見て覚えろとは説明出来ないだけ

職人の世界など見て覚えろと言われるそうです。医者の世界でも見て覚えろと言われることがあります。武道でいう見取り稽古のような状態です。以前見て覚えろとはケチなのか説明出来ないと書きました。改めて考えてみますと、説明出来ないだけだと思い至りました。

説明出来ない

説明出来ない理由は二つ考えられます。一つは苦労して手に入れた技術を人に教えたくないという心理的に説明出来ないこと、もう一つは上手く相手に伝わるように説明出来ないことです。その二つが重なって見て覚えろに繋がるのだと思います。

上手く説明出来ない理由

実は職人など技術者は無意識のうちに状況に応じた細かな微調整をしています。その細かな微調整を行う場合分けを上手く相手に説明出来ないのです。上手く説明出来ないことを隠すために、見て覚えろと言うのです。ただの面倒くさがりかもしれませんが、上手く言葉に変換出来ないコミュニケーション障害があるのかもしれません。

見分け方

見て覚えろという理由の見分け方を考えてみます。教えたくないのか、教えることが出来ないのかを見分けるのです。

具体的に細かな作業についてコツを聞いてみることです。教えたくないのであれば、具体的に聞いても答えてはくれません。説明の仕方がわからないのであれば、聞かれることが絞られた段階で説明出来るようになるため、教えてくれるようになります。

目的を伝えるとわかりやすい

職人の世界でも目的を伝えるようにするとわかりやすく伝えることが出来ます。見て覚えろという前に、見るべきポイントを目的として前もって教えるようにするのです。この指示が上手く出来ないので、職人の世界の機械化が遅れています。人にも目的を伝えることが出来るようになれば、機械にも仕上がりという目的設定することで、指示が出せるようになります。一気に職人の世界が機械化されることでしょう。見て覚えろとして、自分達の技能を秘密化して守ることの出来た時代は終わりが近づいてきています。

そろそろ見て覚えろという逃げはきかない時代です。説明スキルを磨きましょう。もし見て覚えろと言われたら、あらかじめ仕上がりで気をつけることや目的を聞きましょう。

成功する人と失敗する人の違い

どんな分野においても成功する人と失敗する人には明確な違いがあります。偶然成功する人もいますが、偶然は意図的に繰り返すことは出来ません。その後何らかの失敗をしてしまいます。

失敗する人は変化に対応出来ない

成功する人とは成功する仕組みを見つけるあるいは作り出すことが出来る人です。失敗する人とはその仕組みを探さないあるいは作り出すことをしようとしない人です。偶然成功する仕組みに辿り着いたとしても、偶然なので次の成功を引き寄せることが出来ません。一度成功したことを同じように繰り返すことは出来ても、どうして成功したのかわからないので環境の変化に対応出来ません。偶然一度は成功の仕組みを見つけたとしても、宝くじに当たるのと同じで、当たりを繰り返すことが出来ません。

一発屋と言われる人達は偶然売れただけなので、次の成功を探せないのです。

成功する人は絶えず考えている

成功する人はうまくいかなくなった時点で、状況に応じた軌道修正をすることが出来ます。絶えず状況毎の対策を考えているのです。失敗する人は上手くいかなくても、どうして良いかわからず軌道修正することが出来ません。成功する人は上手くいかなくても失敗だとは思いません。次の成功のための途中経過としか考えず、成功するまで考え続けるのです。

見分け方

成功するか失敗するかは質問してみるとすぐにわかります。質問は「予定通りにいかないとどうするんですか?」と聞くだけです。成功する人は予定通りにいかないことをあらかじめ想定しています。万が一想定していなくても、聞かれてからでもすぐに対策を考えつきます。質問する人は予定通りにいかないことを全く考えていないため、そのような質問をされると返事に困り固まってしまいます。

驚いてもすぐに対策を答え、その答えが合理的であれば成功します。驚いたまま固まってしまうと、恐らく失敗します。恐らくというのは偶然成功することが稀にありえるからです。ご参考まで。

