人類が一夫一婦制を採用している理由

多少の例外はありますが、人類の多くは一夫一婦制を導入しています。

人間のやることには必ず理由があるはずです。
長年受け継がれてきた風習ですから何か合理的な理由があるはずです。

不思議に思っていましたがヒントになる記事を日経サイエンスでみつけました。
(参考文献:日経サイエンス2014年12月号 一夫一妻になったわけ)

700万年以上前に大型類人猿と人類の祖先であるホミニンが共通祖先から分かれた際に3つの革新的な変化が起こったそうです。

  • 二足歩行により食物を運ぶことができるようになった
  • ペアボンド(一夫一婦制)を採用するようになった
  • メスの排卵を知らせる外部シグナルがなくなった

食物を運ぶことができるようになったことで、オスは美味しい食材をメスに差し出すことで求愛をしたそうです。
それまでのメスの奪い合いに費やした労力を、オスはできるだけ広い範囲を効率よく探し回り貴重な食材を獲得することに振り分けました。
メスは強い戦士よりもより魅力的な食材を確保するをパートナーとして選ぶことにつながったそうです。
一夫一婦制を取り入れるにあたり、それまで存在していたメスの発情期をなくしたそうです。発情期があるとパートナーとして選んだオス以外を引き付けてしまうため、無駄な争いを避ける目的で発情期をなくしたようです。

一夫一婦制の期限の3つの仮説

  • メスのまばらな分布説
    メス同士が離れて暮らしていると複数のメスをパートナーとして選ぶのは困難となる
    魅力的なエサをオスに要求する種に見られる傾向がある
    人類は社会性を構築する種族でメス同士が離れて暮らすとは考えにくく、人類以外の動物ではよくあてはまる
  • 子殺し回避説
    強いオスに戦いを挑んで勝利したオスは、自分の子孫を残すために元のオスの子供を殺す
    子供を殺すことを避けるために、自分と自分の子供を守ってくれるオスを選ぶ
  • 父親による子の世話説
    子育てに父親が参加することで、子供の生存率が高まるほか、母親との絆もより深まる
    子供を抱いて運ぶだけで、授乳に匹敵するエネルギーが必要なため、父親が運んでくれるだけで母親には助けになった

統計的な解析では霊長類との比較では子殺し回避説がやや有意な可能性があり、別の統計では父親による子の世話説は最も可能性が低いと判定されたそうです。
学術的には最終見解はまだ出ていないようです。

私の考える一夫一婦制になった理由

か弱いメスが一匹で存在していたとは考えにくいと思います。
もしメスが一匹だけで存在すればオスは力ずくでわが物にすると思いますから、不用心な一匹で過ごすのは考えにくいと思います。一匹で過ごしていれば言語もふ発達しなかったと思いますから、否定的だと思います。

子殺し回避説は確かに一理あります。一夫一婦制を導入すれば子殺しは避けることができます。何故なら子供を守るために他のオスと父親が争う場合、母親も争いに参加することで2対1で子供を守ることができるのです。
サルをはじめとした他の動物ではオス対オスですが、一夫一婦制を導入した人類の祖先は二人で一組で家族としての絆で他のオスに対応することで勝負にならず、無駄な争いを避けることができたと考えられます。

父親による子の世話説。
私は懐疑的です。子供を抱いて世話をするよりも、母親がほしいのは子供がある程度まで育つ間の食料です。一緒に食料探しに移動するために子供を抱っこして父親に世話してもらうよりも、美味しい食材を探してもってきてくれる方が母親としてはありがたいはずです。先述した子殺し回避のためには母親の近くにいなければなりませんが、基本的には父親は食材探しだと私は思います。
人類は赤ちゃんが他の動物に比較して圧倒的に未熟な状態で生まれます。何故なら他の動物と同程度まで母親の胎内で育ってしまうと産道を通り抜けることができないからです。首がすわらない状態で生まれるのはそのためです。首が座るまでは母親は赤ちゃんを抱っこしたまま動くことができません。合理的に考えれば母親も出産で体力を消耗し授乳もするので、食料を父親と一緒に探し回るよりも、食料を確保してきてもらうことを望むはずです。少なくとも赤ちゃんの首が座るまでは移動は避けたいはずです。

