新しい知識が物事の理解を深める

人間は先人の知恵を知識として活用し、様々なことの理解が深まります。

今となっては当たり前の常識もかつては誰も知りませんでした。
そして全てがわかっていると錯覚している人もいますが、実は今でもわからないことだらけです。例えば重力の発生する仕組みはわかっていません。万有引力も引力という考え方をすると理解が深まりはしますが、重力の発生する仕組みがわかってはいません。そのため人工的に重力を発生させることはできません。(遠心力とつかって重力の代わりの体験はすることができます。)

わかっていることは全てわかっているけれど、わからないことは何一つわからない状態なのです。例えば宇宙の果てはどうなっているのかは誰にもわかりません。かつて海の向こうがどうなっているのか知らなかったのと同じです。

人間は知識のおかげで世界を理解できる

先日記載した空気の話も空気の存在を当たり前に知っているから、空気の抵抗ということを知っています。息を吹きかければローソクの炎を消すことができるのも簡単に理解できるのも空気の知識があればこそです。風が吹くのも空気が動くから風が動くと理解できます。空気の知識がなければ感じたまま風ということはわかりますが、何故風が起こるのかは理解できません。理解できないから神の存在を思い浮かべ、神の仕業として理解しようとしたのです。

知識として教えてもらえなければ、地球が動いていることを自分で見つけるのはかなり困難です。その手間を省いてくれるのが先人の知恵です。地球が動いている地動説が正しく、地球の自転と公転を理解することで一日の変化や、季節の移り変わりを知ることができます。そのことを知識として習得するために学校教育を受けるのです。

人は知識がなければ目に見えるものですら何一つ理解できません。理解できなければ制御もできません意図的に自分の思い通りにすることはできないのです。人類は大昔から自然を観察し、わかったことを知識として蓄えていきました。その知識の蓄積のおかげで農耕が発達しました。その後の科学の発展も知識が解釈を深め、新たな理屈を発見していくのです。

人間は知識がなければ子孫すら残せない

当たり前だと考えている常識も実はかつて何らかの形で知識として仕入れたものです。それは学校での教育かもしれませんし、親から教えてもらったことかもしれません。もしくは本で読んだ知識かもしれません。
生まれつきもっている知識は人間にはありません。
本能として痛みを避ける。不快な状態を避ける。お腹がすく。食べ物をおいしく感じる。喉が渇く。などの本能が欲として備わっているだけです(実はこれらの本能以外の欲は人間関係で生み出した、幻の欲です。金銭欲や名誉欲、出世欲などは人間関係による自己満足が生み出す欲求です。また改めて記事として書きたいと思います)。
実は人間は子孫を残すことすら知識として後天的に習得するのです。男と女が子供の頃から育ち、誰も子孫を残す方法を教えなければ子孫を残すことができないのです。人間には知らないことを知りたい欲求が興味として湧くような仕組みがあるので、お年頃になると性的なことを知りたくなるようです。
本来は知識を授けないと人間は子孫を残すことができないのですから、性教育には大きな意味があるのです。そのことを認めずに性教育を施そうとするため、現場で混乱が起こるのです。知識不足から望まない妊娠で不幸に陥ることがあるのです。
インターネットでいくらでも性的な動画が手に入る今、性教育を見直す時期ではないかと私は思います。

人間は食べるものすら知識によって決めている

そして人間は食べ物さえも知識として改めて身に着けなければいけません。生まれつき食べ物が決まっている種族とは違うのです。例えば蝶やカブトムシのように食べるものが決まっているもの達は悩むことなく食べ物を探します。人間は食べるものが決まっていないおかげでなんでも食べることができるのです。その分知識をつけないと間違った食べ物で命を落とすこともあるのです。河豚などが典型です。他には食中毒なども知識で避けることができます。またキノコなどは毒を含むものが多いので注意が必要です。

