子供を怒る『意味』

結論を一言で言えば、子供を怒る『意味』はありません。怒ることに『意味』がないことと、怒らない方法を説明していきます。

子供が出来ていないかやってはいけないことをしたから、子供の落ち度を怒るのは仕方がないと親は考えがちです。子供のことを考えて、子供を怒るのはいわば常識だと思われています。しかし子供を怒ることでどんな『意味』が伝わるのでしょうか?

子供にはやってはいけないことだということは伝わると思います。今度同じことをすれば怒られることがわかります。ただそれだけです。そして子供は嫌な思いをしたという事実だけが残ります。

そのやってはいけないことを子供がやってしまうのは何故でしょうか?そしてつい怒ってしまうのは何故でしょうか?

子供がやってはいけないことをしてしまう理由

そもそも子供はやってはいけないことを理解していないのです。以前似たようなことで怒られたからやってはいけないことは、もしかしたら知ってはいるかも知れません。いずれにしても良く理解できていないのです。

特に大人にとって当たり前・常識で子供も知っていると思い込んでいる場合があります。大人が説明しなくても子供も理由を理解していると思い込んでいるのです。

大人はやってはいけないと知っているはずのことをやるので怒るのです。子供はやってはいけないことは知らないだけなのに怒られるのですからたまったものではありません。

この時子供は怒られるとは全く思っていないので、怒られると驚きの表情を浮かべます。

全く知らずにやって怒られるだけではなく、怒られることを覚悟してやる場合もあります。以前怒られたことを少し変えてみて怒られるかどうか試す場合(怒られる境界線を探すようなイメージです)と、怒られることが目的でやる場合です。以前とは少し変えてやってみるのは、どうすれば怒られるのか境界がわからないので興味本位でやってみるというものです。怒られることが目的というのは寂しいなどの感情をうまく表現できないため、構って欲しくて怒られることをするという心理です。

この二つに共通せるのは怒られた時に、怒られること自体に驚きはなく、ある程度納得しているということです。

怒らず、叱らず、諭す

怒ることは感情をぶつけること、叱ることは責めることです。子供に罪はないので、諭すが正解だと私は思います

子供の知らないことを教えてあげるのです。何故やってはいけないのか?その意味と目的を伝えることで、似たようなこともやってはいけないと理解させたあげるのです。意味と目的を伝えることで、やってよいこととやってはいけないことの境界線を興味本位で試すようなことはなくなります。

明らかにやってはいけないことだとわかっていて、怒られる目的でしたことが疑われたら、どうしたの?寂しかったの?と声をかけてあげましょう。怒ることを期待しているので、驚くと思います。そしてどうしたいのか相談していくとよいと思います。

民主主義の意味

今のところ最も優れた政治形態は民主主義だと思います。

その民主主義の『意味』を考えてみました。

民主主義は多数決を行い多い方の意見に従うのが基本です。

様々な意見や思惑があり、どうするのが正解なのか誰にもわからないから、みんなで多数決で決めようという手法です。
正解がわからないのでみんなの知恵を積算して、恐らく正しいだろうと考えられるものを選び出す方法です。少なくとも比較的ましだと考えられる方を選択をするのが民主主義です。

その選択が必ずしも正しいとは限りませんが、民主主義には競争原理が働くのがが利点です。間違いがあれば競争に敗れ自然に正しい方向に修正されるということです。

みんなで政治を見張るので、明らかな不正が少ないのも特徴です。

独裁政治では誰も咎めることの出来る人間がいないので独裁者に有利な極端な政治を行うのと対照的です。

歴史の上で様々な政治が行われてきましたが、色々な理由で淘汰され民主主義が残っているというのが現実です。民主主義を知らない国の人々は、その国の政治が当たり前で不満も無いと思います。今後他国の情報が入ってくると、民主主義とのギャップに我慢出来なくなるため民主化が起こるのではないかと思います。

民主主義より更に優れた政治手法が発明されるまでは民主主義が続くと思いますし、世界的な流れとしてこれからも次第に民主主義が増えていくと思います。

子供が長く寝る理由 眠る意味は?

