今世紀最大のどんでん返し、まさか真犯人が・・・。

私は間違いなく今世紀最大のどんでん返しだと思うことがあります。

人類の歴史を覆すことだと思いさえします。
それは多くの病気の真犯人がわかったことです。

残念ながら今のところ状況証拠しかそろっていないので、容疑者の段階ですがもし証拠が揃えばまさかの真犯人です。
様々な病気の容疑者が糖質だったということです。
状況証拠とは糖質をやめたり減らしたりしただけで、病気が改善している人が多数おられるという事実です。
生活習慣病といわれる2型糖尿病、肥満、高血圧などは間違いなく糖質の影響があると思います。
人類が糖質を食べないことが基本の生活になれば生活習慣病は激減すると思います。
そもそも生活習慣病という病名自体にも問題があると私は考えています。
何故なら生活習慣ではなく、糖質のとり過ぎによる糖質依存症でしかないからです。

まだこれも容疑者の段階ですが各種アレルギーの大元の真犯人も糖質のようです。
そして繰り返される感染症も糖質が犯人の可能性が考えられます。
難治性のニキビやイボの原因の可能性です。

人類が農耕を始めて1万年。
食べるものの選び方が病気を引き起こすのは、脚気以来だと思います。

推理小説顔負けのどんでん返しです。
日本は歴史的に米を大事に扱っていました。
大名の強さが米の取れ高で現されるという、他国には見られない文化がありました。
米は主食として大事にされ、輸入自由化でも一悶着も二悶着もありました。
それだけ大事にされた米が病気の真犯人だなんて、推理小説で犯人を捜していた主人公が実は自分が真犯人でしたというくらい驚きのどんでん返しです。

糖質をやめると様々な病気が改善します。
というよりも病気の原因が糖質のとり過ぎだったのです。
私の立てた仮説では糖化産物が免疫機能に作用してしまい、過剰に働けば自己免疫性疾患やアレルギーを引き起こし、抑制してしまえば感染症や腫瘍を引き起こすのではないかと考えています。

状況証拠から今世紀最大のどんでん返しに気づいている人は、既に糖質を減らすかやめています。
まだ気づけていない人は、早く気づく方がお得だと思います。

30年もすれば、
主食なんて考え方があったんだって!?
糖質の食べ過ぎで2型糖尿病とか、肥満、高血圧、アレルギーとかいう病気があったらしいよ。
糖質の食べ過ぎで病気がいっぱいあったけど、主食という考え方をやめたら病気が減って人類みんなが健康になったらしいよ。
なんて言っている時代が私は来るのではないかと考えています。

言い訳と説明の違い・その境界線

言い訳に関しては以前いつも言い訳する人の心理に書きました。

今回は言い訳と説明の違い境界線について考えてみます。

言い訳とは悪いのは自分かも知れませんが、自分だけが悪いわけではないことをわかってもらうことを目的にすることです。
いわば本当の意味で自分が悪いとは認めていないことを周囲にアピールしているのと同じことになります。
だからこそ言い訳は人の疎まれるのです。

しかし言い訳する方は事情があったのだから説明は必要だと考えてしまえようです。
その事情が相手には『意味』がなくても、言い訳する人にはその事情にこそ『意味』があると考えているので認識が平行線になってしまいます。
言い訳するな!言い訳していません!という会話はこの認識の違いによるものです。

では言い訳と説明の違いは何でしょうか?

一言で述べれば、相手が事情を求めているか求めていないかです。
事情を求めていれば説明になりますが、事情を求めていなければ言い訳になります。

やむをえない事情によっては対応を変えることの出来る余裕のある人と、事情に関わらず対応を変えることの出来ない人がいるのです。
そして多くの方は事情によって対応を変える余裕がないのが現状です。
事情によって対応を変えるつもりがないのですから、その事情を聞かされても『意味』を見出せないのです。
事情を聞かされる『目的』を推し量ると、自分だけが悪いわけではないとわかって欲しい自己弁護なのではないかということに思い至ります。
本人は無意識のうちに行うことですから悪気はないのですが、ただ説明しているだけのつもりが客観的には自己弁護になっているので、反省していないとしてかえって責められてしまうことになってしまいます。

