母乳のために炭水化物を多く食べるのは間違い

出産後母乳を多く出すためにお米や炭水化物を多く食べるように勧められることが多いようです。その是非を客観的に考えてみます。

母乳の成分は赤ちゃんの身体を育てるために、脂肪分やタンパク質・アミノ酸を含んでいます。母乳や牛乳が白いのは脂肪分が分散しているからです。客観的に考えれば、脂肪やタンパク質を多く食べるべきです。

ではお米・炭水化物を食べるとどうなるかを考えてみます。お米や炭水化物は消化されブドウ糖となって吸収され、血糖値を押し上げます。血糖値は上がり過ぎると毒性を発揮するため、上がり過ぎないようにインスリンで必死に押し下げます。赤ちゃんを育てるためのタンパク質や脂肪をわざわざブドウ糖から作ってまで母乳を作り出すとは思えません。

確かにお米や炭水化物にもタンパク質や脂質は含まれてはいますが、わざわざ食べ過ぎると毒性を発揮する炭水化物として、タンパク質や脂質を摂取する意味はなさそうです。何故なら直接タンパク質を多く含むお肉や魚、豆腐などから摂れば良いからです。

お米や炭水化物を多く食べるように言われる理由

母乳の成分とは異なる成分であるお米や炭水化物を、わざわざ多く食べるように勧める理由を考えてみます。

かつて食べる物が乏しかった時代、お米はご馳走でした。授乳婦さんにはそのご馳走を食べてもらうということから始まった話ではないかと思います。もしくはお米神話とでも言うべきお米への幻想からきた迷信ではないかと私は思います。

この迷信が糖質依存に埋もれて検証されることなく代々続いているだけではないかと思います。

授乳中お米・糖質を食べ過ぎる弊害

乳児湿疹の原因はお母さんの食べる糖質の量のようです。糖質が多過ぎると乳児湿疹を引き起こすようです。

もしかしたら乳腺炎も糖質の食べ過ぎかもしれません。お一人乳児湿疹を避けるために糖質を控えていた際には母乳の出方が良かったそうですが、糖質を我慢しきれなくなって沢山食べたときに母乳が詰まった感じがして母乳が出にくくなったそうです。つまり乳腺炎も糖質が原因の可能性が考えられます。

赤ちゃんのヨダレはお腹が空いている証拠

ヨダレの多い赤ちゃんと少ない赤ちゃんがいます。体質だと誤解されているかもしれませんが、ただ単にお腹が空いているだけかもしれません。1日3食という親の常識にとらわれていると、ヨダレとお腹が空いていることが結びつかないようです。赤ちゃんは胃が小さいのでこまめに食べる必要があるようです。ヨダレを垂らしているのであれば、胃が空になってお腹が空いていることをアピールするボディランゲージなのかもしれません。泣くほどお腹が空いてはいないけど、胃は空っぽなのかもしれません。

赤ちゃんも3食で十分だと思い込んでいると、食べてすぐにお腹が空く訳がないと思いがちです。お腹が空いていると疑う発想がなければ、ヨダレを垂らしていても、お腹が空いているとは想像すら出来ないのです。

ヨダレを垂らしているのであれば、食べさせようとしてみましょう。お腹が空いていなければ口を開けないはずです。お腹が空いていれば口を開けるでしょう。

「この子ヨダレが多いの」とは間違っても人に言わないことです。何故なら食べさせ方が足らないことを人に言うと恥ずかしいからです。

ヨダレを垂らしている赤ちゃんを見かけたら、お腹空いているんだなと思ってあげましょう。泣く前に食べさせてあげましょう。

猛獣が必要以上に他の動物を襲わない理由

ライオンやトラなどの猛獣は自分達が食べる分以上に、他の動物を襲うことはありません。誰かから無駄なことをしてはいけませんと教えられるのでしょうか?