子供が長く寝る理由を考えてみました。

成長と共に寝る時間が短くなります。大人になると子供の頃は好きなだけ寝ることが出来たのが嘘のように、眠れなくなってしまいます。

何故か考えてみました。

眠る意味は?

  • エネルギーの節約
  • 身体の休息
  • 脳の休息

夜間は昼間のように見る事が出来ないため、無駄なエネルギーを節約するために寝ることが進化したようです。しかし夜行性の生き物達も昼間には寝ていることから、必ず必要なもののようです。

ちなみに泳ぎ続けるイルカは脳の半分ずつ寝ることが出来るそうです。

身体の休息と脳の休息

エネルギー節約の次に考えられるのは身体の休息と脳の休息です。

両方の意味があるとは思いますが赤ちゃんの方が寝る時間が長いことから、身体の休息よりも脳の休息の意味合いが大きいのでは無いかと思います。

起きている間に受けた刺激を寝ている間に処理しているのではないでしょうか?起きている間に受けた刺激が大きくなり過ぎると、刺激が強すぎて起きている間の処理が出来なくなるため、脳が新たな刺激をシャットダウンするために眠くなるのではないかという仮説を考えました。

このことは4つのことから導き出しました。

  • 赤ちゃんが長時間眠り、次第に眠る時間が短くなること。
  • 子供が全く新しい体験をすると良く眠ること。
  • 私がそれまで知らなかった新しい情報に大量に触れると眠くなり、10時間〜11時間も寝てしまうこと。
  • 歳をとると眠る時間が短くなる

赤ちゃんが長時間眠ること

生まれたての赤ちゃんが20時間も眠るのは、見るもの聞くもの触れるもの全てが知らないもので、刺激が強すぎて処理し切れないためではないでしょうか?頭の整理がつくか、お腹が空くと目覚めて、処理し切れなくなると眠くなるのではないかと思います。

刺激をシャットダウンするために寝たいのに、シャットダウンできないと、グズグズして泣いてしまうのかも知れません。

子供が全く新しい体験をするとよく眠ること

子供がこれまで経験したことのない全く新しい体験をすると、短時間の経験でもよく眠ることがあります。
赤ちゃんがよく眠るのと同じことで、初めての経験は刺激が強く頭に様々な情報が入り込むため処理しきれなくて眠くなるのではないでしょうか?

子供が成長と共に眠る時間が減ってくるのは、様々な経験を記憶することにより全く新しい体験が減るため処理が簡単にできるようになるため長時間眠る必要がなくなるのかもしれません。

大人でも新しい知識を大量に吸収すると長時間眠ることがある

私の経験ですが、本やビデオ映像など全く新しい知識を大量に仕入れると処理しきれなくなるのか強い眠気に襲われるようになることがあります。逆に目新しい情報がない日には8時間以上は眠ることができません。目が覚めてしまいます。
一つの仮説ですが、全く知らない情報が大量に頭に流れ込むと赤ちゃんと一緒で眠くなるのだと思います。

歳をとると眠る時間が短くなる

子供が次第に眠る時間が短くなるように、大人も年齢とともに少しずつ眠る時間が短くなるようです。これも様々な経験をしている大人は新しい情報に触れる機会は少なく、脳の休憩である情報を処理するための睡眠がほとんど必要なくなるのかもしれません。身体を休めるための休息としての睡眠の意味だけが残るのかもしれません。

赤ちゃんが眠る時間が非常に長く、成長と共に次第に眠る時間が短くなることを一つの理屈で説明できる仮説です。
もしかしたら不眠症で悩んでいる人は自分が知りたいと思う新しい情報を積極的に取り入れることで、脳が休息を求めるようになり眠れるようになるのかもしれません。
良かったらお試しください。

水イボ(伝染性軟属腫)摘除は虐待では?

水イボ(伝染性軟属腫)とは?