もし無人島で突然一人ぼっちになれば、何が食べられて何が食べられないかこれまで蓄えた知識を総動員して食べ物を探すことになります。
覚えている食べられる食料が見つからなければ、食べられそうなものを見つけて食べてみるしかありません。味が悪くないかが一つの目安になります。美味しく感じれば食べることができるかもしれません(人間は栄養になるものを美味しく感じる仕組みが備わっています)。美味しく食べることができてもその後お腹を壊すかどうかも考える必要があります。例えば人間が消化できない脂を含む魚(沖縄のバラムツなど)も存在します。

これまで食べ物が決まった理由

人類は知識により食べ物を選んでいますが、自分たちで栽培や飼育するため食べるものを選ぶことができるようになりました。
そこで人間が美味しく感じるものを好んで食べるようになりました。
その結果が炭水化物に頼る食生活になりました。
大量に増やすことができ、保存が効き、安価で美味しいことが炭水化物が広まった理由です。

知識がなければ病気になる

細菌感染やウイルス感染という概念がなかった時代には感染症で命を落とすことも仕方のないことでした。
かつてビタミンという概念がなかった時代にビタミン不足で命を落としてしまいました。
誰にも知識がなかったのですから仕方がありません。
かつてビタミンB1の不足による病、脚気という病気がありました。
ビタミンB1は玄米には含まれているものです。美味しいからといってわざわざビタミンをそぎ落とし白米として食べることで発症しました。知識がある現代から振り返ってみれば、わざわざ病気を引き起こす食べ方をしていると考えることができますが、かつては誰にもわからないことでした。命を落とすこともあった病なので、今の知識から考えれば不幸なことでした。
知識さえあれば防ぐことができたのですから。

知識により病気を失くすことができる

糖質依存という知識

糖質依存というという考え方があります(少なくとも以前の私は診断基準を満たしていました)。糖質による依存状態に陥っているため食べる量の自己コントロールができず、糖質に騙されたかのように糖質を食べ過ぎることで肥満を生じています。ダイエットを試みてもなかなか成功しないのは糖質依存の禁断症状である強い空腹感に負けてしまうためです。そしてダイエットして食べる量を意識的に制限することで成功しても、リバウンドしてしまいます。何故ならダイエットは身体が飢餓状態と錯覚して、レプチンという物質により、より多く食べさせようと仕向けることでリバウンドしてしまうのです。

人によっては糖質による高血糖の繰り返しに膵臓が耐え切れなくなって2型糖尿病を発症します。理論上血糖値を上げる糖質を避けることで2型糖尿病は改善します。(2型糖尿病が薬なしで治りました

糖質依存に伴い塩分依存という考え方もあります。
甘味を感じる糖質の甘味を打ち消すために塩分を食べたくなります。
おにぎりに塩をしたくなるのも、ご飯におかずがほしくなるように、パンにバターがほしくなります。スイカに塩をかけて食べたくなるのと同じで糖質の甘味をうつけすために塩分を欲します。糖質依存に伴い塩分依存に陥っている人も多くいるようです。そのため塩分を控えることが難しく感じるのです。糖質依存を脱出すれば塩分依存も自然に解消されると思います。
つまり高血圧も改善する可能性があります。

糖質による害という知識

糖質依存という知識により、糖質を食べ過ぎてしまうことが容易に理解できるようになります。その結果糖質を避けることで糖質依存から抜け出し、糖質依存症ともいえる2型糖尿病や肥満を解消するきっかけになると思います。
自分のことながらいつの間にか食べ過ぎてしまう理由が糖質依存の考え方により理解できるので、対策がとれるようになるのではないかと思います。

糖質回避による病気の改善率から、アトピー性皮膚炎や花粉症などのアレルギーやニキビなども改善する可能性があります。
アトピー性皮膚炎や花粉症などのアレルギーやニキビや尋常性疣贅などの感染症が改善する理屈は、糖化産物により免疫機能のバランスが崩れて発症する仮説を立てています。
この仮説が正しいと仮定して、理解が深まるか試してみても良いのではないでしょうか?
仮説通り尋常性疣贅の患者さんもお一人改善しました。

