デジタル思考とアナログ思考の違い

デジタル思考とアナログ思考という考え方を提唱しています(参考:アナログ思考とデジタル思考の見分け方)。デジタルが新しく、アナログが古いという分類ではありません。

デジタル思考

デジタル思考の考え方は0か1で、その間はありません。デジタル思考では曖昧さがないのです。0か1にはっきりと分けるのです。0.4は0ですし、0.5は1なのです。0.499でも0と見なすのです。0.5をこえるかどうかが明確な分岐点です。

そのため明確な分岐点、この場合は0.5をこえるかどうかを見極めます。一度確認して0.5をこえていれば1と見なします。念のため途中で確認することはあっても、0.5未満にならなければ判定が覆ることはありません。このことがデジタル思考の特徴です。判断が明確で素早いのです。デジタル思考の場合、判断基準を人に伝えるのも容易です。0.5をこえるかどうかだからです。数字で表すことの出来ないことでも、デジタル思考の場合明確な分岐点を決めることが出来るので、判断が素早く出来ます。判断や決断の早い人はデジタル思考をしている可能性が高いと思います。デジタル思考の場合、数字に限らず判断基準を明確に出来るので人に伝えるのも容易です。

デジタル思考が出来る人は、誰に責任があるのか明確に理解出来るので言い訳をすることはほとんど無いと思います。

物事を論理的に捉えることが出来るので、経営者や管理職、科学者に向いています。

アナログ思考

どちらかというとほぼ1だけど、でもまだ正確には1ではないので、まだ0になる可能性があると考えるのがアナログ思考です。アナログ思考では0.99は1に近くはあっても、まだ1ではないから0になる可能性が残っていると考えるのです。完全に1になるまでは1ではないと言い張るようなものです。いずれ1になるとしても、1になるまでは1では無いと主張するのがアナログ思考です。

結果は0.99でも1でも変わらないのですが、1になるまでは認めないので決断に時間がかかります。0.99は1では無いと言い張るので議論も進みません。

言い訳人間に多い思考方法かもしれません。

経営者や行政のトップにはむかない思考方法です。

人を振り回す目的で不安を訴える人

知らず知らずのうちに人を振り回す人がいますが、中には人を振り回す目的で不安を次から次に訴える人がいます。

目的が振り回すこと、つまり相手にしてもらうあるいは心配してもらうことなので、一つの不安を解消しても次々に新たな不安を訴えます。一般的には次々不安を訴えられると不安で仕方なくて可哀想にと思ってしまいます。しかし振り回すこと、心配してもらうこと自体が目的なので心配してあげると、成功体験として繰り返すようになります。一度心配してあげると次々不安を訴えられた場合、相手の不安を増長する手助けをしているのです。

不安を解消する、不安を乗り越えるのはその人の問題です。不安を理由に行動しない人がいますが、ただの言い訳に過ぎません。行動しないことを決めてから、行動しない言い訳を探しただけのことです。その証拠に、その不安が解消されても別の行動しない言い訳を探します。本当に不安が行動しない理由であれば、不安が解消されれば行動しないはずがありません。他の理由を言い始める時点で、言い訳決定です。(参考:アドラーの心理学)

振り回すことが目的なのですから、真剣に相手をしてもお互いのためになりません。誰の問題か課題の分離を行い、他人の問題に関わらないことです。

振り回すこと自体が目的で無ければ、暗に助けてもらいたいのです。一度助けると、助けてもらう目的で余計振り回されることになります。手助けはしても手助け程度にしておくべきです。代わりにやってあげてしまうと、成功体験として記憶されてしまいます。振り回すと助けてもらえるというより、代わりにやってもらえると理解するのです。次は無意識のうちにもっと振り回そうとしてしまうことでしょう。

親戚付き合いの目的

かつて親戚付き合いは大事にされていました。実は明確な目的があったのです。
困っても誰も助けてくれることなない時代では、一種のセーフティネットだったのです。
だから日頃は面倒でしかない親戚付き合いを、いざという時に備えて渋々行っていたのです。説教ばかりするオジさんも、いざとなれば助けてくれるから、黙って聞いていたのです。
日頃のを顔合わせのために、盆正月の集まりや、法事などが行われるのです。ちなみにお釈迦様の説いた仏教の教えには先祖を敬う考え方はありませんでしたが、お坊さんの集金システムと親戚付き合いの顔合わせのきっかけとして法事という行事が生み出され定着しました。