猛獣が必要以上に他の動物を襲わない理由

猛獣が必要以上に他の動物を襲わない理由は、実は簡単です。猛獣といえども狩りをする際に怪我をする可能性があるからです。例えば草食動物を襲う場合、必死で逃げ惑う際に足で蹴られてしまうかもしれません。足の当たりどころによっては命を落としてしまうかもしれません。直接命を落とさないまでも、骨折でもすれば長い時間動くことが出来なくなるので餓死する可能性があります。

猛獣がむやみやたらと他の動物を襲わない理由は、可能性は低いながら反撃される可能性があるからです。食べる訳でもない他の動物を襲うことで反撃されて命を落としては割にあいません。だから必要以上に他の動物を襲ったりしないのです。

人間が必要以上に殺す理由

人間は自分達が食べる訳でもない動物を殺すことがあります。時として相手が人間であっても殺すことがあります。

人間も猛獣のようにわずかでも反撃される可能性があれば、無駄な争いは出来るだけ避けるでしょう。幸か不幸か人間は反撃されない離れた相手を攻撃出来る、一方的な武器を手に入れてしまいました。かつては槍や弓矢、今では銃やミサイルです。生物界の仕組みからすれば、いわば反則のような状態です。一方的な殺戮です。しかも離れた相手を攻撃出来るので、殺した相手を見ることすらないかもしれません。だから残酷という感覚すら芽生えないのです。これが人間が必要以上に他の動物を殺すことが出来る理由です。

反撃されることを考えず一方的に攻撃出来るため、他の動物にはない倫理観という概念が必要になってきます。反撃されないために攻撃しないのではなく、反撃されなくても攻撃しない強さが求められているのです。

現に持っている人達がいる限り、今更兵器を手放すことは出来ないでしょう。だからこそ兵器を使わなくて済む知恵という武器を身につけるべきだと思います。必要以上に他の動物を殺すことがない動物本来の姿に、早く人間も到達して欲しいものです。

食の足し算と引き算

食には足し算の方向に進化しているものと、引き算の方向に進化しているものとに分けることが出来ます。

食の足し算

食の足し算とは食材に手を加え、手間暇をかけて美味しい食べ物にすることです。食の足し算の行き着く先は様々な高級料理です。

考え付く限りの手間暇をかけて美味しい料理を提供するのが食の足し算です。お客さんのニーズにあった足し算をすることで、値段が高くなっても買ってもらえるのです。

食の足し算の一つは回転しない普通のお寿司屋さんのお寿司です。手間暇を足して生魚と米をお寿司という高級な料理に仕上げるのです。高級レストランも食の足し算の一つでしょう。

食の足し算はお金の足し算と考えても良いのかもしれません。

資本主義経済においてはどれだけ足し算しどれだけ高い食べ物を提供しても自由です。しかし売れなければ淘汰されてしまいます。料理人はどこまで足し算が許されるのか見極める必要があります。

食の引き算

食の中で無駄だと考え付くものを出来るだけそぎ落とすのが引き算です。出来るだけそぎ落とすので、足し算のように理論上は無限に行うことは出来ません。引き算には技術的な限界が訪れます。

食の引き算の一つは回転寿司です。無駄をそぎ落とすことで実現する低価格を武器にお客さんを回転させることで収益を上げます。セントラルキッチンにより仕込みの手間をそぎ落とします。他にも回らないお寿司屋さんのように本物のネタだと高くなるので、似たような食材でそれなりのお寿司に仕上げます。元々回らないお寿司屋さんが高いのは、売れ残る分も見込んだ値段設定だからです。売れ残ることがなければその分価格をそぎ落とすことが出来ます。

ファミリーレストランも食の引き算を極めつつあります。ファミリーレストランによってはセントラルキッチンで下ごしらえをするので、包丁を置いていないところすらあります。作業の無駄を省くことで提供時間の引き算も行われています。その分人件費が引き算されていきます。味を保ったまま、安く提供出来るように様々な無駄をそぎ落としています。

10年・20年前までは安ければ品質もそれなりでした。食の引き算の基準がコンビニのお弁当との比較になるため、美味しくなければ淘汰されていきます。その意味では、一番食の引き算で成功しているのはコンビニなのかもしれません。コンビニが日々進化させながら一定レベルのお弁当を提供していることで、食の引き算の味のレベルが維持されているのかもしれません。

このように考えると様々な業種が絡み合って切磋琢磨しているようです。10年もするとどのようになっているのか楽しみですね。

スポーツのために炭水化物を食べる勿体無さ

患者さんと炭水化物の話をしていると、スポーツをしているから炭水化物を食べるのは仕方ないと言われる方がおられます。私は勿体無いと思います。何故なら炭水化物は重りにしかならないからです。そのことを解説していきます。

身体を作るとは?