自分ではこの事情は説明しておいた方が良いと考えたとしても、相手が事情を気にしていなければ言い訳としてしか受け止めてもらえません。
言い訳か説明かの区別は相手がすることであって、話す側からは判断がつかないのです。
こちらは説明のつもりで伝えたとしても、言い訳として受け止められてしまうかもしれないのです。
相手に判断を任せてしまうのは危険なので、自分では説明のつもりでもあえて言わないことだと思います。

事情を聞いてもらえれば、その時点で事情を説明すれば、言い訳にはならないと思います。

相手が事情を求めていれば説明になりますが、相手が事情を求めてもいないのにこちらから説明すると言い訳になると私は思います。

今回は言い訳を聞かされる人の立場で書きましたが、言い訳を自分がしているかどうかわからない人の視点で考えてみたのはこちらで確認してみてください。

これから必要なのは何かをやめる勇気

これから必要なのは何かをやめる勇気だと思います。

これでの考え方は足し算の考え方でした。何かを足すことばかり考えていました。

そして何か失敗すると評価は掛け算でなされてしまいます。ゼロかマイナスをかけられてしまうのです。積み上げた分マイナスを掛けるとマイナス分も大きくなります。マイナスを恐れて何もしないことが、失敗しないという最大の得策と錯覚してしまうこともあります。大成功を狙うよりも大きなマイナスを避けるために、冒険をしない

何れにしても何をするのか、何をしないのかという観点がほとんどです。

これからはこれまでやってきたことの何をやめるのかを検討するべき時代に来ていると思います。これまでやってきたことを続けるのが一番楽な発想です。何故なら何も考えなくても、これまで通り続けるだけで良いのですから。通常は続けることに理由が求められることは少ないと思いますが、やめるとなると皆が納得する理由が必要となるからです。

本来ゼロから合理的に考えるのであれば、一つのことを続けることとやめることは対等なはずです。続けるメリット・デメリット、やめるメリット・デメリットを冷静に比較検討して続けるのかやめるのかを考える方が合理的です。続けるには理由が必要無くても、やめるには理由が必要となれば何事も冷静な判断をされることなく続ける方向に向かってしまいます。

要するに何事もやめるのは面倒でも続けるのは簡単なことが多いということです。

やめるのが面倒なことが判断を鈍らせてしまいます。

例えば新聞をとっている御家庭もあるかも知れませんが、大して読まなくなってもやめる機会をみつけられず惰性で取り続けているのは良くあることです。続けるメリット・デメリットとやめるメリット・デメリットを冷静に比較すると、案外これまで続けていた理由が惰性以外に見つからないこともあります。考えられるメリットは知人が新聞に載ったことを見逃して後日知っても記事を探せることくらいでしょうか?

他の例えで考えると、宣伝広告をこれまで長年行っていると、やめる機会を逃してしまっていることは良くあるようです。やめる検討すら考えたことも無いかも知れません。本来であれば宣伝広告は費用に見合った広告効果がなければ、即座にやめるべきものです。毎年宣伝広告を続けるかどうか、宣伝広告を始める場合と同様に検討し、効果の方が高ければ続ける方が得ですし、効果が低ければやめる方が得です。

何かを続ける場合には、やめるか続けるかを良く考えてから行う方が良いことが良いことがあります。惰性で続けてしまいがちですが、再度ゼロから考えて始めるかどうかを慎重に検討する方が良い思います。

何事も深く考えることなく楽をしたいという心理に引きづられてしまい、惰性で続けてしまいがちだからです。

最後に一番言いたいことは、糖質をやめる勇気を持ってもらいたいと思います。実際には糖質をやめる勇気ではなく、冷静に何故糖質を食べるのかをゼロから考えてみて欲しいと思います。糖質を続ける理由は何ですか?と自分に問いかけてみて欲しいと思います。

