人が手抜きや楽をする理由

人は手抜きが出来れば手抜きを、楽が出来れば楽をします。
その理由、目的を考えてみます。
手抜きや楽は近道をするようなものなのです。

近道があるのに意味もなくわざわざ回り道をする人はいません。手抜きや楽をするのが人間本来の姿なのです。手抜きや楽をしてはいけないのであれば、近道をしてはいけない何らかの意味があるのと同じなのです。例えばマラソンのコースで近道をしてはいけないように、わざわざ回り道をすることに意味がある場合があるのです。手抜きや楽をしてはいけない場合、作法やルールを守ることに意味があるのです。もっと曖昧な話をするとモラルを守る話です。面倒だと思うことでも、モラルとして多くの人がわざわざ回り道をするようなものなのです。モラルを守らないと近道をするのと同じで早く目的を達成出来ます。では何故みんなが近道として手抜きや楽をせず、作法やルールやモラルなどを守るのでしょうか?

思いやりの心が手抜きや楽を避けさせる

人間は本来手抜きや楽をするものなのです。意味もなく回り道である面倒なことなど、わざわざしたりしません。わざわざ面倒なことをするのは、倫理観や思いやりの心です。誰かに迷惑や嫌な思いをさせないために手抜きや楽をしたりしないのです。

例えば行列に割り込むことを考えてみます。行列に割り込めば待ち時間が短縮出来るので楽です。自分は楽が出来ますが、順番を抜かされた後ろの人達は待ち時間が長くなり、嫌な思いをしてしまいます。人に嫌な思いをさせないために、ほとんどの人は行列に並ぶのです。そして自分が割り込むと他の人に割り込まれても文句が言えなくなるため、結果として秩序が崩壊してしまうきっかけを生み出してしまいます。回り回って自分も嫌な思いをするのです。

誰でも手抜きや楽をすることが頭には浮かぶのです。しかし例え話のように自分が手抜きや楽をすることが人に嫌な思いをさせることがわかる人は、わざわざ手抜きや楽をしないのです。人に嫌な思いをさせることが理解出来ない人が、手抜きや楽を平気でしてしまうようです。もしくは手抜きや楽をしてはいけない意味があるのに、そのことに気付いていないのかもしれません。

タクシーの「助けて」表示を見かけたら

タクシーの「助けて」の表示を見かけました。咄嗟にどうしたら良いかわからず戸惑う人もいるかと思い、対策を書いてみようと思いました。

タクシーの「助けて」の表示とは、「空車」「迎車」などを車外へむけて表示する案内板に、非常時だと表示する仕組みのことです。例えば運転手さんが強盗に襲われていたり、急病だったりする場合を想定して用意された機能です。たまたま見かけると慌てる人も多いと思います。今回見かけた「助けて」表示は間違いでしたので、運転手さんに伝えて終わりです。

今回間違いだと気付いたポイントは2点、お客さんが乗っていなかったことと、運転手さんが慌てていなかったことです。どうやら迎車でお客さんを探されていたので、押し間違えたようです。

「助けて」の表示を見かけたら

今回のように明らかに間違いのようであれば、運転手さんに直接伝えるのが一番です。しかし対向車線走行中などで通り過ぎてしまうことも考えられます。その場合には間違っていたとしても警察に110番通報しても良いとは思います。

私はもう一つの対策を考えてみました。犯罪や急病と確信が持てず、間違いかもしれない場合には、タクシー会社を確認しタクシー会社に電話するのです。タクシー会社には無線という確認手段がありますし、同じ会社のタクシーに確認に向かってもらうという対策があるからです。怪しいようならタクシー会社から警察へ連絡してもらうのです。

ナイフや拳銃が見えるなど明らかに脅されているのであれば迷わず110番通報をしましょう。明らかに具合が悪そうなら119番通報が良いかもしれません。

タクシー会社もわからず、どうしたら良いか自分では判断がつかない場合には、110番通報し判断を仰ぐのが一番かもしれません。

偶然遭遇した「助けて」表示からふと考えてみました。いざという時に備えて考えてみておいてください。

都知事の時間稼ぎの目的

話題の都知事が開き直っています。その目的ですが、もしかしたら5/31のボーナスをもらうことでは無いかと思います。その後辞任して追求をかわすことが目的では無いかという仮説を考えました。

