思い込みの罠の避け方

自分が正しいければ良いのでしょうか?
確かに自分が正しいと仮定すれば相手が間違っているので、良いのかもしれません。
しかし自分が正しいと信じて疑わないこと自体が実は間違ってしまっていても良いのでしょうか?

自分が正しいと考えていることは、実は思い込みかもしれないのです。
つまり自称正しい状態で他人から見たら正しいかどうかはわかりません。
しかし本人は正しいと信じて疑わないことがあります。

自分は正しいと思っていても勘違いしていることはよくあることです。
思い込んでいると自分が勘違いしているかもしれないという確認すらしないのです。
かつてベテランパイロットが思い込みにより燃料切れに気づかず飛行機が墜落したことがあります。
判断力に優れたパイロットでさえ、思い込みの罠にはまってしまって飛行機にとって致命的な燃料切れを避けることが出来なかったのです。
こういう思い込みによるミスを避けるためにパイロットは二人搭乗するのですが、経験年数の差があったため若い副操縦士はベテランパイロットに基本中の基本だけに燃料のことを進言できなかったことも事故の原因だったようです。

自分が正しければOK?というタイトルは、自分が正しければうまくいくはずだという思い込みを表しています。相手もきちんとするはずだからうまくいくはずだと、何の根拠もなく信じてしまうことが事故を招きます。

自分の勘違いだけではなく、相手の勘違いという二つの可能性があります。
自分が正しいと信じて疑わないし、相手も相手で正しいと信じて疑わない事態は大変危険です。
この二つの思い込みの罠に陥ってしまうと様々な事故に発展します。

例えば青信号を見て横断歩道を渡っているとします。
交通ルールの上では、信号通りに横断歩道を歩いている人が優先です。歩行者を守るように日本の交通ルールはできています。
しかしもし極度に疲れていて青信号を見間違えたとすればいかがでしょうか?
それとも横方向の信号が赤になったから、次は歩行者用が青になると思い込んで渡り始めたら他の方向にも信号があったとすれば、思い込みで歩行者用の信号が赤のまま渡り初めてしまうことはありえます。横の信号が赤になれば数秒後に歩行者の信号が赤になるはずという思い込みで渡り始めてしまうのです。
逆に車も信号が青になったと思い込んで走り始めてしまうこともありえます。
かなりまれだとは思いますが、歩行者も車もお互い信号を見間違う可能性だってわずかながらあるはずです。
ではそんな隙をなくすにはどうしたら良いのでしょうか?

思い込みの罠の避け方

一言で言えば確認することです。
思い込みで自分か相手が勘違いしている可能性があるのであれば、お互いが間違っていないことを確認するのです。

例えば横断歩道を渡る際に左右を確認するのは、自分が渡るから車は止まるということが成り立っているかどうかを確認するのです。車が近くにいなけば問題ありませんが、横断歩道を渡る際にすごいスピードで走ってくる車があっても自分が優先だからお構いなしに歩き始めるとはねられてしまうかもしれないのです。もしかしたら相手は気づかなかったかもしれません。
同じように横断歩道を歩いていても、左折車や右折車に巻き込まれてしまうかもしれないのです。自分は横断歩道を歩いているのだから正しいと考えるだけでなく、車が正しく運転されているかを確認するのです。左折車がいないか、右折車がいないか斜め後ろも確認し、車がいた場合にはひかれないように車の動きを見ておくのです。いくら自分の方が正しくても、死んでしまっては取り返しがつきません。

ちょっと確認するだけで思い込みの罠は避けることができます。
その少しのことが生死を分ける程の大きな違いとなることがあるのです。

差別する人の心理学

差別とは人種や肌の色、職業や学歴など様々な違いを元に取り扱いに差をつけることです。

一般的には負の取り扱いをする場合に差別という言葉を使います。特別扱いする場合には優遇や逆差別などという言葉を使います。

どうして差別をする人がいるのでしょうか?差別する人は自分が優れていると勘違いしているか優れていると認めて欲しいのです。差別する人は差別することで、優位性を際立たせ自分の価値を再認識する目的で差別するのです。差別される人は自分より劣っていると思いたいのです。相手が劣っていることをアピールすることで、相対的に自分の優位性を認めて欲しいのです。他の事で優位性を示すことが出来ない劣等コンプレックスの裏返しで差別するのです。