上手な説明の仕方 言葉の曖昧さを使い分ける

日頃私が気をつけている、説明の仕方を書いてみます。
言葉は様々な意味合い・幅を持つため、使い方によって曖昧になります。
私は言葉が揺らぐと表現しています。人々はどの『意味』で話しているのか言葉のもつ『意味』の曖昧さ・揺らぎの中からを頭の中で無意識のうちに、特定の『意味』を確定させながら話しています。話し方により『意味』の特定が難しいとよくわからない説明になります。あまりに無意識にその作業を行っているため、話し手も聞き手も言葉の曖昧さを意識していない場合すらあります。言葉の持つ曖昧さ・揺らぎを意識していないと、知っている言葉を聞いているだけなのに『意味』がわからないということがありえるのです。

例えば言葉の曖昧さ・揺らぎの一例を説明してみます。
『お酒を飲んではいけません』と言ったとします。『わかりました』と答えたとします。『お酒』には言葉の曖昧さがあります。アルコールという『意味』と日本酒という『意味』です。
話し手も聞き手もどちらの『意味』で『お酒』と言っているか確認していないので、本当の『意味』の組み合わせは4通りあるのです。話し手が『アルコール』と『日本酒』、聞き手が『アルコール』と『日本酒』の組み合わせが4通りです。話し手と聞き手の『意味』が『アルコール』同士や『日本酒』同士揃っていれば、どちらの『意味』でも問題ありません。片や『アルコール』の『意味』で使っているのに『日本酒』の『意味』で聞いていると、話している内容がズレてしまうのです。

『お酒を飲んではいけません』には、日本酒は飲んではいけませんかもしれませんし、アルコール全て飲んではいけませんかもしれないのです。人々は前後の文脈からどちらの『意味』か聞き分けているのです。聴きわける知恵のある人にしか『意味』がキチンと伝わらない可能性があるのです。この話し方では聞き手の『意味』を聴きわける能力によって『意味』が伝わるか伝わらないかが決まるのです。

ここで厄介なのは『お酒』という言葉は日本酒に決まっていると思い込んでいる人もいれば、『お酒』という言葉はアルコールを指すに決まっていると思い込んでいる人が混在していることです。どちらも常識として『お酒』を『日本酒』あるいは『アルコール』と考えています。つまり共通認識である常識だと思い込んでいるので、わざわざ『お酒』という言葉の『意味』を確認したり使い分けたりしません。『お酒』という言葉が持つ言葉の曖昧さを知らない人は、相手が話を理解出来なく混乱していても、相手が理解出来ない『意味』自体がわからないのです。何故なら自分の言葉が曖昧だとは思いもせず、言葉を使い分けていると思い込んでいるからです。2つの違いを知らないので、知らないことを明確に使い分けることが出来ません。だから聞き手は話の『意味』が曖昧でモヤっとした印象を持ちます。
『お酒』というありふれた言葉でさえ、これだけ曖昧さを持っています。ましてや言葉は数多あり、その『意味』の組み合わせは無数にあると言っても過言ではありません。逆に無数の『意味』から文脈に沿って無意識のうちに『意味』を拾うことが出来るので、人々は自然に会話が出来るのです。今回はお酒という言葉を例にしましたが、同音異義語などは前後の文脈から1つの『意味』に特定されていきます。多少ズレて聞こえたり、聴き漏らしたりしても前後の文脈から類推しているのです。この前後の文脈からの判断が出来ないので、機械による音声認識が苦労するのです(最近では前後の文脈も把握しているみたいですが)。外国語がなかなか理解出来ないのは、日本語のように日頃使い慣れた文脈だけでなく対応する外国語の音が頭にないので補うことが出来ないからです。言葉を聞いてその音から頭の中で文字に起こす作業に手間取るのです。

いくつもの『意味』を持つ言葉は、明確に使い分けることが相手の頭を使わせない上手な説明だと思います。『お酒』という言葉を話の中で使って、相手が怪訝そうな顔をしていれば『日本酒』という『意味』か、『アルコール』という『意味』か混乱しているのです。相手の顔を見て、混乱をかき消してあげるように、『日本酒』とか『アルコール』と言い換えてあげることで、言葉の曖昧さをかき消し言葉の揺らぎを止めることが出来ます。次からは最初から『お酒』という言葉を使わず、『日本酒』、『アルコール』と使い分けることが相手の負担を軽減する上手な説明の仕方だと私は思います。

実際には曖昧さを避ける話し方は、上手な話し方の訳ではなく、思いやりのある説明だと思います。何故ならこちらが誤解を招きにくい話し方をすることで、相手が素早く理解する手助けを出来るからです。実際には私は思いやりでも何でもなく、自分のために言葉の曖昧さ・揺らぎは極力避けて話すようにしています。最初から言葉の曖昧さ・揺らぎを排除して話している方が、相手の理解を得やすいので時間を短縮出来る分自分も得なのです。

