ミスは個人の問題ではなく、システムの問題

人間はヒューマンエラーをすることがどうしても避けられません。ヒューマンエラーをしないように気をつけるという対策は、頑張った振りはするけど結局何もしないことと同じです。

ヒューマンエラーをしないように気をつけるのではなく、ヒューマンエラーを出来る隙を無くすのです。

例えば何かのスイッチを押す場合を考えてみてください。何も対策が無ければ、人が間違いがないことを確認する必要があります。見間違いや勘違いなどで判断を誤ると間違ってスイッチを押してしまう隙があるのです。ヒューマンエラーを無くすために、予めスイッチのボタンを取り外し、第三者が確認しスイッチのボタンを渡す仕組みにすると間違いでスイッチを押すことが出来ます。ちょうど鍵により確認するのと同じ仕組みです。絶対に間違いがあってはいけない核兵器では何重にも確認する仕組みがあるはずです。

ミスの捉え方

ミスをした人がいても怒ってはいけません。何故なら怒ったところで時間を巻き戻すことは出来ないからです。いい加減な対応をした結果、ミスをしたとしてもそもそもミスをする隙があったのです。システムの設計ミスです。ミスのプロセスを見極め、再発防止策を作るのです。ミスをしたくてもミス出来ない仕組みにするのです。先程の例えで言えば、うっかりスイッチを入れてしまうことを防止するならスイッチのボタンを外しておくなどです。航空機はヒューマンエラーが重なると墜落してしまいます。絶対にあってはならない燃料切れで墜落したことも何度かあるのです。ヒューマンエラーが重ならない仕組みを考え出して、飛行機は安全に飛んでいるのです。

仕事でうっかりミスがあったからといって、ミスした人を責め立てても何も解決しません。むしろミスを隠そうとしてしまいます。ミスをする隙を無くすのです。例えば会議に必要な資料の持参を忘れていたとします。万が一忘れていることが発覚してもまだ間に合う時間のうちに、持参しているか確認するのです。あるいは前もって会議室に届けておく仕組みを作るのです。ミスを責め立てるよりも、ミスを無くす仕組みを考える方がより効率的です。

ヒヤリハット

病院で取り入れられているヒヤリハットは、ミスの防止策を見つける手段として有効です。事故には至らないもののヒヤリとするとこやハットすることを元に、大事故にならないように未然に防ぐ対策を立てるのです。人の命が関わる病院ならではの考え方です。ミスをする隙を無くす目的で、危ないと気付いたことの要素を取り出し、ミスを起こせないように改善するのです。

個人を責め立てても、何も生み出さないのです。むしろ隠そうとする分、個人を責め立てることは失うものの方が多いので損です。

再発防止策はどうするのかを考えるのです。

待ち時間の長い病院には行かない方がお得

待ち時間が長い病院には行かない方がお得です。何故なら自分の時間が待つ間に無駄になりますし、そもそも待ち時間が長くなる仕組みをわざと作っている可能性があるからです。ちょうど人気のラーメン屋さんなどで行列が出来ると話題になるのと同じような理屈です。行列で話題だから食べに行ってみると、ただ単に手際が悪くて捌き切れず行列が出来ているだけということがあります。

待ち時間が長くなる仕組み

病院で待ち時間が長くなる仕組みとは、頻回に再診を求めるなどです。患者さんのことを心配している風を装って、診療報酬・売り上げ・稼ぎのために再診を求めているだけかもしれません。稼ぎが目的の医者の特徴は再診しないと患者さんを怒ります。その癖待ち時間を短くする対策はとりません。自分の人気が高いから待ち時間が長くても仕方ないと自惚れているのかもしれません。もしかしたら待ってでも自分の診察を受けたいんだろ?という歪んだ心理が潜んでいるのかもしれません。そんな心理が潜んでいれば、電話での予約はもちろん予約システムを導入する訳がありません。何故なら待ち時間に耐えることの出来る人を選ぶ目的でわざと待たせている可能性があるからです。

診察時間が長い?