水イボ(伝染性軟属腫)とはウイルスの感染によって生じる良性の腫瘍です。
免疫機能の未熟な乳児や小児にうつることが多い疾患です。(まれに大人にも感染します)
免疫機能が成熟した時点でウイルスを追い出すことができるようです。
個人差はありますが数か月から1・2年で自然治癒します。

これまでの治療法

これまでの治療の主流はピンセットでつまんで摘除(取り除くこと)するものでした。

以前から合理主義の欧米では自然治癒するものをわざわざ摘除はしないそうです。
日本では人にうつるものを放置することを忌み嫌う風習があるため、摘除が行われていました。

プールでうつるということで水イボがあるとプールに入らせてもらえないため、子供も仕方なく泣く泣く摘除を受け入れていました。

プールに入るために水イボを摘除する意味は無くなりました。

2013年5月に日本皮膚科学会・日本小児感染症学会・日本臨床皮膚科医会が統一見解を出しました。プールの水の中でうつるわけではないので、プールに入っても構いませんという見解が出ました。

プールに入るために水いぼを摘除する意味は無くなりました。

幼稚園、保育園、水泳教室によっては水いぼを取らなければならないとするルールを決めているようです。病気のことに関して医師の集まりの見解を取り入れないのであれば、ルールを決められた先生は親ではなく子供が納得できる説明が必要だと思います。

水いぼの摘除は虐待では?

あくまでも一つの考え方ですが、患者さん本人の希望を一番に考えれば誰も摘除しなくなると思います。

  • 放置しても治癒する(治る)
  • 本人は摘除を希望していない

放置しても治るもので本人が希望していないのに無理やり摘除するのは、私には虐待と区別がつきません。

摘除する目的が私にはわかりません。
目的として考えられるのは他人への感染予防、治る治療があるのに治療しないことに抵抗があるだと思いますが、元々誰かから感染したのですからお互い様です。そして摘除したとしても、何度でもうつるので免疫力がつくまで何度でもかかります。取らない方針のお子さんが一人でもおられれば何度も繰り返すことになるので、自分だけ摘除しても無意味です。

放置しても良いものを、本人は希望していないにも関わらず、他人の都合で痛い思いを強いるのは虐待とどう違うのか私にはわかりません。
どうしても取ることを求められれば虐待を疑って通報することも考えなければいけないのではないかと思います。(今のところ水イボの摘除に関連して通報したことはありません。)

誰のためのプール禁止でしょうか?

ましてや幼稚園、保育園、水泳教室が治療しないとプールに入らせないとするのは、先生による虐待の可能性があると思いますので、通報することを考えられてはいかがでしょうか?
疑いで通報しても構わないはずです。虐待での通報も含めて幼稚園、保育園、水泳教室で相談されれば、プールに入らせないということはなくなると思います。

感染に伴う差別では?

ちなみにプールのときだけ感染するわけではありません。先生の目につくからプールが禁止になっただけだと思います。感染していない保護者から指摘されることを避けるために隔離を求めるのは、根拠に乏しいため区別とは言えず差別に近い対応ではないかと心配します。水イボでプールだけを禁止されるのは感染に伴う差別なのか区別なのか私にはわかりません。

そして同じ感染症である手足口病は症状があってもそのまま通園通学が許されています。何故なら治療法がないからです。感染はしますが治療法がないからです。
水イボは治療法があるだけに取らなければならないとされてきました。
治療法があっても虐待と区別できないから取らない時代が来ると思います。
自然治癒するのだから取らないという選択肢も本人が選ぶことができるべきだと思います。

本人が取ってほしいと希望するならとっても良いとは思います。
あくまでも本人の判断ができない年齢は取らずに様子をみるべきではないでしょうか?

親が見た目が気持ち悪いから取ってほしいというのは虐待そのものではないでしょうか?
子供のためではなく、親が気持ち悪い思いをしたくないから取ってほしいという目的を考えると、私には虐待と区別がつきません。

近い将来子供の頃には水イボがあるのが当たり前の世の中に

子供の頃には水イボがあるのが当たり前の世の中になると思います。
まだ水イボがあるんだね。もう水イボがなくなったね。という時代がくると思います。

何故なら近い将来『虐待との区別』が問題になることで、取る先生の考えが書き換わると思うからです。まだ水イボを取る先生と取らない先生が混在して混乱しているだけのことです。
自然治癒し本人が希望しなくても医師が摘除することは決して違法ではありません(ちなみに看護師が摘除することは違法とみなされるかもしれません)が、虐待との区別が議論されることになれば状況は一変します。
それでも摘除を貫く先生がおられるとは私には思えません。