差別する概念がない人はただ単に違いを認識するだけです。差別する人は自分の優位性を示す目的で、違いを蔑むのです。恐らく自分の方が他のことでは劣っているという劣等コンプレックスから逃れたいために、人を蔑むのかも知れません。

動物に対して劣っているとか優れているとか比べるでしょうか?機械と比べて劣っているとか優れているとか考えるでしょうか?動物や機械と比較しても意味がないことは多くの人が理解していると思います。だから動物や機械に対して劣等感を抱くことはありませんし、敵意を抱くことは通常はありません。通常というのはかつて産業革命の時代、仕事を機械に奪われた労働者は機械に対して敵意を抱きました(ラッダイト運動)。通常は動物や機械と自分を比べても意味がないことを知っているので、比べないのです。

しかし同じ人間でありながら、もしかしたら同じ人間であるからこそ、人より優位に立ちたいと考える人がいるのかも知れません。人間だとは認めながら、蔑むのは私には理解出来ませんし、意味のないことだと思います。人それぞれ違うのは当たり前なのですから、違いを尊重し合えばお互い傷付けあうこともありません。

私は医師ですが、診療科による差別発言をする医師に出会ったことがあります。更に自分の診療科を自ら劣っていると発言する医師がいて驚いたことがあります。

法に触れる仕事でない限り職業に貴賎はないと私は信じています。

他の差別にも意味などありません。差別する側が差別すると都合が良いだけです。

差別する心があるかないかは、自分とは属性の異なる集団に入ってみるとわかります。蔑む心から居心地が悪いと思う人はあからさまな差別はしていなくても、差別する心が潜んでいるのかも知れません。差別する心が無ければ居心地が悪いということは無いはずです。話が合わなくて困ることはあるとは思いますが。

自分の心の中に差別の概念がないか探してみて下さい。

知らねば損すらわからない

知らないと損をすることはよくあることです。
そこで新しい諺(ことわざ)を考えてみました。
『知らねば損すらわからない』です。

『知らねば損すらわからない』とは知らないことは損することという意味です。身近な例では全く同じ商品が隣のお店で安く売られていてもそのことを知らなければ損をします。更に一歩進んで考えると、隣のお店で安く売られて損したことすら知らないと、損していることすら知らないのですから損し続けてしまいます。
損をしていることを知った時点で、次から改めるチャンスをもらったと考えれば良いのです。

知らなかった過去を振り返って悔やんでも何も生み出しません。
過去を今後にどう生かすかだけを考えるべきです。
話が少しそれましたが、知らないことは損することと同じです。

何事も知らないと損するということを知るべきです。
知らぬが仏という諺もありますが、知ったことを扱いきれない場合に言われることです。
確かに判断しきれないことを知ってしまうと、どうして良いか分からず知らぬが仏だったという状況もあるかもしれません。しかし何事も全てを知った上で判断するに越したことはありません。

私は最大の『知らねば損すらわからない』の最たるものは糖質の害だと思います。
知った上で糖質を食べるか食べないかを考えるべきであり、糖質の害を知ってしまうと食べるかどうかを悩んでしまうから糖質の害を『知らぬが仏』などと思ってはもったいないのです。
知った上で、食べるのなら覚悟して食べるのが正解だと思います。

知らねば損すらわからない。
何事も知らなければ損していることも知らないまま過ごしてしまいます。
まず何事も知ることから始めましょう。

学校で勉強する理由は、頭の使い方を知るためだと以前書きました。
知らねば損すらわからないから、知らないことを知るために学校で勉強すると付け加えても良いかもしれません。

