差別する人の心理学

差別とは人種や肌の色、職業や学歴など様々な違いを元に取り扱いに差をつけることです。

一般的には負の取り扱いをする場合に差別という言葉を使います。特別扱いする場合には優遇や逆差別などという言葉を使います。

どうして差別をする人がいるのでしょうか?差別する人は自分が優れていると勘違いしているか優れていると認めて欲しいのです。差別する人は差別することで、優位性を際立たせ自分の価値を再認識する目的で差別するのです。差別される人は自分より劣っていると思いたいのです。相手が劣っていることをアピールすることで、相対的に自分の優位性を認めて欲しいのです。他の事で優位性を示すことが出来ない劣等コンプレックスの裏返しで差別するのです。

差別する概念がない人はただ単に違いを認識するだけです。差別する人は自分の優位性を示す目的で、違いを蔑むのです。恐らく自分の方が他のことでは劣っているという劣等コンプレックスから逃れたいために、人を蔑むのかも知れません。

動物に対して劣っているとか優れているとか比べるでしょうか?機械と比べて劣っているとか優れているとか考えるでしょうか?動物や機械と比較しても意味がないことは多くの人が理解していると思います。だから動物や機械に対して劣等感を抱くことはありませんし、敵意を抱くことは通常はありません。通常というのはかつて産業革命の時代、仕事を機械に奪われた労働者は機械に対して敵意を抱きました(ラッダイト運動)。通常は動物や機械と自分を比べても意味がないことを知っているので、比べないのです。

しかし同じ人間でありながら、もしかしたら同じ人間であるからこそ、人より優位に立ちたいと考える人がいるのかも知れません。人間だとは認めながら、蔑むのは私には理解出来ませんし、意味のないことだと思います。人それぞれ違うのは当たり前なのですから、違いを尊重し合えばお互い傷付けあうこともありません。

私は医師ですが、診療科による差別発言をする医師に出会ったことがあります。更に自分の診療科を自ら劣っていると発言する医師がいて驚いたことがあります。

法に触れる仕事でない限り職業に貴賎はないと私は信じています。

他の差別にも意味などありません。差別する側が差別すると都合が良いだけです。

差別する心があるかないかは、自分とは属性の異なる集団に入ってみるとわかります。蔑む心から居心地が悪いと思う人はあからさまな差別はしていなくても、差別する心が潜んでいるのかも知れません。差別する心が無ければ居心地が悪いということは無いはずです。話が合わなくて困ることはあるとは思いますが。

自分の心の中に差別の概念がないか探してみて下さい。

知らねば損すらわからない

知らないと損をすることはよくあることです。
そこで新しい諺(ことわざ)を考えてみました。
『知らねば損すらわからない』です。

『知らねば損すらわからない』とは知らないことは損することという意味です。身近な例では全く同じ商品が隣のお店で安く売られていてもそのことを知らなければ損をします。更に一歩進んで考えると、隣のお店で安く売られて損したことすら知らないと、損していることすら知らないのですから損し続けてしまいます。
損をしていることを知った時点で、次から改めるチャンスをもらったと考えれば良いのです。

知らなかった過去を振り返って悔やんでも何も生み出しません。
過去を今後にどう生かすかだけを考えるべきです。
話が少しそれましたが、知らないことは損することと同じです。

何事も知らないと損するということを知るべきです。
知らぬが仏という諺もありますが、知ったことを扱いきれない場合に言われることです。
確かに判断しきれないことを知ってしまうと、どうして良いか分からず知らぬが仏だったという状況もあるかもしれません。しかし何事も全てを知った上で判断するに越したことはありません。

私は最大の『知らねば損すらわからない』の最たるものは糖質の害だと思います。
知った上で糖質を食べるか食べないかを考えるべきであり、糖質の害を知ってしまうと食べるかどうかを悩んでしまうから糖質の害を『知らぬが仏』などと思ってはもったいないのです。
知った上で、食べるのなら覚悟して食べるのが正解だと思います。