もしくは辞任しなければ辞めさせられる法的根拠の確認のため、第三者である弁護士に聞いてみたのでは無いでしょうか?参議院議員選挙の影響でしばらくリコールが出来ないことを知ったので、何を言っても辞めさせられることがないため、開き直ったのかもしれません。

都民ではない私には関係は無いのですが、良く目にするので書いてみました。

ちなみに私が記者なら「自分のお金の使い方は第三者に見てもらわないとわからないようなので、都政も第三者にみてもらったらどうですか?」と質問します。決まり文句の「第三者の厳正な目で見てもらいます」と発言すれば、都政を第三者にみてもらうとは辞任を意味します。第三者の厳正な目という言い訳封じで面白い質問の仕方だと思います。

情報の取り扱い方

以前は情報を集める前にするべきこととして書いてみましたが、今回は情報の取り扱い方について考えてみます。

情報の取り扱い方は情報を集める前に考えるべきことです。多くの場合、取り扱い方を考えることなく情報を集めてしまうので、情報に振り回されてしまうのです。情報の取り扱い方とは判断の基準を前もって考えるあるいは確認することです。

例えば血液検査は検査をする前に、結果により何がわかるのかを考えてから検査をする必要があるのです。私が耳にするのは、結果が出たけれど取り扱い方がわからなくて困っているという声です。特にアレルギーの検査で良く聞きます。本来なら検査をした医者が取り扱い方をキチンと説明するべきことです。その検査結果を判断するお金をもらっているのですから説明して当然です。しかし検査結果を渡すだけで解釈の仕方を説明していないのです。そして検査を受ける患者さんも、検査結果という情報を得ることで、結果次第でどのように取り扱うべきかを前もって知る方が良いと思います。避けることの難しいアレルギーであれば、検査をして結果がわかっても行動は変わりません。スギの花粉に対するアレルギーだとわかることで、行動が変わらなければ意味がありません。知的好奇心と医者の財布が満たされるだけのことです。スギ花粉のアレルギー検査で意味があるのは、結果によりスギの花粉を避けるために引っ越すか減感作療法を行うなどの対策を取るかどうかの判断をする場合です。引っ越しや減感作療法の判断以外では役に立ちません。行動に結びつかない情報に意味はありません。つまり検査を受ける意味はありません。スギの花粉症があるから気をつけましょうというだけです。スギの花粉が飛ぶ時期に症状があれば気をつけることと何か行動が変わるのかを考えてみてください。恐らく大して変わらないでしょう。血液検査結果で明らかなら、スギの花粉予報で対策することに自信が持てる程度でしょう。これはわざわざ検査をしなくても、スギの花粉予報と自分の症状の相関を自分で見極めればわかることです。ちなみに糖質回避をすれば血液検査などしなくてもスギの花粉症は治るので、そもそも治す手助けにならない検査の意味はありません。

他の例えでは、経営判断の際集まった情報から取り扱い方を検討することもあるようです。情報の取り扱い方に躊躇いがあり経営が右往左往することもあるようです。私なら情報を集める前に、情報の取り扱い方を具体的に決めてから情報を集めます。ワンマン社長の決断が早くブレが無いのは、こと情報の取り扱い方を理解して行動しているからです。必要な情報だけを集めて無駄な情報には見向きもしないので素早く決断できるのです。しかしワンマン社長が後継者に悩むことが多いのは、こよ経営判断を上手く他人に伝えることが出来ないのです。判断のプロセスが明確にあるのですが、他人に判断のプロセスを説明出来る程には自分自身理解しきれてはいないため後継者に上手く伝えることが出来ず一代で終わることが多いのです。経営を話し合いで決める場合、情報の取り扱い方を吟味しないまま情報を集めるため、無駄な情報も混在した状態となります。集まった情報から取り扱い方を検討するので、無駄な情報と有益な情報の混在が議論を複雑にしてしまいます。議論が無駄な情報と有益な情報の吟味から始まり、無駄な情報を有益だと考える経営陣がいると議論は迷走し、永遠に正解にはたどり着けなくなってしまいます。もしかしたら日本の会社の低迷の原因の一つは情報を集めてから取り扱い方を考えているからかもしれません。逆に経営が好調な会社は情報の取り扱い方を先に決めてから情報を集めているから、経営に無駄がないのかもしれません。

