性教育の理想を考えてみました

性教育を学校で教えようとすると、わざわざ性に対して興味を持たさなくて良いとして反対する人がいます。

性教育に反対する人達

性教育に反対する人は恐らく知識が無いのだと思います。人間は年頃の男と女がいるだけでは子孫が残せない種族だということを残念ながら知らないのでしょう。そのため性教育が必要だということが理解出来ないのだと思いますから議論する意味はありません。子孫の残し方を生まれつき知っていたと勘違いしているのか、性は恥ずかしい物だという偏った考え方をされているのかも知れません。住む世界が異なる異教徒として、お互いの考え方を尊重し、丁重にスルーするのが得策だと思います。

人間は男と女がいるだけでは子孫は残せない

霊長類は生まれつき子孫の残し方を知っている訳ではありません。周囲の行動を見ることから子孫の残し方を学ぶようになっています。そのため年頃の男と女がいるだけでは、子孫は残せないのです。意外かも知れませんが子孫の残し方の知識が無ければ、子孫を残すことが出来ない稀な種族なのです。

そして性のことに限らず、人間は知らないことに興味を持たせることで新しい知識を身につけるように仕向けられています。赤ちゃんですら知りたいことがあれば必死で見ようとします。興味があれば人は自分から情報を求めるのです。大人が望む望まないに限らず、興味があることを知ろうとします。

人は誰かから子孫の残し方を教えてもらわなければ子孫を残すことが出来ないのです。そのことを大人が受け入れて、本来なら年頃になればキチンと子供達に教えてあげる必要があるのです。

これまで子孫の残し方を学校教育で正式に教えることは無くても、子供達が生まれていることからどこかで子孫の残し方を知ったのだと思います。幸い人間には知らないことに興味を持つ仕組みがあり、性に対しても知らないので興味を持つのが当たり前なのです。それを大人が恥ずかしがってキチンと教えないから、子供達が興味を持って偏った情報に触れてしまう危険性があるのです。

性教育の本来の姿は人間の身体の仕組みを知ることと、子孫を残す方法を教えることです。日本では女性は16歳から結婚出来るので、それまでに知識として授けるのが合理的だと私は考えます。具体的には義務教育の間に全ての子供達に学校で教えるのが、理にかなっていると思います。そのことを知った上で子供達自身が性と生のことを考えると良いと思います。

性教育の一歩として高校で年齢に伴う妊娠率の推移を教えるのは良いことだと思います。

理想の性教育

本来の性教育は男と女、オスとメスがどうして生まれたかから教育すると理解しやすいと思います。詳細は省きますが、メスは確実に自分の子孫を残すことを選んだ代わりに子供にエネルギーを与え、オスは代わりに子供が自分の子供かどうかわからない代わりに一度に多数の子孫を残すことが出来ることを選びました。これが本来オスとメスに別れた理由ですが、更に人間は他の動物よりも遥かに子育てに労力がかかるので、一夫一婦制を選択している動物としては特殊な存在です。そして女性は胎児として1人でお腹の中で10カ月育て、その後も赤ちゃんが未熟なために働くことが出来ません。そのため妊娠中と出産後の生活を支えてくれる優しい男性を求める必要があるようです。そのことまで教えてあげるようにすると本当は良いのかも知れません。

信じるか信じないかはあなた次第


以前は文字を書いて印刷して広めるしか情報伝達手段がありませんでした。印刷することに多大な費用がかかるため、印刷する時点で印刷する価値がある内容かどうか吟味されていたのです。そのため印刷された物には一定の信頼ができました。しかし現代ではインターネットを活用することで情報発信にお金がかからなくなったため、誰でも情報発信できるため色々な情報が錯綜しています。

例えば儲け話や耳寄りな情報などといった怪しい情報から、小学校や中学校で習う基本的なことまで様々です。
さすがに小学校・中学校で習う教科書に明らかな間違いはないとは思います。社会の教科書も時代の変化とともに様々な情報が加わるという意味で変わりはしても明らかな間違いとはいえないと思います。ただし歴史の教科書などは時代とともに新しい解釈によって変わることはありますが、そのときにわかっていることで間違いないと広く信じられていることが教科書に載っています。少なくとも社会の教科書以外は大きく変わることはないと思います。