水イボ摘除をされている先生へ

今でも水イボを取る方針の先生は看護師さんが取っておられる可能性が高いと思います。
もし先生ご自身で取られるとしたら水イボを取る最後の医師になってまで取られますか?
その時には水イボを取ってほしいお子さんたちが遠方からも集まってしまうかもしれませんが、それでも最後の一人になってまで取られますか?
そしてとってもとっても取らない方針のお子さんから何度もうつされても、最後まで取りつづけられますか?
いずれは数が多すぎて諦める時が来るなら、このサイトを見られた時点から取らない方針にされてはいかがでしょうか?

もしかしたら患者さん自身が取らなくて良いと理解されて通院されなくなる方が先かもしれませんがご一考いただけますと幸いです。

注意点

私は『虐待』や『差別』を指摘して加害者や被害者を作り出したいわけではありません。
できるだけ早く水イボは取らない世の中になるように考えてもらうきっかけを作るために、あえて『虐待』『差別』という言葉を選択しました。

自然治癒・本人は嫌→虐待?
根拠なし・プール隔離→差別?
もしかして?と思いもしなかったことを考えていただくきっかけを作る目的と、水イボのお子さんが少しでも嫌な思いをしないようにする目的でこのような書き方をしました。
不快な思いをされる方もおられるかもしれませんが、このような書き方の目的はお子さんのためですのでお許しください。

痩せる意味

先述したように物事には幾つもの意味・解釈があります。痩せる意味もいく通りもの考え方・解釈の仕方があります。
大きく二つにわけることが出来ます。
意識して痩せるか意識しないで痩せるかです。
意識して痩せるのはダイエットとされ好まれるものです。
意識しないで痩せるのは様々な病気により体重が減ってしまいます。悪性の病気やホルモンバランスの異常などで痩せてしまいます。

嬉しそうに痩せた!と言えばダイエット成功でしょうし、悲しそうに痩せた…と言えば病気なのかもしれません。

私の場合はダイエットで16Kg程意識して体重を落としました。周囲の人からは様々な声が聞こえてきます。ダイエットだと思われた方は、直接お声かけ頂きます。どうやって痩せましたか?と。病気だと心配して下さった方は遠慮されて直接私には聞かれない方が多いです。人づてに聞いて下さったりします。

特に私の場合お酒もやめたので、余計病気だと思われたようです。私は糖質回避をしているだけです。

痩せるということも良いことばかりではないことがわかります。

病気が怖い理由 もう2型糖尿病は怖くない!

病気は怖いですよね?私は怖いです。そこで病気が怖い理由を考えてみました。

少し前の私は糖尿病が怖かったですが、今は全く怖くありません。怖く無くなったのです。この怖く無くなった理由を考えると、病気が怖い理由がわかりました。

いつ病気になるかわからないから怖いのです。
そして何故なるのかわからないから怖いのです。

確かに風邪やインフルエンザなどの感染症も病原菌やウイルスが目に見えない為いつかかるかはわかりません。正確にはわかりませんが、周囲で流行していなければ、感染する可能性が低いことはわかります。他国で問題になっているMERS(中東呼吸器症候群)も今のところ日本には入りこんでいないので、心配する必要が無さそうです。つまり今のところMERSは日本国内では怖く無さそうです。

2型糖尿病は怖くない

いつなるかわからないから怖いのが病気ですが、原因がはっきりし、自分で意識して病気を避けることができると全く怖くありません。
そういう意味で原因がはっきりし、簡単に避けることができることがわかった2型糖尿病は全く怖くはなくなりました。
糖質回避をしている私は2型糖尿病の心配をする必要はありません。
誰が2型糖尿病にかかるか知らなかった少し前までは、私もいつ2型糖尿病になるか恐れていました。糖尿病にかかるかもしれないため不安でした。
今は糖質を主食として食べることが原因だとはっきりしたので、全く怖くありません。
2型糖尿病になったとしても糖質を避けるだけで病気を失くすことができます。治るのではなく患者さんの意思で食べ物を選ぶだけで、治療することなく失くすことができるのです。
まるで現代の脚気のようなものです。食べ物の選び方を間違えていただけのことです。
正しい知識(血糖値を上げるのは炭水化物だけという事実)を手に入れれば、恐れる必要がなくなりました。

高血圧も怖くない?