スポーツをするためにわざわざ炭水化物を食べるのは、身体を作るためだそうです。身体を作るとはトレーニングにより身体を動かすために必要な筋肉を作ることです。筋肉はタンパク質でできており、その材料はアミノ酸です。アミノ酸は食べ物として食べたタンパク質が消化され吸収されることで供給されます。

肉や魚などのタンパク質を大量に食べることで、身体に蓄えますが、脂肪のように必要以上に蓄えることはしないようです。もしかしたらタンパク質の貯蔵は脂肪の貯蔵より効率が悪いのかもしれません。蓄える必要がなければ無理に蓄えずエネルギーとして使ってしまいます。そのため筋肉を蓄えるために筋肉を鍛える必要があるのです。

筋肉は許容範囲をこえた負荷がかかると切れてしまいます。切れた筋肉を治す際に、次の負荷でも切れないように備えるために筋肉が切れる前の状態よりも太くなります。切れた筋肉を修復する過程で痛みを伴うのが筋肉痛です。

これらのことから身体を作るためには、タンパク質を摂ることと筋肉を鍛えることが必要であることがわかります。

炭水化物を食べる意味

炭水化物は糖質と食物繊維を合わせたもののことで、食物繊維は人間の身体では消化できないので実質炭水化物イコール糖質です。糖質は消化されブドウ糖として吸収されることで血糖値を押し上げます。血糖値は下がると脳の活動を妨げますが、上がることで良いことはなさそうです。人によってはアレルギーを発症しますし、場合によっては2型糖尿病を発症します。

血糖値が上がることで良いことはなさそうですが、ブドウ糖が余るのであれば脂肪として蓄えます。つまり炭水化物を食べることで脂肪がつくのです。身体を動かす際に脂肪は重りとして働きます。牛肉の霜降り肉のように筋肉の間に脂肪がたまることがあれば、重りとしてだけではなく、筋肉の動きを直接邪魔してしまいます。

炭水化物を多量に食べることで脂肪がつく訳です。スポーツをするのにわざわざ重りをつけてするのと同じだと私は思います。トレーニング目的に重りをつけて行動するのは理にかなっていますが、試合にも重りをつけて臨むのは私には理解出来ません。

炭水化物を食べる『意味』があるスポーツは、体重そのものが必要な相撲やラグビーなど限られていると私は思います。

相手に脂肪という重りのハンデをあげるつもりで炭水化物を食べるのであれば問題ありません。しかし身体を作るために炭水化物を食べるのは勿体無い勘違いだと私は思います。

あくまでも筋肉をつけるのであればタンパク質、脂肪をつけるのであれば炭水化物を食べることだと思います。

一度食べた物が身体の中でどのように変化するのか冷静に考えてみても良いのではないかと思います。

サンクコストの取り扱い方

サンクコストとは一度支払うと戻ってこないお金のことです。サンクとは沈むという意味で、沈んでしまった取り戻すことの出来ないお金のことです。多くの人はサンクコストの取り扱い方により判断を誤ります。

映画館で映画を見ることを思い浮かべてみてください。映画館に入る時点でお金を支払います。これがサンクコストです。どんなに面白くない映画で文句を言ったところでかえしてもらうことは出来ません。映画館に入って面白くない時点で選択肢は、見るか見ないかの二択でしかありません。払ったお金を勿体無いと考えて我慢して見るか、せめて時間は無駄にしないために映画館を出る2つだけです。

払ってしまったお金に引きずられて判断が歪みがちです。映画館を出てしまえば、払ったお金が全くの無駄になるからです。払ったお金を惜しいと考えてしまうので、多くの人が判断を誤ります。取り戻せないお金を判断の根拠にしてはいけないのです。