知らねば損すらわからない。
何事も知らなければ損していることも知らないまま過ごしてしまいます。
まず何事も知ることから始めましょう。

学校で勉強する理由は、頭の使い方を知るためだと以前書きました。
知らねば損すらわからないから、知らないことを知るために学校で勉強すると付け加えても良いかもしれません。

一時の快楽が身を滅ぼす

利益は企業の為ならずの諺(ことわざ)に引き続き、新しい諺を考えました。
一時の快楽が身を滅ぼすです。

身を滅ぼすのは身体そのものを壊してしまうことと、社会的地位を失うことの両方を意味します。

一時の快楽とは様々な誘惑に負けた結果です。

例えば糖質の誘惑に負けて糖質を食べてしまうこともその一つです。一時の快楽とは糖質を食べた瞬間の満足感のことです。一時の快楽に溺れ続けると、依存状態に陥り糖質の自己抑制がきかなくなり食べ過ぎてしまうようになります。そして糖質を食べ続けるこので、肥満2型糖尿病高血圧各種アレルギーなどを引き起こしています。正に一時の快楽が身を滅ぼすのです。

他にもお酒なども一時の快楽が身を滅ぼす一例です。

一時の快楽が社会的地位を失うとは、不倫などは一時の快楽が身を滅ぼす一例といえます。他にもギャンブルで勝った瞬間の一時の快楽が忘れられず、身を滅ぼすこともあります。

冷静に身を滅ぼすほどの価値があるかどうか考えてみてください。

事柄によってはその一時の快楽を求めて、取り返しのつかない結果に結びつくこともあります。

言い訳人間の見分け方

言い訳人間とはいつも言い訳する人の心理で書きましたが、何事も言い訳することで逃げ出そうとする人のことです。
言い訳をする人は自分の責任から逃れることが目的であるため、次に生かすということはありません。如何に責任逃れをするかしか考えられないので、残念ながら成長することもありません。
自分の責任だと認める概念がないので、いくら言っても時間の無駄です。

できることはできるだけ早く言い訳人間を見分けて、できれば相手にしないことです。
見分け方は簡単です。
問題を指摘し、どうするかを聞いてみることです。
言い訳人間はそれらしい理由を探します。つまり言い訳から始めるのです。
今後どうするか改善策を考えることはありません。何故なら自分の非を認めなければ改善策を考えることができないからです。
言い訳人間でなければ、すぐに改善策を探します。
原因を探ったところでタイムマシンで過去に戻ることができるわけではありませんから、原因そのものに意味はありません。

言い訳人間は自分の責任から逃れることが目的で言い訳をします。改善策まで考える余裕はないと思います。
言い訳人間でなければ、改善することが目的です。自分の責任から逃れる必要がないので、改善策を探すことに専念できるのです。

自分から理由を説明するのは言い訳人間の証拠です。
求められてもいない理由を自分から説明しようとする目的は言い訳だからです。
言い訳を避けるためには、何故問題が起こったのか相手から聞かれた時点で初めて理由を説明するのが良いと思います。

お金の貯まる人と貯まらない人の違い

お金の貯まる人と貯まらない人の違いを考えてみました。
私は典型的なお金の貯まらない人でした。今はお金の貯まる人になりました。両方を経験したからこそ、その明確な違いがわかりました。

持っているお金の額によって生活が変わるか変わらないか

当たり前かもしれませんが、お金が貯まるか貯まらないかは、持っているお金で生活が変わるか変わらないかです。誰でもお金が多くあるとそれなりに使ってしまいがちですが、お金の貯まる人は極端にはお金の使い方が変わりません。お金の貯まらない人はお金があると使い方をあれこれ考えてしまいます。お金があると使い方が変わってしまう人は、お金が貯まるとお金の使い方を考えてしまうのですから、そもそもお金が貯まる訳がないのです。