言い換えると言葉の曖昧さを避ける話し方は、相手の理解する能力に頼らない説明の仕方だと言えるかもしれません。相手によって受け取る『意味』が異なる説明は、説明になっていないとすら私は思います。言葉の曖昧さを理解して、誤解を招きにくい話し方を心がけましょう。

人間に味覚のある理由

お人間には味覚が備わっています。
その理由を考えてみます。
人類の進化の歴史において味覚が備わっていたことで生存に有利に働いたはずです。
生理学的には酸味、苦味、うま味、甘味、塩味の5つが言われています。

人類の進化の歴史の上で美味しいと感じることが生存にどのように有利に働いたのでしょうか?

酸味は酸っぱさを感じる味覚で、腐ったものを見分けるために備わった仕組みです。本能的に酸っぱいものを避けようとするのは腐ったものを本能的に避けるのです。
苦味は毒を見分けるために備わったと言われています。
そのため赤ちゃんがピーマンなどの苦味を毒だと勘違いして吐き出してしまうのです。
うま味は比較的最近(1908年)発見された味覚ですが、グルタミン酸やアスパラギン酸などによる味覚です。これらを含む食材は栄養が豊富なことが多いため、生存に有利に働いたようです。

甘味は自然界では主に果物によってもたらされました。甘味・果物を美味しいと感じることで好んで食べることが生存に有利でした。そのために甘味を感じるように進化してきたのでしょう。その際果物は一時的に収穫できるものの腐ってしまうため大量に保存することはできませんでした。とにかく限界を超えてでも果物を食べた方が、飢餓に陥らなくて済んだようです。この限界をこえてでも果物を食べる心理が、糖質に対する快楽から糖質依存を引き起こし今では肥満をもたらしているのだと思います。
甘味があるものを美味しく感じるように進化したのです。あくまでも自然界では甘味がラッキーアイテムだったため、無理をしてでも食べようとさせるために甘味という味覚が備わったのです。その甘味を人工的に量産し甘味だけを砂糖として抽出できるようになったため、本来は生存に有利なためにあった味覚を、快楽のために砂糖を使用するようになっています。
自分たちで味覚に合わせて快楽が最大になるように調理出来るようになったことを考えると、進化しすぎてしまったのかもしれません。

塩味は人間の生存に不可欠な塩気を感じる味覚です。人間は汗として塩分を排出してしまうので、食料から補給する必要があります。そのため塩気を感じ取ることが生存に有利に働きました。特に汗をかく仕事をしていると自然と塩気を求めるようになったようです。人類の歴史においては甘味程ではないものの塩味も簡単には手に入らなかったため、塩味に美味しさという快楽を感じてしまいます。塩がいつでも手軽に手に入るようになってからは、気を付けないと摂りすぎてしますのです。
塩気の快楽によって塩分依存に陥ってしまいます。糖質と塩分の共依存が生じることも多いようです。そして塩分依存症として高血圧を生じてしまうのかもしれません。

唐辛子などの辛味は味覚としてではなく刺激物として脳に直接作用します。その作用を打ち消すために脳内麻薬が分泌され、その脳内麻薬を求めて唐辛子を求めるようになるようです。

人類は進化しすぎた?

人類は自分達の味覚に合わせて自分たちで調理するという魔法のような方法をみにつけたため、美味という快楽を追求してしまうようです。
何しろ甘味を刺激する砂糖、塩味を刺激する食塩、うま味を刺激するうま味調味料(以前は化学調味料と言われていましたが、現在ではトウモロコシを発酵させて作る発酵食品の一種です)があるのですから、直接味覚を刺激することが容易にできるようになりました。
そのしっぺ返しとして、糖質依存症や塩分依存症などの病気、つまり2型糖尿病肥満、高血圧や各種アレルギー・自己免疫性疾患など様々な病気を引き起こしてしまったようです。

そろそろ快楽の追求としての食を、健康のため・栄養補給としての食に切り替えるべきなのかもしれません。
決して美味しくないものを食べようという言いたいわけではありません。
快楽の追求としての食は控える方がお得ではないかという提案をしたいのです。
一歩立ち止まって考えてみましょう。