説明が下手な医者も診察時間が長くなり、待ち時間が長くなります。説明が的を射ているわかりやすい説明であれば、一人一人の診察時間が短くて済むので待ち時間も短くなりす。待ち時間が長い医者は、説明が下手な可能性が考えられるのです。

待ち時間が長い原因が回りくどい説明のせいで、患者さんが理解しにくいので診察時間が長引くのです。わざわざ長い時間待ってまでわかりにくい説明を聞かなくても良いと思います。

待ち時間に対する勘違い

待ち時間に対する勘違いを医者も患者さんもしている可能性が考えられます。待ち時間を医者の腕や人気のバロメーターだと誤解しているのです。待ち時間が長ければ腕が良いとか、人気が高いと勘違いしているのかもしれません。

説明が下手で納得してもらうのに時間がかかっても、手際や要領が悪くても待ち時間は長くなります。

むしろ待ち時間が長ければ長いほど、医者が儲け主義の可能性が考えられます。

患者さんが待っても医者は困らない

患者さんの待ち時間が長くなっても、直接医者は困りません。困らないから改善する工夫をすることがありません。待ち時間が長いと苦情を言っても、自惚れている医者は、それだけ待っても診察受けたいでしょ?と暗に褒められたと錯覚するので逆効果です。

待ち時間を減らす対策を取らない時点で、人の痛みがわかる医者とは思えません。その意味でも待ち時間が長い医者には行かない方がお得です。

良心的な医者

患者さんの負担を考えることの出来る医者は、そもそも頻回の再診を求めたりしません。必要最低限の受診を提案するだけです。だから待ち時間が伸びることはありません。

待ち時間が少ないのは、患者さんの立場を考えた結果待ち時間を減らす対策をしているのかもしれません。

もし万が一満足のいかない診察だとしても、待ち時間が短い分諦めもつくのではないでしょうか?

待ち時間の長い医者をわざわざ受診するのは、様々な意味でもったいないと私は思います。

妊娠中の高校生に体育の実技強要に思う

妊娠中の高校生に体育の実技を強要したことが発覚し、問題になっているようです。女性は16歳を過ぎれば結婚可能なわけですから、高校生が妊娠することは十分ありえる話です。

妊娠中にも関わらず体育の実技を強要したのは、配慮不足では無く退学してもらうことが目的ではないかと思います。

高校の教師は生徒が妊娠したことを受け入れることが出来なかったため、やめさせられる目的でわざと実技を強要した可能性が考えられます。実技が嫌なら辞めれば良いと考えたのではないかと思います。

少なくとも生徒のことを思いやる気持ちは無かったのではないかと思います。

同級生との卒業は諦め休学し、幸い無事出産されたそうです。

恐らく教師は後々問題になるとは考えることなく排除しようとしてしまったのではないかと思います。学校では生徒は教師には逆らえませんから、教師が権力者のように振舞ってしまったのでしょう。古い価値観からすると高校生が妊娠・出産というのは受け入れがたいのかもしれません。情報源を私は知りませんが、SNSで誰でも世界にむけて発信出来る時代だということを教師達は読み誤ってしまったのでしょう。

様々な価値観を受け入れ、対応が迫られる時代になりつつあります。

デジタル思考とアナログ思考の違い

デジタル思考とアナログ思考という考え方を提唱しています(参考:アナログ思考とデジタル思考の見分け方)。デジタルが新しく、アナログが古いという分類ではありません。

デジタル思考

デジタル思考の考え方は0か1で、その間はありません。デジタル思考では曖昧さがないのです。0か1にはっきりと分けるのです。0.4は0ですし、0.5は1なのです。0.499でも0と見なすのです。0.5をこえるかどうかが明確な分岐点です。

そのため明確な分岐点、この場合は0.5をこえるかどうかを見極めます。一度確認して0.5をこえていれば1と見なします。念のため途中で確認することはあっても、0.5未満にならなければ判定が覆ることはありません。このことがデジタル思考の特徴です。判断が明確で素早いのです。デジタル思考の場合、判断基準を人に伝えるのも容易です。0.5をこえるかどうかだからです。数字で表すことの出来ないことでも、デジタル思考の場合明確な分岐点を決めることが出来るので、判断が素早く出来ます。判断や決断の早い人はデジタル思考をしている可能性が高いと思います。デジタル思考の場合、数字に限らず判断基準を明確に出来るので人に伝えるのも容易です。

