性教育の理想を考えてみました

性教育を学校で教えようとすると、わざわざ性に対して興味を持たさなくて良いとして反対する人がいます。

性教育に反対する人達

性教育に反対する人は恐らく知識が無いのだと思います。人間は年頃の男と女がいるだけでは子孫が残せない種族だということを残念ながら知らないのでしょう。そのため性教育が必要だということが理解出来ないのだと思いますから議論する意味はありません。子孫の残し方を生まれつき知っていたと勘違いしているのか、性は恥ずかしい物だという偏った考え方をされているのかも知れません。住む世界が異なる異教徒として、お互いの考え方を尊重し、丁重にスルーするのが得策だと思います。

人間は男と女がいるだけでは子孫は残せない

霊長類は生まれつき子孫の残し方を知っている訳ではありません。周囲の行動を見ることから子孫の残し方を学ぶようになっています。そのため年頃の男と女がいるだけでは、子孫は残せないのです。意外かも知れませんが子孫の残し方の知識が無ければ、子孫を残すことが出来ない稀な種族なのです。

そして性のことに限らず、人間は知らないことに興味を持たせることで新しい知識を身につけるように仕向けられています。赤ちゃんですら知りたいことがあれば必死で見ようとします。興味があれば人は自分から情報を求めるのです。大人が望む望まないに限らず、興味があることを知ろうとします。

人は誰かから子孫の残し方を教えてもらわなければ子孫を残すことが出来ないのです。そのことを大人が受け入れて、本来なら年頃になればキチンと子供達に教えてあげる必要があるのです。

これまで子孫の残し方を学校教育で正式に教えることは無くても、子供達が生まれていることからどこかで子孫の残し方を知ったのだと思います。幸い人間には知らないことに興味を持つ仕組みがあり、性に対しても知らないので興味を持つのが当たり前なのです。それを大人が恥ずかしがってキチンと教えないから、子供達が興味を持って偏った情報に触れてしまう危険性があるのです。

性教育の本来の姿は人間の身体の仕組みを知ることと、子孫を残す方法を教えることです。日本では女性は16歳から結婚出来るので、それまでに知識として授けるのが合理的だと私は考えます。具体的には義務教育の間に全ての子供達に学校で教えるのが、理にかなっていると思います。そのことを知った上で子供達自身が性と生のことを考えると良いと思います。

性教育の一歩として高校で年齢に伴う妊娠率の推移を教えるのは良いことだと思います。

理想の性教育

本来の性教育は男と女、オスとメスがどうして生まれたかから教育すると理解しやすいと思います。詳細は省きますが、メスは確実に自分の子孫を残すことを選んだ代わりに子供にエネルギーを与え、オスは代わりに子供が自分の子供かどうかわからない代わりに一度に多数の子孫を残すことが出来ることを選びました。これが本来オスとメスに別れた理由ですが、更に人間は他の動物よりも遥かに子育てに労力がかかるので、一夫一婦制を選択している動物としては特殊な存在です。そして女性は胎児として1人でお腹の中で10カ月育て、その後も赤ちゃんが未熟なために働くことが出来ません。そのため妊娠中と出産後の生活を支えてくれる優しい男性を求める必要があるようです。そのことまで教えてあげるようにすると本当は良いのかも知れません。

一から十まで聞く人と一を聞いて十を知る人の違い

一から十まで全て聞かないとわからない人もいますが、一を聞いて十を知る人と言われるように物分かりの良い人もいれば、。
その違いは何なのでしょうか?その違いについて考えてみます。

一から十まで全て聞かないとわからない人は、一の大きさそのものがわからない上に、その方向性が理解わからないためのです。そのため全容の把握ができず、全てを聞かないとわからないのです。一を聞いて十を知る人は、一がわかればその大きさと方向がわかっているので全容を把握することが出来るのです。
一言で言えば、違いは一の大きさと方向性を把握出来ているかどうかです。

同じ1でも大きな違いがある
同じ1でも大きな違いがあります。
片方は1の大きさが曖昧で、並び方がわかりません。
片方は1の大きさがはっきりしており、並ぶ方向も明らかです。

一の大きさが曖昧で、方向がわからないので一つ一つ並べ方を聞かなければわからないのです。
一の大きさと方向が分かっていれば、一さえわかれば十までの並べ方がわかるのです。

一から十まで聞く人と一を聞くだけで十がわかる人のイメージの違い
一から十まで聞く人は一貫性がイメージできないため全て聞くことになります。
一を聞いて十を知る人は方向がはっきりしているので一を聞けば十まで並べることができます。

つまり一が正確に把握できるかどうかの違いです。

これまでの経験や知識と照らし合わせて一の大きさや方向が把握ができなければ一から十まで大きさと方向を教えてもらわないとわかりませんが、一だけ聞けば大きさや方向がわかるので十まで並べることができるのです。

アレルギーとは?