人類は出産後の子育てに労力があまりにかかるため、夫婦二人で子育てに当たり役割分担したことが考えられます。夫婦二人で子育てすると有利になるというよりは、子供が小さいうちは母親だけでは安全には子育てができなかったのではないでしょうか?
このあたりに一夫一婦制になった合理的な理由がありそうです。

そして一夫一婦制では一度パートナーを決めると次のパートナー選びという作業が必要なくなるため、子育てに専念できるというメリットがあります。
ゴリラなどの一夫多妻制では維持するのに多大な労力を使いますし、新たにボスの座を獲得するのに多大な労力を必要とするのと対照的です。一夫一婦制はより多くの個人が安全に子孫を残せる合理的な仕組みだったことが考えられます。ボノボのような乱交型だと、子育ての際に食料を運んでくれない可能性があるため子育てに多大な労力を要する人類にとってはパートナーを決めるということに大きな意味があるようです。

人類の進化の歴史で培った一夫一婦制の意味は、赤ちゃんが他の動物と比べて非常に未熟な状態で生まれることに由来すると思います。子育てを二人で行わないと安全に育てることができないことから、発達したのだと私は思います。

子孫を安全に残すために一人のパートナーを決めることに意味があるのです。
ちなみに通常は一夫多妻のお猿さんですが、メスザルがボス以外の若いサルを誘惑して浮気することもあるようです。

人類でもたまに浮気してしまう人が存在するのは先祖返りの一種なのかもしれません。

誤解・勘違いは誰のせい?

誤解・勘違いは誰にでもあることです。誤解・勘違いの原因は思い込みや言葉・表現の曖昧さによる認識の齟齬です。

誤解・勘違いは誰が悪く誰の責任なのでしょうか?

誤解・勘違いは改善を

私は誤解・勘違いは誰も悪くありません。ただし誤解・勘違いをさせた原因を作り出した人が配慮不足を反省して今後の対策を考えるべきだと思います。話し方や表現の仕方の曖昧さを無くす努力をするべきだと思います。相手は混乱しますし、自分も本来の意図とは異なる解釈をされては損だからです。

誤解・勘違いは笑うこと

誤解・勘違いで嫌な思いをすることもあるとは思いますが、悪気があるわけでも意図的にしたことで怒っても意味がないことです。配慮が足らないことを指摘することで今後同じことを無くす意味はあっても、怒ったところで解決には至りませんし、お互いが嫌な思いをして終わりです。

誤解・勘違いは笑うことであって怒ることではありません。笑って改善策を相談しましょう。

企業の場合

現在様々な表現があります。紛らわしい表現もあちこちで見かけます。

言葉の揺れにより、2通りの解釈が出来る表現もよくあります。表現している人は一つの解釈しか出来ないと完全に思い込んでいることが多いため、二つの解釈が出来ることを想定すらしていません。二つの解釈が出来ることを指摘しても、直そうとしない場合も良くあります。二つの解釈をする方が悪いと受け取れる対応です。

企業がこのような対応だと、お客様目線か企業目線かが良くわかります。誤解・勘違いはお互い損なので曖昧な表現は改める方が良いと思います。

勘違いしてもらった方が利益につながると、勘違いされかねないことでも違法でもない限り放置してしまうようです。

利益は企業の為ならずとは真逆の、利益追求企業そのものです。

まだ誤解・勘違いで利益を上げても意味が無いことに気付いていないのは残念なことです。

人類が言葉を獲得した理由

人類は言葉を獲得したことで急速に進化しました。

ネアンデルタール人も言葉を使ったかも知れませんが、ここまで複雑な意思の疎通は無理だったようです。そして環境に適応し切れず絶滅してしまいました。

人類が言葉を獲得した目的

人類の進化の歴史において狩りをしていたのは確かなようです。化石や石器からもわかりますし、他の霊長類と比較して肩関節が物を投げることに適した可動域を持つのがその証拠のようです。イルカやクジラでも集団で狩りをするので、恐らく人類の祖先も集団で狩りをしていたことが考えられます。

言葉を獲得した目的

人類は必要に迫られて言葉を獲得したのではないでしょうか?動物でも行う狩りの合図は鳴き声一つで問題ありません。複雑な言葉をどのように使ったのでしょうか?当時の人類にとって大切なことは食料の確保と外敵からの身の安全です。