デジタル思考が出来る人は、誰に責任があるのか明確に理解出来るので言い訳をすることはほとんど無いと思います。

物事を論理的に捉えることが出来るので、経営者や管理職、科学者に向いています。

アナログ思考

どちらかというとほぼ1だけど、でもまだ正確には1ではないので、まだ0になる可能性があると考えるのがアナログ思考です。アナログ思考では0.99は1に近くはあっても、まだ1ではないから0になる可能性が残っていると考えるのです。完全に1になるまでは1ではないと言い張るようなものです。いずれ1になるとしても、1になるまでは1では無いと主張するのがアナログ思考です。

結果は0.99でも1でも変わらないのですが、1になるまでは認めないので決断に時間がかかります。0.99は1では無いと言い張るので議論も進みません。

言い訳人間に多い思考方法かもしれません。

経営者や行政のトップにはむかない思考方法です。

人を振り回す目的で不安を訴える人

知らず知らずのうちに人を振り回す人がいますが、中には人を振り回す目的で不安を次から次に訴える人がいます。

目的が振り回すこと、つまり相手にしてもらうあるいは心配してもらうことなので、一つの不安を解消しても次々に新たな不安を訴えます。一般的には次々不安を訴えられると不安で仕方なくて可哀想にと思ってしまいます。しかし振り回すこと、心配してもらうこと自体が目的なので心配してあげると、成功体験として繰り返すようになります。一度心配してあげると次々不安を訴えられた場合、相手の不安を増長する手助けをしているのです。

不安を解消する、不安を乗り越えるのはその人の問題です。不安を理由に行動しない人がいますが、ただの言い訳に過ぎません。行動しないことを決めてから、行動しない言い訳を探しただけのことです。その証拠に、その不安が解消されても別の行動しない言い訳を探します。本当に不安が行動しない理由であれば、不安が解消されれば行動しないはずがありません。他の理由を言い始める時点で、言い訳決定です。(参考:アドラーの心理学)

振り回すことが目的なのですから、真剣に相手をしてもお互いのためになりません。誰の問題か課題の分離を行い、他人の問題に関わらないことです。

振り回すこと自体が目的で無ければ、暗に助けてもらいたいのです。一度助けると、助けてもらう目的で余計振り回されることになります。手助けはしても手助け程度にしておくべきです。代わりにやってあげてしまうと、成功体験として記憶されてしまいます。振り回すと助けてもらえるというより、代わりにやってもらえると理解するのです。次は無意識のうちにもっと振り回そうとしてしまうことでしょう。

親戚付き合いの目的

かつて親戚付き合いは大事にされていました。実は明確な目的があったのです。
困っても誰も助けてくれることなない時代では、一種のセーフティネットだったのです。
だから日頃は面倒でしかない親戚付き合いを、いざという時に備えて渋々行っていたのです。説教ばかりするオジさんも、いざとなれば助けてくれるから、黙って聞いていたのです。
日頃のを顔合わせのために、盆正月の集まりや、法事などが行われるのです。ちなみにお釈迦様の説いた仏教の教えには先祖を敬う考え方はありませんでしたが、お坊さんの集金システムと親戚付き合いの顔合わせのきっかけとして法事という行事が生み出され定着しました。

国がセーフティネットを整備する以前は、困ったことがあれば親戚同士でお互い助け合うしかなかったのです。赤の他人は助けてはくれないので、いざというときに備えて親戚付き合いをしていたのです。昔は基本的に親戚は近くに住んでいたため、親戚同士の集まりも大した負担にもなりませんでした。

近代化に伴い生活が多様化した結果、都会で生計を立てる人が多くなり、親戚同士が離れてくらすようになりました。移動も大変になるため親戚付き合いも疎遠になりつつあります。実はセーフティネットとしての親戚付き合いの意味合いが薄れてきたことも、疎遠になりつつある一因です。親戚付き合いしなければいけない意味がわからないという考え方です。何故ならその親戚付き合いを促す親戚も、お互い助け合うという意味を理解していないのです。更に親戚が困っていても助けることの出来る余力のある親戚がいなくなっていることも、親戚付き合いが面倒でしか感じられない理由の一つです。

今後の親戚付き合いはもしかしたら薄れゆく運命なのかもしれません。

発想の逆転 消費減税を考えてみる

発想の逆転を考えてみます。
国民から税金を取ろうとする国と、何とか税金を払いたくない国民とがせめぎ合いをしています。
ふと発想の逆転をして経済のことを考えてみたいと思いました。ただの空想の世界です。
何においても発想の逆転というのは、思考する上で役立つ情報をもたらします。空想してみる価値はあると私は勝手に考えてみました。

消費税とは?