アレルギーとは、本来は体にとって有害なウイルスや細菌感染から体を守るべき免疫機能が、間違って敵ではないものに対して過剰に反応してしまうことによって起こります。
本来は敵ではないものを敵と間違って攻撃することによって起こります。
身体を守るべき免疫が暴走していまうのがアレルギーです。

花粉症やアトピー性皮膚炎、蕁麻疹や喘息など各種におよびます。
これまでそれぞれのアレルギーの原因は花粉症であればスギやヒノキの花粉、アトピー性皮膚炎であればダニやほこりなどと言われてきました。

似たような概念に自己免疫性疾患という病気のカテゴリーがあります。
アレルギーは花粉などの外からの刺激にたいする免疫反応と考えられていますが、自己免疫性疾患は自分の体に対して免疫反応することで怒る疾患です。敵と判断する必要のない外来物質に反応するのがアレルギーで、自分の体に反応するのが自己免疫性疾患と言われるものです。

私はこの二つは同じものだと思います。
花粉症は鼻粘膜・眼粘膜に対する自己免疫疾患、アトピー性皮膚炎は皮膚、蕁麻疹は肥満細胞、喘息は気管支に対して自己免疫反応をお越しただけだと思います。粘膜・皮膚が炎症を起こしているから、その炎症を起こしているところに花粉やダニ・ホコリが付着して敵だと勘違いして反応するようになったのが花粉症やアトピー性皮膚炎として発症しているのではないかと思います。

つまり症状から病気を類推するからアレルギーと自己免疫性疾患として別のものに見えるだけで、大きく自己免疫疾患としてとらえてみると解釈は容易だと思います。
アレルギーの原因として検査される特異的IgEは、粘膜や皮膚の傷み具合を表す結果でしかないのかもしれません。

これまで根本的な治療法はありませんでしたが、最近ではスギの花粉症に対して減感作療法という治療法が開発されました。
免疫機能は様々なものに対して準備し、味方であれば敵ではないと判断して免疫機能のスイッチを切る仕組みがあります(免疫寛容)。
このスイッチを切る仕組みがうまく働かなくなるのがアレルギーなのか、間違ってスイッチを入れてしまうのかわかりませんが、本来は敵ではないものに対して反応するようになってしまうのは確かなようです(私は糖化産物がスイッチを入れたり切ったりしているのではないかという仮説を立てています)。
この免疫寛容の仕組みを使ってスギ花粉症の反応を抑える治療法が舌下免疫療法と言われる治療法です。スギ花粉のエキスを少しずつ口に含んで免疫をつけるのではなく、免疫を慣れさせる治療法です。絶えず少量の刺激を繰り返していると敵ではなく、味方だと身体が判断して免疫反応を起こさなくなることを期待する治療法です。3年かかりますが、スギの花粉症に悩まされることがなくなるそうです。

食物アレルギーも同じ機序で治すことができます。
アレルギーを起こさない範囲で、ごく少量ずつ食べたり飲んだりすることで免疫寛容をお越させて食べることができるようにすることがされています。ショック症状を引き起こす可能性があるので、アナフィラキシーショックをお越したことのある患者さんは入院の上病院にて行われます。少しずつ少しずつ食べる量を増やしていくことで、最終的には普通に食べることができるようになります。

食物アレルギーでも命に係わるアナフィラキシーショックを起こすほどでなければ、毎日反応しない程度に少しずつ食べることで反応しなくなります。
例えば離乳食が始まった直後に卵により蕁麻疹を引き起こしていても、少しずつ食べることで普通に食べることができるようになるのはよくあることです。

アレルギーの原因の仮説

糖質を食べないことで、花粉症やアトピー性皮膚炎、蕁麻疹で治る人がおられることを考えるとアレルギーの原因が糖質の取りすぎという仮説が成り立ちます。
その原因として考えられるのはブドウ糖とタンパク質が結合して生じる糖化産物が免疫機能に働きかけて、余計なスイッチを入れてしまうとアレルギーになり、本来必要なスイッチを切ってしまうとニキビや尋常性疣贅などを引き起こすのではないかと思います。