一説によると狩りの反省や改善点の相談に活用されたそうです。言葉を活用することで狩りの精度が増したため、人類は生き延びることが出来たそうです。

元々言葉は反省する・改善点を探すために獲得したと考えると、非を認めて反省できない言い訳人間はお猿さんに近い先祖がえりなのかも知れませんね。

人類は言葉を使って改善点を探すことで発展出来た

人類は言葉を使うことで様々な改善点を話し合うことが出来た。その結果このような人類の飛躍的な発展が出来た。もし人類が言葉を獲得していなければ、まだ石器を使っているのかもしれないと考えると非常に面白いですね。

天動説型思考と地動説型思考

以前はアナログ思考とデジタル思考という思考の仕方の分類をしてみました。今回は自分の立ち位置、立場を認識の仕方から2種類に分類してみました。

天動説型思考

天動説型思考とは主観的に物事を捉えることしか出来ず、客観的に物事を考える能力が欠落している。全ての物事が自分中心で回っていなければ気がすまないわけでなく、自分中心で回っていると信じて疑わない考え方のことです。一言で言うと自己中心的な考え方の持ち主です。

本人に悪気があるわけではなく、他の物事のとらえ方があることを知らないのです。かつての人類が天動説以外を知らなかったようなものです。

自分中心と完全に思い込んでしまうと、自分が望むことは全て他の人が叶えてくれると信じて疑いません。小さな子供の多くは天動説型思考をしていますが、周りが思い通り動かないことを少しずつ受け入れ、地動説型思考に意向していくことが多いと思います。

地動説型思考

地動説型思考とは天動説型思考とは対照的に、物事を客観的に捉えることができ、バランス感覚に優れます。物事を俯瞰(鳥の目から見るように全体を眺めること)して捉えることができるため、誤解が少なく正確にとらえることができます。人の立場に立って物事を考えることが出来るため、折り合いのつく方法を探し出すことが出来ます。

多くの子供は天動説型思考をしていますが、成長と共に周りが思い通り動くわけではないことを受け入れて地動説型思考に意向します。他人の立場に立って考える、他人がどのように感じるかを考えることで地動説型思考を出来るように進化していくようです。

天動説型思考と地動説型思考の関係

天動説型思考をする人は地動説型思考をする人のことが全く理解できません。そもそも概念がないため、理解しようがないのです。地動説型思考の人は天動説型思考の考え方も理解できる場合がありますが、天動説型思考の考え方の度がこえていれば相容れない関係となってしまいます。

天動説型思考と地動説型思考の見分け方

何か望みがある場合、自分が動くことを考えるか、誰かがしてくれることを考えるかのどちらかです。自分が動くことを考えるのであれば地動説型思考、誰かがしてくれるのを待つのは天動説型思考だと思います。

対策

天動説と地動説では地動説が正しいようです。思考法でも人が動くのを期待するよりも自分が動くことを考える方が健全です。天動説型思考をしている人は、少しでも早く地動説型思考に意向するように頭を切り替える方がお得だと思います。

頭の切り替えにはアドラーの心理学がオススメです。

水イボ(伝染性軟属腫)摘除は虐待では?

水イボ(伝染性軟属腫)とは?

水イボ(伝染性軟属腫)とはウイルスの感染によって生じる良性の腫瘍です。
免疫機能の未熟な乳児や小児にうつることが多い疾患です。(まれに大人にも感染します)
免疫機能が成熟した時点でウイルスを追い出すことができるようです。
個人差はありますが数か月から1・2年で自然治癒します。

これまでの治療法

これまでの治療の主流はピンセットでつまんで摘除(取り除くこと)するものでした。

以前から合理主義の欧米では自然治癒するものをわざわざ摘除はしないそうです。
日本では人にうつるものを放置することを忌み嫌う風習があるため、摘除が行われていました。

プールでうつるということで水イボがあるとプールに入らせてもらえないため、子供も仕方なく泣く泣く摘除を受け入れていました。

プールに入るために水イボを摘除する意味は無くなりました。

2013年5月に日本皮膚科学会・日本小児感染症学会・日本臨床皮膚科医会が統一見解を出しました。プールの水の中でうつるわけではないので、プールに入っても構いませんという見解が出ました。

プールに入るために水いぼを摘除する意味は無くなりました。

幼稚園、保育園、水泳教室によっては水いぼを取らなければならないとするルールを決めているようです。病気のことに関して医師の集まりの見解を取り入れないのであれば、ルールを決められた先生は親ではなく子供が納得できる説明が必要だと思います。

水いぼの摘除は虐待では?