情報は取り扱い方をまず明文化出来る程考えてから、集めるようにしましょう。取り扱い方を明文化出来ないまま情報を集めると、情報の解釈の仕方がわからず混乱する元になるからです。情報の取り扱い方がわからなければ、知らない方がましなのかもしれません。知らぬが仏という考え方です。

例え話 銃と機関銃について

例え話を考えてみます。想像してみてください。かつて誰も銃を見たことも聞いたこともない時代、銃を作り出し自分だけが持っている場面を。もしくは誰も見たことも聞いたこともない機関銃を開発して、自分だけが持っている場面を想像してみてください。銃が発明される以前の戦場にタイムスリップするようなイメージです。

手に剣や刀を持ち立ち向かってくる相手に、機関銃を携えて死ぬと脅す場合を想像してみてください。いくら機関銃の凄さを説明したところで、想像すら出来ない兵器なので、信じることも理解することも出来ず負けを認めることはないでしょう。実際に撃たれてみないとその威力が分からないのです。

手に剣や刀を持って戦う相手が、勝てないとわかっていても自分の体を武器に突撃する兵士だとしたら機関銃をもっている側の人間はどのように考えるでしょうか?勝てないとわかっていても全員が命を賭して死ぬまで立ち向かってくるとすれば、理解が出来ず恐怖を感じるのではないでしょうか?普通の人なら死を恐れずに戦う兵士に、恐怖を抱くのではないでしょうか?

いくら機関銃の威力を伝えても、死ぬことを恐れていない人達には通じません。既に死を覚悟して戦っているのです。死を恐れず戦う兵士に恐怖を抱き、一方的な殺戮となる機関銃を使うしかないのではないでしょうか?

何を例えているかと言えば第二次大戦の日本とアメリカ、そして原爆です。合理的な考え方をするアメリカ人から見ると勝てないとわかっていても負けを認めない日本人は全く理解不能でした。その上で神風や回天で特攻してくる日本人に恐怖を抱きました。その恐怖から脱するために原爆を使わざるを得なかったと思います。その威力を見せつけるしかなかったのです。上の例えで機関銃を使うしかないように。

それまでの常識をはるかにこえる兵器は、想像すらつきません。聞いた話では、広島の町が一発の爆弾で壊滅したことを知った人が、少し離れた呉市の人に伝えても嘘つき扱いされてしまったそうです。

私達は原爆の威力と恐ろしさを知っています。だから使わなくて済む方法を探します。しかし当時の日本もアメリカも原爆を使わなくて済む知恵を持っていなかったのです。広島、長崎の原爆の悲惨さから、2度と使ってはいけない兵器であることがはっきりしました。その結果人類は71年間原爆を使わなくて済む知恵を蓄積してきました。幸い71年間にわたり日本以外で使われることはありませんでした。

アメリカ大統領は広島、長崎は悲劇の地から新しいモラルの発信地となることを宣言しました。原爆がいけないのではありません。原爆が使われることがいけないのです。上記の例えで兵器の威力が相手に分からない場合には、抑止力としての意味はありません。

争いそのものを避ける知恵が人類に身につくといいですね。敵だと思うから争い奪い合うのです。人類は地球に生まれた仲間だと思えば、分け合うことができるのではないかと思います。そのルールがうまく作れる知恵が見つかると良いですね。

2016年5月27日は歴史に残る1日に

今日2016年5月27日は歴史に残る1日になると私は思います。
それは現職のアメリカ大統領がかつて世界で初めて原爆を投下した地、広島を訪れるからです。
1941年8月6日に原爆を投下し、人類の歴史に忌むべき1日を刻んでしまいました。続いて8月9日にも追加で投下しました。

確かに戦争を仕掛けたのは日本かもしれません。しかし日本人に対する恐怖からとはいえ、原爆を投下したことは事実です。その善悪を論じても意味の無いことです。謝罪を求めることも意味の無いことです。

