病気を避ける理想の食べ方

病気を避けるための理想の食べ方の提案です。(この食べ方は2017年版なので、最新の血糖値の上がりにくい食べ方は血糖値の上がりにくい食べ方2018年版をご覧下さい)
血糖値が一時的に上昇することで様々な問題が起こるようです。
糖質によって上昇した血糖値が下がらなくなるのは糖尿病ですが、一時的に上昇するだけでも様々な問題が起こるようです。糖質回避という食べ方を提唱し始めた当初は、糖質依存から抜け出すことを目的に糖質を食べるか食べないかの2択しかないと考えていました。しかし現実には糖質を食べながら病気を避ける方法があることがわかってきました。糖質依存のままでも病気を避けることができるようなのです。
そこで病気を避けるために血糖値の上昇しにくい食べ方を提案します。主に2つです。糖質の量を控えるか糖質の急速な吸収を抑えるかです。

理想の食べ方の理屈

血糖値の上昇しにくい食べ方の理想は糖質を食べないことです。何故なら糖質だけが直接血糖値を押し上げるから、その糖質を食べなければ血糖値が上昇しないという非常に簡単な理屈です。世間で言われている糖質制限ではなく、私は糖質回避という考え方を提案しています。何故なら自分の意思で糖質を避けることを制限とは言わないからです。自分の意思で避けるので他人から制御される制限という言い方ではなく、回避という表現が適切だと考えます。糖尿病治療中や腎機能障害や肝機能障害などで食事制限がある人以外は、糖質を食べないことを理想とします。糖質さえ食べなければ、タンパク質や脂質はお腹いっぱい食べることが出来るので、我慢する必要のない食べ方です。そもそも糖質を食べなければ、糖質の食べ方を気にする必要は全くありません。ただし長期的にみると動物性タンパク質や動物性脂質を多く摂りすぎると、問題が起こる可能性が指摘されてはいます。植物性タンパク質や植物性脂質ではそのような指摘が今のところないため長期間糖質を食べないのであれば、植物性タンパク質や脂質を中心に摂るようにする方が無難なようです。糖質制限(私の主張する糖質回避)をすると食べる量を我満することなく、食べるものを選ぶだけで痩せることができるため、ダイエット法として最適です。そもそも人間が太る原因が糖質依存による糖質の過量摂取なのですから、糖質回避により体重が減るのは当たり前といえば当たり前です。

ここまでは糖質を食べなければ病気になりにくいと書きましたが、必ずしも糖質をゼロにしなければ病気が治らない訳ではないこともわかってきました。そこで糖質を食べる場合の食べ方を提案したいと思います。

糖質による病気は血糖値の上昇が何らかの関わりがありそうなので、以下の血糖値の上がりにくい食べ方により改善が期待出来ます。糖尿病の改善も期待出来ると思います。

糖質の食べ方

糖質だけが直接血糖値を押し上げます。糖質の食べ方により血糖値の上がり方には違いが出ます。

糖質の吸収を抑えるか、糖質そのものの摂取を抑え血中濃度の上昇を抑えるかです。

糖質以外(オカズ)のものから食べる

野菜から食べることを勧める人がいますが、惜しい考え方です。何故なら糖質と糖質以外で分けて考えるべきであり、野菜にこだわる必要がないからです。その根拠は糖質が血糖値を上げるのですから、糖質の吸収を邪魔してくれれば必ずしも野菜でなくても肉でも魚でも良いはずです。極端な話をすれば、理屈の上ではナッツ類などの脂肪分でも血糖値の上昇は抑えられるはずです。

つまり食事の際は糖質以外のオカズから食べるのが正解だと思います。

オカズなしでいきなり糖質を食べることの出来る、パンや麺類は食べ方の注意が必要です。糖質の吸収を邪魔してくれるオカズなしでいきなり糖質を食べるため、血糖値が急上昇する可能性があります。出来ればサラダや唐揚げなどを食べてから糖質を食べることがお勧めです。

お子さんの場合、オカズを食卓に並べ、オカズを一品食べた時点で御飯をついであげるようにするだけで自然とオカズから食べるように制御出来ます。

お菓子の場合もオカズから食べることがお勧めです。お菓子の場合オカズがないので、オカズ代わりにゆで卵やチーズ、ソーセージ、枝豆、ナッツ類など糖質以外のものを食べてからお菓子を食べるルールにすることです。