新しい知識により解釈が深まることをご自身で実感してみてください。
少なくとも糖質依存の考え方で、太る理由、痩せられない理由、リバウンドする理由などが容易に解釈できるようになります。その証拠に糖質依存から抜け出せば禁断症状である強い空腹感はなくなります。

良かったら糖質回避教の入信をご検討ください。
こっち側(糖質回避)にこれるかもしれませんよ。

プレミアム付き商品券で混乱に思う

ある自治体が20%のプレミアム付き商品券を発売し、1人で600万円分購入した人が現れて問題になっています。300冊以上購入した人が16人もいたそうです。

妊婦さんや身体の不自由な方のために代理購入を認めたことが問題を誘発したようです。

問題の本質は

一言で言えばルール作りに隙があったということです。

何枚もの委任状を持って大量購入する人が現れたそうです。20%のプレミアムがあれば、10%や15%の手数料を差し引かれても金券ショップに売れば利益が出るので、それを目論んだ輩が大勢いただけのことです。

問題の原因は?

ルール作りをした人が、プレミアム付き商品券を転売することの想像がつかなかったのだと思います。金利と考えても破格の利率です。そして当初想定した妊婦さんや身体の不自由な方だけに、委任状による代理取得を限定すれば良かったのだと思います。とはいえ御自分でプレミアム付き商品券を購入に行けないのであれば、お店にも行けない可能性が高く、妊婦さんや身体の不自由な方向けの代理購入に余り意味は無いようにも思います。

今時民間では考えられないような隙のある制度でした。

今後はこのことを教訓に、各自治体が隙の無い改善策を考えるようになるといいですね。

人が欲しがる商品は転売でプレミアムがつくのでオークションに出品されます。増してやあらかじめプレミアムがつくのであれば、それを商売に結びつける輩がいてもおかしくはありません。ルールの中で隙をついただけのことです。

学び取ることとしては、少しでも得出来ると分かれば、様々な手を駆使する人達がいることを想定する必要があるということです。想像力を働かせないと、隙をつかれてしまいます。色々なルール作りって難しいですね。

今度ルール作りに関して書いてみます。

(追記)

ある信用金庫で委託されていた人気のプレミアム付き商品券を職員が事前購入していたそうです。

買う方も買う方なら売る方も売る方で、何でもありですね。

テレビはスポンサーと視聴率の色眼鏡

様々な情報が飛び交う現代ですが、情報が多過ぎて取捨選択(正しいものとそうでないものを選ぶこと)も一苦労するのが現実です。欲しい情報を取り出すプル型の情報取得にはインターネットが重宝しますが、使いこなすには自分の欲しい情報が理解できていることが前提です。つまりどの情報を仕入れるかを自分で検索しないといけないのです。その点情報を押し出してくれるブッシュ型の情報取得にはテレビが一番です。何かわからないけどとりあえずテレビを点けておけば、何らかの情報を配信してくれます。

昔からテレビが当たり前で育っていると、テレビで流れると嘘の訳がないから本当だと思い込む錯覚に陥ります。わざわざ嘘を流さないだろうという思い込みによるものです。

テレビ局の目的

テレビ局の目的が視聴者に正解な情報を伝えること。であればわざわざ嘘をつく必要はありませんし、嘘をついてはいけません。しかしヤラセが問題になったことからもわかる通り、テレビ局の目的は異なります。