小学校・中学教科書の内容は多くの人たちが吟味に吟味を重ねた内容なので正しい可能性が高く信じるに値すると思います。
恐らく正しいことでしょう。少なくとも私は小学校・中学校の教科書の内容の間違いに気づいたことはありません。

世間には教科書のように吟味に吟味を重ねた内容ではなく不確かな情報が数多く存在します。
誰かがただ思いつきで言い始めたことから、確信に迫る内容まで様々です。
そして多くの人が信じているから正しいはずという錯覚が起こるのです。

例えば主食として炭水化物を食べることが正しいと多くの人は信じています。しかし様々な意味で間違っているのはこのサイトに書いてある通りです。

人が詐欺などに騙されてしまうのは、信じてしまうからです。
電話でオレオレと言われ、自分の子供だと信じてしまうことで詐欺に発展します。

信じるか信じないかはあなた次第です。

多くの人が信じているからと言って正しいとは限りません。そして信じている人が少ないからと言って間違っているとは限りません。

自分の知識と経験と照らし合わせて矛盾がないか確認しながら信じるかかどうか見極めるのです。本当に頼りになるのは自分だけです。これまで培った経験と知識だけが信じるかどうか判断に役立つのです。経験や知識と照らし合わせて矛盾があれば、信じてはいけませんが、理解出来ないだけであれば保留しておくのです。何故なら画期的な考え方はそれまでの常識では理解できないからです。

つまり信じることが出来るか信じることが出来ないか判断するためには、経験や知識が必要です。信じるか信じないかは自分次第です。信じるために経験や知識を身につける必要があるのです。

どうしても経験や知識が不足しているのであれば、既に経験や知識のある人の知恵を借りると良いと思います。そんな知恵のある人が近くにいるといいですね。

アレルギーとは?

アレルギーとは、本来は体にとって有害なウイルスや細菌感染から体を守るべき免疫機能が、間違って敵ではないものに対して過剰に反応してしまうことによって起こります。
本来は敵ではないものを敵と間違って攻撃することによって起こります。
身体を守るべき免疫が暴走していまうのがアレルギーです。

花粉症やアトピー性皮膚炎、蕁麻疹や喘息など各種におよびます。
これまでそれぞれのアレルギーの原因は花粉症であればスギやヒノキの花粉、アトピー性皮膚炎であればダニやほこりなどと言われてきました。

似たような概念に自己免疫性疾患という病気のカテゴリーがあります。
アレルギーは花粉などの外からの刺激にたいする免疫反応と考えられていますが、自己免疫性疾患は自分の体に対して免疫反応することで怒る疾患です。敵と判断する必要のない外来物質に反応するのがアレルギーで、自分の体に反応するのが自己免疫性疾患と言われるものです。

私はこの二つは同じものだと思います。
花粉症は鼻粘膜・眼粘膜に対する自己免疫疾患、アトピー性皮膚炎は皮膚、蕁麻疹は肥満細胞、喘息は気管支に対して自己免疫反応をお越しただけだと思います。粘膜・皮膚が炎症を起こしているから、その炎症を起こしているところに花粉やダニ・ホコリが付着して敵だと勘違いして反応するようになったのが花粉症やアトピー性皮膚炎として発症しているのではないかと思います。

つまり症状から病気を類推するからアレルギーと自己免疫性疾患として別のものに見えるだけで、大きく自己免疫疾患としてとらえてみると解釈は容易だと思います。
アレルギーの原因として検査される特異的IgEは、粘膜や皮膚の傷み具合を表す結果でしかないのかもしれません。

これまで根本的な治療法はありませんでしたが、最近ではスギの花粉症に対して減感作療法という治療法が開発されました。
免疫機能は様々なものに対して準備し、味方であれば敵ではないと判断して免疫機能のスイッチを切る仕組みがあります(免疫寛容)。
このスイッチを切る仕組みがうまく働かなくなるのがアレルギーなのか、間違ってスイッチを入れてしまうのかわかりませんが、本来は敵ではないものに対して反応するようになってしまうのは確かなようです(私は糖化産物がスイッチを入れたり切ったりしているのではないかという仮説を立てています)。
この免疫寛容の仕組みを使ってスギ花粉症の反応を抑える治療法が舌下免疫療法と言われる治療法です。スギ花粉のエキスを少しずつ口に含んで免疫をつけるのではなく、免疫を慣れさせる治療法です。絶えず少量の刺激を繰り返していると敵ではなく、味方だと身体が判断して免疫反応を起こさなくなることを期待する治療法です。3年かかりますが、スギの花粉症に悩まされることがなくなるそうです。