糖化産物と病気の関係(仮説)
血糖値と糖化産物と病気の関係

この仮説が正しいのか間違っているのかまだわかりませんが、少なくとも糖質とアレルギーが関係あることは間違いなさそうです。

もしかしたら20年もすれば、アレルギーという病気があって先進国では悩まされたらしいよ。
食べ物による病気という意味で、21世紀の脚気みたいな話だね。
といわれる時代が来るかもしれませんね。

説明の極意 聞き手の立場に立って考える

説明の極意の一つとして聞き手の立場を想定することを考えてみました。今回アメリカに本社がある外資系企業が『誕生日ではない日おめでとう』と言う意味のツイートをしたのですが、『なんでもない日おめでとう』と日本語訳をしてツイートしたことが問題となりました。

日本人にとっては意味のある日でも、アメリカ人には意味のない日ととられかねないツイートだけに問題になったようです。(実際には長崎の原爆記念日だと知らなかっただけか、忘れていただけだとは思います。)

物事は人によって受け取り方が異なる

物事はそれまでの経験や知識によって受け取り方や判断の仕方が異なります。そのことに留意せずに発言や発信を行うと、今回のことや政治家の失言で問題になり得ます。

例えば日本人にとって8月6日、8月9日、8月15日は戦争があったことを振り返る意味のある日です。ただ残念なことに同じ日本人でも何の日か覚えていない人もいるでしょう。

例えば今日8月11日は、多くの人にとっては特にこれといった日では無いかも知れませんが、誕生日の人にとっては1年で掛け替えのない1日です。ただ誕生日の人個人にとって大きく意味のある日ですが、多くの人にとっては365分の364の日でしかありません。誕生日では無くてもある人にとっては大切な人の忘れられない命日かもしれないのです。

つまりその人その人にとって、同じ日付でさえも意味が全く異なることを知っておく必要があることが広まるきっかけとなりました。

日付一つとってみてもこのように人それぞれの受け取り方が異なるのですから、ましてや他のことの受け取り方が人によって大きく異なることは容易に想像がつくと思います。聞き手の知識や経験、考え方によっては何気なく言った一言が大変な結果を招くことに繋がります。

相手の立場に立って考える

私自身もいつでも相手の立場に立って考えることが出来る訳ではありませんが、極力相手の立場に立って理解出来る言葉を選んで説明するようにしているつもりです。

今回の『なんでもない日』の問題は誰も長崎の原爆の記念日が何でもないと言っているわけではなく、ただ単に配慮不足だっただけだと思います。何でもないとツイートする前にグーグルで念のために調べることを怠ってしまった結果だと思います。

個人個人への配慮は難しいとしても、大衆への配慮は必要だったかも知れませんね。ツイートも個人がつぶやいただけなら大した問題にはならなかったと思いますが、原爆を落とした国の会社だったことも問題を大きくした一因だと思います。おそらく意図的に8月9日に『なんでもない日』としたわけではなく、ただ単に『なんでもない日』としたのが偶然8月9日だったのだと思います。

このことから聞き手の思い掛けない解釈により窮地に追い込まれることがあることを教訓にすると良いと思います。

アメリカに進出した日本企業が9月11日に『なんでもない日』などと言うことはあり得ないと思います。

相手の立場を考えるとは、おもいやりの話です。相手の立場も考えることの出来る余裕を身に付けたいですね。

話の通じない人の心理

話の通じない人はどこにでもいるものです。話の通じない人はもしかしたら、天動説型思考の持ち主なのかも知れません。

話の通じない人は色々なことの意味がわかりません。そしてその話が通じないことや話が理解できなくても余り困らないようです。自分から理解する方向に歩み寄ることは少なく、話の通じない人の多くは常に受身です。

話の通じない人は天動説型思考の持ち主で、話が通じない、話が理解出来ないのは説明する人の説明の仕方が悪いからだと思っています。自分の知識や理解力が不足しているという視点は全くありません。そのため話を理解して欲しければ、わかるように説明するのが当然という態度でいます。もしくは少し説明を聞いて全く理解出来なければ、理解しようと努力することなく拒絶します。

周りの人が自分のために行動するのが当たり前だと考えているか、地動説型思考のように自分が出来ることをするという発想そのものが欠落している可能性があります。

通常人と人が会話して意味が通じなければ、お互いの共通認識を双方から探します。話題の内容と似た内容と比較しながら、意味が通じる内容を探すのです。しかし話の通じない人はその発想がありません。歩み寄りがないのです。