もしチョコレートを食べるのであれば、砂糖ゼロのチョコレートがお勧めです。

一度にたくさん糖質を食べない

一度に食べた糖質が足し算されてしまいます。一度に食べた糖質が消化され血糖値を押し上げるのです。一時的に上昇した血糖値が引き金となり病気を引き起こすようです。お米もパンも麺も果物などのデザートも一度に食べれば全て足し算されてしまうのです。つまり一度の食事量を減らし食事回数を増やす方が、トータルで食べる量が増えても血糖値は上昇しにくくなります。逆に食べる量が同じでも食事回数を減らして一度にたくさん食べると血糖値が急上昇してしまいます。極端な話をすれば、同じ量を3食ではなく6食にわけて食べると血糖値が上がりにくいため、症状が出にくくなるのです。

たとえ話をするとラーメン・チャーハンセットを食べると症状が悪化する場合でも、お昼にラーメンを食べて時間をあけてオヤツにチャーハンを食べると症状が悪化しない場合があるのです。別の例えをあげると一度に大盛りを食べると症状が悪化しますが、小盛りを二回に分けて食べると症状が悪化しない可能性があるのです。

日頃三食食べている人が、忙しくて一食食べ損なって次の食事で一度にたくさん食べると症状が悪化するのです。お昼忙しくて夜ドカ食いしてしまうと症状が悪化します。お昼を食べ損なっても、夜ドカ食いせずいつも通り食べるようにしましょう。どうしても食べたければ、時間をあけて追加で食べるようにしましょう。もしくはオカズをドカ食いするようにしましょう。決して糖質をドカ食いしないことです。

食後に果物や甘い物を食べるデザートという食べ方も良くないようです。何故なら食事で食べた糖質にデザートの糖質が足し算になるからです。食事の糖質により上昇した血糖値が下がってから、改めて食べる方が良いので、果物や甘い物を食べる際には食事から時間をあけて食べる方が良いはずです。

デザートを時間をあけて食べるようにすれば、3食の食事がデザートの分食事回数が増えて、身体にとっては4食になるのです。

果物・お菓子を食べる場合

果物・お菓子は食べないことが一番の理想ですが、上記のルール通り果物・お菓子を食べる場合もオカズから食べることと一度にたくさん食べないことです。詳しくは果物・お菓子の理想の食べ方をご参照ください。

ジュースを飲む場合

ジュースは飲まないことが理想ですが、飲む場合には砂糖・糖分・糖質の含まれていないものを選びましょう。詳しくはジュースの選び方をご参照ください。

まとめ

糖質は食べないで済むなら食べないことが理想です。食べるなら食べ方には注意が必要です。何故なら糖質は依存性があるため、知らず知らずのうちに糖質依存に陥ってしまうからです。

糖質は美味しい反面依存性のある言わば禁断の食べ物です。美味しさに引き込まれて無防備に食べるのではなく、その危険性を理解した上で上手な食べ方を身につけましょう。

上記のように糖質以外の物から食べること、一度にたくさん食べないこと、この2点を気をつけるだけで病気になりにくいはずです。私は免疫が関わる病気の多くが糖質のせいだと考えています。糖質の食べ方を気をつけるだけで、世の中の病気の大半がなくせると考えています。良かったら実践してみて下さい。私の食べ方を実践して人生が変わった人が大勢おられますよ。

参考リンク

食後血糖値一覧

おにぎり1個とおにぎり2個の血糖値の違い (1個でも2個でも変わらない)
おにぎり2個と唐揚げの食後血糖値 (唐揚げにより血糖値が下がる)
おにぎり2個と特保コーラの食後血糖値 (特保コーラを飲んでも上昇)
おにぎり2個とお茶の関係 (驚くべきことにお茶を飲むと血糖値が上昇)
お茶と特保コーラの血糖値の違い (お茶と比べると特保コーラは上がらない)
たまごサンドイッチの食後血糖値 (たまごサンドイッチは血糖値が上がらない)
おにぎりと牛丼特盛の食後血糖値の関係 (牛丼特盛の方が血糖値が上がらない)
食パンとたまごサンドイッチの食後血糖値の関係 (食パンは血糖値が上昇する)
おにぎりと食パンの食後血糖値の関係 (おにぎりも食パンも同じような上昇)
アイスクリーム2個の食後血糖値 (おにぎり1個程は上がらない)
カップラーメン ビッグの食後血糖値 (血糖値は206mg/dlまで上昇)
ツインハンバーグ ライスとパンの血糖値の違い (ライスの方が高い)
ジョイフルとガストのランチの食後血糖値の違い (何故かガストの方が低い)
尾道ラーメンとカップラーメンの食後血糖値の違い (カップラーメンが高い)
鎌倉パスタと食パンの食後血糖値の違い  (食パンの方が高い)
ガストで糖質回避の食後血糖値  (糖質回避の食事では血糖値は上がらない)