食物アレルギーも同じ機序で治すことができます。
アレルギーを起こさない範囲で、ごく少量ずつ食べたり飲んだりすることで免疫寛容をお越させて食べることができるようにすることがされています。ショック症状を引き起こす可能性があるので、アナフィラキシーショックをお越したことのある患者さんは入院の上病院にて行われます。少しずつ少しずつ食べる量を増やしていくことで、最終的には普通に食べることができるようになります。

食物アレルギーでも命に係わるアナフィラキシーショックを起こすほどでなければ、毎日反応しない程度に少しずつ食べることで反応しなくなります。
例えば離乳食が始まった直後に卵により蕁麻疹を引き起こしていても、少しずつ食べることで普通に食べることができるようになるのはよくあることです。

アレルギーの原因の仮説

糖質を食べないことで、花粉症やアトピー性皮膚炎、蕁麻疹で治る人がおられることを考えるとアレルギーの原因が糖質の取りすぎという仮説が成り立ちます。
その原因として考えられるのはブドウ糖とタンパク質が結合して生じる糖化産物が免疫機能に働きかけて、余計なスイッチを入れてしまうとアレルギーになり、本来必要なスイッチを切ってしまうとニキビや尋常性疣贅などを引き起こすのではないかと思います。

糖化産物と病気の関係(仮説)
血糖値と糖化産物と病気の関係

この仮説が正しいのか間違っているのかまだわかりませんが、少なくとも糖質とアレルギーが関係あることは間違いなさそうです。

もしかしたら20年もすれば、アレルギーという病気があって先進国では悩まされたらしいよ。
食べ物による病気という意味で、21世紀の脚気みたいな話だね。
といわれる時代が来るかもしれませんね。

戦後70年、平和が70年

今日8月15日(土)は70年前に戦争が終わったことを表す、日本にとっては大きな意味のある1日です。終戦記念日と言われています。戦争が終わって70年です。

そして戦争を仕掛けることも戦争に巻き込まれることもなく、70年を平和に過ごすことが出来ています。ほんの70年前には世界中を巻き込んだ戦争をしていたことは、今の日本を見ていると想像がつきません。

70年前の戦争は様々な意味での人の欲深さを物語っています。そして当時は武力でねじ伏せるのが当たり前だったのです。

戦争は軍需物資を扱う人以外は、トータルで見ると誰も得しない仕組みです。取り返しのつかない破壊と殺戮の分、人類全体でみると必ず損をする負け戦です。勝者が敗者から賠償金をせしめるとしても、お金が移動するだけで何も生み出してはいません。破壊と殺戮の分お互い損するのですから、損得を考えることが出来るだけで、無駄な争いはしないはずです。

ましてや人類が相手を思いやる心のある人の集まりであるならば、人類は必ず争いの無い世界を実現できると私は信じています。

戦争の終わった日から、平和を祝う日になるといいですね。私は8月15日を祝にすることを提案します。そして100年1000年と平和が続くことを心から祈っています。

平和が続き、戦争という言葉や概念が無くなりますように。

21世紀にはまだ戦争なんて無駄なことしてたんだって、という未来が来るといいですね。

新幹線で倒した座席はそのままが合理的

新幹線や特急では座席にリクライニング機能がついているため、座席を倒すことが出来ます。駅に着く際に車内アナウンスでは倒した座席は元に戻すように呼びかけでいます。そこでふと思いました。

座席は戻さないことが合理的

次に座る人のために座席を戻すことを呼びかけていると思われますが、次に座る方が倒すのであれば、マナーとして改めて後ろの方に声をかけなければなりません。席に着く際に座席が最初から倒されていれば、声をかける必要がありません。またリクライニングさせないことを好まれる方が来られたとしても、後ろの方に声をかけることなく戻すことが出来ますので、最初から倒されている状態で次に座る方が自由に選ぶことが出来る方が合理的だと思います。

恐らく元に戻すことを促すアナウンスは、元に戻すのが当たり前という固定概念にとらわれているためではないでしょうか?

