは飾りか実かは人によって違うということがいえます。学生のように時間はたくさんある人にとっては、時間を短縮できることには実消費としての価値が乏しいのです。逆に1分1秒を争うような時間の使い方をしている人にとっては、時間を短縮できることはどんなことをしても手に入れたい実消費といえます。これは人によって時間密度が異なることに起因すると思います。

別の例えを考えてみます。
サービス業を考えてみます。
至れり尽くせりの接客をするのが当たり前の業態として標準となっていると、それが実消費です。しかしある企業が工夫を凝らして飾りをそぎ落とすと実だけが残るため実消費となります。接客することが飾りであることがわかるようになるのです。
そもそも外食自体が飾りではありますが、その議論は別として、外食するとしたらと考えてください。

ステーキを食べることを考えた際、通常は席に座って注文を聞いてもらってステーキが運ばれてきます。これが当たり前でした。少し前まではステーキを食べることに関してはこれが実消費だったのです。飾り消費とは神戸牛や松阪牛などの高級和牛を使ったステーキであったり、ホテルなどの付加価値を表していました。
そんな中でステーキを食べてもらうという実だけを残し、飾りを削ぎ落としたのが『いきなりステーキ』です。いきなりステーキではカウンターでお肉の種類と焼き加減を伝え、焼けたお肉をセルフサービスで自分で席に運び、立ち食いで食べるスタイルです。いきなりステーキが表れたことで、注文を取る、料理を運ぶ、座って食べるということが飾りであることが浮き彫りとなりました。

他の例では様々な分野で俺の株式会社が飾りを削ぎ落とした飲食店を生み出してくれました。
ホームページを拝見する限り、俺のイタリアン、俺のフレンチ、俺のやきとり、俺の割烹など多数の業態で繰り広げられています。
飾りを削ぎ落とすことで実際にイタリアンを食べてもらうのに必要なこと、フレンチを食べてもらうのに必要なことなどそのお店ごとで実だけを残し、飾りを取り除いていくとあの業態に落ち着いたようです。飾りを取り除くことで経費を節減し、食材の質を上げています。回転率をあげることで利益を確保しています。私は俺の株式会社は『利益は企業の為ならず』を実践されている企業ではないかと思います。何故なら、俺の株式会社はスタッフの給料も多く払っているとのことです。スタッフも一定の収入を確保した上でお客さんに美味しいものを数多く提供するという理想を実現するために、運営資金として利益を確保しているように思います(実際には利益を追い求めているのかもしれませんが、少なくともお客さんを喜ばせる方向にぶれがないので、躍進できているのだと思います。)
飾りを徹底的に排除することで、驚異的な値段設定を実現しているようです。
このことからイタリアンやフレンチであっても座って食べるということは飾りであることが証明されました。座って食べるということが贅沢だという価値観を提供してくれたのです。

いきなりステーキや俺の株式会社ができるまで、ステーキは座って食べるもの、イタリアンやフレンチも座ってゆっくり食べるものということが最低限の実消費でした。
飾りを削ぎ落とす業態が表れたことで、接客してもらうことは飾りだったのだと消費者を気づかせてくれたのです。
飾り消費がしたい人は今まで通りステーキハウスやホテルに行ってステーキを食べるでしょうが、ステーキを食べたいだけの人は飾りのないいきなりステーキを選ぶことになるでしょう。イタリアンやフレンチはゆっくり食べるという飾りも必要だと考える人はこれまで通りの業態のお店に行くことでしょう。
飾りはいらないという人は飾りのないお店を選ぶ傾向にあります。

お寿司もどんどん飾りがなくなっていきつつあります。
回転寿司という業態が一般化した現在、通常のお寿司屋さんは雰囲気や高級な食材を楽しむことができるという意味で飾り消費です。
お寿司を食べるということで考えると回転寿司が実消費ですが、回転寿司の中でも注文を店員さんが聞くというのは飾りかもしれません。決まった内容を受けるだけであれば、タッチパネルで充分です。回転寿司と銘打っていますが、すべてタッチパネルの注文で作る回転寿司屋さんも出てきました。