恐らく悪気があるわけではなく、その発想そのものがないので仕方ありません。考え方を変えるように詰め寄っても無駄なことです。

対策は一つ一つ似た内容で知っていることをこちらから探すか、話の通じる必要最低限のことを伝えるかのどちらかだと思います。

男女での相手の選び方の違い

男性は女性を顔で選び、女性は男性を性格で選ぶ傾向があるそうです。

私独自の考えではなく、ディスカバリーチャンネルで見た内容が理にかなっていると思いましたので、違いをまとめたものです。

男性は女性を顔で選び、女性は男性を性格で選ぶそうです。

男性は女性を顔で選すぶ

男性が女性を顔で選ぶと言っても時代や地域によって好まれる顔が異なります。それでも無意識のうちに顔で選んでいるのでしょうか?どのような基準で選んでいるのでしょうか?

ディスカバリーチャンネルでは男性が女性を選ぶ基準は、女性の顔が左右対称かどうかだそうです。目が大きい・鼻が高いということは関係がないようです。目が大きくても、鼻が高くても生存に有利にはならないからだと思います。(寒い地域だと高い鼻は生存に有利かも知れませんが)では女性の顔が左右対称だと生存に有利、子孫に有利な可能性があるのは何故でしょうか?それは顔が左右対称だと、以下のことの表れと考えるようです。

  • 遺伝的に問題が少ないこと。
  • 左右対称では無くなる大きな怪我をするような危険なことをしなかったこと。
  • ホルモンバランスも問題ないこと。

これらのことから男性は女性の左右対称性を無意識のうちに考えるようです。女性を選ぶ際に自分の子供のことを考えて遺伝的な観点から女性を選ぶ方が子孫を残す上で有利だった名残りなのかも知れません。

学問的に傾向があるだけで、必ずしも全員に当てはまる訳ではありません。女性の顔を目鼻立ちではなく左右対称性の観点で見てみるのも面白いかも知れません。

かと言って必ずしも顔で選ぶとは限りませんし、目鼻立ちで選ぶ人もいると思います。学問的には男性は女性の顔の左右対称性で選ぶ傾向があるというだけのことです。

女性が男性を選ぶのは性格

女性が男性を選ぶ基準・一番の心配事は、出産後に自分と子供の食べる物を確保してくれるかどうかです。優しくて食料を運んでくれるかどうかで選ぶそうです。つまり性格で選ぶそうです。

多くの動物やお猿さんでは、メスは強いオスを求めました。人間は赤ちゃんが他の動物と比較して格段に未熟な状態で生まれるため、一夫一妻制を採用し、優しく優秀な食料確保者であることを男性に求める傾向があるそうです。他の動物では子育て中でも、メスは食料確保が出来ますが、人間では少なくとも赤ちゃんの首がすわるまでは女性の食料確保が問題です。人類の進化の歴史では女性が生き延びる確率を高めるために、強さよりも優しさを重視する傾向があったようです。

学問的にこうした傾向があるというだけで、最終的には好きになってしまえば、その人が運命の人です。タデ食う虫も好きずきということだと思います。みんなが共通の好みだと人気が集中してしまうので、隠された魅力を見つける能力が備わっている人ももしかしたらいるのかも知れません。

あくまでも学問的にはこのような傾向があるということです。

 

誤解・勘違いは誰のせい?

誤解・勘違いは誰にでもあることです。誤解・勘違いの原因は思い込みや言葉・表現の曖昧さによる認識の齟齬です。

誤解・勘違いは誰が悪く誰の責任なのでしょうか?

誤解・勘違いは改善を

私は誤解・勘違いは誰も悪くありません。ただし誤解・勘違いをさせた原因を作り出した人が配慮不足を反省して今後の対策を考えるべきだと思います。話し方や表現の仕方の曖昧さを無くす努力をするべきだと思います。相手は混乱しますし、自分も本来の意図とは異なる解釈をされては損だからです。

誤解・勘違いは笑うこと

誤解・勘違いで嫌な思いをすることもあるとは思いますが、悪気があるわけでも意図的にしたことで怒っても意味がないことです。配慮が足らないことを指摘することで今後同じことを無くす意味はあっても、怒ったところで解決には至りませんし、お互いが嫌な思いをして終わりです。