倒されていても元に戻すのは周囲に気を使う必要がない、倒すことには後ろの方に気を使う必要がある。であればわざわざ元に戻さず、倒されているままの状態で受け渡しする方が合理的だと思います。

少なくとも座席を元に戻すアナウンスはやめても良いのではないかと私は思います。

様々な制約が人々を賢くする

世の中には様々な制約があります。

様々な制約とは、縛りのことで具体的には資源やお金、時間や科学技術などの様々な制約のことです。

制約が知恵を生み出す原動力となる

日本には資源に制約があったから知恵を絞って工夫をし、様々な科学技術を生み出しました。もし日本から大量に石油などの天然資源が出ていれば豊かではあったと思いますが、ここまでの発展はしていなかったのではないかと思います。

資源という制約があったからこそ知恵を絞り出すのだと思います。

例えばお金が有り余る程あれば豊かだとは思います。しかしお金という制約が無いため、知恵を絞るという発想そのものが無くなります。何でもお金を湯水のようにかけることに疑問も抱かないと思います。国立競技場に対する元首相の発想みたいですね。

お金の制約があるからこそ、様々な創意工夫で乗り切ります。お金をかけずに似たような効果を得られるように工夫するのです。それはお金という制約があればこそです。制約がなければ絶対最善を尽くさず、自称最善を尽くして自己満足してしまいます。

物事に締め切りがあるのは時間の制約を作るためです。時間に限りがあるからこそ人は工夫を凝らして、最大限の効果を上げようと努力するのです。締め切りがないとダラダラしてしまうのは、制約が無いからです。

こう考えると制約のおかげで人類は賢くなったようです。人類の歴史を振り返ってみると、他の動物を狩る強力な爪や牙が無い制約のおかげで石器を使う知恵を得ました。生肉や生の植物は噛み切るのが大変で噛むことにかなり長い時間が必要だったため、時間の制約があったようです。その結果火を扱う知恵を身につけたことで、食べる時間と消化する時間を節約することが出来たようです。

食料を得るという制約のため、失敗することの多かった狩りの作戦を立て、反省するために言語という知恵も手に入れました。その後直接言葉で伝える制約から解放されるために、時間と空間を飛び越えて情報を伝えることの出来る文字を手に入れました。

制約を乗り越える毎に人類は賢くなります。今では地球の裏側とテレビ電話で話すことが出来ますし、宇宙にまで行くことが出来ます。

次に人類が乗り越える制約は何ですかね?

人には限界を超えない仕組みがあるのに…

限界をこえない仕組み

人には限界を超えない仕組みが備わっています。例えば手足の筋肉は壊れてしまうことを防ぐために、筋肉の限界よりも遥かに低めにリミッターがかかっています。自分では限界と感じても、筋肉の物理的な限界は遥かに丈夫に出来ています。そのおかげで筋肉が断裂する危険をおかすことなく過ごすことが出来ます。瞬間的に限界近くまで筋肉を使えるようにトレーニングを行い、自分自身の限界まで筋肉を使う方法を習得します。努力に努力を重ねてようやく限界をこえるイメージです。いつでも限界ギリギリの筋肉の使い方をしているとちょっとしたことで壊れてしまうため、壊れてしまわないように余裕を持たせてあるのです。

健全に限界をこえる仕組み

人間には時として限界をこえる仕組みも備わっています。

一つは俗に火事場の馬鹿力と言われる現象で、一時的に限界・リミッターが解除され筋肉の限界まで力を引き出すことの出来る現象です。元々身体を守るために限界が作られているのですが、命のなくなれば身体を守るための限界など意味が無くなります。そのため命の危険がある場合に限り、限界を取り払うことの出来る仕組みが備わっているのです。

その反面、日頃は身体を壊してしまわないように、限界をかなり低めに設定してあります。

スポーツ選手が行う筋肉の限界近くまで能力を引き出す方法に自己暗示と大声を出すことがあります。自己暗示により脳が感じる限界を忘れさせて、限界近くまで引き出す方法と、大声を出すことにより限界を忘れさせる方法です(一時的に命の危険に曝されていると錯覚を起こすのかも知れません)。