今日の食事は快楽としての食なのか、栄養補給としての食なのかを。

わかりやすい解説書とわかりにくい解説書の違い

解説書にはわかりやすいものとわかりにくいものがあります。その違いは視点です。視点が専門家か素人かです。内容を元々わかっている人が書いているか、元々は知らない人が書いているかで大きな違いが出ます。

元々わかっている専門家が解説する解説書はわかりにくく、元々わからない素人がわかるようになった過程を解説している解説書はわかりやすいものになります。何故なら専門家は全て知っているのでわからない、あるいはわかりにくい場所自体がわからないのです。言い換えると専門家は知らないふりをして解説書を書くことができないからです。その点何も知らない素人は違います。全く何も知らない状態から物事を知っていくので、その過程でわかりにくいこと、紛らわしいことが容易に理解できるのです。そのわかりにくいところを明確に区別して解説を書くので、わかりやすい解説書になります。

解説書は説明の上手下手と同じです。言葉で伝えるのか文章で伝えるのかの違いです。
解説書では言葉での説明と異なり、図解することもできますが、そもそも相手の知りたいことを理解していなければ図解することもできません。
わかりやすい解説書とわかりにくい解説書の違いは、解説する人が何も知らない状態を想定できるかどうかです。何も知らない状態を想定できれば、理解しにくいところもわかるはずです。

解説書を見ていて明らかに言葉足らずでわかりにくいものだったので、何故こんなわかりにくい解説書があるのかを考えてみました。解説書を作った人が専門家で、知らないことを想定せずに作った結果だと思い至りました。解説書は素人が作るべきだと私は思います。少なくとも素人が理解できるように素人への説明し、その際に出た疑問を解説書に落とし込むとわかりやすい解説書になります。恐らくそういう視点が欠落した解説書を目にしてしまったのでしょう。

「説明した」と「説明したつもり」の違い

説明したのに期待した結果にならず腹が立ったり、イラついたりすることはありませんか?
もしかしたら、「説明した」のではなく「説明したつもり」になっているのかもしれません。
その違いを考えてみます。簡単に分ければ確認して初めて双方向の「説明した」のであって、確認していなければ一方通行の「説明したつもり」です。

説明した

物事を正しく意図通りに伝えることが出来た時点で、説明したと言えます。よく誤解されているのが、一方的に話しをするだけでは説明したとは言えません。相手が情報を正しく受け取った時点でようやく説明したと言えるのです。つまり説明には相手が必要であり、相手が情報を正しく受け取ることでようやく「説明した」と言えるのです。「説明した」と断言出来るのは、相手に伝わったことを確認した後です。しかも「わかった?」という言葉では「確認した」にはなりません。「わかった?」だけでは「確認したつもり」に過ぎないのです。言葉を変えて「確認」して初めて「説明した」ことが完了するのです。例えば「何がわかった?」とハイ・イイエでは答えられない質問で確認するのです。返答が怪しければ追加で質問すると理解出来ているか確認することが出来ます。

あくまでも説明したといえるのは、相手が理解した結果です。何時間説明しようとも、どれだけ丁寧に説明しようとも相手が理解していなければ、説明したとは言えないのです。

説明したつもり

一方的に伝えるだけではなかなか伝わらないことも多々あります。何故なら人はそれぞれ持っている知識や経験が異なるため、同じ言葉であっても人によって受け取り方は様々です。危険なのは一方的な説明で相手が理解したつもりになることです。

説明したと説明したつもりの勘違い

良くあるのが怒る側は説明した、怒られる側は聞いていないというものです。説明した側は説明したつもりになっているのです。怒られる側は説明を聞いていない(少なくとも理解していない)ので、怒られる意味がわからないのです。説明したつもりになっているだけで、相手が理解したかどうか確認していないのです。

他にも良くあるのが説明したのに理解していないとして、理解していないことを怒るのです。誰に問題があるのでしょう?説明する側です。説明される側は全く聞いたことがないのだからどうしようもありません。説明する側が知恵を働かせて理解させるしかないのです。

説明したのに理解していないと怒る前に、理解できたかどうか確認してみるべきです。理解できたかどうか確認を怠ったのであれば、怒る側の怠慢でしかありません。説明したつもりになって、説明したと怒られても言いがかりにしか聞こえません。

一番困るのは

一番困るのは「説明した」と「説明したつもり」の区別が出来ない人です。「説明したつもり」でしかないのに、「説明した」と思い込んでいるので、理解していない相手が悪いと責め立てるのです。