あくまでも一つの考え方ですが、患者さん本人の希望を一番に考えれば誰も摘除しなくなると思います。

  • 放置しても治癒する(治る)
  • 本人は摘除を希望していない

放置しても治るもので本人が希望していないのに無理やり摘除するのは、私には虐待と区別がつきません。

摘除する目的が私にはわかりません。
目的として考えられるのは他人への感染予防、治る治療があるのに治療しないことに抵抗があるだと思いますが、元々誰かから感染したのですからお互い様です。そして摘除したとしても、何度でもうつるので免疫力がつくまで何度でもかかります。取らない方針のお子さんが一人でもおられれば何度も繰り返すことになるので、自分だけ摘除しても無意味です。

放置しても良いものを、本人は希望していないにも関わらず、他人の都合で痛い思いを強いるのは虐待とどう違うのか私にはわかりません。
どうしても取ることを求められれば虐待を疑って通報することも考えなければいけないのではないかと思います。(今のところ水イボの摘除に関連して通報したことはありません。)

誰のためのプール禁止でしょうか?

ましてや幼稚園、保育園、水泳教室が治療しないとプールに入らせないとするのは、先生による虐待の可能性があると思いますので、通報することを考えられてはいかがでしょうか?
疑いで通報しても構わないはずです。虐待での通報も含めて幼稚園、保育園、水泳教室で相談されれば、プールに入らせないということはなくなると思います。

感染に伴う差別では?

ちなみにプールのときだけ感染するわけではありません。先生の目につくからプールが禁止になっただけだと思います。感染していない保護者から指摘されることを避けるために隔離を求めるのは、根拠に乏しいため区別とは言えず差別に近い対応ではないかと心配します。水イボでプールだけを禁止されるのは感染に伴う差別なのか区別なのか私にはわかりません。

そして同じ感染症である手足口病は症状があってもそのまま通園通学が許されています。何故なら治療法がないからです。感染はしますが治療法がないからです。
水イボは治療法があるだけに取らなければならないとされてきました。
治療法があっても虐待と区別できないから取らない時代が来ると思います。
自然治癒するのだから取らないという選択肢も本人が選ぶことができるべきだと思います。

本人が取ってほしいと希望するならとっても良いとは思います。
あくまでも本人の判断ができない年齢は取らずに様子をみるべきではないでしょうか?

親が見た目が気持ち悪いから取ってほしいというのは虐待そのものではないでしょうか?
子供のためではなく、親が気持ち悪い思いをしたくないから取ってほしいという目的を考えると、私には虐待と区別がつきません。

近い将来子供の頃には水イボがあるのが当たり前の世の中に

子供の頃には水イボがあるのが当たり前の世の中になると思います。
まだ水イボがあるんだね。もう水イボがなくなったね。という時代がくると思います。

何故なら近い将来『虐待との区別』が問題になることで、取る先生の考えが書き換わると思うからです。まだ水イボを取る先生と取らない先生が混在して混乱しているだけのことです。
自然治癒し本人が希望しなくても医師が摘除することは決して違法ではありません(ちなみに看護師が摘除することは違法とみなされるかもしれません)が、虐待との区別が議論されることになれば状況は一変します。
それでも摘除を貫く先生がおられるとは私には思えません。

水イボ摘除をされている先生へ

今でも水イボを取る方針の先生は看護師さんが取っておられる可能性が高いと思います。
もし先生ご自身で取られるとしたら水イボを取る最後の医師になってまで取られますか?
その時には水イボを取ってほしいお子さんたちが遠方からも集まってしまうかもしれませんが、それでも最後の一人になってまで取られますか?
そしてとってもとっても取らない方針のお子さんから何度もうつされても、最後まで取りつづけられますか?
いずれは数が多すぎて諦める時が来るなら、このサイトを見られた時点から取らない方針にされてはいかがでしょうか?