これらは言わば健全に限界をこえる仕組みです。一つは命を守るため、一つは元々余裕がある設定の限界に近づくためです。

もう一つの限界をこえる仕組み

人にはもう一つ限界をこえる仕組みがあります。脳の錯覚・騙しによるものです。

限界をこえるとは脳の錯覚・騙しによる糖質依存の際に見られる現象です。本来なら太り過ぎないためと胃が破れることを防ぐために余裕を持って満腹と感じる仕組みがあるはずです。その満腹に感じる仕組みが、脳の錯覚により満腹感が誤魔化され限界をこえて食べることが出来るようになってしまいます。お腹いっぱいに感じる限界を糖質依存があっさりこえさせてしまうのです。

本当に胃がはちきれそうになって胃が物理的に満杯になることで満腹と感じるようです。糖質依存がない状態で満腹と感じるはずの限界が糖質依存状態の腹八分程度ではないかと思います。昔から腹八分程度が健康には良いことを経験的に知っていたようですが、糖質依存にまでは思い至らなかったようです。つまり糖質依存状態の腹八分が本来なら満腹と感じる限界ではないかと思います。その証拠に糖質を食べなくなった糖質依存から解放された人は、胃が小さくなったと感じるようです。実際には糖質依存により脳の騙しが無くなって本来の胃の大きさになっただけのことです。

依存という病的な状態により限界をこえてしまうと、様々な病気を引き起こしてしまうようです。

タバコも本来なら煙なので煙たいはずですが、依存により煙たいのを乗り越えて吸うことが出来るのだと思います。

アルコール依存や薬物依存は限界をこえて意識そのものに働きかけてしまうため、なかなか抜け出すことが出来ないようです。

依存は本来なら働くはずの自己抑制が働かなくなるので、意識して気をつける必要があります。実は世の中には本来なら備わっている限界を容易にこえてしまう依存になり得る罠・落とし穴があちこちに散りばめられています。本来なら備わっている限界を意識することで、脳に騙されることなく快適に過ごす方法を見つけましょう。

忘れないことを忘れる場合の対策

忘れないことを忘れてしまうことがあるのが人間です。というか少なくとも私には忘れないことを忘れることが良くあります。

忘れてはいけないから覚えておこうとしたこと自体を忘れてしまうのです。

人は物事を思い出す際、何かをきっかけにして思い出すようです。そのきっかけを上手く思い出せるようにセット出来る人は、物事を忘れにくく記憶を取り出すことが得意となります。何か行動する必要がある場合には、その行動のきっかけになることを忘れない方法でセット出来る人とセットがしにくい人がいます。

思い出すきっかけをセットする

私は行動のきっかけを覚えて置くのが苦手なので、工夫するようにしています。

例えばゴミ出しを忘れそうなら、忘れないように覚えておくだけではなく、必ず思い出す仕組みを作ります。ゴミ出しであれば玄関の靴の側にゴミを置いて出掛ける際に思い出す仕組みにします。

必ず持って行く必要があるもので持って行くことを忘れそうなら、靴の上に置いておきます。

他には再々目につく目立つところに忘れてはいけないものを置いておいて、その都度思い出すのも一つの方法です。これは受験勉強などどうしても覚えたいことがある場合にも有効な対策です。人間何度も見返していれば覚えるものです。

それでも忘れそうなら

二重三重に思い出す仕組みをセットしておきます。締め切りのあることに対して、簡単な対策は携帯のスケジュール機能です。携帯のスケジュール機能に忘れては困る内容をメモしておきます。そうすることでスケジュールの時間を忘れない仕組みを作ることができます。

他には忘れてはいけないことの数を数えておく方法です。今日は2つ、明日は3つなどその数の物事を思い出すことができるかどうかを確認します。内容はともかく数だけ抜き出して記憶しておく方法です。

この数のチェックは小学生が登校の際の忘れ物チェックなどには有効な手段です。ハンカチ、ティッシュ、水筒、帽子、名札、帽子の六個とかですね。

私の場合は大したことはありませんが、財布、携帯、鍵の3つを持たないと外出しない癖をつけています。だから私のチェック項目ら3です。

良かったらお試し下さい。

考え方を強要すると争いになる

考え方を強要するから争いになります。

例えば親子で親の経験から子供に対してこうしなさい、ああしなさいと一方的に強要することは良くあることです。子供が納得出来る説明した上での強要なら、大きな問題になりませんが納得出来ないまま強要しようとすると争いに発展します。