説明する側に理解させる責任があります。確かに理解する側にも努力は必要ですが、説明する側が知恵を働かせて理解出来るように説明するべきです。何故なら説明する側は情報を持っており、説明される側は情報が不足しているのです。だから説明しお互いの知識が同じになるように情報のやり取りをするのです。説明する側が説明される側よりも多くの情報を持つため、説明する側が情報を噛み砕いて相手が理解出来るように処理して伝えるしかありません。説明される側は情報そのものが足らないので、そもそも何を聞いたら良いのか見当がつかないのです。このことを知らない人が一方的に話したことを説明したつもりになって、理解していないことを責め立てるのです。

理解させるのは説明する側の責任

説明するなら相手が理解できるように説明しましょう。決して説明したつもりになってはいけません。そして理解しているか確認しましょう。

相手が知らないだけで怒ってはいけません。ましてや自分自身が説明したのに理解していないことを責め立ててはいけません。何故なら理解出来るように説明できなかった自分の落ち度だからです。そんな視点で物事を考えてみて下さい。世の中の見え方・景色が変わると思いますよ。

下手な説明 説明のピントがズレている

説明の下手な人の話し方には特徴があります。その一つは説明のピントがズレているのです。
説明のピントがズレているとは、物事を正確に表さず曖昧な言葉を使っているのです。以前にも書きましたが、

説明のピントがずれているとは?

「御飯を食べなければ多くの病気が治ります」と言った場合、少なくとも2つの意味を含みます。1つは御飯がお米を意味するのか、食事を意味するのかという意味です。更に付け加えると全く食べてはいけないのか、減らせば良いのかもこれらの言葉からははっきりとはわかりません。説明する側はわかっていて説明しますが、聞く側には初めて聞く話であればどの意味かわからないのです。いくつかの意味を持ち合わせ、特定出来ない言い方を説明のピントがズレていると表現します。

写真のピントがずれていると写真がぼやけるのと同じように、説明のピントがずれていると説明している内容がぼやけてしまうのです。聞き手の知識や経験によって受け取り方がいくつかわかれてしまうのです。聞き手が上手であれば曖昧な言葉の意味を聞き出すことでピントを合わせながら聞くことができます。

説明のピントがずれていると、言葉が曖昧なため聞き手に負担がかかります。聞き手の負担とはどの意味で言っているか考えながら聞く必要があるのです。相手と会話しているであればどういう意味か聞き返すことができますが、授業や多人数での会議であれば直接確認することが難しい場合もあります。その都度の確認が難しいと説明のピントがずれているまま、聞き手がどの意味か考えながら聞いて、どの意味合いか特定する必要があるのです。そこまで努力して聞いてくれる聞き手であれば良いですが、聞き手によっては説明のピントがずれていると聞いてもらえなくなってしまうのです。

説明のピントがずれている人は、自分のわかっていることと相手のわかっていることが理解できていないのかもしれません。相手もわかるはずだと思い込んでいるので、自分の説明のピントがずれている自覚のない人も多くいます。説明して相手が混乱している様子を見せる場合には、説明のピントがずれているかもしれないと考えてみるべきかもしれません。説明の中に説明のピントがずれている内容が含まれていると疑ってみることです。

説明する人自身の頭の中で、違いが明確に理解できていないこともあります。その場合にはわざと説明のピントをずらして説明しているのです。わざと説明のピントをずらして話をしている場合、聞き手が説明のピントを合わそうと質問しても、質問に答えてくれません。何故なら明確に区別して説明できないからです。もしかしたら頭の中のピントがずれていると表現するのが適切なのかもしれません。

説明のピントの合わせ方

説明の上手な人は曖昧で聞く側が労力を要する無駄を省くために、最初からピントのあった言い方をします。
「食事をしてはいけない訳ではなく、御飯・お米を食べなければ多くの病気が治ります」と説明します。聞いた側の混乱を減らすことが出来るのです。言葉が曖昧にならないように説明のピントを合わせるようにするのです。

説明の上手な人は、曖昧さを含む説明が気持ち悪く感じるようです。説明した内容が伝わるかどうか相手次第ということが気持ち悪く感じるのです。
そこで曖昧さを失くすために、いくつもの意味が含まれている言葉は一つの意味になるように言い定めるのです。一つの意味になるように言い定めることが困難であれば、別の言葉に置き換えて説明するのです。
「御飯」という言葉は、食事という意味、お米を炊いたものという意味があります。その二つの意味のどちらの意味かを特定する作業を、説明のピントを合わせると表現しているのです。