いきなりステーキや俺のフレンチなどの例でわかるように、人は飾りがなくなったことで初めて飾りだったと気づくことがあります。
いずれにしても飾りだと気付くことができるのは比較することで初めて気づくことができます。
消費する際にこれは実消費?飾り消費?と考えるようにしてみると良いかもしれません。
今飾り消費をする余裕があるのか?飾りの意味があるのか?を考えてみるとよいのかもしれません。
先日書いた『お金の貯まる人とお金の貯まらない人の違い』で書いた違い、持っているお金によって買うものが変わる人の場合お金が貯まらない傾向にありますが、買うものは飾り消費をしている傾向にあります。言い換えるとお金の貯まる人は実消費、お金の貯まらない人は飾り消費をしているのではないでしょうか?
飾り消費をなくしていくだけでお金の使い方が変わってきます。まずは飾り消費を意識することからはじめてみましょう。

次は飾り消費を見栄消費と贅沢消費に分けてみたいと思います。

先物買いの銭失い 〜新しい諺〜

利益は企業の為ならず
に引き続き新しい諺を考えて見ました。

先物買いの銭失い

です。その意味は3つあります。一つは文字通り先物取引をするとお金を損してしまうという話です。予見することの出来る人はいても、未来は誰にも予測出来ないため先物取引を繰り返しているうちにほとんどの人が損をしてしまうからです。

もう一つは先物という言葉が最先端の物という意味です。最先端の物を買うのは損をするというか、割高になることが多いということを表します。確かに最先端の物はこれまでにない商品なので一部の熱狂的な人達の購買意欲を刺激します。その熱狂的な人達の購買意欲を刺激することで高い値段でも売れるのです。企業としても開発費を出来るだけ早く回収したいため、高い値段で売り出すのです。

企業としても最先端の物を開発することで新たな市場を切り開くことを目指します。最先端の物は開発費がかかるため開発費を回収するまでは高い値段で売り出すことになります。最先端の物の開発費が回収された後に、普及価格の商品が売り出された時点で買うのがお得だという考え方です。

最後の一つの意味は同じ最先端の物でも人より先に買うという意味での先物です。発売直後は値段が高くしばらくすると値下がりするので、先に物を買うという先物を損をするという考え方です。

先物買いの銭失いは電気製品などに当てはまる新しい諺です。面白いのは製造原価は同じはずの電気製品が生鮮食品のように時間と共に値段が下がることです。これは需要と供給の関係から値段が上下することに由来します。電気製品の発売直後には人々の物欲を刺激することで高い値段でも欲しいという需要が生じます。供給よりも需要が多くなるため値段は発売直後に最高になります。需要と供給のバランスが落ち着いてくれば値段が下がるので、最先端の物を買うとしてもこの時点での購入がお得です。

一番のお勧めは最先端の物ではなく普及価格帯の製品が発売された後に、しばらく時間を置いて値下がりした物を買うことです。

先物買いの銭失い

こんな考え方を少し考えてみて下さい。

利益は企業の為ならずほどの切れはないと思いますが一理あるのではないかと思います。

新聞の折り込み広告でふと思う

新聞の折り込み広告でふと思います。
新聞は要らないけど、折り込み広告は地域の情報源として一定の意味があるのではないかと。
かと言って折り込み広告を得るために、インターネットで手に入る新聞記事に月に何千円ものお金を出すのはもったいない気がします。でも折り込み広告は欲しいとは思います。
新聞の定期購読をやめる人もいる時代、新聞販売店の事情も含めて一つの案を考えてみました。
折り込み広告だけ欲しい人と定期購読の減る新聞販売店の両方が得をする案です。
解決案とは折り込み広告だけ無料で配達してもらうという案です。(折り込む新聞がないので正確には折り込み広告とは言えませんが) 無料で配達してもらうのですから契約は必要ありません。契約の代わりに、無料配達を希望する家庭はポストにシールをはって折り込み広告希望の意思表示をするのです。要らないと思えばシールを剥がせば良いのです。配達員もシールのある家だけ配れば良いのでそれ程負担にはならないと思います。一軒家のポストを全て見て回るのは無理なので、マンションなどの集合住宅だけ出来るサービスかもしれません。新聞販売店は折り込み広告の配達件数が増えるメリットがあります。

インターネットで新聞記事が無料でリアルタイムで手に入る時代なので、残念ながら新聞配達のシステムはいずれ無くなってしまうと思います。私には新聞配達がインターネットに打ち勝って生き残る策は思い付きません。その無くなるまでの期間を少しくらい延長する延命効果は期待できるのではないかと思います。

どれだけ折り込み広告だけの希望があるかわかりませんが、販売店にとっても配達件数を稼げるのでお得ですし、配達員も集合住宅だけであれば負担は最小限で済みますし、無料で折り込み広告がもらえる家庭もお得です。三方よしの策だと思いますがいかがでしょうか?