国がセーフティネットを整備する以前は、困ったことがあれば親戚同士でお互い助け合うしかなかったのです。赤の他人は助けてはくれないので、いざというときに備えて親戚付き合いをしていたのです。昔は基本的に親戚は近くに住んでいたため、親戚同士の集まりも大した負担にもなりませんでした。

近代化に伴い生活が多様化した結果、都会で生計を立てる人が多くなり、親戚同士が離れてくらすようになりました。移動も大変になるため親戚付き合いも疎遠になりつつあります。実はセーフティネットとしての親戚付き合いの意味合いが薄れてきたことも、疎遠になりつつある一因です。親戚付き合いしなければいけない意味がわからないという考え方です。何故ならその親戚付き合いを促す親戚も、お互い助け合うという意味を理解していないのです。更に親戚が困っていても助けることの出来る余力のある親戚がいなくなっていることも、親戚付き合いが面倒でしか感じられない理由の一つです。

今後の親戚付き合いはもしかしたら薄れゆく運命なのかもしれません。

発想の逆転 消費減税を考えてみる

発想の逆転を考えてみます。
国民から税金を取ろうとする国と、何とか税金を払いたくない国民とがせめぎ合いをしています。
ふと発想の逆転をして経済のことを考えてみたいと思いました。ただの空想の世界です。
何においても発想の逆転というのは、思考する上で役立つ情報をもたらします。空想してみる価値はあると私は勝手に考えてみました。

消費税とは?

そもそも消費税とは、お金を使うなら使った分だけ国に場所代を支払いなさいという仕組みです。国民はお金は税金を支払いたくはないが、消費の際には仕方なく支払うものです。お金を使わざるを得ないことを盾に考え出された税金です。

消費するかしないかを悩む際には、出来れば消費しないように仕向けてしまう負の側面があります。増税すると景気が悪くなるのは皆さんご存知の通りです。

将来の不安のためお金を使わず、貯めようとする心理が働きがちです。お金を使わないと得な仕組みになっているため、みんな将来に備えてお金を使わないようにしてしまいます。そのことに気付いた人から余計な物を買わなくなってきつつあるのです。消費税は景気の改善の邪魔をしてしまいます。

言い方を変えると、国民にお金を使わない方向に圧力をかけているようなものです。

消費減税とは?

発想の逆転をして、お金を使うと減税をするのです。今はお金を使うと税金を支払うことになりますが、お金を使うと景気の改善に貢献するので、お礼に減税するという考え方です。流石にお金を使うとお金をあげますというポイント制のようなものは無理だと思うので、減税という手段を考えてみました。目的はお金を使うと得な仕組みを考えるのです。

お金を使った分の全額あるいは何割かを課税額から控除するのです。もし実現すると課税方式が変わるので、課税する税率も大きく変えなければならなくなります。貯蓄額に対して課税するような印象です。そうなると消費する方が得だと考える人も増えると思います。もしかしたらバブルのような景気がくるかもしれません。貯蓄しようとすると課税されるので、使わない損だと考えるのです。

実際に実現すると課税税率は現時点の20〜30%は増税になるので、大混乱に陥るでしょう。

お金を使うと減税されるという少し嬉しい空想話でした。

糖質にお金を払い、ダイエットにもお金を払う愚

わざわざ糖質にお金を払い、食べ過ぎた結果糖質依存に陥り太ってしまいます。肥満解消のためのダイエットにもお金を払う人がいます。タイトルでは文字数の関係で愚と書きましたが、バカだと罵りたい訳ではなく、もったいないという意味合いです。本来なら太らない仕組みの備わっているはずの人間が、太ってしまうメカニズムを理解せずにダイエットを行うため、リバウンドしてしまいます。何と愚かでもったいないことかと私は思います。

糖質依存

しかし頭では理解出来てもなかなかやめられないのが糖質の恐ろしいところです。多くの人が糖質依存に陥っているのです。そもそも我慢出来ない程お腹が空くのは糖質依存の禁断症状です。その証拠にピークをこえると空腹感はおさまりますし、糖質依存から抜け出せば我慢出来ない空腹感はなくなります。多くの人が糖質を控える糖質回避が無理だと思うことこそ、糖質依存の証拠なのです。