市場の移転問題で何千億円ものお金が無駄になると問題になっています。何千億円に引きずられて判断を誤りそうです。私利私欲にまみれた輩は、既に使ってしまった何千億円を担保にして、思い通りに事を運ぼうとしています。決してかえることのない既に使ってしまったお金の事は忘れて、使う価値があるかどうかを見極めるべきです。実は原発も同じです。既に原発に使ったお金を無駄にしないために原発を稼働させるのはサンクコストを理解していない人達の考え方です。

払ったお金が勿体無いからといって面白くもない映画を見続けるのは、お金だけでなく時間まで無駄にする愚かな行為です。何千億円という巨額であっても、駄目なら駄目と面白くない映画のように見切りをつける必要があるのかもしれません。巨額であれば巨額である程判断は難しくはなりますが、かえってこないお金に振り回されることなく判断するべきです。

サンクコストに見切りをつけることが出来ないだろうとタカをくくって、計画を無理に進めようとする人がいます。ダムや干潟の灌漑、五輪施設など様々な計画がサンクコストを無駄に出来ないだろうとタカをくくって推し進めているように思います。サンクコストは無視して「0から思考」により、改めて考え直すべきだと思います。

サンクコストに拘るのは過去に拘ることに似ています。過去を変えることは出来ませんから過去に拘るのは無意味です。サンクコストに拘るのも過去に拘るのと同様に無意味です。何故ならサンクコストは今更変えられないからです。変えられないのであれば、変えることの出来ることを考えるようにしましょう。

コストは支払う前に検討するべきことであり、支払ってしまったものをウジウジ考えても『意味』がありません。支払う前であれば支払わないという選択肢がありますが、支払った後であれば取り返すという選択肢はないからです。

サンクコストの取り扱い方は、コストをかけたことを忘れることです。その上で価値があれば利用すれば良いし、価値が無ければ切り捨てる方がお得です。成功する企業はサンクコストを切り捨て、失敗する企業はサンクコストに振り回されています。

安物買わぬは銭失い

新しい諺を考えました。安物買いの銭失いを元に安物買わぬは銭失いです。

安物買いの銭失いは安い物は安いなりの物でしかないので、結局損をするという意味です。この諺が出来たのがいつの時代だったかは定かではありませんが、確かについ最近まで安物は安物でしかありませんでした。物を作り出す労力が大きいため、多くの物を作り出すことは出来ませんでした。売るために良い物と安物の二極化が進みました。安物は安物に過ぎないものの、情報が人と人との間でしかやり取りされなかったため、それなりに売ることが出来ました。

今では状況が大きく変わりました。様々な知恵の蓄積により、物を作り出すことに以前程労力を必要としなくなりました。良い物を安く作り出すことが出来るようになりました。つまり安物の意味が変わったのです。安くて安いだけの物が安物だったのですが、安くて良い物が安物になったのです。

もう一つ変わったことは情報です。今では安物は2種類あります。以前からの安物である安くて安いだけの物と、最近の安物である安くて良い物の2種類です。この2種類が情報により振り分けられるのです。ただ安いだけの安物は情報により淘汰されてしまいます。安いけど値段相応か値段以下という情報が広まることで、いくら安くても誰にも相手にされなくなるのです。逆に安くて良い物である安物は情報により一気に広まります。少し前までは新聞やテレビやラジオなどのメディアに認められるというハードルをこえないとなかなか情報発信することは困難でした。しかし今では誰でも簡単に情報発信することが出来るので、安くて良い安物は広まるのです。

情報により、ただ安いだけの安物は淘汰され、安くて良い安物が生き残ることになります。結果として安物を買わぬは銭失いとなるのです。

この諺は安物の意味合いが今と昔では変わったことを表します。

仕事を見て覚えろはただの怠慢

一昔前までは仕事を見て覚えろと言われていました。いちいち細かいことまで説明されずとも見よう見真似で覚えていました。伝統的に自分が見て覚えたから、人にも同じことを要求することが長年続いていたのです。昔はそれで問題ありませんでした。何故なら競合は少なく時間だけはあったからです。時間の流れが非常に緩やかだったので、長年かけて見て覚えたとしても問題なかったのです。むしろ使う側にとっては、見て覚えろという方が3つの意味で都合が良かったのです。一つ目は細かく説明する面倒さがないこと、二つ目は技術の習得を餌に安い労働力を確保出来ることです。三つ目は素早く技術を習得してしまうと、教えた人間にとってライバルになるので、教えたくはなかったのです。一言で言うならば教えない方が、お得だったのです。だから見て覚えろと言って説明を避けていたに過ぎません。