いちいち言われないと行動しない人の心理

いちいち言われないと行動しない人がいます。今日はその心理を考えてみます。

言われれば行動するのですが、いちいち言わなければ行動しない人がいるのです。自分で考えて行動する人からみると、サボっているように見えてしまうため、苛立たしく思ってしまいます。言われても出来ないのであれば能力的な問題なので諦めもつくのですが、言えば出来るだけに腹が立つのです。

言われないと行動しない人の心理は、自分のすることあるいはすべきことが理解出来ていないのです。受け身の人生だったのでしょう。恐らく自分で考えて行動することが無かったのだと思います。あらかじめすべきことを念入りに伝えたとしても、行動しはじめるタイミングがわからないのです。そもそも自分で何とかするという概念が乏しいようです。概念そのものがないのですから、自分で考えて行動するように言ったところで全く理解出来ないのです。

恐らく言葉で説明しても、自分で考えて行動するようにはなりません。対策は自分で考えて行動しなければ、その人が困る状況を設定してあげることです。自分で何とかしなければ、状況が変わらないことを理解させるのです。これまで周囲の人達が説明しても理解出来ないので、面倒になってあれこれ指示してしまったのでしょう。自分で考える必要がないので、ますます自分で考えることができなくなってしまうのです。そして指示を待っている方が楽なので、ますます自分で考えて行動しようとはしません。

困るような状況作られたとしても、行動が変わらない場合には、明確なルール作りをすることしかないでしょう。つまりマニアルを作成するのです。様々な状況を想定し、決まった行動取れるようにルール作りをするのです。機械に作業を指示するようなものです。機械の能力が高ければ曖昧な私でも機会が作動しますが、機械の能力が低ければ事細かな指示が必要となります。人間でも同じです。能力が高ければ曖昧な指示でも意図・目的を読み取り、適切な行動が取れますが、能力が低ければ明確な指示があっても適切な行動が取れないのです。

どうしてもいちいち言わなければ行動出来ないのであれば、目的を明確にしておくことだと思います。例えばお客さんを待たせないことを目的として、どうすれば良いかを考えるように指示するのです。コンビニではもっと明確に指示がなされており、お客さんが2人以上並べば新しくレジを開けると言う具体的なルールになっているようです。

いちいち言わなければ行動できない人は悪気があって行動しないのではありません。ただ本当に気づかないいちいち言わなければ行動できない人は悪気があって行動しないのではありません。ただ本当に気づかないのです。目的を伝えたとしても行動が変わらないのであれば、残念ながら適性がないのかもしれません。のです。配置替えや別の作業をしてもらうほうがお互いが得かもしれません。

人を褒めて育てるのは間違い

世間一般では子供にしろ部下にしろ褒めて育てることが持て囃されていますが、残念ながら間違っています。何故なら褒めるのは出来ないと思っていることが前提だからです。人は相手が出来ると思っていることに対して褒めたりはしないのです。人から褒められた場合、ただ喜ぶだけでなく相手は出来ないと思っていたことを理解すべきです。

褒めて育てることが間違っているのは、褒めることが相手に期待していなかったことを暗に伝えてしまうからです。そして褒めて育てていると、相手が褒められることに依存してしまうからです。褒められるために行動するようになることが一番の問題なのです。褒められないと行動出来ない心理に陥ってしまうのです。更に厄介なのは、頑張ったにも関わらず褒めてもらえないと、褒めてくれない人に対して敵意を抱く場合があることです。褒めて育てていると、褒めてもらうためだけに行動することになり、自立出来ない心理に追い込んでしまうのです。