塩分を食べることにより、腎臓から塩分を排出するが、排出しきれなくなると浸透圧を保つため血管内の血液量が増えることで血圧が上昇する機序が考えられます。
塩分摂取をゼロにすれば高血圧が必ずなくなるのかはまだわかりません。
しかし多くの方の血圧が改善することが期待できます。
塩分は魅力的で控えることは困難ですが、実は糖質との共依存により多く取りすぎている可能性があります。
このように考えた根拠は塩分に関して全く無関心でしたが、1日塩分摂取量が4.8gだったことです。特に制限しておらず、毎日美味しく食事していますが4.8gでした。恐らく気を付ければ3gでも可能だと思います。その理由を考えてみると、糖質を控えることで塩分が必要なくなった可能性が考えられました。糖質を食べる際甘味を打ち消すために塩気を自然に欲するようです。糖質依存に伴い塩分依存にも陥るようです。(糖質回避で高血圧が治る?
やめられないとまらないというお菓子はまさに糖質依存と塩分依存のたまものという印象です。

他の病気も原因が特定され、避ける知恵が見つかるといいですね。

二人で議論しても永遠に決着がつかない

実は二人で議論しても永遠に決着はつきません。水掛け論に陥るという言葉もありますが言った言わないで揉めるだけでなく、二人で議論すること自体にあまり意味がないのです。
何故ならお互いの主張がそれぞれあるから議論になるのです。お互い認め合う余地があれば、議論ではなく意見の擦り合わせ・確認・認め合いになるので、議論にはなりません。

人々はそれぞれが信じていること、正しいと思うこと、経験など全てが異なります。誰一人として全く同じ考えを持つ人はいません。善悪の価値観も相対的なものです。

まずお互いの立場や信じていることからして違うので、価値観や尺度が異なるのです。
尺度だけ見ても片方は1・2・3で話をしていても、片方はA・B・Cの話をしていて議論がかみ合ないこともよくあります。同じ尺度に揃えないとお互いの意志の疎通すらはかれないのです。

第三者に当たる議論の根拠になるものが、宗教や倫理観であり規則であり法律です。

共通認識のルールがなければ議論は無意味

誰が正しいかなんてわかりません。
無人島で二人で口喧嘩したとしたら、永久に決着はつかないでしょう。
殴り合いをすれば、どちらか腕力の強いほうが勝つでしょう。
暴力で解決するというのは一つのルールではありますが、人間がサルと変わらない価値観、それで良いのでしょうか?

多数決の決定に従う理由

話し合いで解決するというルールの中で決めるのであれば、どちらかが我慢しない限り永遠に解決しません。3人目がいて初めてどちらが正しいかもしれないということがわかるのです(正確にはまだわからない・・・。というよりも正しいかどうかなんて誰が判断するか?ということです)
正解がわからないから少しでも大勢が納得できる多数決という考え方が生まれました。
何が正しいのかわからないから、わからない中で知恵を集合すれば最も正解に近いはずだという考え方です。
ちなみに科学の分野では多数決は無意味です。何故なら正しいことは1人しか言っていなくても、正しいからです。
正しいことがわからないので仕方なく、多数決をするだけのことです。

宗教の生まれた理由

大勢が集まって生活するようになって、いちいち多数決をすると不便です。
生き方の基準がないと、様々なことの判断がつかないから皆が生活しやすいように一種のルールである宗教が生まれたのだと思います。
同じ価値観で、同じ生活様式で生活し、同じタブーをもって生活する。
価値観が同じなので非常に生活しやすいのです。いわば生活の知恵として宗教が生まれたのだと私は考えています。
『神』や『アラー』や『仏陀』、『八百万の神(万物全てに神が宿るという考え)』、『ブラフマー』(ヒンズー教)に従うことをよしとするのだと思います。

宗教の話の詳しくはこちらをご覧ください。

国としてルールを作る

話し合いや明文化しない一般常識で解決しないことは国が法律として定めます。
いわば外枠を作って、その枠から外れると犯罪として取り締まるという考え方です。
みんなが従うルールを作るのが目的です。