もしかしたら患者さん自身が取らなくて良いと理解されて通院されなくなる方が先かもしれませんがご一考いただけますと幸いです。

注意点

私は『虐待』や『差別』を指摘して加害者や被害者を作り出したいわけではありません。
できるだけ早く水イボは取らない世の中になるように考えてもらうきっかけを作るために、あえて『虐待』『差別』という言葉を選択しました。

自然治癒・本人は嫌→虐待?
根拠なし・プール隔離→差別?
もしかして?と思いもしなかったことを考えていただくきっかけを作る目的と、水イボのお子さんが少しでも嫌な思いをしないようにする目的でこのような書き方をしました。
不快な思いをされる方もおられるかもしれませんが、このような書き方の目的はお子さんのためですのでお許しください。

新国立競技場は何故今更問題か?

新国立競技場が何故今更問題なのか?呉からの風が考えた戯言のような考えです。

次々問題が発覚するのを見て思います。誰か確信犯がいるということです。オリンピックに向けて対外的に作らない訳にいかないので、確信犯が時間切れを狙ってグズグズしているのではないかと思います。

そして確信犯が代替案を提示する時間切れを待っていたため、今までは話題にならなかった(話題にしなかった)。時間切れになったため、結局認めるしかないことを公表したのではないでしょうか?。

済し崩し的に作る方針を受け入れるしかないことを公表したように思います。

何故なら見直すには既にギリギリ時間切れのタイミングだと報道されているからです。見直すことの出来る時に騒ぎになると、本当に見直すことになるので、見つからないようにしていたのではないかと疑ってしまいます。

さすがにそこまで腐ってはいないと思いたいのですが、このタイミングで騒ぎになると何か裏がありそうに思います

結果的にはこのまま作らざるを得ないタイムリミットをこえたので、確信犯の作戦勝ちなのでしょうか?

そんな見栄をはる必要は今の日本にはないと思うのですがいかがでしょうか?

結果論の欠点

結果論とは結果が全てという考え方です。

極論すると一か八かの勝負・賭けをして勝った人が一番という考え方ですから、再現性がなく偶然でも結果が全てという考え方です。
一発勝負で二度と同じことを再現する必要がない場合には有効ですが、企業活動など継続が期待されることにおいてはもったいない考え方だと思います。

結果論の欠点

結果論の欠点は結果に固執してしまい、経過を振り返る機会を奪ってしまうことです。
結果に捉われてしまうと表現しても良いと思います。成功すれば正解、失敗すれば不正解という考え方に行きつきます。正解の欠点を見返す人は少なく思います。そして結果論を唱える人は不正解は失敗だから得るものがないとして切り捨てる判断をしがちです。

結果論の考え方をしているうちは、何をしても結果が正解だと、途中経過に問題があってもすべて正解だと誤解してしまいます。失敗すれば結果が全てで、途中経過全てが否定されてしまいます。

結果論の最大の欠点は結果の再現性が問われないということです。
偶然でも結果がよければ評価され、偶発的な事柄による結果でも失敗してしまえば評価されないことです。

企業の結果が利益だという誤解

企業で利益を追い求め結果論で判断すると、何をしようとも利益を生み出せば経営は正解だと誤解してしまうことです。途中でお客さんに不都合なことを押し付けたり、取引先に無理を言っても、利益を生み出すためだから全て許されると考えてしまうのです。そして利益が出ているのだから、正解だと誤解してしまうのです。お客さんに多少は不都合なことがあっても、本当に不都合なことであればお客さんが離れるはずだから、利益が出ていることが経営の正解で、不都合はないはずだと誤解してしまうのです。
そもそも利益が出ている間は企業の方針は正解をもらっているわけだから、問題があることなど想像がつかない企業もあるようです。お客さんの不都合に目を向けることもありません。お客さんにとっての不都合が爆発すると某ハンバーガーチェーンが最たる例だと思います。

利益は企業の為ならず

の考え方であれば、結果はお客さんの満足だとわかるのですが、残念ながらそのことに気付いている企業は私は数えるほどしかしりません。

結果の前の準備が大切

賢い人は賭けをせず確実に勝つ方法を探します。もっと賢い人は勝負にすらしません。用意周到に準備し、周りを寄せ付けず勝負になるまでもなく、ただ成功するのです。

賢い人の結果はどちらも成功であり同じです。同じですが、一旦勝負になれば偶然負けることもあり得ます。そもそも相手がいなければ勝負にもならず、成功するのです。

負ける可能性があるのと無いのが同じとは乱暴な考え方です。確か孫氏の兵法にもあったと思います。戦わずして勝つ。戦って勝つ。結果は勝ちですが、価値は全く違うと思います。