誤解・勘違いは笑うことであって怒ることではありません。笑って改善策を相談しましょう。

企業の場合

現在様々な表現があります。紛らわしい表現もあちこちで見かけます。

言葉の揺れにより、2通りの解釈が出来る表現もよくあります。表現している人は一つの解釈しか出来ないと完全に思い込んでいることが多いため、二つの解釈が出来ることを想定すらしていません。二つの解釈が出来ることを指摘しても、直そうとしない場合も良くあります。二つの解釈をする方が悪いと受け取れる対応です。

企業がこのような対応だと、お客様目線か企業目線かが良くわかります。誤解・勘違いはお互い損なので曖昧な表現は改める方が良いと思います。

勘違いしてもらった方が利益につながると、勘違いされかねないことでも違法でもない限り放置してしまうようです。

利益は企業の為ならずとは真逆の、利益追求企業そのものです。

まだ誤解・勘違いで利益を上げても意味が無いことに気付いていないのは残念なことです。

人が物事に飽きる仕組み

人には同じ物事を繰り返していると、飽きる仕組みが備わっています。

何故人は飽きるのでしょうか?

飽きることで別の物に興味を持たせるため

飽きるというのは様々な状況で障害になります。例えば勉強に飽きてしまえば、他の物事に興味をうつしたいのに、状況が許しません。勉強に飽きているのに勉強しなければならない状況は苦行とも言える我慢の時と化します。同じことの繰り返しの仕事に飽きてしまえば、それはお金と引き換えの作業でしかありません。

本来人間は知らないことやわからないことに対して興味を持つようです。興味を抱いた物事を知ることで脳の報酬系(脳に対するご褒美みたいなものです)が活性化されます。この脳の報酬系は記憶とも連携しており、記憶の分報酬が差し引かれるように設計されているようです。初めて知ることや経験に対しては過大な喜びが得られますが、記憶にあることは記憶の分差し引かれて報酬が与えられます。だから同じことを二度体験しても感動が少ないのです。何度も経験するうちに十分記憶した時点で、報酬系が報酬を与えなくなります。いわゆる飽きたという状態になります。

これは同じことに執着することで、他の物事を経験する機会を逃さないようにする仕組みだと思います。様々な物事を経験しておく方が、一つのことに執着しているより環境の変化に適応できる可能性が高く、生き残りに有利だからです。

飽きない仕組みの獲得

飽きない仕組みの獲得とは二つの意味があります。自分で獲得したもの。意図的に仕組みを作ったものです。

自分で飽きない仕組みを獲得してしまうのは、依存のメカニズムです。脳の報酬系が錯覚を起こし、飽きるのとは逆の反応でやり過ぎてしまうのです。

飽きない仕組みとは様々なゲームです。本来は同じことを何度も経験していると飽きるはずですからゲームのやり過ぎは起こりません。しかしゲームメーカーは飽きない仕組みの作り方を経験的に知っているため、ゲームから逃さない仕組みを作り上げてしまうのです。ゲームの問題はこの飽きない仕組みを意図的に作り出してしまったことだと思います。本来人間のもつ飽きる仕組みを回避するのですから、ズルいとも言えるかも知れません。

人間の遊び本来の意味から逸脱しているので、将来的にはある程度規制が必要になるのかも知れません。

一度飽きてもまたやりたくなる理由

一度飽きても再びやりたくなるには理由があります。一言で言えば覚えているかどうかです。もう一度やるかどうか考えた際に記憶が薄れていれば、再度報酬系が活性化されることが期待できますから魅力的に思えます。記憶が鮮明なら報酬系は活性化されませんから魅力的に思えません。

子供が一旦飽きた遊びを再び何度もやりたがるのは、以前の記憶が報酬系を差し引けなくなっているからです。

勉強・仕事などで飽きるのを防止するには?

同じことの繰り返しだと飽きやすいので、時間毎に区切って勉強や仕事をする。毎回新しい発見を探すようにする。例えば覚え方の工夫をし、覚えやすい覚え方を楽しみながら試す等。仕事であれば同じ作業なら時間短縮するための工夫をして何時もとは少しずつ変えていく。

何らかの工夫などを考えることで少しでも改善することを見つけ出す。世の中に完璧なことなどあり得ないので、探せば何かしらの改善点を見つけることが出来るはずである。

TOEICが高くても仕事で役に立たない人がいる理由

英語でTOEICの点数が重宝されていますが、TOEICは英語の習熟度の目安を表すものです。TOEICの点数が高ければ必ず仕事の役に立つと思われていますが、大きな誤解のようです。あまり役に立たないとも聞くことがあります。
そのことから仕事に役に立たないことがあることの理由を考えてみました。

