一から十まで聞く人と一を聞いて十を知る人の違い

一から十まで全て聞かないとわからない人もいますが、一を聞いて十を知る人と言われるように物分かりの良い人もいれば、。
その違いは何なのでしょうか?その違いについて考えてみます。

一から十まで全て聞かないとわからない人は、一の大きさそのものがわからない上に、その方向性が理解わからないためのです。そのため全容の把握ができず、全てを聞かないとわからないのです。一を聞いて十を知る人は、一がわかればその大きさと方向がわかっているので全容を把握することが出来るのです。
一言で言えば、違いは一の大きさと方向性を把握出来ているかどうかです。

同じ1でも大きな違いがある
同じ1でも大きな違いがあります。
片方は1の大きさが曖昧で、並び方がわかりません。
片方は1の大きさがはっきりしており、並ぶ方向も明らかです。

一の大きさが曖昧で、方向がわからないので一つ一つ並べ方を聞かなければわからないのです。
一の大きさと方向が分かっていれば、一さえわかれば十までの並べ方がわかるのです。

一から十まで聞く人と一を聞くだけで十がわかる人のイメージの違い
一から十まで聞く人は一貫性がイメージできないため全て聞くことになります。
一を聞いて十を知る人は方向がはっきりしているので一を聞けば十まで並べることができます。

つまり一が正確に把握できるかどうかの違いです。

これまでの経験や知識と照らし合わせて一の大きさや方向が把握ができなければ一から十まで大きさと方向を教えてもらわないとわかりませんが、一だけ聞けば大きさや方向がわかるので十まで並べることができるのです。

説明の極意 聞き手の立場に立って考える

説明の極意の一つとして聞き手の立場を想定することを考えてみました。今回アメリカに本社がある外資系企業が『誕生日ではない日おめでとう』と言う意味のツイートをしたのですが、『なんでもない日おめでとう』と日本語訳をしてツイートしたことが問題となりました。

日本人にとっては意味のある日でも、アメリカ人には意味のない日ととられかねないツイートだけに問題になったようです。(実際には長崎の原爆記念日だと知らなかっただけか、忘れていただけだとは思います。)

物事は人によって受け取り方が異なる

物事はそれまでの経験や知識によって受け取り方や判断の仕方が異なります。そのことに留意せずに発言や発信を行うと、今回のことや政治家の失言で問題になり得ます。

例えば日本人にとって8月6日、8月9日、8月15日は戦争があったことを振り返る意味のある日です。ただ残念なことに同じ日本人でも何の日か覚えていない人もいるでしょう。

例えば今日8月11日は、多くの人にとっては特にこれといった日では無いかも知れませんが、誕生日の人にとっては1年で掛け替えのない1日です。ただ誕生日の人個人にとって大きく意味のある日ですが、多くの人にとっては365分の364の日でしかありません。誕生日では無くてもある人にとっては大切な人の忘れられない命日かもしれないのです。

つまりその人その人にとって、同じ日付でさえも意味が全く異なることを知っておく必要があることが広まるきっかけとなりました。

日付一つとってみてもこのように人それぞれの受け取り方が異なるのですから、ましてや他のことの受け取り方が人によって大きく異なることは容易に想像がつくと思います。聞き手の知識や経験、考え方によっては何気なく言った一言が大変な結果を招くことに繋がります。

相手の立場に立って考える

私自身もいつでも相手の立場に立って考えることが出来る訳ではありませんが、極力相手の立場に立って理解出来る言葉を選んで説明するようにしているつもりです。

今回の『なんでもない日』の問題は誰も長崎の原爆の記念日が何でもないと言っているわけではなく、ただ単に配慮不足だっただけだと思います。何でもないとツイートする前にグーグルで念のために調べることを怠ってしまった結果だと思います。

個人個人への配慮は難しいとしても、大衆への配慮は必要だったかも知れませんね。ツイートも個人がつぶやいただけなら大した問題にはならなかったと思いますが、原爆を落とした国の会社だったことも問題を大きくした一因だと思います。おそらく意図的に8月9日に『なんでもない日』としたわけではなく、ただ単に『なんでもない日』としたのが偶然8月9日だったのだと思います。

