人類は未だに糖質の食べ方を知らない未開人?

人類、特に先進国の人間はあたかも世の中の多くのことを既に知っていると誤解しています。しかし当たり前に知っていると思い込んでいることでさえも、手探りで探し当てただけで正解とは限らないのです。

議論の余地のないわかっていることを学校で教えている(歴史などは新たな古文書の発見などで書き換えられますので、現時点でわかっていることです)だけで、わからないことには触れないのです。わからないこととは例えば宇宙の果てには何かあるのか何もないのかとか、原子よりも小さい素粒子の世界がどうなっているのかはわかりません。反物質という物質とは正反対の性質のものがあるようですが、この世の中が何故物質だけで反物質は消滅してしまうのかは全くわかっていません。わからないことは山ほどありますが、わからないことを手探りで解明しているのです。人類の歴史からすればほんの少し前に目に見えない空気という存在があることを発見し、肉眼では見えない微小な世界があることを発見したのです。生まれつき感じる重力も理解出来るようになったのも人類の歴史から考えれば、つい最近のことです。人類が気づかなかっただけで大昔から存在したのです。

人類は今現在食べているもので元気に生きているため問題があることには気づいていません。ある種理想的な食べ物を食べていると誤解しているのです。明らかな不都合がないため、正解だと誤解しているのです。言い方を変えると落とし穴に落ちているのです。人類の歴史からすれば、人類がここまで発展できたのは糖質のおかげであると言う事は間違いない事実です。食料を自分たちで栽培し増殖することができるというのは、他の生物からすれば反則のようなものです。その反則技を身に付けたことにより人類は食料に困ることがかなり減りました。品種改良という知恵により、効率良く食料を確保することが出来るようになりました。食料を豊富に確保できたおかげで、人口が爆発的に増えることができたのです。しかし糖質は諸刃の剣でした。糖質には依存性があるからです。みんなが糖質依存という落とし穴に落ちてしまったのです。依存性はもしかしたら覚せい剤などの薬物に近いものがあるのかもしれません。

人類は依存性のある食べ物を自分達で栽培することで増やし、依存するほど食べた結果、様々な病気に陥っているのです。食べ物の知識がなかったために、食べ方をまちがえて脚気になって命を落としたのも手探りだったからです。脚気はビタミンの知識によりほぼ克服することが出来ました。しかし糖質による害があることは多くの人がまだ知りません。糖質の食べ方に問題があることに気付いた人達が未開人から抜け出し始めたに過ぎません。

栄養学が生まれた際に、先入観にとらわれずゼロから考えることが出来れば良かったのですが、残念ながら栄養学を考えた人達自身が糖質依存に陥っていたため糖質依存に基づいた歪んだ栄養学になってしまいました。

例えば子供の頃からアルコールを水代わりに飲む国を想像してみて下さい。いわば酔った状態が当たり前の普通の状態で、アルコールが抜けると気持ち悪くなる(俗に言う二日酔い)からアルコールを飲まなければいけないと考えるようなものです。アルコールが切れると調子が悪くなると誤解するのです。アルコールは日常の当たり前の飲み物だと思い込むと、アルコールの害には気がつかないようなものです。

別の国では皆んなが当たり前に幼い頃からタバコを吸っています。タバコを吸う状態が当たり前で、タバコを吸わないとイライラすると誤解するようなものです。そもそもタバコを吸っていなければニコチン切れのイライラは起こりません。

アルコールとタバコ・ニコチンの依存性とその害に気付いた先進国の人達は、法律により年齢制限を設け、課税することでむやみやたらとした過剰摂取を抑えているのです。

アルコールやタバコに置き換えると不思議な価値観ですが、現に糖質でも同じようなことが起こっています。糖質を食べるのが人類の歴史上当たり前で、糖質依存も当たり前なのです。ただ人類の多くの人達がまだその依存性と危険性に気付いていません。大半の人達が糖質依存なのですから、多数決の考え方で言えば糖質依存が正常な状態です。糖質を控える方が異常だと錯覚してしまうのです。しかし医学や科学の世界では多数決では決まりません。そもそも強烈にお腹が空くこと自体が糖質依存の禁断症状なのです。禁断症状により突き動かされてせっせと糖質を食べ過ぎているに過ぎません。

まだ多くの人達が糖質の食べ方を知らない未開人のようですが、知恵のある者達から糖質の本当の姿に気付き始めました。貴方はいつ糖質の本当の姿に気付きましたか?