一方的な考え方の強要や押し付けは時として争いに発展するのは仕方ありません。強要された方が理解出来ないからです。何故やらなければならないか納得出来ないまま強要されるので、納得出来ないことに加えて、考え方を変えるように強要されることで争いになります。二重の意味で不快に感じてしまうからです。

強要してもねじ伏せる圧倒的な力があれば争いにはならないかもしれませんが、対等に近い関係であれば争いに発展します。健全かどうかは別問題として、かつての欧米諸国の植民地支配が争いにならない程の圧倒的な武力の違いによるものです。

子供が小さい頃には子供自身が判断できませんので、強要するのも仕方がありません。しかし子供が生意気なことを言ったり反発したりする自我が目覚めてくれば、強要するから争いになるのです。子供の成長に伴い、圧倒的な差が無くなった証拠なのかもしれません。まだ子供だから自分の思い通りにしたいという欲求は抑えて、子供の考え方を尊重するようにすれば争いは避けることが出来ます。その代わり子供が責任を取るのです。

一方的な論理で考え方を強要した結果争いが起こるのは何も親子だけではありません。かつての宗教戦争も一言で言ってしまえば考え方である宗教の強要をしようとして戦争にまで発展しました。信じるものは救われる、信じない人は関係無いという本来の宗教の考え方で言え考え方の強要などあり得ないことです。そのあり得ないことをしたため戦争にまで発展したのです。

逆に考えれば考え方の強要などしなければ、争いの多くは避けることが出来るのかもしれません。例えば先ほどの親子の場合、親の知っている情報を子供に伝える。親からすればこうする方が得だと思うという提案をするのです。その結果子供が自分で判断するように促すのです。強要しなければ争いにはなりません。強要するから反発するのです。子供自身の判断であれば反発のしようが無くなると思います。当然その責任は自分で取らせると子供自身も自らが選んだ行動には責任が伴うことを実感すると思います。

最終的に子供が困ることなら、子供の問題だと子供に気付かせてあげると良いと思います(問題論)。子供が困る問題に親が口出しをすること自体が越権行為ですが、さらに強要すると争いになるのは当たり前と言えば当たり前のことなのです。

考え方の強要はしない

いくら自分の考え方に自信があっても、人に考え方の強要をしないことです。

考え方を強要すると思わぬ争いを生じるかもしれません。

大人に対して考え方を強要しないのは当然ですが、子供が反発するようになってきたら、子供に対しても強要するのは終わる時期なのかもしれません。

東京オリンピックのロゴ問題

東京オリンピックのロゴ問題でテレビを賑わしています。
盗用かどうかが議論になっていますが、少なくとも相手方は商標登録はされていないようです。
法的手続きをとるといってはいるようですが、あまり強い手段に出ることはできないようです。

スーパー心理学で考えてみます。
本当に盗用していなければどのように答えるかを考えてみました。

『こんな偶然ってあるんですね。』
『いやぁ~驚きました。』
『念のため商標登録は確認したのですが、商標登録では似たものはなかったので安心していました』
『似ているデザインが出てきてしまい、お騒がせしてすいません。』

『似ているかどうかと言われればパッと見は似ていますよね。』
『商標登録以外のすべてのデザインを確認することは不可能でした。確認する義務があったかどうかはわかりませんが、結果として似たものがあったようでお騒がせしてすいませんでした。』
『ただデザインの組み立て方が全く異なるので、最終的には盗用ではないと理解してもらえると思います』

『逆にこの問題になっているデザインの存在を知っていれば、後で問題になることが予想できるので避けますよね。知らなかったので避けようがなかったことが知らなかった証拠です。』

と答えると私は思います。真似をしていないのであれば、偶然似ていたことに対する言いがかりなのですからこれ以外の答えようがないと私は思いました。

商標登録されていないから後で問題になることが予想できなかったのか、偶然似たデザインになったのか実際のところ私にはわかりませんが、今回の会見は偶然こんなことになったという会見ではなかったように見えました。

ただベルギーのデザイナーは商標権ではなく、著作権で訴え出るようなので、裁判で勝てるとは考えておらず、ただの売名行為のような気もします。似てはいるけど真似した証拠を出さなければいけない著作権で争うのは、単純なデザインだけに無理があるように思います。

いずれにしても、もし嘘があるなら本当のことを言ってほしいと思いますし、嘘がなければ早く決着がつけばいいですね。

東京オリンピックにこれ以上ケチがつかないことを祈っています。