何より新聞をとらずに折り込み広告が手に入ると面白いと私は思いました。

お祭り価格という考え方

お祭り価格という考え方があります。
お祭りだと露店の商品が思った以上に素敵に見えてしまいます。お祭りでなければ決して買わないような割高な価格でも、価格以上に魅力的に思わせる魔力がお祭りにはあるようです。

お祭りの雰囲気が気分を高ぶらせて、日常とは違う心理に引き込むことで、お祭り価格でも露店で買い物をしてしまいます。

日頃なら価格に敏感な人でも、年に一度のお祭りだとあまり価格にこだわらず、つい魅力的に見える物を買ってしまいます。衝動買いの心理を上手く活用して、お祭り価格を成り立たせています。

もしこのお祭りの機会を逃すと来年まで買うことが出来ないという焦燥感も、衝動買いの心理と同じで、購入してしまうことに拍車をかけます。

このお祭り価格は様々なイベントでも成り立ちます。非日常を演出することで少し高めの価格設定でも、衝動買いの心理の応用で買ってもらうことが出来るようです。

例えばデパートの物産展などはお祭り価格の良い例です。物産展というお祭り的な非日常のイベントでは少し高めの価格でも、気分が高ぶっているおかげで、つい購入してしまいます。

こうして考えてみると、様々な場面でお祭り価格はあるようです。例えば身近なコンビニでもお祭り価格はあるようです。ただし競争の激しいコンビニでは、あからさまな高めの価格設定ではなく少しだけ高めの価格の限定商品を出しているようです。その際様々なイベントを開催し、いわばお祭りを自作し、限定商品を少し高めの価格で売るのも、お祭り価格の亜流のようなものです。

少し高めの価格がお祭りのお楽しみ代だと考えて、高いのか安いのかを判断してみるのも面白いのかもしれません。

自作お祭りのお祭り価格につい釣られて、衝動買いしてしまわないように気をつけてみたいと思います。

私は日常価格とかけ離れた価格の商品は、自作お祭り価格として一歩引いて判断するようになりました。割高な商品にその値段の価値があるかどうか、お祭りで無くても買うかどうか考えてみると良いと思います。

罰則主義の限界

現在多くの国々は法治国家です。
法律によってやってはいけないことが制限されています。
法とは決まりこと・規則のことで、律は破った場合の罰則のことです。

罰則主義は怒られるから○○してはいけませんという親のしつけと同じです。
本来なら怒られるから○○してはいけないのではなく、誰かを傷つけるからか誰かを不快な思いをさせるからしてはいけないはずです。
怒られるからしてはいけないということを裏返せば、怒られなければやって良いということにつながります。
このように育てられた子供はうまく隠してばれなければ良いと誤解しています。
つまりやってはいけないことを学ぶのではなく、見つからなければ良いことだと学んでしまうのです。
(非常に残念なことですが、親自身が見つからなければ良いと誤解している人もいます。)

不正の発覚したドイツの自動車会社は正に見つからなければ良いと考えて、検査の時だけ特殊な動かし方をしたようです。
明らかに騙そうとしているわけですから、法を犯しているわけです。発覚した法律違反に対して、罰則主義なのですから相応の罰則が必要なはずです。
わざわざ不正プログラムを作ったという事実は、詐欺的行為ではなく詐欺以外の何者でもありません。
(確か韓国では実際に裁判に訴えたとの記事も拝見しました)

よほど経営陣が無能でなければ、不正が発覚し法律に照らし合わせて罰則があったとしても不正をした方が得だと考えたはずです。(経営陣が賢ければそもそもこんな不正はしなかったでしょうが…)
その証拠に最大で課される可能性のある罰金金額を上回る対策費が既に手当されていると発表されていることです。
ばれても元が取れると考えて不正を行っている、詐欺の確信犯です。
取り締まる側は、このような不正は想定していなかったはずです。