交換条件が世の中を変える

交換条件が世の中を変えると私は思います。子育てはもちろん周囲の人との人間関係や政治までも変わると思います。

世の中でうまく物事が噛み合わないのはどちらか一方が得をする仕組みで、交換条件がないため歯止めがきかないからではないでしょうか?

子育てで困る理由

子育てにおいて子供の要求には際限がありません。ポテトチップスを食べたけどチョコレートも食べたいのです。小さなオモチャを買ってもらえば次はもっと大きいオモチャ、もっと良いオモチャが欲しいと要求するのは当たり前なのです。子供の要求に際限が無いのは何も引き換えにするものがないからです。ただで手に入るのですから、もらえればもらえるだけお得なのです。要求するのもただですからいくらでも要求するのです。大人はその都度断る手間に追われ、根負けして買い与えてしまうのです。そして子供達は苦労した結果手に入れたという成功体験として記憶するので、同じことを繰り返します。

問題の本質は親が与え、子供はただもらって当たり前という点にあるのではないでしょうか?つまり交換条件がないまま、一方的に子供の要求を受け入れるか受け入れないかの二択だから困るのです。子育てにも交換条件を取り入れると子育てが変わると私は思います。

世の中は交換条件で成り立つ

人は対価を支払う必要がなければいくらでも要求します。人の行動に歯止めをかけるのが対価あるいは交換条件です。大人社会での対価や交換条件はお金です。お金という共通のものに変換して、誰でも様々な価値のやりとりを出来るようにしているのです。物はもちろん、労働やサービスをお金を介して交換することで世の中は成り立っています。その交換条件の仕組みが機能していないところで問題が起こっています。

例えば何かをしようとすると反対する人がいます。ただ反対するだけで何も交換条件を出していません。お菓子をせがむ子供と何ら変わりません。建設反対と叫ぶ人はいますが、交換条件を提示して反対する人を見たことがありません。お金や知恵を出すから反対と言うべきではないでしょうか?

別の場面で置き換えると、民間では無謀な計画が動き出すことが少ないのは交換条件があるからです。会社そのものが倒産する交換条件が前提となっているのです。行政が無謀な計画を実行してしまうことがあるのが、失敗したとしても交換条件がないからです。議員は次の選挙で落ちるかもしれませんが、公務員は何も交換するものはありません。

交換条件が世の中を変える

私は交換条件が世の中を変えると考えます。むしろ交換条件という概念がないために混乱しているに過ぎないのです。

例えば子育てにおいての交換条件とはなんでしょう。「お菓子が欲しい」と子供がいえば、「代わりに何をするの?」とたずねるのです。お菓子に対する交換条件を求めるのです。ただ求めるのではなく、子供が何かと引き換えにする仕組みを考えるのです。交換レートはいくらでも構いません。非常に簡単なことで良いのです。交換条件があるということに意味があるのです。そして条件はその都度変えていけば良いのです。最初は簡単なことでも、次は少しハードルを上げるのです。子供が小さいうちはポストから手紙をとってくるだけでもいいですし、食事の際の箸を並べるだけでも良いでしょう。交換条件を最初から厳しくしないことです。子供にとって罰だと感じてしまうと拒絶してしまうからです。

「ゲームをしたい」「じゃあお風呂掃除だね」「もう一回ゲームしたい」「じゃあトイレ掃除もする」といった具合に、子供が手伝ってくれると助かることを交換条件にしてしまうのです。

子供の要求と交換条件が釣り合わないと思えば、交換レートを調整するのです。繰り返していると子供は無闇に要求をしなくなります。そしてどうしてもやりたい要求は前もって自分から交換条件を提示するようになります。引き換える価値があると前もって感じているのです。交換レートが妥当なら受け入れ、簡単過ぎると思えば追加すれば良いのです。