糖質依存は依存の一種なので、少し食べはじめると自己抑制がきかなくなり食べ過ぎてしまいます。ちょうどアルコール依存の人が一口でも飲み始めると止まらなくなるのと同じですし、ニコチン依存の人がタバコを一本吸うとやめられなくなるのと同じです。

糖質依存の特性を知っていれば、下手に糖質を減らすよりいっそなくす方が楽なことが簡単に理解出来ます。つまりご飯・お米を同じ3分の1減らす場合でも、1食毎にお米の量を3分1減らすよりも、3食のうちの1食お米を食べない方が遥かに楽なのです。何故なら少しでも糖質を食べると余計お腹が空くという糖質依存の不思議な仕組みが働くからです。少しだけ食べると余計我慢が強くなるという不思議な現象が起こるのです。これこそが糖質依存の恐ろしさです。ただ仕組みを知ってしまえば恐ることは全くありません。糖質依存から抜け出すまでは食べ方を工夫すれば良いのです。

糖質依存のうちは一口でも食べると辛い我慢という地獄が待っています。一方糖質依存から抜け出すことが出来れば、糖質を一口だけ食べるという食べ方も自由自在です。

ダイエットしたいなら、まずは糖質を控えることが二重の意味でお得です。わざわざお金をかけて糖質を食べながら、ダイエットをしようとするのはもったいない話です。ブレーキを踏みながらアクセルも踏んでいるようなものだからです。

言い訳人間の対処の仕方

言い訳人間は何処にでもいるものです。とにかく言い逃れを繰り返します。言い逃れすることが目的ですから、人にどう思われるかは問題ではありませんし、全く気にしません。自分が責任を取らなくて済みさえすれば、どんな言い逃れでも言えるのです。後で嘘が暴かれたとしても、新たに言い逃れを言い始めるだけです。

言い訳人間の対処法は言い訳人間より知恵のある人間が矢継ぎ早に質問責めにすることです。言い訳人間は言い訳に慣れているので、ちょっとやそっとの質問では動じません。核心をつく質問を重ねることで言い訳を封じるしか手立てがありません。言い訳ではなく、自分から話さざるを得ない核心をつく質問をするしかありません。話さざるを得ない状況に追い込むのです。

例えば、言い訳人間である某都知事の釈明会見であった会った相手の名前がプライバシーの問題であかせないと言い訳しています。核心をつく質問とは「プライバシーで名前があかせないということはプライベートを認めるということですね?プライベートであれば報告書は虚偽記載になります。法律違反です。名前をあかせない時点で法律違反を認めてしまいました。世間の常識では半ば公費での飲み食いにプライバシーはありませんね?法律違反では無いことを証明するためには、名前をあかすしかありませんね。

最後にまとめて「プライバシーを主張する時点でプライベートだと認め、虚偽記載を認めることになります。名前をあかすことで虚偽記載では無いことを証明出来ます。名前はあかしますか?それともやはりプライバシーという言い訳をしたプライベートだと認めますか?」と詰め寄ります。このような論理で責め立てると言い訳人間でも言い逃れ出来にくくなると思います。

記者の中に言い逃れを封じることの出来る言い訳キラーが現れることを心から祈っています。そろそろ言い訳を聞くのも飽きました。

医者が説得マンになる時

現代の医者は病気の説明をした上で同意を得るインフォームドコンセントが当たり前になりつつあります。しかし学生時代にインフォームドコンセントという概念そのものを知らないまま医者になり、よくわからないままインフォームドコンセントを求められるようになってしまった医者も大勢いるようです。インフォームドコンセントを裁判で負けないための同意書を得ることだと誤解している医者もいます。

本来のインフォームドコンセントは客観的で正確な情報を伝えた上で、患者さんの望む治療法を選択してもらうことです。この意味ではお客さんの欲しい物を買ってもらうという理想の営業マンと同じです。当然医者のやりたい治療法を勧めたりしてはいけません。客観的ではなくなるからです。

