嘘について 〜嘘の是非〜

嘘について考えてみます。

一般的に嘘はいけないことだと教えられて育ちます。日本では嘘つきは泥棒のはじまりとして嫌われます。しかし誰でも多かれ少なかれ嘘はついてしまうものです。この文章を読みながら、自分は嘘は付かないと思われた方は自分のついた嘘が認識出来ないだけです。例えば日本人の共通認識の『本音と建て前』と言う概念がありますが、本音が真実で建て前は真実を隠すための嘘以外の何物でもありません。日本人は狭い国土で隣人が変わらないため、争いを出来るだけ減らす『知恵』を考えて行き着いた先が『本音と建て前』の使い分けです。『嘘』を『建て前』という理想で包んで、角を立てないようにする『知恵』でした。言い換えればお互いのための『嘘』を『建て前』として受け入れて、争いを避けたのです。そう考えばお互いのための『嘘』であれば受け取ることが出来るのかもしれません。最近では『本音と建て前』が嘘を巧妙に隠すための言い訳として使われているのが残念です。

そして日本には『嘘も方便』と言う諺があります。方便とは相手を気遣う嘘のことです。やはり狭い国土で皆が仲良くするための『知恵』でした。勘違いしている人は嘘も時には許されると、大きな誤解をしています。相手を傷付けないための嘘が許されるだけです。

『本音と建て前』の嘘も『嘘も方便』の嘘も相手を気遣うことが目的であれば許されると私は思います。しかし自分のための嘘は許されるはずがありません。

誰のための嘘か簡単にわかる方法は、嘘によって誰が得をするのかを考えることです。相手の人か第三者が得をするのであればそれは方便かもしれません。しかし自分が得をするのであれば、自分のための嘘です。倫理的には詐欺師と何もかわりません。違いは犯罪とされているかいないかだけです。だから嘘つきは泥棒のはじまりと言われるのです。

適切な倫理観を身につけず、嘘をつくことに抵抗が無い人がいます。ただ嘘が発覚すると自分が損をするので、通常はバレるような嘘をつく人は稀です。ごく稀にバレるような嘘を平気でつく人がいます。嘘が許さないことを知らないのかバレることが理解できないのかわかりませんが、一般の人と感覚がずれている人がいます。国家として嘘が平気な国もあるくらいですから仕方がないことかもしれません。

嘘・偽り・誤魔化しが平気な人は、小さなことの積み重ねで誰からも指摘されなかったため、問題が無いと思っているのです。何故ならこれまで指摘されなかったから。

嘘・偽り・誤魔化しが嫌われるのは、嘘・偽り・誤魔化しのせいで時間やお金を損したり無駄が増えるからです。嘘・偽り・誤魔化しをするとかえって損をする仕組みを編み出すべき時かもしれません。

すぐにバレる嘘を平気でつく人は相手にしないのが一番なのかもしれません。

日本の高校生が自信を持てない理由

日本の高校生は他国と比較して自分に自信が持てない人が多いという調査結果が国立青少年教育振興機構より出されています。以前書いたように、何らかの比較をしてはじめて認識することが出来ます。高校生は自信を持てないといっても比較しなければ、当たり前過ぎて疑問にも思うことが出来ないのは、以前書いた通りです。

何故日本人は自信が持てないのでしょうか?

私は学校で減点法で評価された結果だと思います。100点を基準とし、何点足らないかをはかる試験を繰り返されることで如何に未完成かを突き付けられたことに起因すると思います。特に偏差値を持ち込んで高校を序列化した受験を乗り越えた高校生の調査だからこそ、自信を無くしている結果が出るのだと思います。

減点法での評価と偏差値での序列化の結果、日本の高校生は自信が持てなくなってしまうのだと思います。減点法だけであれば自分の未熟さを痛感するだけで、自信を失うことは無いと思います。人と比較して劣っていることを知ってしまった結果、自信を失ってしまうのではないかと思います。最大限の努力を引き出すために競うことに意味はありますが、競うことで自信を失くしてやる気を削ぎ落としてしまうのはもったいないことです。
まるで楽しむためにはじめたスポーツで勝負にこだわりすぎて、自信を失くしてスポーツ自体を苦痛に感じているようなものです。

自信を失う元となる減点法と偏差値ですが、元々は勉強の記憶と理解度をはかり、相対的に評価することが目的です。
本来であれば勉強を理解出来ているかどうかをはかるだけで良いはずですが、相対的に評価するためにわざわざ差がつくように問題を調整するのです。一定のレベルをこえると差が付かないから減点法で減点出来る部分を探し出して、無理矢理差を付けて評価するのです。