このことから聞き手の思い掛けない解釈により窮地に追い込まれることがあることを教訓にすると良いと思います。

アメリカに進出した日本企業が9月11日に『なんでもない日』などと言うことはあり得ないと思います。

相手の立場を考えるとは、おもいやりの話です。相手の立場も考えることの出来る余裕を身に付けたいですね。

話の通じない人の心理

話の通じない人はどこにでもいるものです。話の通じない人はもしかしたら、天動説型思考の持ち主なのかも知れません。

話の通じない人は色々なことの意味がわかりません。そしてその話が通じないことや話が理解できなくても余り困らないようです。自分から理解する方向に歩み寄ることは少なく、話の通じない人の多くは常に受身です。

話の通じない人は天動説型思考の持ち主で、話が通じない、話が理解出来ないのは説明する人の説明の仕方が悪いからだと思っています。自分の知識や理解力が不足しているという視点は全くありません。そのため話を理解して欲しければ、わかるように説明するのが当然という態度でいます。もしくは少し説明を聞いて全く理解出来なければ、理解しようと努力することなく拒絶します。

周りの人が自分のために行動するのが当たり前だと考えているか、地動説型思考のように自分が出来ることをするという発想そのものが欠落している可能性があります。

通常人と人が会話して意味が通じなければ、お互いの共通認識を双方から探します。話題の内容と似た内容と比較しながら、意味が通じる内容を探すのです。しかし話の通じない人はその発想がありません。歩み寄りがないのです。

恐らく悪気があるわけではなく、その発想そのものがないので仕方ありません。考え方を変えるように詰め寄っても無駄なことです。

対策は一つ一つ似た内容で知っていることをこちらから探すか、話の通じる必要最低限のことを伝えるかのどちらかだと思います。

男女での相手の選び方の違い

男性は女性を顔で選び、女性は男性を性格で選ぶ傾向があるそうです。

私独自の考えではなく、ディスカバリーチャンネルで見た内容が理にかなっていると思いましたので、違いをまとめたものです。

男性は女性を顔で選び、女性は男性を性格で選ぶそうです。

男性は女性を顔で選すぶ

男性が女性を顔で選ぶと言っても時代や地域によって好まれる顔が異なります。それでも無意識のうちに顔で選んでいるのでしょうか?どのような基準で選んでいるのでしょうか?

ディスカバリーチャンネルでは男性が女性を選ぶ基準は、女性の顔が左右対称かどうかだそうです。目が大きい・鼻が高いということは関係がないようです。目が大きくても、鼻が高くても生存に有利にはならないからだと思います。(寒い地域だと高い鼻は生存に有利かも知れませんが)では女性の顔が左右対称だと生存に有利、子孫に有利な可能性があるのは何故でしょうか?それは顔が左右対称だと、以下のことの表れと考えるようです。

  • 遺伝的に問題が少ないこと。
  • 左右対称では無くなる大きな怪我をするような危険なことをしなかったこと。
  • ホルモンバランスも問題ないこと。

これらのことから男性は女性の左右対称性を無意識のうちに考えるようです。女性を選ぶ際に自分の子供のことを考えて遺伝的な観点から女性を選ぶ方が子孫を残す上で有利だった名残りなのかも知れません。

学問的に傾向があるだけで、必ずしも全員に当てはまる訳ではありません。女性の顔を目鼻立ちではなく左右対称性の観点で見てみるのも面白いかも知れません。

かと言って必ずしも顔で選ぶとは限りませんし、目鼻立ちで選ぶ人もいると思います。学問的には男性は女性の顔の左右対称性で選ぶ傾向があるというだけのことです。

女性が男性を選ぶのは性格

女性が男性を選ぶ基準・一番の心配事は、出産後に自分と子供の食べる物を確保してくれるかどうかです。優しくて食料を運んでくれるかどうかで選ぶそうです。つまり性格で選ぶそうです。

多くの動物やお猿さんでは、メスは強いオスを求めました。人間は赤ちゃんが他の動物と比較して格段に未熟な状態で生まれるため、一夫一妻制を採用し、優しく優秀な食料確保者であることを男性に求める傾向があるそうです。他の動物では子育て中でも、メスは食料確保が出来ますが、人間では少なくとも赤ちゃんの首がすわるまでは女性の食料確保が問題です。人類の進化の歴史では女性が生き延びる確率を高めるために、強さよりも優しさを重視する傾向があったようです。

学問的にこうした傾向があるというだけで、最終的には好きになってしまえば、その人が運命の人です。タデ食う虫も好きずきということだと思います。みんなが共通の好みだと人気が集中してしまうので、隠された魅力を見つける能力が備わっている人ももしかしたらいるのかも知れません。

あくまでも学問的にはこのような傾向があるということです。

 

誤解・勘違いは誰のせい?