この糖質の問いかけが人によってはお酒だったりタバコだったり、もしかしたらギャンブルかも知れません。人によっては仕事なのかも知れませんが、やめる勇気と続ける理由について深く考えてみてください。

このように考えることが人生の転機になるのかも知れません。

炭水化物で検索してみると…

ふと考えることがあって炭水化物で検索してみました。

すると炭水化物・糖質を減らすと良くないというサイトを多数見つけて驚きました。

様々な情報を統合して考えてみても、炭水化物・糖質に害があるのは明らかだと思います。

炭水化物・糖質摂取派の意見を要約すると、脳がブドウ糖しか使えないため、炭水化物を食べるべきだというものです。

タンパク質からブドウ糖を作り出すことが出来るため、無理に食べる必要はありません。

しかも2型糖尿病をはじめ各種アレルギーの原因が疑われるのですから、糖質回避教を推進する立場からすると理解は出来ません。

お互いそのように信じているのですから、議論しても無意味です。糖質摂取教と糖質回避教という具合に、お互い信じるものが違うのですから、いわば考え方の根本が異なるのです。

私は論理的に考えると糖質回避教が有利だと考えていますが、正直これだけネット上に糖質を勧めるサイトがあることに驚きました。

ここに問題の本質があります。
人は見たいものしか見ない傾向にあります。
そもそもインターネットでは検索をしないと情報は出てきません。
そのため炭水化物が食べたい人は炭水化物を食べる方が良いという情報を検索し、炭水化物を食べない方が良いと思っている人は、炭水化物を否定する情報を検索してしまうので自分に都合の良い情報しか目に触れないのです。

インターネットがここまで広まる以前は、情報は印刷されたものかテレビで見るしかありませんでした。そのため出版社やテレビ局の判断が下されていました。これが真偽の判定のフィルターになっていたのです。この真偽の判定のフィルターがある程度情報の質を担保していました。(実際には販売数、視聴率、スポンサーのバイアスがかかるため完全に正確ではありませんでしたが)

インターネットでは誰でも情報発信ができるだけに、情報の質を誰も担保していないのが現状です。そのため読む人が真偽を判定する必要があるのがインターネットの情報です。
インターネット上の情報が全て正しいわけではないので、情報を取得するのは簡単になりましたが実は以前よりも正しい情報を探すのは難しくなってしまっているようです。

炭水化物一つとってもこれだけ情報が錯そうしているので、インターネットを活用する際には注意が必要なようです。
できることならこのサイトが真偽の判定のフィルターになれると良いなと思っています。


 

しつけと虐待の境界線

しつけと虐待の境界線は時として曖昧なことがあります。

怒る必要のない子育てを提唱している立場からすれば、子供に対して怒る時点で虐待?とも思ってしまいます。さすがに怒ること全てを虐待と考えるのは極端としても、時として子供を怒ることは必要だと思われる方も多いことだと思います。

しかし子育ての教科書のような指針となるものがないため、怒る状況や程度は親が考えなければいけません。この指針がないことが、しつけと虐待の境界線を曖昧なものにしてしまいます。

私は以下のことは避ける方が良いと考えます。

  • 手をあげる
  • 無視
  • 長時間の説教
  • 家から出す

実際子供が言うことを聞かないとついやってしまいがちです。

ここで大切なことは、しつけの目的が親の言うことを聞かせることではないことです。しつけ本来の目的は子供が社会に出て困らない常識を身につけさせてあげることです。親に従わせることではありません。

何も知らない子供の立場に立って、子供に説明することです。特に行動の目的を伝えていないと子供には理解できず、同じような行動を繰り返してしまいます。

上記の手をあげる、無視する、長時間の説教、家から出すというのは親が子供にわかるように説明することから逃げてしまっているように思います。

子供は親にとっては当たり前の何かを知らないだけです。その何かを教えてあげてみてください。

子供が将来困らないように常識を身につけられるように、怒るでも叱るでもなく諭すようにすると決して虐待にはなりません。しつけと虐待の境界線を気にする必要はなくなります。そして子供も親もイライラすることがなくなるので毎日が楽しくなりますよ。