テレビ局の目的は一言で言えばテレビ局の利益です。そして利益につながる目的はスポンサーの獲得と視聴率です。

つまりスポンサーの意向を汲み取り、視聴率を稼ぐことの出来る内容を放送するのです。

炭水化物摂取ダイエットの放送もスポンサーと視聴率のキーワードで読み解くことが出来ます。

最近私はテレビの放送を余り見なくなりました。何故ならいちいち本当かどうかを確認しながら頭の中で考えながら見る必要があるからです。テレビで放送されてはいるけど、スポンサーと視聴率を稼ぐための嘘か大袈裟な表現が含まれていないか考えながら見るのが無駄だからです。しかも大した内容もないのに時間枠を埋めないといけないので、テレビコマーシャル前に盛り上げて結果はテレビコマーシャルの後でというスタイルにウンザリです。私は全て録画して見ています。当然テレビコマーシャルを飛ばしてみています。

テレビの転換点

某インターネット検索会社のように、スポンサーの広告すらもお客さんのためになる情報提供と考えるテレビ局が現れて欲しいものです。

人が失言する理由とその対策

最近でも元首相が「たった2500億円くらい」という失言をして話題になっています。批判する人もいますが、批判してもあまり意味がありません。その理由を解説していきます。

失言する人には自覚がない

人が失言するのは何故でしょうか?それは本人には失言だとわからないからです。自分で言った言葉が違う受け取られ方をされるこのことが想像出来ないのです。この話は失言の本質を既に知っている人には当たり前の話ですし、まだ知らない人にとっては意味不明だと思います。あれだけのことを言っておきながら、失言した本人が失言だとわからないことが理解できないことでしょう。失言した本人にとっては、失言でも何でもないのです。本気で思っているのですから。そして意図していない受け取られ方をするのは、想像すらしていない話で、失言は誤解だと思っているのです。

失言した本人は、失言だと追求されても失言とされる理由がわからず、頭の中はハテナマークばかりで混乱しています。変わったことを言ったつもりはなく、失言とされたこと自体が、失言した人にとっての常識の枠の外の話なので、全く理解できません。どうして失言と言われるのか、世間一般の受け取り方とのズレについて懇切丁寧に誰かに解説してもらわない限り理解できないのです。

失言の原因は話し手と聞き手の感覚の違い

元首相の『たった2500億円』発言の問題点は、庶民にとっては巨額なお金・税金を『たった』と表現していることです。言葉の裏には税金の何十兆円もの使い道を決めているうちの『たった』2500億円というつもりだったのでしょう。

ただ庶民にはそんな感覚は当然ありませんから、人々の払った税金を『たった』と言われたことに怒りを覚えるのです。世間一般の受け取り方の観点が欠落しているのはもちろんですが、自分の言葉が人にどのように受け取られるかを考えて説明する感覚が欠落しているのだと思います。それなら『たったとおっしゃるその度量感服いたします。ということは元首相個人で出してもらえるんですね?』と記者が詰め寄れば元首相も固まったと思います。

税金は自分達が使い道を考えてやっているくらいの錯覚に陥っているのでしょう。

税金何十兆円のうちの『たった2500億円』という感覚と、庶民の生活費が年間数百万円でその一万年分もの金額という感覚とのズレ・ギャップが原因です。元首相の発言をテレビを通して聞く人は庶民なのですから、当然聞く人の感覚で話すことが求められると聞く側の人は思います。失言を繰り返す人には聞く人の感覚が欠落していますので、このことに気付くか口を閉じない限り何度でも失言を繰り返すのです。

失言を繰り返す人

失言を繰り返す人はそんなつもりで言ったわけではなかったから誤解だと言い訳をします(言い訳人間)。言い訳をする人は絶対に成長出来ないので、生暖かい目(諦めて、また失言するのが前提ということ)で見守ってあげて下さい。

失言する人の特徴の一つに自分が正しいと思い込んでいる節があります。正しいと思い込んでいるので、自分の言ったことが正しく、自分の意図と違う解釈をした人が悪いと思っているのです。そのため謝罪会見をしたとしても釈明会見、むしろ言い訳会見となりすっきりしません。自分は悪くないのに誤解されたから仕方なく会見を開いている。自分は悪くないから、悪くないことを少しでもわかってもらうために説明するのです。それが言い訳と受け取られるので逆効果だと理解する客観性も欠落しているようです。謝罪会見で言い訳をしているのを見ると、憐れにすら感じてしまいます。