お風呂掃除と言っていても結局やらなければ、次は要求を受け入れなければ良いのです。少なくともお風呂掃除をするまでは受け入れる必要はありません。交換条件を満たしていないからです。それでもやりたいことを要求する場合には、何か別の交換条件を提示することです。例えば洗濯物を取り込むとか、料理のお手伝いをするとかです。更に以前のお風呂掃除もしなければ次は要求を受け入れないことを宣言するのです。

これまでは子育てについて書きましたが、大人も同じです。何か要求するなら交換条件が必要です。例えばお金を支払うのか、代わりに何かをしてくれるのかなどです。一方的な要求で交換条件が用意されないので、子供がお菓子をせがむのと同じで際限がなくなるのです。最たる例がサービス残業です。残業に対して残業代という交換条件があるから歯止めがかかるのに、残業代を支払うという前提がないといくらでも仕事を押し付けてしまうのです。しかも仕事の必要か不必要かを詳しく吟味することなく押し付けてしまうのです。何故なら残業代という交換条件がないので、わざわざ必要か不必要かを吟味せず押し付けてしまえば自分は困らないからです。

何か要求されたら、代わりに何をしてくれますか?と聞くのが当たり前の世の中になれば、無駄な要求が減ると私は考えます。厳密にやり過ぎるとギスギスした人間関係になるので注意は必要ですが、子供のように要求が多い相手に対しては非常に有効な考え方だと思います。

良かったらご活用ください

虐待死させた親を責めても仕方ない

虐待死させた親を責めても仕方がありません。何故なら亡くなった子供が生き返る訳ではないからです。虐待死させた親を責める風潮をテレビで煽っても、再発防止には役立たないからです。

虐待死させた親を処罰しても再発防止には役立たないのが現状です。何故なら処罰されることはある程度わかっていても、虐待死させた訳だからです。処罰されることを知らなくて虐待死させたのであれば、虐待死で処罰されることを報道すれば再発防止に役立つでしょう。しかし処罰されるとわかっていても虐待死をさせてしまったのであれば、虐待死を避けるためにはもう一歩先に進んだ対策が必要です。

理由を聞いても意味がない

何故虐待をしたのか問い質しても意味がありません。何故なら人は目的に対して行動はしますが、理由によって論理的に行動するとは限らないからです。むしろ多くの人は論理的ではなく何となく行動してしまうのです。

つまり何故虐待したか理由を聞いても、自分のせいではないという言い訳を考えるに過ぎないからです。更に虐待だと自覚しないまま虐待がエスカレートして死に至ることがあるのです。当時してはいけないことだという自覚がなければ、後で責めても意味をなしません。

虐待死を防ぐために

虐待死を防ぐためには予防策が必要です。虐待死させた親を処罰するだけでは虐待そのものを減らすことはできません。

虐待死を防ぐためには虐待の啓蒙活動が必要です。自覚のないまま虐待してしまっていることが良くあります。家庭という密室で行われる子育ては、しつけと虐待の線引きが自分では出来ないのです。

私が考える一番の対策は虐待死させた親に聞くことです。亡くなった子供が生き返る訳ではありませんが、せめて次の虐待死を避けるために防止策を聞くのです。処罰も必要なのかもしれませんが、次の虐待死を避けるために協力することが罪を償うことになるのではないかと私は考えます。

虐待死を避ける手立ては幾つかあると思います。虐待死に至るどこかの時点で誰かが関わることで避けることが出来たのかも知れません。命を救う手立てを探るのです。

例えば突発的に子供に暴力をふるってしまうことがわかれば、自ら相談出来る窓口があれば良かったことがわかる。他の例えであれば、育児を投げ出したい衝動に駆られるがどうすれば良いかわからなかったということがわかれば、投げ出したいと思う場合に相談出来る窓口を設置するなどです。実際には保健師さんなどが窓口なのかも知れませんが、虐待死が今でもあるのですから、改善の余地があるのではないかと思います。保健師さんに関しては、虐待死させた親から保健師さんとの関わり方を聞き出し、どのように関われば虐待死を避けることが出来たか知恵を得るのが一番近道だと私は考えます。