誤解・勘違いは誰にでもあることです。誤解・勘違いの原因は思い込みや言葉・表現の曖昧さによる認識の齟齬です。

誤解・勘違いは誰が悪く誰の責任なのでしょうか?

誤解・勘違いは改善を

私は誤解・勘違いは誰も悪くありません。ただし誤解・勘違いをさせた原因を作り出した人が配慮不足を反省して今後の対策を考えるべきだと思います。話し方や表現の仕方の曖昧さを無くす努力をするべきだと思います。相手は混乱しますし、自分も本来の意図とは異なる解釈をされては損だからです。

誤解・勘違いは笑うこと

誤解・勘違いで嫌な思いをすることもあるとは思いますが、悪気があるわけでも意図的にしたことで怒っても意味がないことです。配慮が足らないことを指摘することで今後同じことを無くす意味はあっても、怒ったところで解決には至りませんし、お互いが嫌な思いをして終わりです。

誤解・勘違いは笑うことであって怒ることではありません。笑って改善策を相談しましょう。

企業の場合

現在様々な表現があります。紛らわしい表現もあちこちで見かけます。

言葉の揺れにより、2通りの解釈が出来る表現もよくあります。表現している人は一つの解釈しか出来ないと完全に思い込んでいることが多いため、二つの解釈が出来ることを想定すらしていません。二つの解釈が出来ることを指摘しても、直そうとしない場合も良くあります。二つの解釈をする方が悪いと受け取れる対応です。

企業がこのような対応だと、お客様目線か企業目線かが良くわかります。誤解・勘違いはお互い損なので曖昧な表現は改める方が良いと思います。

勘違いしてもらった方が利益につながると、勘違いされかねないことでも違法でもない限り放置してしまうようです。

利益は企業の為ならずとは真逆の、利益追求企業そのものです。

まだ誤解・勘違いで利益を上げても意味が無いことに気付いていないのは残念なことです。

TOEICが高くても仕事で役に立たない人がいる理由

英語でTOEICの点数が重宝されていますが、TOEICは英語の習熟度の目安を表すものです。TOEICの点数が高ければ必ず仕事の役に立つと思われていますが、大きな誤解のようです。あまり役に立たないとも聞くことがあります。
そのことから仕事に役に立たないことがあることの理由を考えてみました。

実際いは一定の目安にしかならないようです。何故なら英語が話せることと説明が上手なこととは別物だからです。英語で物事を考えることが出来るかどうかの判別には役立つかも知れませんが、英語で会話が上手に出来るかどうかは別物です。会話には言語能力と会話能力があります。TOEICは言語能力を測るだけで、必ずしも会話能力を測ることが出来るわけではないのではないでしょうか?会話は相手の言っていることを瞬時に読み取り、返答する必要があります。その会話能力がはかれないのではないかと思います。

実際説明能力の違いを抜きにして、英語を使えるかどうかを評価してもあまり意味が無いように思います。しかし元々の会話能力の違いを測定する方法がないため、事前の策としてTOEICを活用しているのだと思います。

母語の日本語の使い方すらおぼつかない人が、勉強することでTOEICの点数を取ることが出来るようになっても、外国人との意思の疎通は上手くいかないと思います。
私はまず日本語の使い方を磨いてから第二外国語に手を付けることがおすすめだと思います。
説明の極意 相手のわかる言葉で伝える
説明の極意 一言に凝縮する
説明下手な人の話し方

会話には共通概念が必要ですが外国人の持っている概念を身に着けるのは簡単ではありません。そして相手の考えていることが想像できなければ、多少の言葉のやり取りは出来ても会話が成立しないからです。まず母語での会話能力を引き上げることが大切だと私は思います。