お金の貯まらない人はあるお金をどう使うかを考えてしまいます。お金の貯まる人は今あるお金の額に関係なく、最低限何にお金が必要かをまず考えます。

お金が貯まる人になるためには、今あるお金の額によって生活を変えないようにすることです。

収入が増えたから良い車に乗って、収入が増えたから良い所に住んでというような考え方をしていると残念ながらお金は貯まらないのです。

確かに多くの人は少しでもより良い生活をしたいと考えがちですが、ある調査ではより良い生活をするとは周囲の人達と比較してより良い生活をすることを意味するそうです。人は無意識のうちに人と比較することで、良い生活を目指すようになるそうです。厄介なのが収入が増えると、比較するのが同レベルの収入の人達に変わってしまうことです。だから収入が増えても満足することはありません。収入が少ない時から考えると夢のような生活をしていても、周囲の人達と比較してしまうとまだまだだと考えてしまうのです。

人との比較をやめて、現時点の収入で無理のない生活を基準にして、お金があっても生活を変えないようにするのです。もし可能であれば想像出来る最低限の生活費での生活をすることを基本とするのです。別のページに書く予定ですが、最低限の物の値段に対して付加価値をつけて高く売ることを考えています。付加価値とは言わば飾りという贅沢です。お金があると飾りに憧れてしまうのです。飾りにお金を使わないように心掛けるとお金を使わないようになります。

給料やボーナスが出たから奮発するというのは危険な兆候です。良かったらご参考まで。

過去は責めても仕方がない 過去の上手な使い方

既に起こってしまった過去は責めても仕方がありません。何故なら時間は一方向にしか流れず過去には戻れないからです。タイムマシンが発明されない限り過去を責めても意味がないのです。

そのため起こってしまったことの理由を聞いても意味がありません。理由を聞いても嘘をついたり本心を隠したいからです。それらしく聞こえることを探し出して言い訳として理由を言うだけのことです。その話の中の嘘に注意しながら過去のことを聞いたとしても、過去には戻れないため何も意味がないのです。

過去の上手な使い方は、過去の失敗や成功を教訓として未来に活かすことです。
過去を責めても過去に戻ることができるわけではなく、取り返しがつかないので意味がありません。タイムマシンを持たない私たちにできるのは、過去を責めるのではなく過去を次に生かす教訓とすること、未来に活かすことです。
過去を責めても、過去をやりなおすことが出来ません。取り返しがつかないものにこだわっても時間の無駄です。責めるのではなく次に生かす教訓とするため、過去の問題点から改善策を学び取るのです。

例えば21世紀のアトピー性皮膚炎の対処法で書いたように、糖質を食べすた結果アトピー性皮膚炎が悪化しますが、糖質を食べたことを責めても意味がないのです。過去には戻れないからです。どの程度食べたのかを思い出すことで、次からその量を食べないという改善策として生かすのです。

別の例えでは戦争という過去は責めても仕方がないことです。
過去は変えられないのですから。戦争は何も生み出しません。価値あるものを破壊し、世界の力関係が変わっただけでしかありません。人類全体で見ると何も生み出しておらず、多くの物が破壊され、多くの人の命が失われてしまいました。戦争を責めても仕方のないことです。
しかし戦争に至った経緯を検証することで、二度と再び戦争をしない知恵を得ることができるのではないでしょうか?

身近な例え話では子供が言いつけを守らなかったことを責めても意味がないのです。何故なら過去には戻れないからです。何故言いつけを守らなかったのかを聞いても本当のことは言わない可能性があります。言いつけを守らなかった事実を元に、どうすれば言いつけを守れるようになるのか今後を話し合えばいいのです。その場合には目的論の考え方を導入すると問題解決が簡単に行えます。いずれにしても言いつけを守らなかったという起こってしまったことを怒っても何も生み出しません。子供が言いつけを守らなかった目的を聞いて、どうすればよいのか改善策を相談することが正解だと思います。

過去の上手な使い方を考えてみましょう。

そもそも宗教とは?