一時の快楽が身を滅ぼす

利益は企業の為ならずの諺(ことわざ)に引き続き、新しい諺を考えました。
一時の快楽が身を滅ぼすです。

身を滅ぼすのは身体そのものを壊してしまうことと、社会的地位を失うことの両方を意味します。

一時の快楽とは様々な誘惑に負けた結果です。

例えば糖質の誘惑に負けて糖質を食べてしまうこともその一つです。一時の快楽とは糖質を食べた瞬間の満足感のことです。一時の快楽に溺れ続けると、依存状態に陥り糖質の自己抑制がきかなくなり食べ過ぎてしまうようになります。そして糖質を食べ続けるこので、肥満2型糖尿病高血圧各種アレルギーなどを引き起こしています。正に一時の快楽が身を滅ぼすのです。

他にもお酒なども一時の快楽が身を滅ぼす一例です。

一時の快楽が社会的地位を失うとは、不倫などは一時の快楽が身を滅ぼす一例といえます。他にもギャンブルで勝った瞬間の一時の快楽が忘れられず、身を滅ぼすこともあります。

冷静に身を滅ぼすほどの価値があるかどうか考えてみてください。

事柄によってはその一時の快楽を求めて、取り返しのつかない結果に結びつくこともあります。

AmazonのKindleストアの凄さ

Kindleストアで1巻無料で販売する理由を書きましたが、私自身はKindleストアに否定的なわけではありません。
何しろ本で買えば定価なのですから、安く買えるだけで充分Kindleストアで購入する価値があります。その上Kindleストアが書籍を管理してくれるのが助かります。何十冊・何百冊もの本を買うと保管する場所にも困りますし、何より本の数が多くなると探し出すのも困ります。
更にKindleストアによる書籍購入が便利なのは、スマホでも読むことができるのでいつでもどこでも読むことができることです。
スマホであれば電車で立っていても読めますし、スマホのアプリの立ち上がりが早いのでエレベーターに乗った数十秒ですら読むことができるのです。
漫画はスマホの画面の大きさでは少し読みにくいかもしれませんが、通常の文字の書籍であれば文字ん大きさも変えることができるのでスマホで読むのに最適です。
私がスマホで読んだ本は

 

 

衝動買いは避けて、欲しい本をKindleで探すとお得なのでお勧めです。

Kindleが1巻無料にする理由

Amazonの電子書籍のサービスであるKindleストアですが、画期的なサービスがあります。
通常の書籍は定価販売することしかできませんが、電子書籍は割引販売することもできるようです。通常の書籍と異なり電子書籍はデジタルでコピーが簡単で、ほとんどが管理費で通信費はかかるかもしれませんが、コピー自体にはお金がかかりません。
そのため大胆な試みが行われています。
Kindleの電子書籍では1巻が無料であったり、期間限定で1巻~3巻まで無料だったりします。無料でなくても9割引きの本もあります。

Amazonも慈善事業で無料にしているわけではありません。
当然目的があります。
一つは顧客サービスだと思いますが、もう一つの目的は続きを見てもらうことです。
いわば1巻丸々立ち読みしてもらって、お金を払ってまで見たいと興味をもってもらった人だけに続きを購入してもらうというビジネスモデルです。
面白いのは期間限定の無料サービスがあったり、電子書籍の値段が変わることです。
今はいらないからもう少し待ってみようと思っていると、値上がりしたりします。
つまり今買わないと損をする仕組みが作られているのです。

これは衝動買いの心理を巧みについた商売です。
ついつい買ってしまう人は衝動買いの心理の話を読んでみられることをお勧めします。
対策は1巻を読み終わってすぐに購入してしまわないことです。
すぐに読みたい心理に陥りますが、そこに罠があります。
1巻を読み終えた直後だと続きが知りたくて、お金を払ってでも買いたいものだと錯覚してしまうのです。お勧めなのは30分程度経ってからお金を払ってでも続きを知りたいかどうかを冷静に考えることです。
ちなみにお店で見かけた商品を衝動買いしそうになったときにもこの作戦は有効です。一度その売り場から立ち去るのです。