結果が同じでも経過をより良いものにした方が、更に飛躍できます。

従来の結果論では結果に満足してしまい、結果が良ければ思考停止してしまうので、結果から得るものが無いので私はもったいないと思います。

国立競技場に思う行政の問題点

予算が少しずつ増大し驚くような結果になっています。
一番の問題は誰も責任を取らないことです。

つまり困るのが直接裁量権のない国民だということです。
一度決めてしまえば決めた人たちは自分達の懐は痛まない、誰も責任も取らなくて良い仕組みが問題です。
誰の問題かという問題論で考えても、何事も自分の問題だから真剣に取り組むのです。
最終的にうまくいかなくても人が困るだけで自分が困らなければ、誰だって適当にしてしまうことでしょう。

予定通りことが運ばなかった場合、誰が責任を取るのかはっきりさせることだと思います。
つまり誰が困るのか?ということです。
今のままでは税金が余分に使われても誰も困らず、誰もの手元を離れたみんなのお金である税金が無駄遣いされても国民がとめる手段がないことが問題です。

行政改革案 立案者が困る仕組み

これらのプランを提案する役人や政治家が困る仕組みを考えると(自分達の首を絞めるようなプランは作らないでしょうけど)、後先考えない突拍子もないお金の使い方は出来なくなると思います。
具体的には、役人が提案した建物がほとんど活用されなければ、建設費の額に応じて退職金を減額する。政治家が提案した建物が有効ではないと判断されれば、4年間出馬禁止か選挙区を変更させる。

金額がいくらになろうと、自分達の懐が痛まない今の制度が問題です。

行政改革案 競争原理

私は今の行政に必要なことは競争だと思います。
資本主義と共産主義で比較的優れているのは資本主義だと思います。
生物の世界と同じで、競争があり、競争に勝ったものだけが生き残ることができるからです。
行政の問題は競争がないことです。自治体が一つで、競争がないので、できませんと言われれば従うしかありません。
一番の行政改革は行政に競争原理を取り入れることです。
ふるさと納税は行政の取り入れた初めての競争原理ではないでしょうか?
納税の奪い合い。

この原理を拡大させ、道路を作る・建物を作ることなども競争原理を働かせ合理的かつ経済的なプランを立てた方が勝ち。
無駄を削減することも評価対象で、無駄な建物を建てることを阻止した役人が勝ち。
勝った役人が出世するような競争原理を取り入れるのです。

議論が噛み合わない理由

人と話をしていて、議論が噛み合わないことは良くあります。
人によっては都合の悪いことを避けて、ワザとズラして話をする人もいるのが厄介なところです。最悪なのは本人が都合の悪いことを避けて話をしている自覚がない人です。論点がズラていることを指摘しても、論点のズレが認識できないので議論が噛み合いません。アナログ思考の人とデジタル思考の人との会話で、相手がアナログ思考タイプの人に良くこのような事態に陥ります。アナログ思考タイプの人は本人の頭の中で2つの事柄の境界がはっきりせず不明瞭なため、人に違いを指摘されても理解出来ないようです。

別の観点から議論が噛み合わない場合を考えてみます。
根拠の無いことを信じて議論しようとする人がいます。
真実を元に話をしている人にとっては言い掛かり以外の何者でもありませんが、世の中には自分の信じていることは全て正しいと疑わない人がいるようです。
お互い時間の無駄になるので、議論は終わりにしましょう。そもそも議論が成り立っていません。片方は真実で、片方は勝手に思い込んでいることなのですから。

例えば2型糖尿病において、炭水化物・糖質が原因であるという事実についてです。

論理的にも患者さんの協力により明らかになった事実(糖質回避でHbA1c12.5→6.1)としても糖質が原因であることは明らかです。

受け入れるか受け入れないか、信じるか信じないかは各個人の問題です。そして各個人がどのように思うかは関係ありません。思いを裏付けるものを提示して初めて議論が成立するのです。裏付けのない思い・感想を議論と勘違いするのは時間の無駄です。

知らないことを知りたいのであれば、自分で情報を集めるべきです。思い込みを正しい知識にするのは自分自身の責任です。それを人の責任のように錯覚するから噛み合わない擬似議論でお互い疲れてしまうのです。