人は怒られると反省出来ず、困ってしまう

怒られると人は困ってしまいます。
何故なら怒られた理由が理解出来ないからです。

そもそも怒られることがわかっていれば最初から怒られるようなことはしません。

怒られるのは怒る人にとっての当たり前のことを知らないからです。怒る人にとっては当たり前だから、怒る内容を伝えることなくただ怒るのです。怒られる人は何を怒られるのかわからないまま、ただ怒られるのです。何故怒られるのかわからなくても、怒っている本人に何が悪いのか聞く勇気のある人はほとんどいません。

何を怒られるのかわからないまま怒られるのですから、反省のしようがないのです。そして結果として困るしかないのです。

怒る場合何が問題か相手が全く知らないことを前提に説明しなければ、上記の理由により怒られた相手は困るだけです。

ただ怒るだけでは相手は内容を理解していないので無意味です。そういう意味で怒ることに意味はありません

怒ることで伝わるのは怒っているという感情だけです。犬が吠えているのと何ら変わりありません。

怒ることが意味がなければどうすれば良いのでしょうか?

怒るよりも叱るよりも諭すだと思います。

怒ったところで相手は反省した振りだけして、困るだけです。

泣かさない子育ての利点

 

子育ての際出来るだけ泣かさない子育てを提唱しています。

子供は泣くのが仕事という考え方もありますが、私は泣かさないのが親の仕事と考えています。当然全く泣かさないという子育ては無理ですが、極力泣かさない方が良いのではないかと思います。

赤ちゃんの泣き方には3種類あると思います。実際にはもっとたくさん泣き方はあるのかもしれませんが私は3種類に分類してみました。

3段階の泣き方です。

  • 試し泣き
  • よび泣き(呼び泣き、予備泣き)
  • 本気泣き

試し泣き

ごく小さな泣き声で周囲に相手をしてくれるか試しに泣いてみる泣き方です。この泣き方のうちに相手をするとすぐに泣き止みます。

特に訴えがなく何となく寂しいだけでも試し泣きをすることがあるようですし、人が近くにいるのか確認するために試し泣きをすることもあるようです。

小さな泣き声なので同じ部屋にいないとわからないかも知れません。

実は試し泣きの前に表情が変化します。声を出さずに顔だけ泣いているような表情です。これは顔を見てくれている大人に対するメッセージで試し泣きの前段階です。泣くぞ泣くぞと警告しているようなものです。試し泣きの段階で相手をすると、試し泣きすら避けることが出来ます。

よび泣き(呼び泣き、予備泣き)

周囲の人を呼ぶ泣き方という意味で呼び泣きであり、本気泣きの予備という意味で予備泣きです。

赤ちゃんがよび泣きをする場合には何らかの訴えがあるようです。抱っこして欲しい、お腹が空いた、オムツを替えて欲しい、暑い・寒いなどの訴えです。子供なりのメッセージを出しているようです。

本気泣き

よび泣きで相手をしてもらえないと本気泣きで訴えます。その際は家中に響く目一杯大きな声で泣きます。

少しでも早く相手をしてもらうために一生懸命泣き続けます。

泣かさない子育て

出来れば試し泣き前の表情が変わる時点で相手をして、試し泣きすらさせないことが理想です。ずっと顔を見ていることが出来れば全く泣かさないことも可能ですが、実際には無理です。

次善の策として試し泣きの段階で何とか対応すると良いと思います。

せめてよび泣きで対応し、本気泣きをさせないことです。

泣かさない子育てとは、現実には本気泣きさせない子育てのことです。子供は泣くのが仕事という考え方もありますが、私は親が泣かさないのが仕事だと思います。

試し泣きで対応し、それ以上泣かなければ親の勝ち、よび泣きをされれば赤ちゃんと親の引き分け、本気泣きされれば赤ちゃんの勝ちと考えます。

せめて負け越さないように子育てするとメリットがあると思います。

泣かさない子育ての利点

3つあります。

一つは赤ちゃんが欲求を満たすために泣くという無駄なエネルギーを使わないことで、早く成長すると思います。

一つは私の想像ですが、赤ちゃんがストレスを感じることが少なく、情緒不安定になりにくいと思います。夜泣きも少ないのではないかと思います。

一つは泣くことで親を操ることを赤ちゃんの頃から覚えてしまうのですが、それを避けることが出来ます。具体的には幼児がスーパーやデパートなどで泣き叫んで親を操り、欲求を押し通そうとすることを見掛けることがありますが、子供の親が操るような行動を避けることが出来ると思います。