ここで罰則が手ぬるければ、他のメーカーも真似してしまう危険性をはらみます。
真面目に取り組んでいるメーカーが損をすると考えてしまうと、ばれても大した損はしないから不正をしてしまう危険があります。

私は罰則とは別に、大手自動車会社の巨額詐欺事件として取り扱い、詐欺ですから契約を無効として対象車種全てにおいて利息も含めて全額弁済というのが再発防止を含めた妥当な対応だと私は思います。

自動車会社が倒産する危険があるから現実的には無理だという人がいますが、詐欺の被害者にとって会社の存続は関係のない話です。
詐欺師に対してその後の生活の心配をして逮捕しないというのはおかしな話です。

現時点では罰則主義なのですから、他の会社に対して再発防止になるような罰則が必要です。
不正なことをして信用を失うという不確かなものではなく、不正なことをすると明らかに損をする仕組みにするべきです。

更に信じられないことに、ドイツ政府は2011年には不正を認識していた可能性があるということです。

資本主義の限界でもあると思います。不正をしてでも利益を追い求めているからです。
会社の存在目的が利益だと誤解している企業は、これから淘汰されていくと私は思います。

利益は企業の為ならず

私の作ったこの諺が一言で表していると思います。利益は誰のためにあるのか、企業は誰のためにあるのかを考え直す時期にきていると私は思います。

そして正直者が馬鹿をみる世の中ではいけません。
自動車会社が世間の想定をこえる不正を行ったわけですから、自動車会社の想定を超える罰則を加える必要があると私は思います。

付加価値という贅沢

付加価値がお金を生み出し、付加価値が新しいことを切り開きます。価値あるものに更に価値を付ける訳ですから価値が高まり、余分なお金がかかるのも当然といえば当然です。新たな価値を付け加えると知恵を出した人が得をする仕組みが、付け加える価値を探す動機付けに役立ちます。資本主義は付加価値を探す動機付けにより発展してきました。

付加価値には様々なものがあります。早いことや大きいことが付加価値となります。通常は早いことが付加価値となりますが、場合によっては遅いことが付加価値となることもあります。大きさに関しても車では大きいことが付加価値となりますし、持ち歩く携帯電話などでは小さいことが付加価値となるでしょう。

状況や環境によって正反対のことが付加価値となることがあります。付加価値は人によって異なります。更に同じ人でも置かれた状況によって付加価値が異なります。例えば宿泊一つとっても少しでも楽をしたいと思えば何もかも揃って便利なことが付加価値ですが、ゆっくりしたいと思えば携帯電話すら届かない何もない不便な宿が付加価値だと感じます。

これは価値観が人によって異なるため、価値を見出すポイントが人によって異なるためです。同じ人でもその時に求めるものが変われば、付加価値だと感じる内容も異なります。求めるものと正反対の付加価値を提案されても、選択することはないでしょう。同じ物事でも置かれた環境や立場、求める事柄によっては付加価値だと感じる内容は異なるということです。

付加価値とは贅沢と言い換えることが出来ます。何に贅沢だと感じるかは人それぞれであり、その贅沢に対して払えるお金も異なります。

逆に付加価値を削ぎ落として、必要なものだけを取り出してみると本当に必要なものだけが残ります。外食で付加価値を削ぎ落としたものは立ち食いになりますし、ホテルで付加価値を削ぎ落としたものはカプセルホテルになります。小売で付加価値を削ぎ落とすと段ボールのまま陳列するスタイルにいきつくと思います。付加価値を極限まで削ぎ落としたものがあると、付加価値を実感しやすくなります。その差を認識出来るようになるからです。段ボールでの陳列が付加価値の無い状態だと認識すれば、陳列棚での陳列で同じ物の値段がいくらになるのかがわかるようになります。陳列棚に陳列してもらって見やすくなるという付加価値に対して幾らの対価を支払うかを認識出来るようになるのです。商品を見やすいという付加価値・贅沢に対して対価を支払うという考え方をするとこれまでとは違う価値観に気付くことが出来るかもしれません。

コンビニは便利という付加価値の塊のようなものです。そう考えるとコンビニでの買い物は贅沢なのかもしれません。