そもそも消費税とは、お金を使うなら使った分だけ国に場所代を支払いなさいという仕組みです。国民はお金は税金を支払いたくはないが、消費の際には仕方なく支払うものです。お金を使わざるを得ないことを盾に考え出された税金です。

消費するかしないかを悩む際には、出来れば消費しないように仕向けてしまう負の側面があります。増税すると景気が悪くなるのは皆さんご存知の通りです。

将来の不安のためお金を使わず、貯めようとする心理が働きがちです。お金を使わないと得な仕組みになっているため、みんな将来に備えてお金を使わないようにしてしまいます。そのことに気付いた人から余計な物を買わなくなってきつつあるのです。消費税は景気の改善の邪魔をしてしまいます。

言い方を変えると、国民にお金を使わない方向に圧力をかけているようなものです。

消費減税とは?

発想の逆転をして、お金を使うと減税をするのです。今はお金を使うと税金を支払うことになりますが、お金を使うと景気の改善に貢献するので、お礼に減税するという考え方です。流石にお金を使うとお金をあげますというポイント制のようなものは無理だと思うので、減税という手段を考えてみました。目的はお金を使うと得な仕組みを考えるのです。

お金を使った分の全額あるいは何割かを課税額から控除するのです。もし実現すると課税方式が変わるので、課税する税率も大きく変えなければならなくなります。貯蓄額に対して課税するような印象です。そうなると消費する方が得だと考える人も増えると思います。もしかしたらバブルのような景気がくるかもしれません。貯蓄しようとすると課税されるので、使わない損だと考えるのです。

実際に実現すると課税税率は現時点の20〜30%は増税になるので、大混乱に陥るでしょう。

お金を使うと減税されるという少し嬉しい空想話でした。

糖質にお金を払い、ダイエットにもお金を払う愚

わざわざ糖質にお金を払い、食べ過ぎた結果糖質依存に陥り太ってしまいます。肥満解消のためのダイエットにもお金を払う人がいます。タイトルでは文字数の関係で愚と書きましたが、バカだと罵りたい訳ではなく、もったいないという意味合いです。本来なら太らない仕組みの備わっているはずの人間が、太ってしまうメカニズムを理解せずにダイエットを行うため、リバウンドしてしまいます。何と愚かでもったいないことかと私は思います。

糖質依存

しかし頭では理解出来てもなかなかやめられないのが糖質の恐ろしいところです。多くの人が糖質依存に陥っているのです。そもそも我慢出来ない程お腹が空くのは糖質依存の禁断症状です。その証拠にピークをこえると空腹感はおさまりますし、糖質依存から抜け出せば我慢出来ない空腹感はなくなります。多くの人が糖質を控える糖質回避が無理だと思うことこそ、糖質依存の証拠なのです。

糖質依存は依存の一種なので、少し食べはじめると自己抑制がきかなくなり食べ過ぎてしまいます。ちょうどアルコール依存の人が一口でも飲み始めると止まらなくなるのと同じですし、ニコチン依存の人がタバコを一本吸うとやめられなくなるのと同じです。

糖質依存の特性を知っていれば、下手に糖質を減らすよりいっそなくす方が楽なことが簡単に理解出来ます。つまりご飯・お米を同じ3分の1減らす場合でも、1食毎にお米の量を3分1減らすよりも、3食のうちの1食お米を食べない方が遥かに楽なのです。何故なら少しでも糖質を食べると余計お腹が空くという糖質依存の不思議な仕組みが働くからです。少しだけ食べると余計我慢が強くなるという不思議な現象が起こるのです。これこそが糖質依存の恐ろしさです。ただ仕組みを知ってしまえば恐ることは全くありません。糖質依存から抜け出すまでは食べ方を工夫すれば良いのです。