泣かさない子育て勝負で勝ち越しすると面白いですよ。

人は比較により初めてわかることがある

比較することは大切です。
当たり前に過ごしているとその価値に気づくことが出来ません。
比較することで初めて存在に気づくことも有りますし、気にもしなかったことが無いことに気づくことが出来るのです。当たり前に感じていたことで意識すらしていなかったことが、比較することで実は特別なことだと気づくこともあります。

比較しなければ、当たり前は当たり前過ぎて気づくことが出来ません。例えば家族の中では当たり前のことも、友達と比較してみると当たり前ではないことがわかります。具体的には家族で一緒にお風呂に入るのが当たり前だと思っている人は、他の人も家族でお風呂に入るのが当たり前だと思い込んでいます。友達と比較することで初めて家族でお風呂に入らない家があることを知るのです。

ちなみに日本ではそれ程驚かれない小学生の娘と父親の入浴ですが、欧米では性的虐待が疑われるそうです。これも比較することでわかることです。

家族での比較はローカルルールのような誤差みたいなものかも知れませんが、他の国の習慣との比較では娘と父親の入浴のように驚くほどの違いがわかることがあります。

逆に日本では当たり前のこと過ぎて認識出来ないことも外国と比較することで、凄いことだと気づくことが出来ます。具体的には治安の良さです。日本でも犯罪は確かにありますが、夜の一人歩きでも基本安心ですし、強盗に襲われるとニュースになる程です。国によっては昼間でも一人で歩くと危険な場所もありますし、殺人すら日常茶飯事でちょっとした強盗ぐらいではニュースにならないこともあるようです。

日本国内の比較では都会は治安が悪く、地方は治安が良いのかも知れませんが海外との比較では驚くほど治安が良いことを再確認出来ると思います。

争いの原因は相手を理解出来ないこと

様々な争いの原因を探してみると、相手を理解出来ないことです。親と子、友達同士から恋人同士や夫婦、親子間に至るまで争いの元を辿れば争いの原因は、相手を理解出来ないことです。

腹が立つのも喧嘩になるのも結局のところ相手のことが理解出来無いからです。理解出来なくても受け入れることが出来れば争いにはなりませんが、受け入れることが出来なければ何らかの争いに発展してしまいます。

人間は人それぞれ考え方が異なります。十人十色どころか百人いれば百色、千人いれば千色、人の数と同じだけ異なった考え方があります。何故なら育った環境や経験・知識が人によって全く異なるので、考え方が人によって全く異なるのは当然と言えば当然です。

その考え方の違う人同士が分かり合うことの方が難しいのです。相手を理解するという難しいことが、簡単に出来るはずだと考えているから、腹も立つし喧嘩にもなるのです。

相手を理解出来ると思っているからこそ腹も立つし喧嘩にもなるのです。自分の想像も及ばない考え方のため、相手を理解出来ないかも知れないと思いながら対応すると、腹も立たなくなりますし喧嘩にもなりません。

つまり争いの元は、本来なら理解することが難しい相手を、自分の尺度で理解出来るはずだと思い込んでいることです。

そもそも考え方が根本から異なれば、争っても解決の糸口は見つかりません。お互いの尺度が異なるので争っても比べようが無いのです。

お互いの考え方が相容れないものであれば、最初から争わずお互い折り合いのつく妥協点を探すのが得策だと思います。争ってもわだかまりが残るだけで、何も良いことはありません。