誰かが教えてあげない限り、次の失言をすると思いますから、生暖かい目で見守ってあげましょう。

失言しない対策

政治家ほど大事にならないとしても失言はだれにでもあり得ます。意図していない受け取られ方をして戸惑うような場面です。友達同士なら笑い話かも知れませんが、ビジネスの場面やそれ程親しくない人との会話で失言と受け取られると取り返しがつかないかも知れません。

そんなことにならないように、日頃から気をつけておくことが大切です。

一番は聞き手の方々の感覚を身につけることです。話す前に客観的にどのように受け取られるかを想定することが出来れば、その想定自体が的はずれでは無い限り致命的な失言は避けることが出来ます。

聞き手の感覚と客観性を身につけるということは、似たようなことですがこれら二つに気をつけることが大切です。

失言を繰り返す人達に誰かこのことを伝えてあげて下さい。

もしよかったら失言から日頃考えていることがわかる大臣の失言・辞任に思うもご参照ください

巻き爪ロボ VHOを超えた画期的巻き爪治療

巻き爪の画期的治療法が出ました。
これまではVHOが一番合理的だと思っておりましたが、自分で手軽に自宅で出来る点で画期的だと思います。
多少の工夫はできたとしても理論上これより合理的な治療法はなさそうです。
通院の必要がなく自宅でできるのも画期的です。

 

ワイヤーで巻き上げるVHO式の治療法は巻き上げたまま固定して何か月かかかっていましたが、この治療法はお湯でふやかして形を速やかに矯正してしまうことが画期的です。
ワイヤー治療では治療をしていても再発することがあり、再発する度に通院する必要がありました。
この巻き爪ロボでは自宅で手軽に何度でも治療をすることができるため画期的だと思います。
VHO式の治療費と比較しても割安です。
恐らくこの巻き爪ロボが広まれば、VHOや他のワイヤー式の巻き爪治療法は淘汰されると思います。

巻き爪ロボAとBの違いは、巻き爪の爪の巻き方が左右対称か非対称かです。
左右対称な巻き方だと巻き爪ロボAがおすすめです。爪の巻き方が内側に強く偏って巻いている場合は巻き爪ロボBがおすすめです。

 

学校の勉強が面白くなかった理由

私は学校の勉強が面白くなかった理由を考えてみました。

正直学校の勉強は嫌いでした。何故なら意味・目的を教えてくれずに授業がいきなり始まるからです。知らないことを知る楽しみは確かにありますが、教科書に書いてあることを授業で説明する目的がわからないからです。

目的が教えてもらえないまま授業が始まり、テストが行われます。あたかもテストで理解度をはかるために授業をしているかの印象でした。

今振り返ってみても、教育の目的が生徒の理解ではなく、生徒を評価することではないかと考えてしまいます。

学校の勉強本来の目的は知らないことを知る楽しみ・喜びを教えることだと思います。残念ながら私の巡り合った生徒の中で、知る楽しみ・喜びを教えてくれた先生は数える程でした。

学校の授業は時間が限られるので仕方ないのだとは思いますが、知らないことを知る楽しみ・喜びを教えてくれると楽しくなると思います。

具体的に理科の実験で考えてみます。今では常識であることも実験で確認するまではわからなかったことが多々あります。理科の実験は科学の確認作業の感覚ですが、当時の科学者の苦労と共に伝えると目的が明確になり理解も深まると思います。

算数で言えば、足し算引き算掛け算は買い物という日常生活に役立つます。数学が発展するまでは言葉で論理的思考をトレーニングしていました。数学が一般的になると物事を論理的に考えるトレーニングに便利で、理解出来ているか出来ていないかの確認が容易なので重宝されています。残念ながら、本来論理的思考力を養う学問のはずですが、問題を解くことが目的になっています。本来の目的から外れ、解き方を暗記して試験を乗り切るのは残念なことです。