医者が説得マンになる時

インフォームドコンセントを良く理解していない医者は、説得マンになってしまいます。元々説得マンとは説得して物を買ってもらおうとする営業マンのことです。医者が説得マンになるとは、医者が行いたい治療法に同意してもらうために必死に説得することを指します。説得の目的は自分の行いたい治療法受け入れてもらうことです。決して患者さんのためではありません。患者さんのためであれば説得など必要ありません。患者さんの一番利益になる治療法を客観的に伝えるだけで良いはずです。

手術をしたい医者は良性疾患でも積極的に手術を勧めます。どうしても手術をしたい医者は説得マンになるのです。悪性の疾患で命に関わる疾患であれば手術をすることはある意味避けられないと思いますが、良性疾患の手術を説得してまで勧めるのは説得マンに他なりません。悪性の疾患の治療法であっても、患者側のメリットが曖昧なまま特定の治療法を勧めるのは説得マンなのかもしれません。

医者の説得マンの目的は、医者自身の経験値を上げることであったり、対外的な実績のためであったり、治療費であったりします(ちなみに医者も売り上げを上げるように病院の経営陣から求められることがあります)。その目的達成のために説得されているのかもしれません。ちょうど営業マンが説得マンになるのはとにかく売り上げを上げる目的なのと良く似ています。

医者も説得マンになる時があるという視点で、医者を見てもらうと面白いと思います。勘違いした営業マンと何ら変わりません。医師免許を持っている分困った説得マンですが。

怒りとの上手な付き合い方

怒りとの上手な付き合い方を考えてみます。怒りは感情なので心の中で感じてしまうことは仕方ないのかもしれません。しかし怒りとして感情を人にぶつけるかどうかは別問題です。つまり怒りを感じるのは仕方なくても、表に出すかどうかは別問題です。

まず怒りは何らかの齟齬が原因で生じるものです。こちらの常識が相手の非常識であったり、相手の常識がこちらの非常識であったりです。こちらが当たり前だと思い込んでいることが、相手にとっては初耳であったり、概念すら無かったりするのです。怒りを感じる場合、相手に何かが抜け落ちている可能性が高いのです。よくあるのは、言ったのに理解していないと怒る場面です。言った側は言ったつもり、言われた側は何となくわかったつもりで認識に齟齬があるのです。伝えようとした内容がキチンと伝わったか確認することを怠ると、お互い齟齬があることを知らないまま過ごします。そして何かあった場合、言ったのにしていないと怒り出すのです。

一つの提案は何が抜け落ちて怒りを感じるのか、客観的に見極めることです。怒りの感情に流されると冷静な判断が出来なくなります。そして怒りのまま、伝えようとしてもなかなか真意が伝わりません。結局伝わるのは不快な感情を感じていることだけです。怒ったところで、犬が吠えるのと大して変わりません。怒っている内容が感情に歪められて、客観的に伝えられないからです。

相手に何が抜け落ちているのかがわかれば、抜け落ちていることを伝えるだけで済むはずです。いかに当たり前なことであっても知らないのであれば仕方ありません。知らないことを教えてあげれば良いのです。知らないのですからどれだけ怒られても、理解出来ません。つまり怒るこもは無意味なのです。

怒りとの上手な付き合い方

怒りを感じるということは、相手が何か知らないか理解出来ていないことがあるのです。怒りとの上手な付き合い方は、怒りを感じた時点で何が抜け落ちているのか探すきっかけにするのです。何が抜け落ちているのかわかれば、怒ることすら馬鹿らしくなるようなことかもしれません。逆に相手の怒りに対しては、自分に何が抜け落ちていたのか探すのです。相手の主張と自分の持っている情報の齟齬を探すのです。何が抜け落ちているのかわかれば、その齟齬を解消するようにすれば良いだけです。相手が怒る時点で不快な感情を抱いていることだけはわかります。しかし怒りに任せて感情をぶつけられても何に対して怒っているのか理解出来ないことが多々あります。何が抜け落ちているのかを見極める視点で、相手が怒っている理由を聞き出し、抜け落ちていることを探すことをお勧めします。