そもそも宗教とは人々が仲良く快適に暮らすために始まったものです。
そしてどの宗教も信じるものが救われるように考えられて作られています。

どの宗教を信じることも、信じないことも自由のはずです。
何故なら人間以外の動物には宗教はないからです。
人間だけが何らかの宗教を信じなければならないと考えるのは、既に信じている人の勘違いです。

もし動物に宗教があるとすれば、我が身を守り子孫を残すという宗教です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
わざわざ自分の考え方を押し付ける動物などいません。食べるか食べられるか無関係かのいずれかです(ごくまれに共生関係という協力関係になります)。

動物に宗教はなくても生きていくことができるわけですし、宗教を信じていない人もいるわけですから必ずしも宗教はなくてもよさそうです。ただ信じているだけで人に強要さえしなければ、宗教はあってもよさそうです。
では何故宗教が存在するかというと、先述のように仲良く快適に暮らすために始まったようです。宗教が生まれるまではお猿さんの世界を想像してもらうとわかりますが、盗みや騙しや殺しなどは日常茶飯事だったはずです。動物は食べるために殺すことはあっても、それ以上にむやみに殺すことはありません。何故なら目的が自らが生きるためだからです。
人間は農耕がはじまってから、富という概念が生まれてしまいました。その富を得るために盗んだり奪ったり騙したりするようになりました。富という概念のせいで欲が生まれたのです。お猿さんに富という概念が備われば激しい奪い合いが行われたであろうことは容易に想像がつきます。
そもそもお猿さんから人間になりたての頃には善悪という概念がなかったはずです。その殺伐とした騙しあい、奪い合い、殺しあうような世界に救いを生み出したのが宗教です。宗教によって善悪の価値観を作り出し、同じ価値観の人たちだけで付き合うようになりました。同じ宗教を信じている人とだけ付き合いや商売をするようになったのです。
力で争いを押さえ付けるのが国であれば、考え方で人々の争いを避けるように導いたのが宗教です。考え方の違う人は相手にしないことで争いを避ける知恵としたのが宗教です。

元々が秩序を生み出すために生まれたのが宗教なのですから、みんなが仲良くすることが目的です。歴史上も宗教に伴い様々な争いが生じていますが、本来なら仲良くすることが目的のはずの宗教が原因で何故争いが起こるかと言えば、人に強要しようとするからです。宗教の本来の目的から外れ、権力という欲を求めて人に宗教を強要するようになるのです。
本来は信じた人同士だけでのやりとりですから争いなど生じるわけがないのですが、少しでも信者を増やそうとする輩が宗教を広めようとして争いを起こすのです。そこにあるのは信者を増やそうとする輩の私欲でしかありません。ただ信者が増えることを喜びたいのか、信者が増えたことで手に入る権力がほしいのかはわかりませんが、私欲によって信者を増やしているのは確かだと思います。表向きは素晴らしい宗教の教えだから、まだ知らない人に教えてあげているだけだというかもしれませんが、そもそもどの宗教も人に教えを強要するという教えはないはずです。何故なら争いをなくす目的で宗教が作られたわけですから、争いの種になる宗教の強要を認めるわけがないのです。

残念ながら様々な宗教の開祖は、宗教家の私欲により争いが起こることは想定できなかったようです。偶像崇拝や他の神を認めないある宗教は、私欲による争いを想定していた可能性があります。だから神以外のものを信じてはいけないと教えているのです。しかしそこに私欲をもった指導者が誤った道に導いて争いを引き起こしています。

宗教を広める過程で、死んだあとにどうなるかがわからない不安を利用するために、宗教ごとに死後の世界を考え出し、信者を獲得していきました。
いわば死後の世界の待遇と引き換えに、現世で何らかの行動をとるように導かれるのです。
一般的には宗教的に悪いことをしないように諭すのが通常ですが、一部の宗教では死後の世界の待遇と引き換えに指導者の欲を満たすことに利用されているのが残念です。