これも本来の数学の目的である論理的思考力を養うという目的を伝えることなく、授業が進められていることに起因すると思います。

国語や社会や英語にも勉強の目的があるはずですが、少なくとも私はその目的をはっきり教えてもらったことはありません。

教育改革はまず各科目の学ぶ目的を明確にすることから始めると良いと私は思います。

結果論と経過論

結果論という結果が全てという考え方に対して、途中経過に重点を置いて考える経過論という考え方が、あります。

結果論

結果論は結果が良ければ正解で途中経過は関係ないという考え方です。結果だけが求められ、途中経過はいくら努力をしても考慮されないため、対応がいい加減になりがちです。

本来の目的に反してスポーツに結果論を持ち込むと、悲惨な現実が待っています。スポーツ本来の目的は競い合うことで全力を出し切ることですから、試合に備えて準備をし、試合で全てを尽くすことができればよいのです。スポーツにおいて結果論を持ち込むと、負けはそれまでの努力を否定してしまうことに繋がります。

本来スポーツは全力を出し切るために競い合うだけで、勝つために競う訳ではありません。勝ち負けは全力を出し切るための手段です。結果論ではその手段のはずの勝ち負けにこだわるようになってしまうため、考え方が本来の目的から歪んでしまいます。

特にお金が絡むと勝ち負けが目的の結果論に陥りがちです。

経過論

経過論とは途中経過こそが大切で、結果は様々な要因が重ね合わさった偶然の産物でしかないという考え方です。

途中経過でどれだけ用意周到な準備をしているかを課題とします。結果論では成功すれば、用意周到な準備は無駄なこととして切り捨ててしまいますが、経過論では結果的に無駄になるかもしれない、この用意周到な準備にこそ価値を見出し出します。

経過論では、途中で問題になりそうなことは極力避けるか、問題に備えて準備しておきます。経過論では結果が最善になるように、不測の事態にも備え、できる準備は全てすることです。何故なら経過論では結果が最善になるように、途中経過で最善を考えておく考え方です。結果が問題でさなく、経過こそが問題だと捉えるのです。二つの最善の考え方で結果論は結果さえ良ければ途中経過は問わない自称最善で、経過論は絶えず最善の絶対最善のように思います。

例え失敗したとしても、経過論で物事は考えたいと私は思います。

日本製品が高い理由を以前書きましたが、結果論の他国の製品とは異なり、安全な経過にも拘る経過論で日本製品は作られているからだと思います。

起こらない事故に備えるのは無駄と考える結果論か、事故が起こらないように備える経過論か、どちらが優れているか考えてみて下さい。

物事は最悪から考える

物事を考える場合、都合のよいことを考えがちですが、まず最悪を考える考え方を身につけましょう。
そうすることにより、最悪に対して備えることができます。
常に想定しうる最悪を考えておくと、実際に遭遇した場合にも慌てることが少なくなります。ましてや最悪よりもましな状況ならその対処も、最悪よりは容易です。
ほぼ確実に起こらないだろう!という阿蘇山の破滅的噴火が起こるとどうする!くらいを想定する。(ちなみに阿蘇山が何十万年に起こすという破滅的噴火を最悪に想定しています。九州北部は壊滅で呉でも助からないそうですので、可能性も非常に低いので想定をやめました。)
そこから、それよりはましだけど○○だとどうする?
などを想定していくように考えます。

この場合確率が低ければ、じっくり考える必要はありません。心構え程度で構いません。
しかしこの心構えをするかしないかで、実際に起こった場合には生死を分けることがあり得ます。
ただ非常に確率の低いことをウジウジ考えてもあまり意味がありません。ざっくり思い浮かべる程度に想定するだけでよいと思います。
ここから最悪の枠を起こりそうな確率のものへ絞っていく作業が大切です。阿蘇山の壊滅的な噴火は起こってしまえば対策のとりようがないので、そんなことを想定しても残念ながら無意味です。対策が出来る範囲で想定しうる最悪を考えるということです。
その場合には、実際最悪の場面に遭遇したら、どうするかを想定しながら考えていくようにします。