最初から説明のピントを合わせていると、相手が混乱せずに聞き取ることができるのでより短い時間で説明することができます。伝達効率が上昇するのです。
説明する側が知恵を働かせる必要があるので大変ですが、その知恵と労力のおかげで伝達効率が上昇するのです。

説明のピントを合わせて説明する癖をつけると、何事においても伝達効率が上昇するのでお得です。よかったらお試しください。

医者が商売人であるという視点で俯瞰する

一つの視点の提案です。
医者が商売人であるという視点で俯瞰する(鳥のような視点で上から客観的に眺める)ことを提案します。商売人であるという視点で医者を見ることがないのではないかと思い書いてみます。

勤務医の場合

勤務医は商売人ではないと錯覚してしまいますが、実は病院によっては売り上げを求められているのです。そのため念のためと称して入院を勧めたりするのです。念のための前に売り上げのためにという言葉が省略されているのです。決して患者さんのためだけを思って入院を勧めているわけではないこともあるのです。
以前は売り上げや収支ということは民間病院では求められていたものの、最近では公的病院でも求められるようになりつつあります。何故なら独立採算のため赤字になることは避けなければいけないからです。そのため経費の削減だけでは経営が成り立たないため、経営陣も売り上げを医者に求めるのです。
良性疾患で手術をしきりと勧める医者は、医者自身が手術したいだけではなく病院から売り上げを求められているのかもしれないのです。

開業医の場合

開業医がある種の商売人であることは間違いありません。何故なら開業医は患者さんを診療して得た収入から、家賃や光熱費・従業員の給料である人件費など必要経費を支払った残りが自らの収入になります。医療法人の医師は勤務医と同じで給料として収入を得ます。
個人経営の場合、いくら志の高い患者さん思いの医療を行って赤字になっても、誰も補てんはしてもらえないのです。どの程度患者さんのことを考えて医療を行うか、自分の利益のことを考えて医療を行うかは医者のモラル・良心に任されているのです。
本来であれば患者さんの治療・病気を治すことを最優先するべきですが、一部の医者は儲けるために患者さんに無駄な薬を処方するのです。一応論文などで裏付けはされている薬ですが、その論文は製薬会社がスポンサーとなって出された論文で広告のような論文を根拠に処方を続けるのです。薬を長く飲む方が良いという論文により、医者も製薬会社も儲かるのです。医者の中には製薬会社の持ってくる広告のような論文しか読まない医者もいるようです。

お金を儲けることが目的の開業医は病気を治さない方が儲かるため治す気はありません。病気を改善する方法が見つかったとしても、わざわざ収入を減らしてまで患者さんに教えようとはしないのです。

お金儲けだけ考えている医者はごく一部です。逆に経営のことを考えていない開業医もごく一部です。ある程度は経営のことを考えざるをえないのですが、儲けだけが目的の医者は受診されないことがお勧めです。儲け主義の医者かどうかの見分け方は怒るかどうか待ち時間です。患者さんの病気を治すことを目的とした開業医の先生を探してみてください。

医者の言動が理解できない場合

医者の言動が理解できない場合、もしかしたら儲け主義かもしれないという視点で俯瞰して読み解いてみてください。あっさり納得できる言動かもしれません。
他にも医者の言動で理解できないのは、医者自身が偉いと勘違いしている場合、説明しても理解できないのは患者さんが悪いと勘違いしている場合などです。それらのことはまた機会がありましたら改めて書きたいと思います。

 

賢さは言葉の選び方でわかる

人の賢さは言葉の選び方に現れると私は思います。
受験における偏差値の値が頭の良さを表していると誤解している人がいますが、間違っています。偏差値が頭の良さを表すとは限らないのは、偏差値は記憶力とその使い方をテストしているに過ぎない、テストを解くテクニックにより上下すること、すべての人が最大限努力した訳ではないなどです。これらのことにより必ずしも偏差値が頭の良さを表すとは限りません。世間一般で偏差値が頭の良さを表す指標とされているのは、他に数値化できるような適切な物差しがないため次善の策として代用しているに過ぎません。仕方なく代用していることを知らない人は、偏差値が高い人こそが頭が良いという錯覚に陥っています。