虐待死を避ける一つの答えが通称「赤ちゃんポスト」といわれる「こうのとりのゆりかご」だと思います。赤ちゃんだけではなく、子供を預けることが出来る施設を設置することが虐待死を避ける一つの答えなのかも知れません。

これらの知恵をこえる虐待死を避ける知恵が出てくることを祈っています。

危険性を予見する知恵

危険性は知恵が無ければ予見することは出来ません。あらかじめあらゆる物事を想定することで危険性を予見することが出来ます。

あらゆる物事を想定出来るかどうかは日頃考えているかどうかによります。人は考えていることの延長線上しか理解出来ないのです。

先日大学生の展示物が燃え、幼稚園児が亡くなる痛ましい事故がありました。心よりご冥福をお祈りいたります。展示物は木で出来ており木を削ったオガクズが飾られていました。照明に白色電球が使われてしまったようです。白熱電球が高温になるという知識のある人からすれば、怖いなと思う状況です。更に予想外の行動をする子供達だと、白熱電球にオガクズを振りかけて遊ぶ可能性も想定しなければなりまけん。

1人でも危険だと考えて、白熱電球の使用を中止していれば結果は全く異なっていたことでしょう。結果として1人の尊い命と引き換えに、危険性を世に知らしめることになりました。

当事者は白熱電球の危険性を知らないので燃えやすい木の展示物の中に持ち込んでしまったのでしょう。そして周囲の人達は、白熱電球は高温になり危険だからオガクズのある燃えやすい木の展示物の中で使うはずがないと思い込んでいたのではないでしょうか?。その常識のズレによりお互い確認をすることなく、片や危険性を知らず、片や危険性は当たり前だからするはずがないと思い込んだ結果今回の事態に至ったようです。

自分にとっての常識はみんなの共通認識とは限りません。危険性を予見することが出来ない人もいることを知った上で、行動するようにしましょう。少なくとも自分だけでも危険性を出来る限り予見するように心がけましょう。そして危険性が予見出来ない人は、危険性の予見出来る人に助けを求めましょう。

有意差とは効くかもしれない宗教みたいなもの

薬において有意差で効果を考えるのは、核心には触れていない証拠です。つまり核心には触れてはいないものの、核心にかすっているのが有意差です。

有意差に意味があるのは、原因の検索であって薬の効果ではありません。

原因の検索において有意差があれば原因に近付いているので『意味』があります。しかし薬の効果において有意差とは、偶然よりは効くという程度です。

原因の一部に関わるので偶然ではなくて一定の効果はあるものの、確実に効く訳ではないのです。

本来の有意差の使い方は原因検索において行われるべきです。有意差が見つかれば、偶然ではない何かがあるはずです。有意差の中に答えがあるので、有意差のある中から答えを探すのです。

薬において効果に有意差があるのは、効かないときの言い訳をしているように思います。

他の分野で確実性のないことを偶然ではないと言って売り出しても相手にされることはありません。このテレビはハイビジョンが映るかもしれません。なんてあり得ません。各種産業において偶然ではない多少効くだけで物を売ることはないと私は思います。

いつの日か病気が全て解明されると、有意差という言い訳は必要無くなる日が来ることでしょう。私が行きている間に、そんな日がくることを祈っています。

文章と漫画とアニメの違い

文章と漫画の違いを考えてみます。最近では少し変わりつつありますが、一般的に文章を読むことは推奨され、漫画を読むことは余り勧められません。その理由を含めて考えてみます。

文章とは?