褒めて育てないのであればどうすれば良いのでしょうか?結果ではなく、途中経過の努力を認めてあげるのです。そして出来ないと思っていたことが初めて出来た場合などは、一緒に良かったねと喜んであげるのです。褒めるという上下関係ではなく、相手のことを認めるという対等な関係が望ましいと思います。

闇雲に褒めて育てていると、褒められることに依存した人間になってしまいます。そうならないように気をつけて育てましょう。

現代人が近眼になる理由(仮説)

現代人が近眼になる理由を見つけました。まだ仮説に過ぎませんが、恐らく間違いないと思います。

今でも大自然に住む人たちの中には視力が6.0と驚異的な目の持ち主もいます。いつも遠くを見るからだと解釈されていますが、私は別の合理的な理由を見つけました。その反対の行動を取る現代人の視力が悪くなる理由もわかりました。

理由は眼球を取り囲む筋肉の違いです。大自然で生活する人は眼球を取り囲む筋肉が発達するため、眼球が小さくなり焦点(ピント)が遠くで合うようになります。大自然の中で生活していることで、命の危険を避けるために動物や敵に襲われないように絶えず目を動かして注意を払う必要があったのです。恐らく人類の進化の歴史において、眼球は眼球を取り囲む筋肉に押し潰されないように出来る限り大きくなるように進化したのだと思います。

一方現代人は治安にもよりますが、命を守るために絶えず目を動かすことはほとんどありません。むしろ本やテレビ、スマホなどを注視することも多く、目を動かすことはほとんどありません。眼球を取り囲む筋肉が眼球を締め付けることがないため眼球が膨らんでしまうため、焦点距離が長くなるため近視になってしまうのです。

近視を治すという眼球運動を勧める人もいますが、眼球を取り囲む筋肉を鍛えて眼球を縮めることで近視を治すようです。恐らく眼球が大きく成長する小学生くらいなら、眼球の増大を抑えるために眼球周囲の筋肉を鍛える『意味』があると思います。

テレビや本を読むから目が悪くなると考えるのは、あながち間違ってはいないようです。ただし焦点が近いから近視になる訳ではなく、眼球運動が少ないことで眼球周囲の筋肉が少なく眼球が大きくなることが原因のようです。ご参考まで

人が死んでも商品を売ることが許される国…

日本は資本主義で比較的成功した国ですが、人が死んでも利用者の自己責任だとして商品を売ることが許される国でもあります。人が死ぬ商品とは某ゲームです。運転中にゲームをして人をはねて死なせる事故の件です。運転中ゲームをした結果の事故は、過失ではなく未必の故意の殺人事件だと私は思います。つまり事故ではなく事件なのです。そのきっかけを作り出すゲームの販売継続が許される不思議な国です。ゲーム会社に良心があれば自ら運転中のゲームを制限するはずです。しかし運転中のゲームを制限すると売り上げが減少するので、人の命より利益を追い求める企業であれば、ゲームに依存させておきながら利用者に責任を押し付けそのまま継続するのです。何件もの事故もう一つはコンニャクゼリーですが、それは別の機会に書きたいと思います。
ゲームをする人に運転中はゲームをしないように呼びかけても無意味です。何故なら運転中にゲームをする人は、ゲームに依存してしている状態だからです。依存していない人は運転中にゲームなどしません。何故なら普通の人は、ゲームという遊びで、これまで積み上げた全てを失いかねない事故を起こすような馬鹿なことをしないからです。一時の楽しさを追求してしまうのは、そもそも冷静な判断が出来る状態ではなくなっているので、自分では危険と安全の判断がつかなくなってしまっているのです。むしろ自分だけは安全だと錯覚を起こしてしまっているのです。

身体に悪いとわかっていてもお酒やタバコがやめられない人と同じです。手元にお金がないのに借金をしてまでギャンブルをする人たちと同じ心理です。

自分では良し悪しの判断がつかないので他人が事故を避ける仕組みを作ってあげるしかないのです。このゲームの場合、ゲームの運営を取りやめるか、少なくとも車での移動中には遊べなくするようにするのです。確かに遊んでいる人の責任ではありますが、その危険なサービスを提供している企業も、利用者の責任として逃げるのではなく、危険を避ける仕組みを考えるべきではないでしょうか。企業が危険を避ける仕組みを考えないとすれば、自分たちの利益を他人の命よりも優先して考えているのです。私は命よりも大切なお金があるとは、到底思いません。