Kindleストアの上手な使い方は、まずほしい本を決めることです。
良い本がないかなと思いながら探していると、衝動買いしてしまうからです。
欲しい本が安くなっていれば購入することです。
特に0円になっている場合には購入します。
続きの購入は改めて考えることです。
衝動買いしないためでもありますが、残りの本も値段が上下することも理由の一つです。せっかくなら値段が下がるまで待つつもりでいると、衝動買いしてしまわなくなります。

あくまでも空想に近い予想ですが、もしかしたらAmazonはプライムビデオのように将来書籍も定額読み放題サービスをするつもりなのではないかと思います。
そうなると消費者にとってはありがたいことですが、作者は困る時代になるのかもしれません。

言い訳人間の対処法 出来る言い訳を聞く

言い訳人間は出来ない言い訳を並べます。はっきり言って時間の無駄です。何故なら実際には出来ない理由ではないからです。
出来ない理由ではなく、それらしく聞こえる言い訳だからです。

言い訳人間の対処法は出来る言い訳を聞くことです。
出来ない言い訳は論破されても、他の言い訳を探してくるだけのことです。
だから時間の無駄なのです。
○○という理由でできませんというのは、確かに本当にそういう理由で出来ないのかもしれませんが、言い訳かもしれません。○○という障害がなくなって初めて言い訳か本当の理由かが判明します。とりあえずその場しのぎで○○という理由で出来ないことにするのです。そして○○が取り除かれると出来るのかといえば、出来ないことが前提だから次に△△という理由が出てきて結局できないのです。だからこそ時間の無駄なのです。

対処法として提案する出来る言い訳とは、出来るようになるための理由を聞くことを出来る言い訳を聞くと表現しています。実際には言い訳ではありません。○○が無くなればできますというように、出来るようになることを提案してもらうのです。

出来る言い訳を聞く

ここでの問題は出来るか出来ないかを聞くと、出来ませんと言い訳されるのです。
何故出来ない?と聞くから言い訳が始まります。言い訳人間への対処法は、どうやったら出来るようになるのか?と聞くのです。
出来るか出来ないかの選択肢から、出来ないという選択肢をなくして質問するのです。
これが出来る言い訳を聞くです。
要するにネックは何で、何をクリアすれば出来るようになるのかを答えてもらうのです。
言い訳人間は出来ないことややらないことを前提に、一つのことを言い訳として提案することは得意ですが、出来るようにするには取り除くべき障害を提案することは苦手です。

どうやっても出来ませんと答えるのであれば、ただ単にやる気がないのかやる知恵がないので、他の人に頼むのが得策です。

糖質回避に最適 自宅でチーズフォンデュ

糖質回避に最適メニューがあります。
それはチーズフォンデュです。
お店で食べると高くつきますが、自宅であれば割安なメニューです。
ここで注意点はわざわざチーズフォンデュ用のチーズを購入しないことです。何故なら確かに美味しいのかもしれませんが、割高になってしまうからです。
スーパーで売っているチーズで何種類か試してみることをお勧めします。

Amazonで探すとチーズフォンデュ用の鍋は幾つもありますが、私はニトリで買ったチョコフォンデュ用の鍋が重宝しています。
ニトリのチョコフォンデュ用の鍋は実際にはチーズを溶かすには火力がかなり弱いため30分近くかかります。
前もってスイッチをいれて溶かしておくのも良いですが、時間短縮のために通常のお皿に溶かしたいピザ用のチーズをのせてチーズの2割程度の牛乳を入れ、電子レンジにかけて溶かします。電子レンジの中を見ながらチーズが解けた時点で止めます。その時点でかき混ぜてみてしっかり溶けていればチョコフォンデュのお皿に移します。やわらかいチーズフォンデュをお望みでしたら牛乳となじむまで電子レンジにかけることがおすすめです。牛乳を入れずにチーズだけで温めると焦げ付くのでご注意ください。
私は溶かすのは電子レンジに任せて、保温する目的で使っています。
ちなみにチョコフォンデュをすることもできますが、かなり時間がかかりますのでチョコも電子レンジで溶かして使う方が良いかもしれません。(ちなみに私は糖質回避教を信じていますのでチョコフォンデュはしません。)