言い訳

見て覚えろというのは、上手く説明出来ない言い訳に過ぎないと私は思います。自分では出来ても人に説明出来る程には理解出来てはいないのです。人に説明するには、自分の行動の目的や調整方法を細かく言語化して説明する必要があります。この言語化という作業が出来ないことを隠すために、見て覚えろと言うのです。

私は的確な説明スキルを持ち合わせていないという意味で、怠慢だと思います。その上で情報を教えたくない言い訳をしているように思います。

見て覚える時代は終わりつつある

見て覚える時代は終わりつつあります。見て覚えるしか選択肢の無かった時代には、選択肢がないので見て覚えていました。今では説明が上手な人も増え、見るだけではなくコツも含めて早く習得出来るように説明してくれるようになってきています。

情報が増えていることもあり、見て覚える以外の選択肢が出てきました。コツややり方そのものの解説をネットで見つけることが出来るかもしれませんし、そもそも見て覚えろと言われる人から逃げ出すことも容易になりつつあるのです。

見て覚えろという情報の出し惜しみをしていると、相手にされなくなってしまうかもしれません。事実職人さんが人を集めにくくなっている原因の1つは見て覚えろという昔気質の考え方かもしれません。

子育ての仕方 自分で考えさせる

子育ての仕方を考えています。
私は子育てにおいて子供を怒る必要はないと考えています。親が子を怒るのは、感情で子供をしたい表れに過ぎないからです。怒ることなどしなくても子供に物事を伝えることは出来るはずです。むしろ笑顔を引き出しながら育てられないか模索しています。

子育ての一つの指針は子供自身が考えることが出来るようにすることです。勉強は出来るにこしたことはありませんが、必ずしも勉強はできなくても良いかもしれません。何故なら学校の試験の成績は、学校の教科書を使ったパズルを解く能力の良し悪しをはかっているに過ぎないからです。

考えることは必ず必要となる能力です。特にこれまでにないアイデアを出すことは今のコンピュータには出来ません。人工知能が発達したとしても新しいアイデアを考えることが出来るようになるのは当分先の話でしょう。逆に今あることを処理するだけであれば、処理の仕方をプログラムするだけで今の機械ですら簡単にこなしてしまいます。つまり学校の試験を解くことは、処理の仕方に過ぎないので機械が出来る作業でしかなくなるのです。私達が苦労して解いた試験の『意味』がなくなる時代がすぐそこまできているのです。

今学校に通う子達は自らの意思で考えることが出来るようになるべきです。自ら考えることが出来なければ、機械には到底勝てません。もしかしたら機械と競っていることを意識すらさせてもらえないかもしれません。就職し働いている仕事が機械に置き換わると、機械に仕事を奪われたと実感出来るかもしれませんが、そもそも機械に仕事を奪われて就職出来なければ実感出来ないのです。

考えるとは、まず行動の目的を意識するだけでも違います。

何故高校に進学するのか?何を目的に高校に進学するのか?大学に進学するための学歴を取得するためであれば、大倹でも良いはずなのに何故高校に通うのか?何故大学に進学するのか?など当たり前に思っていることでさえも、考え始めればいくらでもネタはあります。

周囲の大人は考えるきっかけを与えてあげるしか出来ないのです。逆に考えるきっかけを上手く与えることが出来れば、その一言が人生の転換点になるかもしれないのです。

考えること。それが唯一21世紀を生き残る手段だと私は思います。

進化とは生き残った環境を知る手がかり

進化とは生き残る確率が高まる形質のことで、生き残った結果を進化として認識します。そのため
逆に考えれば何十億年もの進化の結果残っている形質は、様々な環境において生き残るために有利に働いたはずです。不利な形質は淘汰されるからです。
しかしその形質が未来永劫生き残るために、有利に働くとは限りません。何故なら環境は絶えず変化しているからです。その環境では偶々生き残るために有利に働いて生き残ることが出来ても、環境が変われば不利になるかもしれません。