企業が自主的に運転中のゲームを出来ない仕組みにしないのであれば、国民の命を守るために法律を整備するべきだと私は思います。ゲーム中に事故を起こした場合、加害者は殺人罪、ゲームメーカーも殺人幇助と設定すれば、事故を起こさない仕組みにすぐに対応するでしょう。それをしないのは、国民の命を軽んじているように私ら思います。飲酒運転も何人もの犠牲の結果、現在の仕組みになりました。某ゲームの規制、みんながゲームよりも命の方が大切と気付くにはもう少し時間がかかるのかもしれません。自分や家族が被害者にならないために、歩道も端を歩き、横断歩道では左右はもちろん斜め後ろも確認して歩くしかなさそうです。

今のところ自分の身は出来る限り自分で守るしかなさそうです。早く規制されることを祈っています。

日本の生産性が上がらない理由その2 残業

かつては生産性が高かった日本の生産性が上がらない理由その1 サービス残業を以前書きました。今回はその2として残業を取り上げたいと思います。

私は以前書いたサービス残業だけでなく、残業という制度そのものが日本の生産性を蝕んでいると思います。その理由を書いてみます。サービス残業では残業をしても残業代を支払わないので、企業側が残業をする方向に仕向けます。残業に対する対価を支払わないため、躊躇することなく残業させるのです。

では残業代を支払う場合に何が起こっているかというと、わざとゆっくり仕事をする輩がいるのです。目的は残業代を稼ぐことです。現在の仕組みでは手を抜けば手を抜くほど収入が増えるのですから、わざわざ急ぐ理由などありません。急いでいるふりだけすればいいのです。上司の仕事は急いでいるふりを見ることです。真剣に働いているかどうかを見抜くのが本来の仕事のはずです。

ちなみに本人はゆっくり仕事をしているつもりは全くありません。真剣に仕事をしているつもりになっているのです。つもりということがポイントです。真剣に仕事をしているつもりのため、真剣に仕事をしろと言われても、真剣にしていると言い返すのです。残業する本人たちは仕事の量が多いと不平を言いながら残業しますが、その実仕事の仕方が問題なのです。わざとゆっくり仕事をする人と、仕事の量が多くて止むを得ず残業になる人の区別がつかないからです。仕事が早くて定時で帰ることの出来る人の方が、仕事が遅く残業代をもらえる人より収入が少なくなるのです。それでも仕事を早くしようと考えるでしょうか?

ゆっくり仕事をする方が収入が増える仕組みを誰も訂正しないことが、日本の生産性が上がらない理由だと思います。問題は途中で仕事の質を判定せず、最後まで同じ人が同じ仕事をすることです。

対策

残業代が長時間労働を生むで書いたように残業代を目的にゆっくり仕事をしてしまいます。かといって残業代を支払わないサービス残業とすると前回書いたような問題が生じます。ではどうしたら良いのでしょうか?

残業代を支払わない訳にはいきませんが、かといって残業代を支払うと残業代を目的にしてしまうことが問題です。残業の仕方を変えるのです。わざとゆっくり仕事を出来ないように、仕事が残った時点で仕事の早い人に引き継ぎ、仕事の早い人が残業するのです。そうすれば仕事の早い人に残業代が支払われるため、能率も上がりますし、残業代が無駄にはなりません。残業を人に任せる場合、引き継ぎ出来ないという人がいますが、人に引き継ぎ出来ない時点で仕事の段取りに問題があるのです。もしくは自分の仕事を人に説明出来るほど理解出来ていないのです。自分の仕事を理解出来ていない人間に残業代を支払うので、ますます生産性が上がらないのです。

引き継ぎが出来ない場合、仕事の目的・到達点と現状を伝えることで代用するしかありません。目的・到達点すら伝えることが出来ないのであれば、そもそもの采配ミスなのかもしれません。采配ミスを炙り出すことが出来るのも、残業を人に引き継ぐ利点です。

当然残業する人の評価が高まり、残業を人にこなしてもらう人の評価は下がります。生産性の低い人と生産性の高い人を見分けることが出来るのです。生産性の低い人は、適材適所の考え方で、適正のある働き方を探す方が良いのかもしれません。人に残業してもらうことになると評価が下がるため、定時で仕事が終わるように全力を尽くすようになると私は思います。つまりゆっくり仕事をする人と、真剣に仕事をする人を見分ける必要がなくなるのが一番のメリットです。