文章とは文字だけで物事を表現するものです。言葉を書き留めた文字を使って理解してもらうのです。文字から頭の中で映像を組み立てる必要があります。同じ文章を読んでも頭の中に描いている映像は人によって異なります。更に書いた人が思い描いていることを文章に変換する時点で様々な解釈が出来る可能性が生まれます。小説で名作といわれるものは、読み方により解釈の仕方が幾通りもあるものでした。解釈の幅があるため、読み返すと何度も気づきがあるため読むほど楽しむことが出来るのです。

小説であれば解釈の仕方が異なっていても全く問題はありません。理解して頭の中で楽しむものだからです。しかし物事を伝えようとする論文では相手に正確に情報を伝えることが目的なので、解釈の幅があると困るのです。そのため誤解を生じにくい書き方が求められます。

話が少し逸れましたが、文章には解釈の幅があるのは仕方ないことでした。何故なら文章に変換する時点で作者の思い描いている情報が削ぎ落とされ、文字として圧縮されてしまうからです。その圧縮された状態を頭の中で復元する作業に手間取るのです。情報のやり取りは必要最低限のことしか行うことはできません。

漫画とは?

漫画は文章から頭の中で組み立てる作業を作者が絵で置き換えてくれているのです。作者が絵に変換する手間をかけてくれるおかげで情報を絵に盛り込むことが出来るのです。

百聞は一見にしかず

という諺通り、言葉での情報は100集まっても1枚の絵の情報には負けてしまうのです。

漫画は読み手が一瞬で様々な情報を受け取ることが出来るのです。その絵の積み重ねにより物事を伝えるので、同じ内容であれば文章よりも漫画の方が圧倒的に情報伝達の点で有利です。更に作者の発想力により漫画には無限の可能性があります。紙とペンにより過去から現在・未来はもちろん、何処にもあり得ない世界を描き出すことが出来ます。更に誰も見たことも聞いたこともない世界を描き出すことすら出来てしまうのです。誰も見たことがない世界を表現するのですから、文章だけで頭の中に正確に描くことが出来ないのです。

だから私は漫画で情報を得ることもよくあります。何故なら文章を読むよりも早く内容を把握することが出来るからです。当然フィクションもあるものの、身の回りにいる人からは聞けないような全く知らない情報も漫画の中にはわかりやすく解説されているので楽しみながら知識を身につけることが出来るのです。そんな視点で漫画を読んでみると面白いと思います。

アニメは?

更に情報伝達が有利になるのがアニメです。目で漫画の中の文字を読む、絵と絵の間の映像を想像するという作業すらアニメの中に組み込むことが出来るので、アニメの方が情報伝達しやすくなります。アニメは漫画のようにセリフを読む必要もないため受け身でいることが出来ます。そのため漫画のセリフを読めない小さなお子さんでも楽しむことが出来ます。

ただし漫画をアニメ化するには大変な費用と労力がかかるため、人気漫画しかアニメ化されることはありません。

文章と漫画とアニメの違い

文章に情報を足して絵にしたのが漫画です。漫画の絵に動きとセリフや音をつけたのがアニメです。様々な情報を付け足すので、読み手や見る人が解釈しやすくなります。作り手が知恵や労力を費やすことで、情報を受け取りやすく加工してくれているのです。わざわざ解釈しやすく加工してもらってある情報があるのに、文章で読むことに拘るのは勿体無いと私は思います。

情報取得ではなくて、文章を頭の中で組み立てる読むという作業そのものを楽しむのであれば文章をあえて読むことに意味はあります。しかし情報取得が目的であれば、漫画やアニメがあるのに文章をわざわざ読むのは時間が勿体無いと私は思います。

漫画に対して否定的な方は一度考えてみられると良いと私は思います。

悪い利益と良い利益

実は利益には悪い利益と良い利益があります。悪い利益とは暴利を貪る利益のことで、事業の目的そのものです。悪い利益は利益が事業の目的そのものなので、とにかく利益を追い求めます。良い利益とは適切な利益のことで、事業を継続するための必要経費のようなものです。

一昔前までは全ての企業が悪い利益を追求していました。というよりも良い利益という概念が無かったので、利益を目的として追い求めることは資本主義では当たり前と考えられていました。今でも良い利益という概念を知らなければ、利益といえば当たり前に悪い利益のことを表します。