当事者同士での話し合いが成り立たないのは上記の通りですが、その話し合いの指針を作り出すいわば3人目の役割をするのが法律です。
どんな議論も共通の指針となるものが存在しなければ、無意味です。
他国の人と議論がかみ合わないのは、そもそも法律・文化・風習が異なるため、共通の指針がないことが原因です。
無人島でルールなしでいきなり話し合うのとよく似ています。

議論する前に共通の指針をお互いで確認することをしないと、議論は全くかみ合いません。

同じ日本語を話をしていても、共通認識のないまま議論をしていることはよくあることです。
議論する前に前提条件をお互いで確認することが、争いを早くおさめるコツかもしれませんね。

ギリシャ問題の本質

ギリシャがヨーロッパから世界を揺るがしています。

民主主義の原則に則り、国民の意向に沿って政治を行うのは良いことです。良いことですが、国内だけで問題が解決するなら国民の機嫌をとるだけで終わっては大変です。

債権者の意向を無視し自由奔放に振る舞っているのが問題の本質です。

国民負担を軽くするか重くするかで、国民が選べば軽くすることを選びます。国民は軽くすることが何を『意味』するのか理解しないまま首相を選んでしまったのです。

そして首相は選挙で勝ったことの『意味』を勘違いしたようです。選挙に勝ったから、債権者のことは考えず、国民の負担を軽くする方針が正解だと誤解しているのです。かつて日本で徳政令発令が頻発し経済が混乱したことからも、借りたものを返さないことが許されると非常に混乱します。

そして国民は今までの生活を確保したまま、軽くすることを望んでいます。そんな魔法のような方法はありません。

子供の論理

物事は全て何らかの対価の上に成り立ちます(トレードオフの関係)。負担を軽くするなら何かを我慢しなくてはなりません。そのことを差し置いて要求だけするのは子供と同じです。

お手伝いは嫌だけどおもちゃは買ってという子供の要求と何ら変わりません。子供は要求には対価が必要だというを常識をまだ知らないのですから仕方がありません。子供の場合は教えてあげればいいのです。

何かを欲しいなら何かを我慢するか、何かをして欲しいなら変わりに何かをするのかを身をもって知る必要があるのです。

国の場合は…。1人のカリスマ指導者が現れるのを待つか、大問題と引き換えに、要求には対価が必要だと実感するかでしょう。

ギリシャの場合

ギリシャの場合周辺国や債権者たちは何度も改善策を提案していました。そしてこのままいくと経済的に破綻してしまうことも説明していました。

ギリシャはヨーロッパ諸国がユーロ圏の離脱を認めないと思い込んでいたのです。つまり最悪の事態はありえないと高を括っていたのです。

もしくは治ると思い込んで病院を訪れる患者さんに、どれだけ治らない病気だと説明しても、治らないことの意味が理解できない心理と似ているのかもしれません。

そして子供と同じで、どんなことがあっても見捨てられるわけがないと甘えているのです。見捨てたらヨーロッパも困るから、ユーロ離脱は選択肢にないと勝手に思い込んでいたようです。

期限の2015/6/30までに国民投票を提案されたのに、期限後に国民投票を行うのは物事を論理的に考える人間にとっては意味不明です。

子供の理屈でユーロから放り出されないはずだという根拠のない思い込みがあったと仮定すれば何とか理解できます。

もしかしたらギリシャ首相が常人の常識を遥かに超える『知恵』の持ち主で、現時点の全ての物事を計算し尽くしていて、実は計算通りに事が進んでいることを密かに祈っています。そして世界中のみんなが納得する形で、事態の収拾を図ってくれることを祈っています。

どこかの国のかつての首相のように、思いつきで発電所を地獄にしたようなことにならないことを心から祈っています。

銀行からお金を引き出せない事態で、国民は悪夢から覚めたのかもしれません。もしかしたら本当の悪夢は始まったばかりかもしれませんが、

ヨーロッパ諸国・債権者の誤算

ヨーロッパ諸国の誤算は、ギリシャを大人扱いしてしまったことです。

自分達で賢い判断ができると自分達の価値基準でギリシャを判断したことです。自分達と同じ大人扱いしてしまったのです。ギリシャの人達を貶めるつもりはありません。ただ要求には対価が必要といあ常識、世界中では当たり前のことを、余り理解できていないように見受けできることを表しているのです。