日本の生産性が上がらない理由その1 サービス残業

日本の生産性は他の先進国と比較して高かったにも関わらず、最近では相対的に低迷しています。他の先進国では生産性が向上しいても日本の生産性は向上していないのです。その理由を考えてみます。一言で言えばサービス残業が最大の理由だと考えます。

サービス残業という愚

サービス残業とは残業しているにも関わらず、対価としての残業代が支払われない残業のことです。サービスといっても会社に対して従業員の方がサービスするという滅茶苦茶な理屈です。一見すると会社がタダで従業員を使うので会社が得をしているようにみえます。しかし実はサービス残業をさせるのは愚かなことです。何故なら結局会社が損をしているからです。その理由は本来の残業代が支払われる環境なら当然行われるはずの、労力の取捨選択することなく無駄な作業に時間を費やしてしまうからです。残業代が支払われるのであれば、生産性の低い労働は排除し、生産性の高い労働のみに労力を費やすはずです。わざわざ残業代を支払ってまで生産性の低い労働をさせる経営者はいません。

本当に必要な作業かどうか吟味する労力を惜しみ、無駄かもしれない生産性の低い作業を強いるのです。というよりも労働させる側の視点で考えると、サービス残業は生産性抜群です。何故なら実質人件費がゼロで労働が得られるからです。労働させる側からすれば、一見生産性は無限大になります。対価を支払うことなく労働の成果を搾取出来るからです。

労働者の視点からみると生産性はゼロです。どれだけ成果を出しても対価が支払われないからです。いわば強制されたボランティアです。自発的ではない強制ボランティアなのですから、積極的に急いで働くことはありません。仕事を早く終わらせると次の仕事を与えられる可能性が高いので、むしろゆっくり働きます。

サービス残業では労働することで対価を得るという目的を失っているため、労働する意欲がわかないのです。人間の心理としてどれだけ働いても報酬が支払われなければ、出来る限り手を抜こうとしてしまうのです。つまりダラダラ働くことになるのです。サービス残業を続ける限り日本の生産性が高まることはなさそうです。ただ日本の生産性が高くならないのはサービス残業だけが問題ではありません。実はサービス残業だけではなく、残業そのものが問題だと私は思います。残業の問題は次の機会で改めて書いてみようと思います。

肥満税や砂糖税について思う

今ある国では肥満税が検討されているようです。これまでも砂糖に対して課税しようとした国がありましたが実現にはいたっていません。肥満税自体に意味はあると思いますが、今回検討されているのはジャンクフードや糖分を多く含む飲料などに対して課税が検討されているようです。

私は肥満・生活習慣病の本質を捉えきれていない惜しい対策だと思います。何故なら肥満や生活習慣病と言われているのは、糖質依存症に過ぎないからです。ちなみに糖質依存には強い空腹感という禁断症状まであります。本質は糖質依存症なのですから糖質に対する課税が正解です。ジャンクフードは糖質を食べる方向に加速させるに過ぎませんし、砂糖だけ課税しても穀物を含む糖質が問題の本質なので解決には至りません。問題の本質と対策がズレているのです。

肥満は食事の摂りすぎだと誤解されていますが間違いです。肥満は食事の摂りすぎではなく、糖質の摂り過ぎです。糖質の摂り過ぎの元になるのが糖質依存です。糖質依存により糖質の自己抑制が出来なくなった結果、糖質を食べ過ぎて太ってしまうのです。

生活習慣病と言われていますが、ただ単に糖質依存症でしかありません。生活習慣が悪くて病気になったと解釈されていますが誤解です。問題の本質は糖質の食べ過ぎです。糖質依存のため、自己抑制は出来ません。有効な対策は糖質に対する課税です。糖質の値段をあげることで抑止効果を期待するのです。集めた税金を糖質依存症の治療費として使うのです。糖質を食べた人に自己責任を取ってもらうという考え方です。