うまくいけばこうなるという楽観的に考えることは、余程暇ならば考えても構いませんが後回しで十分です。

最悪を想定して行動する癖があるのとないのでは、トラブルの生じた際の対応が全く異なります。
全く想定していないと頭が真っ白になってしまい、その時点から考え始めるので速やかな対応が出来ないのです。
原発しかり、船の沈没しかり・・・。

デッドラインを想定しておく

最悪この線を越えると不可逆的(元に戻せない)だから、こうしないと仕方がないということだけは想定しておくと良いと思います。
こういう物事の考え方は物事の境界を明確に区別するデジタル思考が有効です。
原発なら冷却できなければ海水注入(実は素人が考えても、仕組みを知っていれば選択しが無かったことはすぐにわかります)
船なら、傾いたまま復元しなければ沈没?(少なくとも航行不能。船は乗り換える必要があります。デッキにでましょう)

本来なら責任者がこの最悪のデッドラインは想定するべきなんですけど・・。
残念ながら今は最悪を想定できない人が世の中を動かしているようです。
今のところ他人は信じられそうにないので、様々な立場・状況がありますが、常に最悪を自分で想定しておくようにしましょう。

ちなみに私は、日本の災害で起こる可能性の高い最悪の事態は
・東海東南海連動地震とそれに伴う大津波、その後の富士山の爆発です。

時期はともかく私が生きている間に必ず起こると思っています。
富士山が噴火し風下にあたる東京に首都機能が集中しているのは危険極まりないと思います。
津波が大阪などの低地を広範囲に襲ってしまうことも含めて考えれば、大阪への分散は同時に水没する可能性があるためバックアップになりません。
合理的に考えれば岡山の山の中あるいは岐阜県あたりに首都機能を移転できるようにバックアップしておくべきだと思います。
飛行場と新幹線がすぐ近くに交わる広島空港近辺に首都機能移転も一つの選択枝だと思います。

首都機能のバックアップしないのは・・・。お気楽主義か利権が絡むからか・・・。
関東は地理的に平地が多いという利点はあるものの、想定される自然災害に弱い東京に首都をおいておく意味はあまりないと思います。
ちなみに富士山が爆発すると首都機能は少なくとも数週間に渡ってマヒします。火山灰が降り積もり、雨によりショートしてあちこちで停電してしまいます。
(東海・東南海地震が起こるとマグマの圧力の兼ね合いから、地震に引き続いて富士山は多分爆発します。)

最悪を考えても実際にどこまで備えるかは、起こる確率と想定される被害などから考えると良いと思います。

最悪から考える思考法。良かったらそんな観点から物事を考えてみて下さい。

今回は極端な最悪を書きましたが、日頃の考え方も伝えてみたいと思います。

箱根 噴火だが噴火とよばずって誰のため?

箱根では噴火したのですが不安を避けるために噴火と言わないそうです。

誰のために噴火を噴火とは言わないのでしょうか?

周囲の住民の不安を煽ることを避けるためと説明しているようですが、情報を正確に伝えず歪めて伝える方が余程不安になるのではないでしょうか?福島原発の爆発の際、『爆発的事象』と言葉遊びをしていたことを思い出します。

イメージとか風評被害とかを心配しての噴火という言葉を避けたように思います。

余計な不安を煽る必要はありませんが、正確な情報を伝えることが大切です。正確な情報を意図して歪めて伝えることが人々の判断を誤らせ、結果的に間違った決断に誘導してしまいます。正確な情報が伝わらなかった戦時中を思い浮かべれば、正確な情報の大切さは良くわかると思います。