財政破綻は嫌だけど年金は温存、支援して欲しいけど税金はそのままなど。

誰の問題か?(問題論)

誰の問題化を考えるのは簡単です。放置したら誰が困るかを考え、困る人の問題です。
もしかしたらギリシャの人達はヨーロッパの人たちの問題だと勘違いしたのかもしれません。
ギリシャがユーロを離脱するとヨーロッパの人達も困るからギリシャの人達と同じつもりで、ユーロ圏に残るように助けてくれると思っているのではないでしょうか?

ギリシャのユーロ離脱は確かに混乱はしますが、ギリシャの人達の困難より他の国々は遥かに小さな混乱です。その温度差を余り理解できていないように思えます。

もう一つ問題があります。もし財政破綻しても首相は命を失うだけではありません。職を失うだけです。失業してしまう他の国民と同じくらいしか困らないのです。そのためあまり先のことは考えていないのではないかと疑ってしまいます。アナログ思考とデジタル思考でいうと圧倒的アナログ思考で、デジタル思考で考えると明らかに取り返しのつかないデッドラインを越えているのに、デッドラインが理解できずまだ挽回できる可能性がどこかにあるはずだと存在しない可能性を模索しているのかもしれません。

どこかの国の元首相のように、国の運営が目的ではなく、元首相の肩書きを目的に腰掛けで首相になっていないか心配になります。

自分達の問題だと捉えていれば、国民投票は2015/6/30の返済期限までに行うはずです。

私の頭では正直ギリシャの情勢が理解できませんが、理解できる余地があるとすれば上述した子供の論理だけです。私などの常人の考え及ばないような解決方法を、ギリシャ首相が準備されていることを心から祈っています。

幸いギリシャが財政破綻しても私の生活に直接影響はないので、私の問題ではありませんが、世界恐慌を引き起こすことになれば私の問題にもなります。
世界恐慌に陥ることがありませんように。

二つの最善 ~自称最善と絶対最善~

実は最善には2つあるのですが御存知ですか?
言葉で区別するとすれば自分なりの最善である自称最善と、誰が見ても最善である絶対最善です。

自称最善

自称最善はいわば自分なりの最善ということです。主観的最善と言い換えることができます。自称最善は競争相手がいなければ大きな問題にはなりません。自分も納得し、周囲もそれを受け入れます。
しかし競争相手がいれば自称最善はただの自己満足でしかありません。自分なりに最善だと思っていたことが、他の人にとっては努力してない状態とあまり変わらない可能性すらあります。競争のスタートラインにすら立てていないこともあり得ます。

しかし人と比べなければ問題ないのも自称最善の特徴です。他社と比較しなければ自称最善で社内は納得していることもあるようです。

行政・自治体がなかなか動かない・変わっていかないように見えるのも、自称最善だからなのかも知れません。他と比較する発想がないので自分なりの最善を尽くしているので、これ以上どうしようもないと行政側は考えているのかも知れません。

身近な例で考えると、腕立てや腹筋などの筋トレです。自分だけだとどうしても最善を尽くしたつもりでも、少ない回数で挫折してしまいます。これが自称最善です。(そもそも人との比較や競争が無ければ、筋トレをわざわざしないように思います)

絶対最善

絶対最善は誰から見ても最善です。客観的最善と言い換えることができます。もしくは考えつく限りの最善を尽くすのが絶対最善です。考えつく最善があっても、出来ない言い訳をして自分なりの最善で納得出来るのが、自称最善です。
一方誰がみても最善が絶対最善です。

スポーツやコンクールなど人と優劣を競うのは、自称最善の自己満足だけではなく、人と比べることで自分の考え得る絶対最善を引き出す手助けをするためです。

絶対最善、誰が見てもベストを尽くす努力をしたのであれば、勝ち負けや順位は飾りでしかありません。

筋トレの例えであれば、数人で競ってトレーニングしていることを想像してみてください。もしくは目標回数を設定され声をかけられている場面を想像してみてください。筋肉の限界目一杯、もう動かないまで頑張るのが絶対最善です。