悪い利益

悪い利益とは周りのことを全く考えず、自分だけの利益を追求することです。仕入れをする取引先のことはもちろん、お客さんのことも利益を追求するための手段としか考えていません。そこまで極端ではなくても、取引先やお客さんよりも利益を優先するのが悪い利益です。

とにかく利益を上げることが目的なので、なりふり構わず利益を追い求めていました。少しでも売るためにお客さんに誤解させてでも有りましたし、場合によっては嘘をついてまで売っていたのです。悪い利益を追い求めた結果食品産地偽装や、燃費の偽装などが行われたのです。悪い利益を追い求めているとお客さんのことが後回しになってしまいます。お客さんを蔑ろにしていることが発覚すると、お客さんに相手をされなくなるので淘汰されてきました。

利益を生み出す仕組みを考えるのですが、企業の利益とお客さんの利益が相反してしまいます。上手な仕組みを考えなければ、お客さんの利益を損なってしまいます。一時的な利益を得ることは出来ても継続出来ない企業が多いのは、企業の利益とお客さんの利益という相反する利益の手加減が難しいからです。企業のことしか考えていない悪い利益は、いずれお客さんにわかってしまいます。利益を生み出す仕組みがお客さんの思惑とズレてしまうと、突然利益を生み出すことが出来なくなります。

悪い利益を継続して生み出すことは非常に困難ですが、極々稀に企業の利益とお客さんの利益の手加減が出来る天才的な経営者がいます。残念ながら天才的な経営者から引き継いだ人が上手く経営出来ないことが多いのは、その時その時で絶えず変化する状況に合わせて利益の手加減を変えることが普通の人には出来ないからです。代がわりの際に悪い利益の手加減の調整が出来ない時点で、良い利益の得方に変えることが出来るかどうかです。初代経営者が天才だと2代目、3代目が苦労するのは、悪い利益を追い求める手加減の仕方がわからないからです。

企業の方針が利益が出るかどうかで判断しています。全てを間違うことなく当てることが非常に困難なのは周知の通りです。

悪い利益を追い求める人達はどうすれば儲かるかを考えています。お金が目的ですからお金のことしか考えられないのです。お金を得ることに知恵を絞ります。そしてお金が全ての判断基準であり、お金のことしか考えられない人達の集まりになってしまいます。いわばお金の魔法に取り憑かれてしまった考え方なのかもしれません。

利益が出なければ誰かが責任を取らなければならなくなります。だから余計利益を追い求める悪循環に陥ります。

良い利益

賢い企業は良い利益に既に気付いています。お客さんの利益になるような仕組みを考えるのです。当然企業も経営していく上で利益は必要です。この場合の利益は経営を継続するための必要経費のような位置付けです。

良い利益とは目的ではなく、継続するための手段としての利益です。

良い利益を表す諺を提唱しています。

利益は企業の為ならず

利益を追い求めることは企業の為にはなりません。利益は企業のためにあるのではなく、お客さんのためにあるべきなのです。

このように考えることの出来る企業は経営がブレることがありません。企業の方針は利益が出るか出ないかではありません。お客さんのためになるかならないかです。お客さんのためになるなら行う、お客さんのためにならなければ行わないのでブレることがないのです。お客さんのためになることの中から、如何にして利益を生み出す仕組みを作り出すことに知恵を絞るのです。

もし利益が出なければ継続が出来ないだけです。少なくともお客さんの利益にはなっているので、継続出来ないことが残念なだけです。お客さんの利益によりお客さんさんを喜ばせることが出来たという結果が残るのです。

良い利益とは継続するための必要経費としての利益と、お客さんの利益という二つの『意味』を合わせ持ちます。

この二つの『意味』に気付いた企業は無敵になることが出来ます。まだ数は少ないのですが、確実にいくつかあります。良い利益を追い求める企業がどこなのか考えてみて下さい。

病気を治すつもりのない医者

医者の中には病気を治すつもりのない医者がいます。
厄介なのは病気を治すつもりのない医者同士が集まって、病気を治さなくてすむ方法を模索していることです。更に問題なのは製薬会社と結託して病気を治さないように仕向けることです。医者と患者さんの間には情報の格差があるため、患者さんにはこれらのことがわかりにくいのが現実です。