賢さは言葉の選び方わかる

私は人の賢さは言葉の選び方でわかると思います。
その場その場に応じた言葉を選ぶことで相手に納得してもらったり、相手に気付きを与えたりすることができます。時に笑いを誘うことができるのです。
逆に失言する人は相手がどのように受け取る可能性があるのかという想像力が足らないのです。言い換えると賢さが足らないのだと思います。失言した人は後で仕方なく言い訳をしますが、そもそも思慮が足らないことが多いので何故人に指摘されるのか理解できないことも多々あります。

説明の上手な人

説明の上手な人は言葉の選び方が適切で賢いと私は思います。相手の元々持っている知識を推し量り、相手にわかる言葉を選んで相手のわかるように説明することができます。相手の理解できる言葉を選ぶことができるのです。賢い言葉の選び方の一つに曖昧な言葉を明確に区別して使い分けることがあります。例えばご飯という言葉一つとっても、お米を炊いたものという意味もあれば、食事という意味合いもあります。『ご飯を食べないように』という一言でも、『お米を食べないように』と『食事をしないように』と明確に区別するです。思慮が足らない人は、一つの意味で思い込んでいるので『ご飯を食べないように』と伝えれば、『食事をしないように』という訳がないからお米のことだとわかるはずだと思い込んでいるので『ご飯を食べないように』という言い方をします。つまり考えればわかるでしょと高をくくっているのです。賢い人はそもそも誤解されると損なので、相手が考えないといけないような言葉を選びません。相手が考えなければ伝わらない言い方は伝達に時間がかかり、受け取り方が人によってことなることが時間の無駄だと知っているのです。賢い人は相手が誤解する隙をなくすような説明の仕方をします。誤解する余地のない言葉を選ぶことができるのです。

言葉の凝縮について

説明の上手な人の賢い言葉の選び方の一つは、言葉を凝縮して伝えることです。人は多くのことを話すと論点が曖昧になり物事が伝わらなくなります。そこで説明の上手な人は相手に伝わるように言葉を凝縮して伝えようとします。物事が伝わるように言葉を凝縮出来ることこそが言葉の選び方の最たるものだと私は思います。相手に驚かれるく程の凝縮した一言を伝えることができるかどうかで、賢さがわかると思います。大袈裟に話すとか嘘をつくなど物事の本質からずれた驚きを与えるのは論外ですが、本質をつく一言に凝縮できる人は賢いと思います。更にそれを前もって時間を考えて凝縮するのではなく、瞬時に言葉の凝縮を行える人はかなり賢いと私は思います。
言葉の凝縮とは、言いたいことを考え抜いた一言で伝えるのです。
ちょうど選挙公約やマニュフェストのようなものです(これらは嘘・偽りや努力目標のような意味合いがありますが・・・)。

言葉の凝縮の利点は伝えたいことが、瞬時に伝わることです。
多くの言葉を使って話をする間に、多くの言葉を使えば使うほど言いたいことが曖昧に薄れていくのと対照的に、言葉を凝縮すると瞬時に伝えることができます。
逆に瞬時に伝えることのできる言葉の選び方ができる人こそが賢いと私は思います。
ちなみにテレビでは回りくどい言い方をすることが多いのは、伝えることが目的ではなく長く見てもらうことが目的のためCMまでの場つなぎをしなければならないからです。
言葉を選んで短くまとめてしまうとCMまでの間がもたないため、時間稼ぎをするような話し方になってしまうようです。時間に応じて話し方を変えることのできる人は、言葉の凝縮ができる人よりも更に賢いと私は思います。

お笑い芸人の場合

例えば何もないところから笑いを生み出す、お笑い芸人は瞬間的な言葉の選び方により笑いを作り出すことができます。何もないところからみんなの笑いを誘う一言を瞬時に選び出すことができるのです。コンテストで優勝した漫才師やお笑い芸人が一発屋で終わるか、総合司会(MC)を出来るようになるかはこの言葉の選び方ができるかどうかです。一発屋で終わる人は何か月もかけてネタを練り上げて、言葉を選び・凝縮することには長けていますが、瞬間的な笑いを誘う言葉の選び方が出来ないのです。ちなみに今ではよく使われる天然とは、狙って笑いを誘うことに対して、何も考えず素の状態で笑いを誘うことから天然と言われるようになったそうです。言い換えれば天然とは笑わせているのではなく、笑われているだけということです。