競争する『意味』

勝ち負けや順位は絶対最善・誰から見ても最善を引き出すための手段であって、目的ではないのですから。勝ち負けや順位だけに拘るのは、手段と目的を取り違えている人達です。

競争をしなくてもみんなが絶対最善を尽くすのであれば、競争は必要なくなります。

しかし国の方針として競争を排除した国々は、経済的に立ち行かなくなり、淘汰されつつあることが競争の大切さを証明しています。

教育の現場では順位をつけることを躊躇う声が聞こえてきます。競争の『意味』を知らない人が、手段と目的を取り違えた上で、競争自体を排除しようとしているのです。

競うことに疑問を持ってしまったら、絶対最善を尽くすために競争する『意味』を、今一度確認されることをお勧めします。勝つことに『意味』があるのではありません。競うことにこそ大きな『意味』があるのですから。

絶対最善を実践する企業

おまけですが、ある突き抜けた企業は恐らく他社との競争は余り考えていません。考えつく限りのお客さんの最善を絶えず自ら追求しているだけで、他社と比較する必要がない程突き詰めて絶対最善を実践しています。理念・方針が突き抜けているので、他社は競争相手になれないのです。現実に利益は企業の為ならずの私の考えた諺を実践している企業があるのです。(実際にはある企業の経営方針に感銘を受け、この諺を作り出しました。) 私は付け入る隙の無い理想の企業だと思います。

絶対最善企業は改善できる点は、まだ問題が起こっていなくても改善します。何故なら改善策を思い付けば、問題に至る前に対策を取ることが最善だからです。そもそも価値基準・志が自称最善企業とは全く異なります。

出来ない言い訳を考えるか、出来る言い訳・改善点を考えるかの違いかも知れませんね。

絶対最善企業はどれでしょう?

アップルとソニー、トヨタとマツダ、Googleとヤフー、Amazonと楽天

お墓の意味は?

物事を突き詰めて考えてみる物事の意味を考えるですが、今回はお墓に関して考えてみました。

お墓の歴史

本来は亡骸を弔うためのものでした。
日本でも大昔は火葬せずそのまま土中に葬る土葬でした。
そして埋めた場所の目印の墓標を立てたのが始まりだと思います。
国土が狭く人口が増えたこともあり場所が足らなくなるため、豊富な木材を使って火葬するようになりました。昔は全ての骨が残らない程焼くことは困難でしたので遺骨が残りました。その骨を捨てるわけにもいかず埋葬する習慣が出来ました。
世界中を見回すと、遺体を鳥に食べてもらうことで空にかえるという鳥葬や川に遺体を流す水葬など様々な弔い方があります。
日本ではお墓を大切にする文化が根付き、先祖を敬うという価値観のためお墓参りが大切な行事となりました。また家を継ぐという事はお墓を継ぐという事にも通じ、墓を守ると言う言葉もあります。

現在のお墓の意味

現代では骨を残らず全て焼くことも可能なため、骨を拾うと言う儀式は形式的なものとなりました。
またお骨の炭素を使ってダイヤモンドを作ることも出来るため、必ずしもお墓に納める必要はないのではないかと思います。
お骨はお墓に収めないといけないと言う『常識』は、子供の頃から当たり前だと信じた思い込みに他なりません。
成仏出来ないと主張される方もおられるかも知れませんが、その方はそう信じていると言うだけのことです。
誰にもわかりません。
一時期はやった歌の歌詞でも、お墓の中にはいないそうです。
お墓が家族の負担になって、お金を払って他人にお参りしてもらうくらいなら、お墓はなくなってもよいのではないかと私は考えています。
極論すると火葬して残った遺骨の処理に困るので、止むを得ずお墓におさめているだけのことです。本人の遺志に沿う形で、遺族が納得できる他の方法があれば、それで良いと思います。
本人と遺族の問題であって、他人が口出しする問題ではないのです。
私の骨はダイヤモンドにして家族に持っていてもらえたら、お墓参りしてもらう手間が省けてよいと私は思っています。