宗教は本来信じたものが仲良くするためにある。
考え方を人に強要しなければ争いは怒らない。

この考え方が広まれば、宗教を信じている人も信じていない人も争いが減るはずです。

気の利く人と気の利かない人の違い

気の利く人と気の利かない人がいます。その違いについて考えてみます。

気の利くとは相手の望むことを察して行動することです。気の利かないとは相手の望むことを察して行動出来ないことです。このことは気の利く人にとっては当たり前のことですが、気の利かない人にとっては相手の望むことを察するという意味がわかりません。つまり気の利く人という意味がわかる人は、恐らく気の利く人です。少なくとも気の利くという意味がわからない人が気の利く人である人の可能性が高いでしょう。

気の利く人

気の利く人は日頃から様々なことを考えて行動しています。相手の望むことをあらかじめ様々なパターンで想定しています。その中で相手の視線や表情から何を望んでいるかを読み取り、相手に合わせて行動できるのです。そして相手に合わせる行動が無理なく自然に出来るのです。気の利く人は絶えず様々なことを想定しているため、様々なことに気がつき相手のためになる行動をすることから、気が利くと言われるのです。

気が利かない人

一方気の利かない人は相手のことを考えることができないようです。能力的に相手のことを考える余裕がない場合と、能力的には相手のことを考えることは出来ても、相手に合わせることの意味を誰にも教えてもらえなかった場合があります。能力的に余裕がない人は無理をしても気の利く人になることは難しいかもしれません。しかし特定の場面に限定して繰り返して相手のことを考えるようにトレーニングすれば、一定の成果は得られるかもしれません。能力的に余裕があっても、気が利くという意味がわからなかっただけであれば、トレーニング次第で気の利く人になれるかもしれません。

別の角度から気の利く人と気の利かない人を見てみると、少しでも相手を助けてあげようと考えるか考えないかの違いです。相手を少しでも助けてあげようと思っていれば、気の利く行動をとるようになります。相手を助けるという概念が欠落していれば、そもそも気の利く行動を取ることは出来ません。この観点から考えると、気の利く人になるためには少しでも相手のためになることをしようという心意気を持つことからはじめると良いのかもしれません。

気が利かないと言われて悩んでいる方は、相手が次に何をしようとされているのかを考えて、代わりにそのことをしてあげるつもりで想定してみると良いのかもしれません。

0と1では大違いの理由

0には単位がありませんが、1となると単位があります。
0には方向がありませんが、1には方向があります。

0には大きさも方向もないので進み方には無限の可能性があります。
1となった時点でその方向が決まります。

0は何もないことをあらわします。何もかもない状態を無と言います。無いことは様々なものが存在しませんが、あることとの比較によって初めて無いことが認識できるのです。1が存在することで初めてそれまで無かったことが認識出来るのです。

例えば
お金と考えて0であれば本来なら単位はありません。0は0です。1円に対して初めて0円と考えることが出来ます。1ドルに対してであれば0ドル、1元に対してであれば0元となります。0は様々な国の通貨がないことを表しますが、1円のように通貨があって初めてその通貨がない0「円」を認識することが出来るのです。

1は0を想像することは出来ますが、0からは1が想像つかないのです。0から見た1はまだ見たこともない未来のようなもので、1から見た0は過去を振り返るようなものだと思います。

10年前にはスマートフォンは0でした。iPhoneが発売された時点でスマートフォンという1が出現しました。その分野が切り開かれてからは様々な発展がみられます。0から1が生まれた時点でその方向を決めるので大きな違いがあるのです。