何より大切なことは2度と原爆が人を傷付けるようなことを起こさないということです。任期が残り少ないことは残念ではありますが、現職のうちにアメリカ大統領として広島の地を訪れることに大きな大きな意義を感じます。アメリカ大統領が原爆をどのように感じ、原爆をどのように受け止めるのかはわかりません。しかし何らかの意味を感じてくれるのではないかと私は思います。日本とアメリカの思いのすれ違いが引き起こした最悪の結果が原爆です。その意味を改めて感じてもらえると良いと思います。

戦争という決して正常とは言えない心理における行為を、平和な時代の理屈で議論しても意味がありません。平和な時代において原爆が何を意味するのか、原爆を保有している国々はその責任を考えるべき時がようやくきたのです。

世界の平和の第一歩が今日から始まると私は考えます。私は本当の意味で今日戦争が終わる気がします。

明日からは平和の時代の幕があき、近い将来戦争なんて愚かなことをしていた時代があったらしいよと語り継がれる時代がやってくることを祈っています。私が生きている間に、戦争が歴史の教科書の中だけの出来事になってくれることを望んでいます。

今日はその大きな大きな第一歩だと私は思います。

謝罪について

謝罪について考えてみます。

謝罪とは悪いと自覚した場合に自分から行うものです。人から求められて行うものではありません。

謝罪を求めるのは相手が悪いと思っているからです。謝罪を求める目的は、何らかの償いを得ようとしているのです。過去の行いを責めることで何らかの償いを得る目的で謝罪を求めるのです。過去を利用して得をしようと考えると謝罪を求めるのです。どこかの国が数十年も前のことに対して謝罪を求めるのは、過去をお金にしたいのです。

関係改善が目的であれば、謝罪してもらう必要などありません。今後行き違いにより争いを起こさない枠組みを作ることこそ大切なのです。その取り組みの中で本当に悪いと自覚することが出来れば、自ら謝罪することに意味があるのです。

人から求められて行う謝罪に大した意味はありません。心から行う謝罪でなければ、言葉だけの茶番劇と変わらないのでは無いでしょうか?

様々な不祥事の謝罪会見を見ても違和感を感じるのは、言葉の端々に俺は悪くないと感じ取れるからです。試しに何が悪かったのですか?と質問してみると答えられないのでは無いかと思います。よく分からないけど謝っておく方が良さそうだと周囲の人達に諭されて謝罪会見をしているのが見え見えです。

過ちを2度と起こさない方法を探すことこそ、謝罪よりも大切だと私は思います。

そして常識ある人ならば、自分が過ちを犯せば謝罪せずにはいられないと思います。逆に過ちを謝罪できる常識ある人達と付き合いたいですね。そして自分自身も常識ある人でいたいと思います。

勉強は自己トレーニング法を見つけるための手段

以前学校で勉強する目的は何のためと書きましたが改めて考えてみたいと思います。学校で学ぶ勉強は本来一般常識を身につけるためのものです。基本的な学力を身につけることで、更に様々なことを学ぶ基礎となるのです。

その勉強が社会に出て役立つことはほとんどありません。では何のために勉強などするのでしょうか?勉強は知らないことを知るための手段の習得が目的です。より効率的な知識の吸収の仕方、自己トレーニング方法を探すために勉強するのです。上手な習得方法を見つけることが出来れば、その後の知識の吸収は格段に効率的になります。

つまり学校での勉強は必要な知識を吸収するための効率的な習得方法を身につけるために行うのです。一般的に勉強で必要な知識は学校の教科書として事前に準備されています。事前に準備された内容を理解し知識として吸収することが求められます。ルールは教科書とし準備してもらってあるのです。教科書というルールの中で作られた試験問題というパズルを解く能力を競うのがテストです。習得度合いを教科書の理解度としてテストするのです。いかに効率的な習得の仕方を身につけるかが競わされているのです。