言葉の選び方で賢さがわかってしまう

幸い今のところ偏差値のように言葉の選び方で賢さが数値化されることはありません。しかし言葉の選び方の上手・下手で賢さは相手にわかってしまいます。数値化はされないものの誰と誰を比べればこちらの方の言葉の選び方の方が適切という相対評価はできてしまいます。つまり偏差値のような絶対評価(全員が偏差値試験を受けていないなど各種理由により正確には絶対評価ではありませんが、数値化できる点で疑似絶対評価とみなすことができるという意味合いです)は今のところできないものの、相対評価はできるのです。
原稿を読むのでは賢さはわかりません(そもそもその人が書いたかどうかもわからないため)が、原稿のないフリートークをすれば言葉の選び方で賢さは比べることができるようです。

音声認識の精度が上がり人工知能が発達すれば、言葉の選び方から賢さをはかることのできる時代がやってくると思います。言葉の選び方から賢さを数値化できる時代がくると思います。恐らく100年はかからないと思いますので、言葉の選び方を磨くことをお勧めします。

待ち時間の長い病院には行かない方がお得

待ち時間が長い病院には行かない方がお得です。何故なら自分の時間が待つ間に無駄になりますし、そもそも待ち時間が長くなる仕組みをわざと作っている可能性があるからです。ちょうど人気のラーメン屋さんなどで行列が出来ると話題になるのと同じような理屈です。行列で話題だから食べに行ってみると、ただ単に手際が悪くて捌き切れず行列が出来ているだけということがあります。

待ち時間が長くなる仕組み

病院で待ち時間が長くなる仕組みとは、頻回に再診を求めるなどです。患者さんのことを心配している風を装って、診療報酬・売り上げ・稼ぎのために再診を求めているだけかもしれません。稼ぎが目的の医者の特徴は再診しないと患者さんを怒ります。その癖待ち時間を短くする対策はとりません。自分の人気が高いから待ち時間が長くても仕方ないと自惚れているのかもしれません。もしかしたら待ってでも自分の診察を受けたいんだろ?という歪んだ心理が潜んでいるのかもしれません。そんな心理が潜んでいれば、電話での予約はもちろん予約システムを導入する訳がありません。何故なら待ち時間に耐えることの出来る人を選ぶ目的でわざと待たせている可能性があるからです。

診察時間が長い?

説明が下手な医者も診察時間が長くなり、待ち時間が長くなります。説明が的を射ているわかりやすい説明であれば、一人一人の診察時間が短くて済むので待ち時間も短くなりす。待ち時間が長い医者は、説明が下手な可能性が考えられるのです。

待ち時間が長い原因が回りくどい説明のせいで、患者さんが理解しにくいので診察時間が長引くのです。わざわざ長い時間待ってまでわかりにくい説明を聞かなくても良いと思います。

待ち時間に対する勘違い

待ち時間に対する勘違いを医者も患者さんもしている可能性が考えられます。待ち時間を医者の腕や人気のバロメーターだと誤解しているのです。待ち時間が長ければ腕が良いとか、人気が高いと勘違いしているのかもしれません。

説明が下手で納得してもらうのに時間がかかっても、手際や要領が悪くても待ち時間は長くなります。

むしろ待ち時間が長ければ長いほど、医者が儲け主義の可能性が考えられます。

患者さんが待っても医者は困らない

患者さんの待ち時間が長くなっても、直接医者は困りません。困らないから改善する工夫をすることがありません。待ち時間が長いと苦情を言っても、自惚れている医者は、それだけ待っても診察受けたいでしょ?と暗に褒められたと錯覚するので逆効果です。

待ち時間を減らす対策を取らない時点で、人の痛みがわかる医者とは思えません。その意味でも待ち時間が長い医者には行かない方がお得です。

良心的な医者

患者さんの負担を考えることの出来る医者は、そもそも頻回の再診を求めたりしません。必要最低限の受診を提案するだけです。だから待ち時間が伸びることはありません。

待ち時間が少ないのは、患者さんの立場を考えた結果待ち時間を減らす対策をしているのかもしれません。

もし万が一満足のいかない診察だとしても、待ち時間が短い分諦めもつくのではないでしょうか?

待ち時間の長い医者をわざわざ受診するのは、様々な意味でもったいないと私は思います。