現在まだ存在しない0のものは、ないことを認識出来ません。1があって初めて0を認識出来るのです。生きている間にどんな1が生まれてくるのか楽しみですね。

やってしまいがちな選択の間違い

やってしまいがちな選択の間違いがあります。
選択の間違いとは、選択肢の選び方ではなくそもそも選択肢を提案してしまうことです。
そのことを説明したいと思います。

選択におけるやってしまいがちな間違いは、選択枝の提案です。
確かに選択肢が全く思いつかない場合には、選択肢を提案してもらえると助かることはあります。
しかし人によっては選択肢の中から相手にとって最善だと思うものを選んであげる大人もいます。
選択肢を選んでくれる大人も悪気があってわざわざしているわけではありません。
大人から見たら迷うことなく最善だと思うことを提案しているつもりなのです。
場合によっては他の選択肢はあり得ないから考える価値がないとすら思い込んでいる場合もあります。

例えば親子の間で進路について選択する場合を思い浮かべてみてください。
親は子供の性格から、最善だと思う選択肢を提案するのはよくあることです。
いくつかの選択肢を提案する場合は最終的には子供が選ぶ余地があるのでまだましですが、場合によっては選択肢の提案が一つだけのことがあるようです。その場合は提案とは言わず強要と言い換えることができます。
親からすれば、悪気があって選択肢を提案や強要しているわけではありません。お子さんの将来のことを考えて選択肢を考えてあげて、場合によっては更に考えて選択まで終えた結果を提案することもあります。進路は明らかに子供の問題です(問題論)。その本来子供の問題である進路を自分の問題だと勘違いして、勝手に考えてしまうのです。
そして進路を親が考えることに疑問を抱かない子供は迷うことなく親の言う通りにしてしまいます。
結果として、自分で考える力を身に着けることができないまま社会に出ることになります。
親が選んだ選択肢の中から選ぶことになるのですから自分で考えることが苦手なのは仕方がありません。

選択の間違いとは、選択肢を用意してしまうこと

選択肢を選ぶ時点で無限にある可能性の中から何らかの基準を元に、選択肢を選ぶことになります。その選ぶ時点で知恵が必要なはずです。その知恵を伝えることなく選択した結果のみを伝えることは絶対に相手のためになりません。むしろ大切なのは選択肢の作り方という知恵を授けることです。代わりに選択肢を作ってあげることではありません。選択肢を作ってしまう大人は、無限にある選択肢の候補の中から適切な選択肢を選ぶ作業を経験しないと、適切な選択肢を選ぶことができないことを知らないのです。
この大切なことを理解している人が少ないため、大人は間違いに気付きませんし、子供は社会に出てから混乱してしまうのです。

自分で無限にある選択肢の中から検討する余地のある選択肢を選ぶことに意味があります。最終的に選択した結果だけで判断しがちですが、選択肢を選ぶ経験をすることで、様々な知恵を身に着けることができるのです。結果論と経過論で経過にこそ意味がある考え方に通じるところがあるかもしれません。

選択する際に本当に大切なこと

今回の本論はまず無限にある選択肢の中から、選択肢となりえるものを選び出すことこそが大切ということです。
その意味で余談になりますが選択肢の選び方の間違いで多いのは、まず直感・感覚で選んでから選んだ理由を言い訳のように探すことです。
選ぶ過程にこそ意味があるので、選択基準を先に決めて選択肢を振り分けて選択していくことが大切です。
つまり選択基準を先に決めることこそが本当に大切なことです。
選択基準を先に決めてしまえば、明らかに選択基準から外れるものは検討する必要が全くないのです。

例えば親子の進路の話で例えれば、金銭的な選択基準です。
県内で自宅通学可能であれば私立も選択肢となりえるかもしれませんが、県外だと国公立しか余裕がないなどです。この場合は県外の私立の選択肢を進学先に考えても無駄に終わってしまいます。
こうした選択肢の選び出し方が何事においても大切です。
当たり前だと思われる方も多いかもしれませんが、相手が選択肢の選び出し方を本当に身に着けているのか一度確認してみるとよいと私は思います。
この選択肢の選び出し方を身に着けずに、社会でうまく生きていくことは難しいと私は思います。