信じられないからと言って新しい論理・理屈を攻撃するのは、かつてガリレオが裁判にかけられたのと変わりありません。野蛮な行いです。

真実を受け入れられない人を説得するような無駄なことを私はしません。だから糖質回避教、信じるものは救われる論理的宗教の考え方が適切だと思います。

議論が噛み合わない人とは議論しない

私の出した結論です。

議論が噛み合わない人とは持っている情報が違い過ぎるのです。相手にはわからないので、議論しなくて済む方法を考えること。私の行き着いた先は論理的宗教・糖質回避教でした。これなら論理を理解できた人とだけ会話すれば良いので議論にならずにすみますから。

もしかしたら自分の方が情報が少なすぎるかもしれないという客観的観点は必要だとは思います。

相手が自分で情報を集めて理解できるまで、待ちましょう。

天動説を信じて疑わない人に地動説を説明しても平行線です。真実は一つです。

進化できるのは人間だけ? ~新進化論~

進化という言葉があります。
多くの人のとらえ方は、古いものが新しいものに入れ替わること、単純なものから複雑なものに変化していくことだと思います。

タイトルの進化できるのは人間だけ?というのはやや大袈裟な表現ですが、その意味を説明していきます。

宗教的に信じていない方もおられますが、多くの方が理解している通りダーウィンの進化論で明らかになりましたように、様々な生物が進化して今の形態になりました。
この進化論で誤解を生じている人が多くいます。

生物が意思をもって進化したと、人間的にとらえていることです。
生物は遺伝子によって後の世代・子孫に情報を伝えます。伝える情報に意図的に変化をもたらしたり、偶然傷ができて損傷してしまうことで子孫に様々な変化をもたらします。その様々な変化が生存に有利に働くと子孫をより多く残すことができ、不利に働くと子孫を残すことなく死に絶えます。

淘汰の生き残り

優れたものを選んで作り出した印象を受ける進化という言葉ですが、実は偶然生まれた多様性(様々な性質・特徴のこと)の中で、適したものが環境というフルイにかけられて生き残っているだけのことなのです。進化というより淘汰の生き残りと表現する方が適切だと思います。
ダーウィンが見つけた進化論というのは画期的な理屈でしたが、実は淘汰の生き残りを歴史を遡って解釈したということです。進化論という言葉は、生物があたかも優れた性質を考えて勝ち取り、生存競争に生き残ったという錯覚を起こしてしまいました。

動物は意図的に優れた性質を狙った進化ではなく、淘汰の生き残りの結果ということです。
実際には高度な知恵のある動物も存在するので、それらは自ら考えて進化していると表現できるかもしれません。具体的には仲間で合図をしていて狩りをするイルカや、道具を使うチンパンジーなどは進化しているといえると思います。しかし積極的に合図や道具の工夫はしないのが人間との大きな違いです。

進化とは

ここでいう進化とは、単純なものから複雑なもの、難しいものから簡単なもの、古いものから新しいものに意図的に改善していくことです。
仕事でも物事でも、自分自身のことでもよりよく改善する変化を進化と表現することができます。
人間は様々な改善策を探して、どんどん進化していくことができます。
物や技術を発展させることで、人々は一昔前では考えられないような魔法のような生活を送っています。
魔法のような生活の獲得も進化といえるのかもしれません。

そして言葉一つで行動を変えることができる、魔法使いのような存在は人間だけです。
そもそも一部の動物にみられる簡単な合図ではなく、複雑な言語を使うことができるのは人間だけですから当たり前といえば当たり前です。

究極の進化

この言葉一つで行動を変えることが、究極の進化ではないでしょうか?
人間は言葉一つ・きっかけ一つで考え方を変え、行動を変えることで、進化することができる生き物なのです。

そういう意味で、意図的に進化できるのは人間だけだと思います。
具体的には言葉一つで糖質をやめることで、糖尿病を失くしてしまった患者さん。
病気を失くしたのですから、すでに患者さんでもなくなりました。
彼は言葉一つで一段上のステージに進化できたのだと思います。

人間は言葉の魔法一つで進化できます。
言葉にそんな魔力が秘められているなんて考えたことがありますか?
これから書いていくそんな言葉の使い方の話が、新進化論です。