加点法でも評価は出来るはずですが、評価する側の負担が大きくなり過ぎるため評価する側の都合で減点法で評価しています。減点法の問題の質により、減点する度合いが異なるため、偏差値という考え方が導入されました。これも評価する側の都合です。
評価する側の都合によって評価されてしまった結果、自分に自信を持てない高校生を増やしてしまったのではないかと思います。

そろそろ100点満点のテストでの減点法による評価をやめ、加点法での評価をはじめる学校が出てきても良いのではないかと思います。

例えばこの公式を使う問題を作りなさい。という出題された問題を解くというスタイルではなく、発想次第で無限に広がる公式を使った問題を考えなさいという出題をすれば、もしかしたら学校の先生達をこえるような才能を見出すことが出来るかもしれません。

あと何年すれば日本の教育が、減点法と偏差値の呪縛から解き放たれるのか個人的に興味があります。全体には広がらなくても、呪縛から抜け出した最初の1校がいつになったらあらわれるか楽しみです。私が生きている間には一つくらい減点法や偏差値にとらわれない学校があらわれるといいですね。

液晶テレビで苦戦している会社に思う

液晶パネルで苦戦している国内メーカーがあります。

海外の液晶パネルとの価格競争に巻き込まれて苦戦しているようです。海外メーカーにはない技術的なアドバンテージはあるものの、付加価値と価格の折り合いがつかないようです。

早期退職制度を設定して退職を促しているようですが、辞めるのは他でもやっていける自信のある優秀な人というのは皮肉なものです。詳しくはわかりませんが、私が社外取締役ならこうするという空想を書いてみたいと思います。

私は企業を存続させるつもりでれば早期退職制度は否定的です。何故なら退職してもらっては退職者から何も生み出せないからです。日本には偉大な先人達がおられました。いくら経営が苦しくても退職をさせないことを実行した人達がいます。私が尊敬する出光佐三氏や松下幸之助氏です。ではどうしたのかと見てみると、戦後石油を扱うことの出来なかった会社を存続させつつ社員を養うために出光佐三氏は別の仕事を探したそうです。

某液晶パネルメーカーも別の仕事を探してみれば良いと私は思います。私ならとにかく機能をそぎ落とした格安携帯を作り、途上国での勝負を考えます。現在の液晶パネルを作る合間に、とにかく機能をそぎ落とした格安携帯を手の空いた人間で作るのです。とにかく機能をそぎ落とすことに専念することで、海外で売れる携帯を作るのです。あえてスペックを落とす製品を安く作ることの出来る可能性を探ってみます。(可能性を探した結果、海外で売れるような格安携帯の開発は無理となっているのかも知れません)

格安携帯は一つの可能性を提案するきっかけで、他には社員から新たな事業を社員から募集します。このままではリストラすることになりかねないから、自分達で仕事を作り出すことを促すのです。極端な話では、全くの異業種に参入することも厭わずチャレンジしてみると良いと思います。それでも駄目なら仕方のないことだとは思いますが、ただ撤退では何も生み出せないのが残念です。

出光佐三氏や松下幸之助氏が生きておられたら、安易にリストラする今の日本の現状をどのように見られるのか聞いてみたいものです。

当たり前の有難さに気付く方法

余りに当たり前のことは、その有難さに気付くことはなかなか出来ません。比較をしない限り有難さに気付くことは出来ません。例えば糖質を食べる炭水化物を主食として食べる習慣は当たり前過ぎて、食べないとどうなるのか?ということは認識出来ません。実際に比較をしなければ、当たり前過ぎて糖質を食べない選択肢があることに気付くことは出来ませんでした。

具体的には日本人にとっては当たり前のことは日本人同士ではその価値や意味に気付くことは出来ません。海外と比較することで初めて認識することが出来るのです。言わば日本人にとって当たり前のことは、特別なことではなく当たり前すぎて認識出来ない空気のような存在になるのです。存在していて当たり前で日頃特に意識しない程当たり前となってしまっていることが多々あります。

例えば安全な水です。水道をひねれば飲むことの出来る水が手に入ります。海外では飲むことの出来る水ら貴重なことです。海外と比較しなければ水が簡単に手に入る有難さに気付くことは容易ではありません。

例えば治安の良さです。夜道の一人歩きでも犯罪に巻き込まれることはほとんどありません。海外では昼間で男性でさえも一人歩きは危険な場所がいくらでもあるようです。日本では犯罪に巻き込まれないのが当たり前ですが、海外では場所によっては犯罪に巻き込まれるのが当たり前です。

日本では街中で喉が渇けば自動販売機で飲み物を買うことが出来て便利ですが、そもそも海外では自動販売機は壊されてお金を抜き取られてしまうため自動販売機そのものがありません。

日本では順番に並ぶなど様々なことに秩序が保たれていますが、海外では順番に並ぶという概念そのものがないこともあるようです。

これらは比較しなければ当たり前すぎて有難さを認識することが出来ないのです。比較は当たり前の有難さを再認識させてくれる重要な意味があると思います。他人との比較、他国との比較、過去との比較など比較の方法は様々ですが、比較することで当たり前の意味を再認識してみてはいかがでしょうか?