相手の目的を読み取って会話をしないと、会話が成立しないのです。この相手の目的の読み取る能力こそが会話能力だと思います。

TOEICの点数と意志の疎通をはかる会話能力が同じではないから、正確なやり取りができず仕事に支障をきたすことがあるようです。

まずは母語での会話能力を高めることが早道ではないかと私は思います。
日本人が長年授業を受けても英語が話せない理由はこちら

怒る必要のない子育て 片付けをしない場合

怒る必要のない子育てです。

子供が片付けをしない

良く聞くのが子供に何度言っても片付けをしないという意見です。

何故何度言っても片付けをしないのでしょうか?何度も言っていれば片付けをするということ自体は理解しているかもしれません。

意味・目的がわからない

片付けしないのは片付ける意味・目的がわからないのです。何のために片付けするのかよくわからないのです。『あなたのために片付けるのよ』と言われてもその意味を理解できないのです。意味・目的がわからなければなかなか行動にはうつさないものです。意味・目的がわかれば片付ける動機付けに繋がります。

片付けるのは怒られないため?

なかなか片付けをしないと言われる場合、片付ける動機付けが怒られるから片付けるになってはいないでしょうか?怒られないために片付けるという動機付けだと、子供は怒られるタイミングを見計らうようになります。親の顔色を伺って、怒られそうになると片付ける。まだ大丈夫だと思うと片付けません。本気で怒られたら仕方なく片付けるのです。

片付ける意味・目的

片付ける意味・目的は次に使う時に素早く取り出して使うことが出来るようにすることです。片付けていないとどこにあるのかわからず、探す手間がかかります。片付けると探す手間がいらないのでお得なのです。このことを子供に教えてあげると良いと思います。

散らかっているから親が片付けて、探し物を言われてすぐに出てくるので子供は片付ける意味・目的を理解できません。親に言えば出てくるものをわざわざ自分で探さないので、その元になる片付けをしないのです。

片付けをしたら探し物が早く見つかること。片付けをしないとなかなか探し物が見つからないこと。探し物を探す時間はもったいないことを伝えるのです。

それでも片付けない場合

片付けの意味・目的を言葉で伝えても片付けない場合は、本当の意味が分かっていないのだと思います。

ここで親が困ると子供は成長しません。困る人の問題なので子供が困る仕組みを作り出します。(問題論)

片付けしていないものを放置しても構いませんが、親の精神衛生上良くないので対策を考えます。片付けしていないものを全て大きな箱に放り込むのです。子供が探し物をしても子供に探させます。探すのが大変なことを実感させ、片付けをした方がお得だと分からせるのです。最初は探し物の手伝いをしても二度目三度目はしばらく子供だけで探させるようにして、子供が困るように仕向けるのです。

身を以て片付けがお得だと分かると自然と片付けるようになると思います。

少なくとも大きな箱にまとめていると、親はイライラする必要はないと思います。

片付けしなさいではなく、片付けの意味・目的を伝えてあげてみて下さい。

怒ると叱る、諭すの違い

怒る・叱る・諭すという言葉があります。それらの違いを考えてみます。

怒るより叱る方が良いと思っていましたが、それよりも諭すのがベストだと私は思います。

怒る

怒るは感情を相手にぶつけているだけのことです。相手に伝わるのは怒っている・不快な思いをしているということだけです。怒る場合感情に任せて怒るので、相手に何故怒っているのか伝わりません。

怒っている人は、当たり前だと思っていることが相手に抜け落ちているので、怒っているだけのことが多くあります。しかし相手に当たり前という感覚が無いので、怒っても全く伝わりません。怒られても意味がわからないのです。

叱る

辞書によると目下のものの良くない点を指摘して強く咎めることのようです。

相手を責め立てるニュアンスが含まれています。感情に任せて怒るよりはましですが、相手が悪いことが前提なのが私には抵抗があります。ただ知らないだけのことを責めるのは可哀想にも思います。もしかしたら自分が教えるべきことなのて、そのことを知らないとして叱ってはいないでしょうか?教えるべき人が教えていないことを叱るのはルール違反だと私は思います。