人間の体毛

例えばお猿さんから進化した人類は、暑さ対策に体毛を産毛に変化させました。体毛を産毛にすることが出来た者だけが生き残ることが出来たのでしょう。体毛か産毛になった者は、放熱に適し長時間の連続した移動が可能だったはずです。このことが食料の確保に直結したのではないでしょうか?しかし氷河期に突入すると一転し、体毛が無いことは非常に不利に働きました。衣服を身にまとう知恵が無ければ、暑い時期には有利に働いた体毛がないことで間違いなく人類は淘汰されていたことでしょう。

ちなみに頭髪が伸び続けるのは絶えず刺激を受ける頭を守るために伸びるのではないかと思います。硬いものを噛み続けるげっ歯類の歯が伸び続けるのと同じ理屈です。

進化から生き抜いた環境を見極める

現在持っている形質は何らかの進化(様々な環境において生き残るために有利に働いた形質)の結果なのです。逆に考えると進化の起こりえた環境を逆算することが出来ます。進化とは、ある環境において生存率が変わる形質のことですから、その環境を想像することが出来るのです。例えば副鼻腔の存在理由ですが、頭部に衝撃を受ける機会が多く、脳を守るためのバンパーだったはずです。今では想像がつかない程、頭部に外傷を受ける機会が多く、副鼻腔の有無が生死を分けたのでしょう。今からでは想像しにくくなったのは、剣や銃が発明されたからです。剣や銃では副鼻腔の有無にかかわらず脳にダメージを与えてしまうため、副鼻腔が意味をなさなくなってしまったのです。現代の兵器が強力になり過ぎて、副鼻腔では脳へのダメージを防ぐことが出来なくなってしいました。そのため本来の目的に思い至ることが出来ないのです。副鼻腔は存在するのですから、存在した方が有利な環境を生き抜いたのです。そしてその後副鼻腔が存在しない方が有利な環境は無かったということがわかります。

生き抜いた環境の見極め方

現在の形質から生き抜いた環境の見極め方を考えてみます。現在の形質とは備えている能力のことです。個体差はありますが種として持ち合わせている能力は、何らかの進化の過程で自然淘汰を生き抜いた環境により選ばれたものです。

その生き抜いた環境と形質の考え方は、その形質の有無により生き残る確率が変わる環境を考えてみることです。暑かったのか寒かったのか、敵が多かったのか食料が少なかったのかなど様々な環境を考えてみます。その上で生死を分ける環境や状況があれば、その環境や状況を生き抜いたのでしょう。その形質の有無が生死を分ける環境を想像してみましょう。

例えば黒人と白人の違いは、色素細胞の働き方の違いです。色素細胞は紫外線を遮るために存在します。色素細胞が働く方が生存に有利なのは紫外線が強い地域です。人類はアフリカで生まれたらしいので色素細胞が働くのが基本だったはずです。では白人は色素細胞の働きを抑えていますが、色素細胞が働かない方が生存に有利な環境を考えてみます。紫外線が弱い地域に住むことで紫外線から身を守る必要がなくなったのです。ただしそれだけであれば白くなる必要はありません。日本人のように黄色人種程度の色合いで良いはずです。肌が白い方が生存に有利な環境があるはずです。人は紫外線に当たることでビタミンDを作り出すことが出来ます。紫外線に当たらないことでビタミンDの違いが出たのでしょう。出来るだけ紫外線に当たる方が生存に有利な程紫外線の弱い地域で生活したことを意味します。紫外線により多く当たる方が生存に有利なため、色素細胞を働かないように進化した人だけが子孫を残すことが出来たのです。

腋毛や陰毛も存在するのですから、かつて命に関わった存在理由があるはずです。このことは改めて書いてみたいと思います。良かったら考えてみてください。