怒りという感情を利用して人を支配しようとするのは幼稚です。発想は赤ちゃんと同じだからです。怒りとの上手な付き合い方を身につけましょう。

借りたお金を増えたと錯覚してしまう心理

借金で苦労する人もいれば、借金は絶対しないという人もいます。借金は金利も含めて返すことの出来るのであれば、自己責任ですから他人がとやかく言うことではありません。しかし借金を重ねる人の中には、借金することが出来た時点でお金が増えたと錯覚してしまう心理があるようです。返済に追われていると冷静に判断することが出来なくなってしまうこともあるようです。その際も返済するお金を新たに借りることが出来ると、返済した気になってしまうのです。何ら返済はしておらず、冷静に考えれば借金が増えて金利も増えているのです。新たに借りる労力が、返している錯覚に陥るようです。

家のローンでも同じです。お金が増えたかの感覚で、ローンの支払いは家賃のような錯覚に陥ります。確かに家のローンの場合は家の価値の分通常の借金と異なりますが、借金という意味では同じです。借金が支払うことが出来なく場合、担保である家を差し出しても借金は相殺される訳ではありません。家の価値が中古で目減りした分、借金だけが残ってしまいます。ここにも落とし穴があるのです。担保があるから家を差し出せば、借金は無くなると錯覚している人がいるのです。他国では借金と引き換えに担保を差し出すことで、帳消しになるようです。日本ではそうななっていないため、住宅ローンで破産してしまうことがあり得るのです。

借金は金利の分だけ余分に支払う必要があるのですが、お金を使うことに喜びを感じると借りてでも使いたくなるようです。そしてお金を借りることが出来た時点でお金が増えた錯覚に陥るので、しっかり使ってしまうのです。後で支払うのですから同じことですし、金利の分だけ損なのですが、お金が増えた錯覚で得した気分になるのです。

ちなみに一説によると、クレジットカードの取り扱いは20%売り上げを伸ばすそうです。一回払いなら金利は販売店の負担で消費者の負担がありません。一ヶ月とはいえ無金利の借金をしているのと同じことです。しかもポイントがつくので逆金利のような錯覚に陥ります。そうすると財布の中からお金ぎ減らないため、お金が増えたと錯覚し財布の紐が20%も緩むそうです。だからお店はクレジットカード会社に5%程度の手数料を支払っても売り上げが伸びるので、喜んでクレジットカードを取り扱うのです。実はお客のためではなく、売り上げを伸ばすためにクレジットカードの取り扱いをしているのです。

これらの心理を理解し、借金の罠にはまらないようにしましょう。

人は肩書きで情報の真偽を判断する

人は肩書きで情報の真偽を判断しがちです。弁護士が言っているから確からしい。医者が言っているから確かだと思う。大学教授が言っているのだから間違いないといった具合です。

判断する基準が明確ではないため、肩書きで情報の真偽を判断してしまうのです。弁護士だから正しいとは限りませんし、医者だから正しいとは限りません。大学教授が言っていることが正解とは限りません。確かに何の肩書きもない人の発言よりは信頼出来る可能性はあります。何故なら弁護士や医者、大学教授になる前に選別を受けているからです。注意が必要なのは弁護士や医者、大学教授になるための選別であって、その後の発言すべてを肩書きが保証している訳ではないことです。

いくら肩書きが立派でも、個別の発言はその人個人の見解の域を出ない可能性があることを知っておく方がお得です。その人が正しいとは限らないのです。学会などで多くの人が認めていても、最終的な真偽は実は自分で判断するしかありません。

このサイトで糖質のことや、様々な病気が治ることや糖質依存などの考え方を提唱しています。私は医者であることは公表していますが、所属や名前は公表していません。誰が言ったとしても真実は一つです。私が誰であろうとも、真偽に関係はありません。真偽はご自分で判断してもらえば良いと考えています。

医者などの専門家が必ず正しいと考えるのは間違いです。何故なら専門家といえど人間なので、損得を考える人が多いからです。損になることは言わない可能性が高く、自分自身の利益になることを言っているだけかもしれないのです。全員が全員、損得だけで行動する訳ではありませんが、専門家の中にも損得で行動する人が混じっていることを知っておいても良いと私は思います。特にテレビに出る専門家の人達は目的が正しいことを伝えるよりも視聴率を取ることに傾いている可能性があることも知っておいても良いかもしれません。

いずれにしても、専門家と言われる人達の発言を肩書きによって信じ込んで鵜呑みにはせず、自分自身で判断するようにする方がお得です。良かったらそのように考えてみて下さい。