病気を引き起こす身近な依存物質は課税されています。例えばアルコールやタバコです。同様あるいはそれ以上に依存性のある糖質に課税がされてない方がおかしいのです。

糖質を食べ過ぎて病気になった治療費を、糖質を食べない人も負担することもおかしな話です。同じ問題もタバコでも言えます。

私の周りの人達には糖質依存の考え方を伝えていますが、世の中の人達がいつ受け入れるのか楽しみです。

次々不安を口にする人の心理

事あるごとことに次々不安を口にする人がいます。

今日は次々不安を口にする人の心理を考えてみます。人の行動には必ず目的があります(アドラーの心理学目的論)。不安を口にする人にも目的があるのです。その目的とは不安を理由に人を自分の思い通り動かすことです。あるいは自分の思い通りに人を振り回すことです。本人は不安を訴える目的を意識・自覚していないことが多いことが問題を複雑にします。

多くの人は不安を口にされると、不安だから仕方がないと受け止めてくれます。その相手を思いやる心につけ込むのです。次々不安を口にする人の目的は、相手に不安だから仕方ないと思わせることなのです。更に深い目的があります。その目的を考えてみます。

不安だから私の話を聞いてとか、不安だから私の言うことを聞いてとか、不安だから私は安心させるように行動してと暗に求めているのです。不安を言い訳に直接こうしてと行動を求めることもありますが、多く場合は不安を口にすることで相手を自分の目的に沿った行動を取るように、自然に仕向ける目的があるのです。直接行動を求めない場合、自分は不安を訴えただけで相手が勝手に行動したと都合良く考えています。つまり自分が不安を口にすることで相手を動かしていることを意識してはいないのです。いわば無意識の内に不安を言い訳にして人を振り回しているのです。不安を口にすることで周囲の人達が世話を焼いて不安の元を解決してくれることがあるので、駄目元で不安を口にする癖がついているのです。

不安を言い訳にして直接行動求める人は、ある程度人を振り回している自覚があります。何故なら自分が行動を求めているからです。しかし直接行動求めようとしない人は、これまで不安を口にするだけで周りがその心情を斟酌することで不安を口にした人の思い通りに動いていたのです。不安を口にすることで人を操ることを成功体験として何度も経験したことにより、不安を口にするだけで魔法使いのように周囲の人達を動かす事に慣れてしまっているのです。

普通の人は不安を感じた場合には他人に口にする前に、出来るだけ不安を解消できるように自分で出来る範囲で準備や対策をします。わざわざ他人に不安を口にするのは他人に対策をとってほしい目的があるのです。

不安は誰にでもあります。具体的にはいつ地震が襲ってくるか分かりませんし、いつ交通事故にあうかもわかりません。不安の種をあげればキリがないでしょう。かといって交通事故に遭うことが不安だから外に出ないといったところで誰も共感はしてくれないでしょう。アドラーの心理学によると不安により行動できないのではなく、行動したくないことが先にあり、不安を行動しない言い訳に利用しているに過ぎないそうです。

不安により行動が左右されるのではなく、不安は行動の言い訳として利用しているに過ぎないのです。

逆に何らかの目的があれば人は不満をいくらでも作り出すのです。不安を作り出す目的とは、人に相手にしてもらうことです。不安を口にすると相手にしてもらえる、親身になって話を聞いてもらえることを成功体験として経験していると、仕切りと不安を口にするのです。不安を口にしても相手にしてもらえないと不安を口にしなくなります。人によっては不安を口にしても親身になってもらえないだけで相手に敵意を抱く場合すらあります。これだけ不安で悩んでいるのにわかってくれないなんてひどいと言う具合に相手に敵意を抱いてしまうのです。

不安の解消はその人の問題です。不安の解消の手助けはできたとしても、最終的に不安を解消できるかどうかは、不安を感じる人自身の問題なのです。なぜなら不安はいくらでも生み出せるからです。不安を訴える目的が話を聞いてもらうことであれば、1つの不安を解消したとしても、次の不安を訴えるのです。

次々不安を訴える人は、不安を訴えること自体が目的であって、そもそも不安の解消が目的では無いのだと思います。そして次々不安を訴える人自身が何故不安に感じるのかを理解出来ていないのです。何故なら人はなかなか客観視出来ないからです。

次々不安を訴える人の対策は、課題の分離を提案することです。課題の分離とは誰が困る問題か明確にし、他人の問題には口出ししないことです。そして不安の解消は他人には出来ないことを伝えてあげることです。不安を言い訳に行動を変えないように提案してあげることです。決して不安の解消を請け負わないことをお勧めします。何故なら不安の解消を請け負うと、相手の目的を達成するまで延々と振り回されてしまうからです。