諭す

辞書によると目下のものにわかるように説明して、納得するように教え導くことだそうです。

諭すには責め立てる意味合いは込められていませんので、相手が知らないだけのことを教えてあげるのですから私は最適な言葉だと思います。相手が知らないことは仕方のないこととして受け入れ、知らないことを責めずただ教えてあげる、諭すという言葉。無駄な争いを無くす魔法の言葉だと思います。

怒る、叱る、諭すの違いのまとめ

怒るは感情で責め立て、叱るは感情はないものの責め立て、諭すは責めず教え導く。

怒るよりも叱るよりも諭すを心掛けてみませんか?

説明下手な人の話し方

説明下手な人の話し方を考えてみます。

様々なタイプがあります。

  • 自分自身の頭の中で整理されていない場合。
  • 言いたいことをまとめられない場合。
  • 話をすること自体が目的のため、話を引き延ばすために回りくどい言い回しをする。
  • 話をしている最中に思いついたことを織り交ぜてしまうので、全体で一貫性がなく良くわからない話になってしまう。
  • 老人に多い話し方ですが、時系列で全て並べようとする。
  • 話の本筋に関係のある話と関係の無い話の区別がつかず、様々な話がごちゃまぜになってしまう。

などが考えられます。

対策は説明したいことを一言で言うことです。ちょうどメールのタイトルのように先に用件を伝えるのです。次にその解説をすることです。それだけに気をつけるだけで相手は理解しやすくなります。

説明の極意 一言に凝縮できるかどうか

説明能力というのは人間が生きていく上で必ず必要な能力です。
何故なら人間がお互い考えていることを分かり合える可能性があるのは、唯一言葉で説明することだけだからです。
その説明能力の良し悪しで生活の質は異なるものとなります。
説明能力の高い人は人に考えを受け入れてもらいやすく、快適な生活を送ることのできる可能性が高まります。一方説明能力の低い人はなかなか自分の真意が周囲に理解してもらえず、窮屈な生活を送る可能性が高くなります。

言葉が通じることで生じる大きな誤解

ここでの注意点は日本語を話せば日本人にはわかってもらえるはず、という大きな大きな誤解です。

言葉が通じるとお互い全てわかるつもりになるのが怖いところです。更に怖いのが自分が話をすれば、(自分としては)難しい話はしていないので、聞き返されない限り相手は100%理解していると思い込んでいることです。更に悪い場合、説明しているのに理解しないのは相手の理解力が悪いと思い込んでしまうことです。

言ったはずのに相手は聞いてないという争いの元にはこんな心理が隠れているのです。絶対言ったのに聞いてないなんて嘘までつくとは許せないという大問題に発展することも想像できます。夫婦、家族でもよくある行き違いです。
確かに言ったかも知れないけれども、相手にとっては言われた内容が突拍子もなく、全く理解できなかったのです。少しだけでも理解できて本気にしなかったわけではなく(その場合少しは記憶に残ります)、全く理解できなかったので意味不明の呪文のごとく聞き流してしまったのです。
学校の授業や会議で頭に入らないと言われる状態はこんな感じだと思います。

言葉を凝縮して伝える

相手のわかる言葉で伝えることはもちろんですが、言葉を相手のわかる範囲で極力凝縮すると伝わりやすくなります。

できれば一言に凝縮して伝えて、何の話をするか頭を切り替えてもらうのです。凝縮した一言に続けて、更に次の一言を伝えて話を絞り込むと話はスムーズに伝わります。

説明の際に何の話になるのかわからないため、聞き手はまず目的が何で、何の話題かが気になります。聞き手側にとってはこれまで蓄えたどの知識と結びつくのかが興味があるのです。キーワードとも言える凝縮された一言でどの知識に関連があるのか一緒で伝わるため、素早く理解できることから聞き手にとってわかりやすい説明になります。その後次の一言を絞り込むことで、さらに話題が絞り込まれるため理解が深まります。

具体的な言葉の凝縮の仕方

営業マンであれば◯◯の提案です。◯◯の営業です。

学校の授業であれば、化学のモルの話です。物理の力学の話です。

イメージとしてはメールのタイトルをつけるイメージで一言にすると良いと思います。