病気を治すつもりのない医者は、出来高制の診療報酬を稼ぐ目的に治さないのです。治してしまうと診療報酬はもらえなくなるのです。治さず延々通い続けてもらえば収入が増えるのです。患者さんに逃げられない程度に加減して治療を引きずるのです。そのさじ加減を医者同士で情報共有するのです。

特にそのような医者達が気にしているのは、病気が治るかどうかよりも保険で切られるかどうかです。悲しいことですが、むしろ治さないように気をつけるのです。それらの情報交換が行われるのが一部の学会や製薬会社主催の勉強会です。

患者さんは薬がなくても済む健康な状態を望みます。一部の医者は薬で症状を抑え続けることを望みます。何故なら薬が必要ない状態に治してしまうと診療報酬がもらえなくなるからです。

患者さんのおくすり手帳を見てみると、必要の無い薬を延々と処方し続ける医者が確かにいることがわかります。明らかに必要なさそうな薬を処方しているのであれば医者を変わることをお勧めしています。

確かに全ての病気が治る訳ではありませんが、しばらくしても症状が変わらなければ他の医者を受診してみても良いのかもしれません。何故ならその医者が病気を治す気のある医者なのか、病気を治す気のない医者なのか判断がつきにくいからです。改善しなければ試しに変わってみるのが一番です。

患者さんの立場からすると信じがたいでしょうが、病気を治す気のない医者が確かにいるのです。しかも病気を治す気のない医者の方が稼いでいるのです。病気を治さない方が医者が儲かる出来高制である国民皆保険の限界なのかもしれません。

漫画・雑誌・テレビの中毒性

漫画や雑誌、テレビには中毒性があります。当然病的な中毒性ではありませんが、次を知りたいと思わせるように作るのです。

次を見たくなる仕組みが中毒性を生み出すのです。次を見たくなる欲求は「衝動買いの心理」が作用するようです。次に用意されているものが凄く魅力的に感じる錯覚を起こすのです。そもそも「衝動買いの心理」がエスカレートして中毒を引き起こすので、これらのことに中毒性があってもおかしくはありません。

漫画や雑誌の発売日やテレビの放送日が待ち遠しくて仕方ない人は中毒になっているのかもしれません。コアなファンのほとんどはもしかしたら中毒なのかもしれません。

漫画や雑誌はお金を目的に中毒性のある作り方をしますし、テレビであればコマーシャルになってもチャンネルを変えられないようにするするに中毒性のある作り方をするようです。

中毒性を表すのが、連続で見なければいけないという脅迫観念に近いような感覚に陥ることです。見ることをやめるとしばらくイライラしますが、「衝動買いの心理」と同じで、過ぎ去ります。中毒性から抜け出した後で振り返って考えると、何故あれほど続けて見ていたかわからないこともある程です。

本来の魅力で見ているなら良いですが、「衝動買いの心理」を駆使した中毒性は気をつけた方が良さそうです。

 

混乱の解決策 目的を明確にする

会議や話し合いなど様々な事柄において事態の収拾がつかず混乱することがあります。話していることが迷走し、何を話しているかわからなくなってしまうのです。今回は混乱の解決策を考えてみます。

混乱している時には目的を明確にすると迷走することがなくなります。目的に沿っていればそのまま押し進めれば良いですし、目的から外れていれば目的に合わせて修正するのです。

会議や話し合いの目的を明確にすることで方向が定まります。そもそも会議や話し合いの目的が曖昧なまま話し合ったところで、時間ばかりが経過してしまいます。何を決め何を話し合えば良いのか誰にもわからないからです。

逆に目的が明確にされていれば、話が目的から外れた時点で打ち切ることが出来るのです。

混乱の解決策は目的を明確にし、目的に沿って物事を整理することです。特に話し合いにおいて理由について議論しても時間の無駄です。理由にはもっともらしい言い訳が含まれているからです。

まず目的を明確にし、次に目的に沿っているかどうかを話し合いましょう。会話や会議が混乱した場合の簡単な解決策です。