学校の勉強では教科書というルールがあるので、そのルール内で理解出来ていないところを探して理解していくことが求められます。自分に足らない知識を探し出し、そのことを習得するようにするのです。この自己トレーニング方法を身につけるために勉強をするのです。勉強そのものに大した意味はありません。自己トレーニングの手段なのですから。筋力トレーニングの手段であるバーベルやダンベルが日常生活で役立つことが無いように、勉強の手段である教科書に大した意味は無いのです(教科書の中には日常生活に役立つこともありますが)。バーベルやダンベルは効率的な筋力トレーニングの方法を身につけるための手段でしかないのです。バーベルやダンベルはどのようにすれば効率的な筋力アップが出来るか試すための手段なのです。学校の勉強もどのようにすれば、自分の頭の使い方が効率的な考え方が身につくか探すための手段なのです。

例えば三角比など知らなくても日常生活は出来ますし、逆に今の日常生活で三角比を使う場面は思いつかないでしょう。しかし頭の使い方を学ぶために勉強するのです。そんな視点で勉強について考えてみましょう。

定年後再雇用で同一賃金の判決

定年後再雇用で同一労働であれば同一賃金することを求める判決が出たようです。

定年後の再雇用では賃金が下がることが多いようです。企業は安い賃金で雇用することが出来るので利益が見込めます。実は再雇用してもらうことで賃金が下がっても、他の企業への再就職よりも賃金が高いため労働者としてもメリットがあったのです。

今回の判決で今後様々な変化が起こると思います。再雇用しても同一労働同一賃金を保つ必要があることになりそうです。まだ過渡期なので考え方は色々あるとは思いますが、方向は2つあると思います。1つは再雇用しても同一労働にならないように、少しだけでも労働内容を変えることで賃金を下げようとすることです。もう1つは再雇用前に前もって賃金を下げてしまうことです。過渡期なので年代によって多少の損得があると思いますが、企業はトータルの賃金が上がることは避けると思います。何故なら労働力が変わる訳では無いからです。再雇用される人の賃金が上がれば、誰かの賃金が下がるしか無いのです。

同一労働同一賃金という考え方であって、企業の裁量で決めることの出来る賃金を下げてはいけない訳ではないため、抜け道を探すだけのことでしょう。そもそも労働力をコストという考え方をしているため、少しでも安くしようと考えるのでしょう。もし労働力を人を財産と考える人財という考え方であれば、無理に下げようとはしないはずです。会社の対応により社員に対する考え方がわかると思います。残念ながら多くの企業は賃金を少しでも下げようと考えているので、そのことを改めて実感することになるでしょう。

いずれにしてもトータルの賃金はそれ程変わりはしないだろうということです。どこかにしわ寄せがきてしまいます。新たに嫌な思いをする人が出てしまうでしょう。具体的には再雇用に備えて定年前から賃金を下げられる人達が出てくることでしょう。全ての事柄を考えて制度設計をするべき時なのかもしれません。

この判決を再雇用される立場の人達は喜んだかもしれませんが、実は大変な問題を巻き起こす可能性を秘めています。みんなが嫌な思いをしなくて済む制度設計ができるといいですね。

見返りを期待するから腹が立つ

人は行動する時にどうしても見返りを期待してしまいがちです。何かをしてあげたから何らかのお返しをしてくれるはずだと考えてしまうのです。見返りを求めて行動するから、見返りが無いと腹が立つのです。相手も悪気があってお返しをしない訳では無く、何とも思っていないのかもしれません。もしかしたらやってもらって当たり前で感謝したくない人なのかもしれません。

何かをしてあげたとしても見返りを求めないことです。そして人にしてあげたことは忘れることです。覚えているから恩を仇で返されたとして余計腹が立つのです。

見返りが無くても行動出来るかどうか

そもそも行動する際に見返りが無くても行動出来るかどうかを基準に考えることを提案します。何らかのメリットや見返りなどが無くても行動出来る範囲で行動することがお勧めです。それなら腹も立ちませんし、無理もしないからです。見返りを求めて行動すると、どうしても見返りが欲しくて無理をして行動してしまうからです。言わば勝手に無理をして行動したにも関わらず、見返りが無いことが無理をした分余計腹が立つのです。

無理をして見返りを求めるのではなく、無理をせず見返りが無くても出来る範囲で行動するようにしましょう。