糖質依存のうちは一口でも食べると辛い我慢という地獄が待っています。一方糖質依存から抜け出すことが出来れば、糖質を一口だけ食べるという食べ方も自由自在です。

ダイエットしたいなら、まずは糖質を控えることが二重の意味でお得です。わざわざお金をかけて糖質を食べながら、ダイエットをしようとするのはもったいない話です。ブレーキを踏みながらアクセルも踏んでいるようなものだからです。

言い訳人間の対処の仕方

言い訳人間は何処にでもいるものです。とにかく言い逃れを繰り返します。言い逃れすることが目的ですから、人にどう思われるかは問題ではありませんし、全く気にしません。自分が責任を取らなくて済みさえすれば、どんな言い逃れでも言えるのです。後で嘘が暴かれたとしても、新たに言い逃れを言い始めるだけです。

言い訳人間の対処法は言い訳人間より知恵のある人間が矢継ぎ早に質問責めにすることです。言い訳人間は言い訳に慣れているので、ちょっとやそっとの質問では動じません。核心をつく質問を重ねることで言い訳を封じるしか手立てがありません。言い訳ではなく、自分から話さざるを得ない核心をつく質問をするしかありません。話さざるを得ない状況に追い込むのです。

例えば、言い訳人間である某都知事の釈明会見であった会った相手の名前がプライバシーの問題であかせないと言い訳しています。核心をつく質問とは「プライバシーで名前があかせないということはプライベートを認めるということですね?プライベートであれば報告書は虚偽記載になります。法律違反です。名前をあかせない時点で法律違反を認めてしまいました。世間の常識では半ば公費での飲み食いにプライバシーはありませんね?法律違反では無いことを証明するためには、名前をあかすしかありませんね。

最後にまとめて「プライバシーを主張する時点でプライベートだと認め、虚偽記載を認めることになります。名前をあかすことで虚偽記載では無いことを証明出来ます。名前はあかしますか?それともやはりプライバシーという言い訳をしたプライベートだと認めますか?」と詰め寄ります。このような論理で責め立てると言い訳人間でも言い逃れ出来にくくなると思います。

記者の中に言い逃れを封じることの出来る言い訳キラーが現れることを心から祈っています。そろそろ言い訳を聞くのも飽きました。

医者が説得マンになる時

現代の医者は病気の説明をした上で同意を得るインフォームドコンセントが当たり前になりつつあります。しかし学生時代にインフォームドコンセントという概念そのものを知らないまま医者になり、よくわからないままインフォームドコンセントを求められるようになってしまった医者も大勢いるようです。インフォームドコンセントを裁判で負けないための同意書を得ることだと誤解している医者もいます。

本来のインフォームドコンセントは客観的で正確な情報を伝えた上で、患者さんの望む治療法を選択してもらうことです。この意味ではお客さんの欲しい物を買ってもらうという理想の営業マンと同じです。当然医者のやりたい治療法を勧めたりしてはいけません。客観的ではなくなるからです。

医者が説得マンになる時

インフォームドコンセントを良く理解していない医者は、説得マンになってしまいます。元々説得マンとは説得して物を買ってもらおうとする営業マンのことです。医者が説得マンになるとは、医者が行いたい治療法に同意してもらうために必死に説得することを指します。説得の目的は自分の行いたい治療法受け入れてもらうことです。決して患者さんのためではありません。患者さんのためであれば説得など必要ありません。患者さんの一番利益になる治療法を客観的に伝えるだけで良いはずです。

手術をしたい医者は良性疾患でも積極的に手術を勧めます。どうしても手術をしたい医者は説得マンになるのです。悪性の疾患で命に関わる疾患であれば手術をすることはある意味避けられないと思いますが、良性疾患の手術を説得してまで勧めるのは説得マンに他なりません。悪性の疾患の治療法であっても、患者側のメリットが曖昧なまま特定の治療法を勧めるのは説得マンなのかもしれません。

医者の説得マンの目的は、医者自身の経験値を上げることであったり、対外的な実績のためであったり、治療費であったりします(ちなみに医者も売り上げを上げるように病院の経営陣から求められることがあります)。その目的達成のために説得されているのかもしれません。ちょうど営業マンが説得マンになるのはとにかく売り上げを上げる目的なのと良く似ています。

医者も説得マンになる時があるという視点で、医者を見てもらうと面白いと思います。勘違いした営業マンと何ら変わりません。医師免許を持っている分困った説得マンですが。