企業が学歴フィルターにより学生を選別する理由

企業が新卒学生を採用する際、学歴フィルターを使用しています。その理由を考えてみます。

一言で言えば、学生を選別する適切なフィルターが他に見つからないためだから気をフィルターがわりに使っているのです。本来であれば仕事に必要な能力を見極め、仕事に必要な能力でフィルタをかけるべきなのです。実は企業側がその仕事に必要な能力の見分け方を把握できていないため仕方なく学歴をフィルターがありにしているに過ぎないのです。仕事に役立つ適切な指標がないため、記憶力と理解力を示す学歴だけでも優秀な学生を選ぶのです。学歴は優秀でも仕事で役立たないことがあるのは、学歴と仕事に求められている能力が異なるからです。

学歴の意味するもの

学歴は単に教科書を覚える記憶力とその内容を使って作られたパズルを解く能力を試された結果に過ぎません。しかも学歴の多くは入学時の能力を表すだけであって、卒業時の能力ではありません。

学歴と仕事のズレ

学歴は教科書を使った記憶力と答えの用意されたパズルを解く能力を競っているに過ぎません。通常仕事とは自分で問題を見つけつの問題を解決する能力が問われるのです。つまり問題を用意されるのか自分で見つけるかの違いがあるのです。しかも試験と異なるのは答えが存在するかどうかわからないことに挑む必要があるのです。正解があるとは限らず、与えられた制約の中での最適解を求めることになるのです。

仕事では問題に気づく能力が試されるのですが、問題に気づく能力自体が欠落していると仕事にはなりません。つまり問題を用意してもらわなければ、仕事を始めることが出来ないのです。

問題に気付くことが出来たとしても学歴が高い人に限って、必ず正解があると思い込んでしまい、答えが見つからないと混乱してしまうのです。

学歴フィルターを使う理由

仕事に求められる能力は問題を解く能力の前に、問題を見つけるあるいは作る能力です。そして与えられた制約の中での最適解を見つける能力です。残念ながら今の所、学歴のように客観的にそれらの能力を表す指標がありません。そのためせめて記憶力と理解力を表す学歴フィルターにより学生を選別しているのです。

少なくとも優秀な学歴を得た学生は、勉強に対して継続して努力したことを表します。そのため仕事の上でもある程度耐性を期待出来ると考えるのでしょう。

更にインターネットが学歴フィルターを助長しました。何故ならインターネットでの出願は簡単だからです。手書きとは異なり、いくつものエントリーが容易だから、学生は莫大な数の出願を行うのです。そのため莫大な数の出願を仕分けするために、止むを得ず学歴フィルターを使っているに過ぎません。企業も学歴フィルターが最適と考えている訳ではなくても、学歴の高い人材は低い人材よりは役立つ可能性が高いと考えているのでしょう。

もう一つの理由は無料で入社試験をしているからです。入試のように受験料を徴収すれば良いのです。実は入社試験の受験料を徴収し寄付すると宣言した企業がありましたが、世間の批判に耐えきれず断念しました。営利目的ではなく、本気の入社希望者を振り分けるためにお金を使うのは適切だと私は思います。つまり無料でしているから学歴フィルターを使わざるをえなくなっているに過ぎないのです。学歴にとらわれず優秀な人材を集めたい企業が、入社試験の受験料を適切に徴収するようになることが合理的だと私は思います。私立大学の入試のように営利目的にしても構わないと私は思います。企業の営利活動を部外者が批判するのは的はずれです。

学歴フィルターの今後

学歴の表すものと、仕事で求められる能力とがズレていることに企業が気付いていないはずがありません。とりあえず学歴でフィルターにかけた後で、仕事に役立つ能力を身につけているかどうかを面接などで見極めているのです。これからの時代記憶力は大した意味は無くなります。何故ならタブレットやスマホなど記憶媒体が進化しているため、頭の中に細かく記憶する必要が無くなったからです。

今の所仕事をする上で必要とされる能力を見極める指標を各企業がノウハウとして蓄積していますが、もし普遍化することが出来れば学歴は全く意味をなさなくなります。私は近い将来仕事が出来る能力を見極めることの出来る指標を考え出す知恵者現れると思います。

日頃から問題を見つける能力と、最適解を見つける能力を養うことをお勧めします。