ニトリ チョコフォンデュ
ニトリ チョコフォンデュ

ニトリのチョコフォンデュの利点は食材を周囲にのせることができることです。

ニトリ チョコフォンデュセットでチーズフォンデュ
ニトリ チョコフォンデュセットでチーズフォンデュ

その気になりさえすれば、深めのお皿にチーズと牛乳を入れて電子レンジにかければチーズが溶けるので、冷めてチーズが固くなる度に電子レンジをかけるようにすれば特殊なチーズフォンデュの鍋はいりません。最近では電子レンジにかけるだけのチーズフォンデュができるチーズも売っていますので一度お試しされても良いかもしれません。

ここでパンをチーズにつけて食べたいところですが、パンは炭水化物なのでできるだけ野菜やタンパク質豊富な食材でチーズフォンデュを楽しみましょう。
お勧めなのは値段や大きさがお手頃のベビーホタテです。
写真では厚揚げやゆでた豚肉、ベーコンで巻いたなすび、ブロッコリーや肉団子をお皿にのせています。

タンパク質・脂質が中心のチーズを多く食べることができるので、糖質回避には最適です。
お店でチーズフォンデュを食べることを考えれば、チーズフォンデュやチョコフォンデュの鍋を購入しても1回か2回で元が取れると思います。
良かったら一度お試しください。

学校で勉強するのは何のため?目的は?

学校で勉強するのは何のためか考えてみました。
私も子供の頃は勉強していました。
楽しいとは思わなかったので嫌いでしたが、何となく周りの人たちが勉強するので仕方なくしていました。
何故勉強しなければいけないかと聞かれると一言で説明することがこれまではできませんでした。

最近ふと学校で勉強するのは何のためか改めて考えてみました。
それは一言でいえば、頭の使い方を習得するためだと思います。
人は食べるや寝るといった必要最低限の行動は本能的にできますが、頭の使い方はわからないまま生まれてきます。
その頭の使い方を習得するのが勉強です。
人が他の動物と大きく異なるのは言語というコミュニケーションツールを通して、他人と考えていることを伝え合うことができるからです。その言語能力を養うのが国語や英語の言語の授業です。更に人間は文字を扱うことができることで、時間と空間を超えてコミュニケーションすることができるようになりました。そのコミュニケーション能力を養うために国語や英語を学ぶのです。

では算数や数学、社会や理科を学ぶのは何のためでしょうか?
一つは計算や日常現象の理解に役立つのですが、一番の目的は頭の使い方を学ぶことです。もしかしたら教えている学校の先生もこのことを理解していないのかもしれませんが、物事の考え方を知るために学校で勉強するのです。
学校の勉強を理解するということが頭の使い方を習得していることにつながります。
そして頭の使い方の習得度合いを測るのがテストであり、人と比べ評価するのが偏差値です。頭の使い方が上手な人は偏差値が高い傾向があるため、偏差値が高いことが頭の良さと錯覚されています。注意するべきことは学校での勉強というのは頭の使い方のごく一部しか活用していないことです。頭の使い方の習得度の確認手段であるテストで確認しているのは、一つは暗記力であり、一つはテストという暗記したもので作ったパズルのような問題を解く能力です。

現在学校の勉強の目的はテストで良い点を取ることだと誤解されていますが、頭の使い方を習得することを目的としていると考えると物事の理解が異なります。
具体的には社会生活において、自分の頭で物事を考えるようになることです。
例えば原油価格が下がるとどうなるか?新聞やテレビ、インターネットを見ればどうなるのか解説は数多くあると思いますが、自分の頭で考えるようにするのです。原油価格が下がることで原油輸入国の日本は得をすることになるでしょう。身近な例でいえばガソリンを精製して作っているガソリン価格が下がることが考えられます。原油を高コストで掘り出しているアメリカは困るのかもしれません。何故原油価格が下がっているのかを考えることも頭の使い方を鍛えることには役立ちます。学校の勉強をしっかり習得していれば、このようなことを考えていく素養が育つのです。