正確な情報を受け取り、それを不安に思うか対策に活かすかは聞いた人次第です。情報を歪めるのは、情報を流す人が聞いた人の不安を口実に、何かを隠そうとしているだけのことです。

最大の不安は間違いなく正確な情報を伝えてもらえないことなのですから、余計な不安を与えないために噴火という言葉を使わないのは詭弁です。言葉の選択は住民のためではなく、他の人達の思惑で行われています。

まずは住民の安全を目的としま言葉の選択をするべきだと私は思います。そして住民が不安に感じるのであれば、不安を解消できる更なる情報を提供するのが本来の姿ではないでしょうか?

言葉を濁すことが、生死に関わる住民のためになるとは思えません。21世紀なんですけど、意識の上ではまだ情報統制できる時代に頭が取り残されている人達がいるようです。

 

 

学校の授業はいつまでするの?

ふと思いついたことがあります。
素朴な疑問です。

なぜ学校では未だライブで授業をしているんでしょうか?

そしていつまで生身の人間の授業をするのでしょうか?100年後に今のスタイルで授業しているとは思えません。それならばいつまで今のスタイルで授業を行うのでしょうか?すんなことを考えてみました。

先生が授業をする意味

生身の人間ですから教え方が上手な先生、下手な先生など様々です。

説明の上手な先生のビデオを流す方がよほど有意義だと私は思うんですが、生身の人間が説明しなければならない理由が何かあるんでしょうか?
確かに生身の人間が授業をするなら、その場の理解度を読み取り、説明の仕方を変えるということができます。生徒の反応で授業を変えることのできる先生は、恐らく生身の人間の方が子供達の理解度が高いと思います。しかし先生の授業スキルによっては、生徒の反応に関わらず同じような授業をしていることも多いのではないでしょうか?

子供達の反応によって授業内容を変えることのできる先生は、何年経っても残すべきかも知れません。子供達の反応によって授業内容を変更しないのであればビデオと変わらないのかも知れません。

試験導入してみる

これだけ技術が進歩したのですから、まずはお試しで良いので、録画を活用した授業を導入するべきだと私は思います。
小学生ならどの授業でもインターネットを活用し家でも見放題とか。
30分に授業を集約して、残りを個別『質問』時間とすると有意義だと私は思います。

導入しない理由

何故しないのでしょうか?
先生の仕事を奪い、失業が増えることを恐れているからかも知れません。それともただ単に新しいことを取り入れたくないだけで、反対しているのかも知れません。

先生方の仕事を奪うわけではなく、先生達の余裕を生み出すための工夫だと認識してもらえれば前に向いて進めると私は思います。

教育の目的

教育の目的は子供達の学力向上です。知識を身につけさせることで考える癖をつけ、人に騙されない知恵をつけることです。最終的には教育で得た知識と知恵を使って国を維持し、繁栄させることです。

雇用確保はおまけでしかありません。これまで生身の人間が直接教える以外に選択肢が無かったので当たり前に教えてきただけです。
もし子供達への最適な教育方法がタブレットによる自学自習だと判明しても、先生達の雇用確保のために今の授業スタイルを維持するのはおかしな話です。最適な方法ではなく、先生達の雇用確保のために次善の策として授業スタイルを維持し、子供達が犠牲になるのはおかしな話です(実際には最適な教育方法は子供達によっても違いますし、もし判明するとしても何十年も先になると思います)

家でもスマホやタブレットで上手な先生の授業を見ることができれば、塾の必要性もかなり薄らぐと思います。
直接指示されないと勉強出来ないお子さんは、引き続き塾に通うことになりますが、自分でわからない授業を探すことの出来るお子さんには塾が必要なくなります。

学校だけでなく、塾業界も含めた教育革命とも言える大変革になると思います。

学校で見せる動画もYouTubeで掲載し、家でも見ることが出来る体制を整え、広告収入は出演した先生に支払われる仕組みも面白いですね。