反対だけなら猿にも出来る

かつて反省猿という反省のフリをするお猿さんが流行りました。反省したように見える行動はお猿さんにも出来る証拠です。
反省が出来るのですから、反対ぐらいお猿さんにも出来るでしょう。何事にも反対!反対!と手を上げて叫ぶだけですから。

流石に人間ともなると反対!反対!と叫ぶだけではなくて、それらしい理由も付け加えるので話が混乱します。ある理由のせいで反対していると勘違いするからです。反対が先にあって、それらしい理由を探してくるだけです。それらしい理由を論破しても次の理由を探してくるだけなので無意味ですし、そもそも反対が目的なので聞く耳を持ちません。理解しようともしません。

同じレベルでの議論は無意味です。相手はまず反対したいのですから、言葉の通じ無い反対お猿さんとかわりません。とにかく反対するお猿さんに議論は無理です。何故なら反対することしか考えていないので、どうしたら賛成になるのか考えていません。そもそも賛成する気は全く無いので、どうしたら賛成出来るかなんて考える気も無いのですから。そういう意味ではとにかく反対する反対お猿さんは反対と賛成の境界線がそもそも無いので、アナログ思考なのかも知れません。

とにかく反対と叫ぶ人の対策です。ここでも『原因論』よりも『目的論』が役立つと思います。論拠の原因となる理由を求めると、言い訳のように色々とそれらしいことを見つけてきます。言い訳みたいなものなのですから論破しても無意味です。次の理由を探してくるだけだからです。『原因論』は過去に拘り過去に引き摺られて、未来を語るので建設的とは言えません。『原因論』では過去を変えなければいけないので、議論が成り立たないのです。
『目的論』の立場から、反対する理由ではなく、反対する目的は何ですか?と聞くのです。理由は過去のことであり、目的は未来のことですからこれから話し合いで変えることが出来るからです。反対する目的を論破すれば代わりの目的というのは、なかなか探せるものでは無いと思います。
反対する目的の代わりに、このことがクリア出来れば賛成するという境界線を設定してもらうのも一つの方法です。出来る言い訳と同じ論理です。
もしくは反対するなら対案を出してもらうのです。
何れにしても、反対お猿さんとの議論は無意味です。目的は反対で、反対していることを周囲にアピールすることに価値を見出しているのですから。
ちなみに反対お猿さんの常套手段は、極端なことを言って周りの人達の不安を煽り、味方につけようとすることです。
給食費を払わない言い訳するモンスターペアレンツと同じような人種なのかも知れません。

自分が反対はしても反対お猿さんでは無いと思う方は

  • 対案を提案する
  • 賛成と反対の境界線を提案する
  • 反対する目的を明確にする

反対すると共にこのいずれかを行いましょう。

逆に反対お猿さんに悩まされていれば、この3つのうちのいずれかを求めましょう。同じレベルでの議論は意味がありません。反対そのものが目的ですから、議論が長引けば目的が達成されてしまうのです。

議論せず先に進めるために上記3つがオススメです。

悪いのは誤解する人?誤解させる人?

何事にも誤解というのは良くあることです。

一般的には誤解してしまった方が損する仕組みになっています。しかし誤解はさせた方が責任を取る仕組みが必要です。何故なら誤解させる方が情報発信を行い、誤解する方が情報を受け取るからです。誤解をさせる情報発信をした人が責任を取らなければ、情報を受け取る側はコントロール出来ないからです。誤解の元は曖昧な表現です。2通り、3通りの解釈が可能な表現をしていることがあります。誤解させる人はAしか解釈があり得ないと考えています。確かに一般的にはAと言う解釈ですが、Bと言う解釈も出来るし、特殊な環境ではCという解釈もあり得ることを知っていれば誤解してしまうことは仕方のないことです。誤解させる人は失言する人と同じで、他の解釈が出来るかもしれないという想像力が働かないのです。

誤解されたとしても誤解した人が悪いと考えるのではなく、誤解される隙のある表現をしていたと反省するのです。誤解させる隙を無くすのです。

少なくとも誤解させる表現をしてしまっていれば、誤解されにくいように表現を改める方が良いと思います。わざと誤解させたり騙すつもりが無いのであれば、誤解はお互い無駄だからです。

情報を受け取る側は表現の曖昧さに気付けば、情報発信者に確認する方がお互いのためになります。

誤解する人・誤解させる人どちらも悪くはありません。悪くはありませんが、誤解はお互いの無駄なので誤解は極力無くす方が良いと思います。誤解はお互いの貴重な時間を無駄にしてしまいます。1人でも誤解した人がいればより誤解の少ない表現を検討してはいかがでしょうか?