頭の使い方を学ぶ

学校で勉強する目的は頭の使い方を学ぶため。
頭の使い方の習得度の一つの目安が偏差値であるということです。
ちなみに競争する意味は、能力を最大限引き出すことを目的とします。
競うことで最大限努力するのです。努力させるために点数をつけて、周囲との序列を確認するために偏差値を活用しているのです。
偏差値を取ることを目的にすることに意味はありません。本来の目的は頭の使い方を習得することなのですから。
偏差値が高いことで自分が頭が良いと錯覚している人も多いのは事実ですが、人より少し暗記力が優れていて、人より少し試験問題というパズルを解く能力が高いだけのことです。
社会に出て役に立つかどうかは全く別問題です。(実際には偏差値が高い人は他の能力が高いことも多いので、ある程度の相関はあります)

頭の使い方とは、記憶力や論理的思考能力などが問われていました。
これからは記憶力ということはあまり意味がなくなります。何故なら機械が物事を正確に記録するのに適していますし、検索も容易になったからです。
これからの人間に求められる能力は論理的思考能力です。
先ほどの原油価格が下がればどうなるかを考察できるような能力が求められるのです。

我慢できない子供の心理

我慢できない子供を見かけることがあります。
病気が原因の場合もありますが、特に病気がなくでも我慢ができない子供さんもみかけます。公園で遊んでいて待つことなくいきなり「代わって」と声をかけたり、要求を押し通すためにショッピングモールで泣き叫んだりします。

我慢できない子供の心理を考えてみます。
簡単に言えば、我慢できない子供に親が育てた結果なのです。

我慢できない子供の親は他人事のように、悪びれもせず『この子は我慢ができない』と言ったりします。
自分がそのように育てたなどと夢にも思っていないのです。

我慢できない子供の心理から考えてみます。
これまでの経験で我慢せず駄々をこねていれば、親が仕方がないとして自分の要求を受け入れてくれたのです。どれだけ怒られても駄々をこねて泣き叫んでいれば、最終的に自分の要求を受け入れてくれるのですから、自分の要求を取り下げる気は全くありません。我慢できない子供は我満しないことが得する手段だと知っているから、得するように行動しているだけのことです。

親がこれまでに我慢できないように育てたのです。
子供が駄々をこねれば、子供の言いなりになっていただけのことです。言っても聞かないから仕方がないと考えているのです。
親の立場ではそんなつもりはなくても、子供が駄々をこねて我慢しようとしないのがその証拠です。子供は駄々をこね続ければどうなるかわかっているのです。自分の思い通りになると。

我満できない子供を我慢できるようにするのは簡単です。
我満させなければ良いのです。禅問答みたいですが、全く別の選択肢を用意して提案するのです。ここで大切なことは子供がいくら駄々をこねても、子供の要求は認めないことです。そして議論の余地が全くないことを伝えるのです。
○○をしたいといっても、それは駄目だけでなく、○○はしない。でも△△ならいいよ。というように全く別の選択肢を提案するのです。時と場合によっては○○はしないだけでもいいですが、押し問答になってしまうため△△という選択肢を出す方が早く解決します。
いずれにしてもいくら駄々をこねても実現しないことを宣言してしまうのです。子供の思い通りにはしないと宣言しても、結局かわいそうに思って一度でも実現させてしまえば、子供は成功体験として記憶してしまうので決してしてはいけません。

具体的にはお菓子がほしいとして泣いている子供がいるとします。
お菓子は泣いても買いませんと宣言します。
買うか買わないかで議論をしないのです。
でも本ならいいよ。という選択肢を提案するのです。
お菓子が良いと言えば。
会話は打ち切りです。
じゃあ帰ろう。

一度でも駄々をこねることで思い通りになった子供だけが、成功体験として人前で泣き叫ぶことを繰り返しているだけです。決して初めて泣き叫んでいるわけではないはずです。これまで成功した回数が多ければ多いほど買ってもらえる確信をもって、大きな声で泣き叫んでいるのです。

人前で泣き叫んでいるお子さんを見かけたらこんなことを考えながら見守ってあげてください。