特に親子間など力関係が明らかな場合、力の強い親の意見を押し付けてしまいがちとなります。その結果子供が納得出来無いまま受け入れるしか無くなることで、考え方が歪んでしまう可能性があります。その積み重ねが将来親が想像もしない行動に出てしまうきっかけになるのかも知れません。子供には子供なりの考え方がありますので、例え子供といえども折り合いのつく妥協点を探すことで争いを避けることが出来ると思います。

親子間ですらお互いわからない考え方が、他人同士でわかるはずがありません。まず相手の考え方はわからないものだと受け入れた上で、理解出来ないことに腹を立てないだけで争いを避けることが出来るのです。その上で相手の考え方と自分の考え方の折り合いがつく妥協点を探すことで相手の考え方の一部を受け入れることが何より大切だと思います。

人と人はわかりあえると私は信じたいと思います。そしてわかりあうことが出来れば、全ての争いが無くなると私は思います。

 


 

性教育の理想を考えてみました

性教育を学校で教えようとすると、わざわざ性に対して興味を持たさなくて良いとして反対する人がいます。

性教育に反対する人達

性教育に反対する人は恐らく知識が無いのだと思います。人間は年頃の男と女がいるだけでは子孫が残せない種族だということを残念ながら知らないのでしょう。そのため性教育が必要だということが理解出来ないのだと思いますから議論する意味はありません。子孫の残し方を生まれつき知っていたと勘違いしているのか、性は恥ずかしい物だという偏った考え方をされているのかも知れません。住む世界が異なる異教徒として、お互いの考え方を尊重し、丁重にスルーするのが得策だと思います。

人間は男と女がいるだけでは子孫は残せない

霊長類は生まれつき子孫の残し方を知っている訳ではありません。周囲の行動を見ることから子孫の残し方を学ぶようになっています。そのため年頃の男と女がいるだけでは、子孫は残せないのです。意外かも知れませんが子孫の残し方の知識が無ければ、子孫を残すことが出来ない稀な種族なのです。

そして性のことに限らず、人間は知らないことに興味を持たせることで新しい知識を身につけるように仕向けられています。赤ちゃんですら知りたいことがあれば必死で見ようとします。興味があれば人は自分から情報を求めるのです。大人が望む望まないに限らず、興味があることを知ろうとします。

人は誰かから子孫の残し方を教えてもらわなければ子孫を残すことが出来ないのです。そのことを大人が受け入れて、本来なら年頃になればキチンと子供達に教えてあげる必要があるのです。

これまで子孫の残し方を学校教育で正式に教えることは無くても、子供達が生まれていることからどこかで子孫の残し方を知ったのだと思います。幸い人間には知らないことに興味を持つ仕組みがあり、性に対しても知らないので興味を持つのが当たり前なのです。それを大人が恥ずかしがってキチンと教えないから、子供達が興味を持って偏った情報に触れてしまう危険性があるのです。

性教育の本来の姿は人間の身体の仕組みを知ることと、子孫を残す方法を教えることです。日本では女性は16歳から結婚出来るので、それまでに知識として授けるのが合理的だと私は考えます。具体的には義務教育の間に全ての子供達に学校で教えるのが、理にかなっていると思います。そのことを知った上で子供達自身が性と生のことを考えると良いと思います。

性教育の一歩として高校で年齢に伴う妊娠率の推移を教えるのは良いことだと思います。

理想の性教育

本来の性教育は男と女、オスとメスがどうして生まれたかから教育すると理解しやすいと思います。詳細は省きますが、メスは確実に自分の子孫を残すことを選んだ代わりに子供にエネルギーを与え、オスは代わりに子供が自分の子供かどうかわからない代わりに一度に多数の子孫を残すことが出来ることを選びました。これが本来オスとメスに別れた理由ですが、更に人間は他の動物よりも遥かに子育てに労力がかかるので、一夫一婦制を選択している動物としては特殊な存在です。そして女性は胎児として1人でお腹の中で10カ月育て、その後も赤ちゃんが未熟なために働くことが出来ません。そのため妊娠中と出産後の生活を支えてくれる優しい男性を求める必要があるようです。そのことまで教えてあげるようにすると本当は良いのかも知れません。