セブンイレブンで糖質回避の具体例 その2

昨日はコンビニでの糖質回避の提案、セブンイレブンで糖質回避の具体例 その1を掲載しました。

引き続きセブンイレブンでの糖質回避を提案してみたいと思います。

何しろ糖質回避で秀逸なのがごまだれ豆腐 そうめん風 216円です。

ごまだれ豆腐 そうめん風 216円
ごまだれ豆腐 そうめん風 216円

これに炭火焼チキンステーキ 198円を食べます。レタスは別に用意しましたが、この2つで十分昼食になります。

炭火焼チキンステーキ 198円
炭火焼チキンステーキ 198円

 

セブンイレブンで糖質回避の具体例 その1

ダイエットや様々な病気を失くすために糖質回避教を提案しています。

糖質回避とは一言で言ってしまえば糖質を避けるだけなのですが、これまで当たり前に糖質を食べていたので戸惑う方も多くおられます。何しろこれまでは如何に美味しく糖質を食べるか副食を工夫していたのですから、メインである糖質を食べないことを提案されても戸惑う方が多いのも当然です。

呉からの風では、これまでも糖質回避教の具体的な方法を提案しています。

今回はゴキ○リホイホイならぬ糖質ホイホイかと見紛うばかりの美味しそうな糖質がいっぱい並べてあるコンビニですが、あえてコンビニで糖質を避けることを考えてみます。

今回はセブンイレブンで試してみました。

こうや豆腐煮
こうや豆腐煮
和風ハンバーグ
和風ハンバーグ

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器に移す必要があるのでお弁当ほどお手軽ではないのが欠点です。
これだけだと少し足らなかったので買っておいた厚焼き玉子を追加して食べました。

厚焼き玉子
厚焼き玉子

糖質依存を抜け出せば、これくらいの量で食事が充分足りるようになります。
これでも足らなければ、から揚げやメンチカツなどのコンビニ内で調理している揚げ物を活用することでコンビニでも糖質回避をすることができます。

他にも色々メニューがありますから、様々な組み合わせにより楽しみながら糖質回避をすることができそうです。

嫉妬してしまう心理

友人や知人が贅沢な暮らしをしていると羨ましいと思ってしまう嫉妬という感覚は誰にでもある感情です。

何故嫉妬という感情はあるのでしょうか?

今となってはネガティヴな感情とされる嫉妬ですが、実は人類の進化に役立っていたそうです。そして嫉妬には2つの意味があるのです。

今となっては様々な病気を引き起こす糖質依存が、かつての人類の発展に役立っていたことと同じです。進化の過程では糖質のおかげで飢えることなく人類が発展することが出来ました。

嫉妬は人のことを羨ましいと思う感情のことで、この嫉妬心が努力する動機付けに役立っていたそうです。人のことが羨ましいから努力して人と同じことが出来るように努力することです。羨ましいと思わなければ、人は努力しようとしないようです。より良い生活を得ようとして努力するのは人のことを羨ましいと思う嫉妬心が原動力なのです。

ではその嫉妬の元となる心理は何でしょうか?

一言で言えば嫉妬の対象となる人と同じはずなのにという心理です。同じはずなのて違うことがズルいと感じてしまうことが嫉妬の元となります。ですから本来は努力の量が違えば、嫉妬の対象とはならないはずなのです。同じではないからです。多くの場合は、努力している嫉妬される人はこの違いを知っています。努力していない人はこの違いが理解できません。偶然の結果くらいにしか認識出来ないのです。努力の違いだと気づくことの出来る人は、自分が努力する原動力とすることが出来ます。嫉妬を動機付けに頭の中で切り替えることが出来るのです。こういう健康的な心理が人類の進化に役立ちました。

稀に人との違いに気づくことが出来ず、ズルいと感じてしまう人がいます。ズルいから引きずり降ろそうとしてしまう病んだ心理に陥る人がいます。対策は相手にしないことか、違いをわからせてあげることだと思います。ただ病んだ心理状態のため、違いがわかったとしても、その違いの元となること(例えば才能とか努力できる環境とか)がズルいとして、自分を高める方向には思いが回らないので逆恨みされてしまうリスクを負うことになります。出来るだけ距離を置くようにしましょう。