実際いは一定の目安にしかならないようです。何故なら英語が話せることと説明が上手なこととは別物だからです。英語で物事を考えることが出来るかどうかの判別には役立つかも知れませんが、英語で会話が上手に出来るかどうかは別物です。会話には言語能力と会話能力があります。TOEICは言語能力を測るだけで、必ずしも会話能力を測ることが出来るわけではないのではないでしょうか?会話は相手の言っていることを瞬時に読み取り、返答する必要があります。その会話能力がはかれないのではないかと思います。

実際説明能力の違いを抜きにして、英語を使えるかどうかを評価してもあまり意味が無いように思います。しかし元々の会話能力の違いを測定する方法がないため、事前の策としてTOEICを活用しているのだと思います。

母語の日本語の使い方すらおぼつかない人が、勉強することでTOEICの点数を取ることが出来るようになっても、外国人との意思の疎通は上手くいかないと思います。
私はまず日本語の使い方を磨いてから第二外国語に手を付けることがおすすめだと思います。
説明の極意 相手のわかる言葉で伝える
説明の極意 一言に凝縮する
説明下手な人の話し方

会話には共通概念が必要ですが外国人の持っている概念を身に着けるのは簡単ではありません。そして相手の考えていることが想像できなければ、多少の言葉のやり取りは出来ても会話が成立しないからです。まず母語での会話能力を引き上げることが大切だと私は思います。

相手の目的を読み取って会話をしないと、会話が成立しないのです。この相手の目的の読み取る能力こそが会話能力だと思います。

TOEICの点数と意志の疎通をはかる会話能力が同じではないから、正確なやり取りができず仕事に支障をきたすことがあるようです。

まずは母語での会話能力を高めることが早道ではないかと私は思います。
日本人が長年授業を受けても英語が話せない理由はこちら

怒る必要のない子育て 片付けをしない場合

怒る必要のない子育てです。

子供が片付けをしない

良く聞くのが子供に何度言っても片付けをしないという意見です。

何故何度言っても片付けをしないのでしょうか?何度も言っていれば片付けをするということ自体は理解しているかもしれません。

意味・目的がわからない

片付けしないのは片付ける意味・目的がわからないのです。何のために片付けするのかよくわからないのです。『あなたのために片付けるのよ』と言われてもその意味を理解できないのです。意味・目的がわからなければなかなか行動にはうつさないものです。意味・目的がわかれば片付ける動機付けに繋がります。

片付けるのは怒られないため?

なかなか片付けをしないと言われる場合、片付ける動機付けが怒られるから片付けるになってはいないでしょうか?怒られないために片付けるという動機付けだと、子供は怒られるタイミングを見計らうようになります。親の顔色を伺って、怒られそうになると片付ける。まだ大丈夫だと思うと片付けません。本気で怒られたら仕方なく片付けるのです。

片付ける意味・目的

片付ける意味・目的は次に使う時に素早く取り出して使うことが出来るようにすることです。片付けていないとどこにあるのかわからず、探す手間がかかります。片付けると探す手間がいらないのでお得なのです。このことを子供に教えてあげると良いと思います。

散らかっているから親が片付けて、探し物を言われてすぐに出てくるので子供は片付ける意味・目的を理解できません。親に言えば出てくるものをわざわざ自分で探さないので、その元になる片付けをしないのです。

片付けをしたら探し物が早く見つかること。片付けをしないとなかなか探し物が見つからないこと。探し物を探す時間はもったいないことを伝えるのです。

それでも片付けない場合

片付けの意味・目的を言葉で伝えても片付けない場合は、本当の意味が分かっていないのだと思います。

ここで親が困ると子供は成長しません。困る人の問題なので子供が困る仕組みを作り出します。(問題論)

片付けしていないものを放置しても構いませんが、親の精神衛生上良くないので対策を考えます。片付けしていないものを全て大きな箱に放り込むのです。子供が探し物をしても子供に探させます。探すのが大変なことを実感させ、片付けをした方がお得だと分からせるのです。最初は探し物の手伝いをしても二度目三度目はしばらく子供だけで探させるようにして、子供が困るように仕向けるのです。

身を以て片付けがお得だと分かると自然と片付けるようになると思います。

少なくとも大きな箱にまとめていると、親はイライラする必要はないと思います。

片付けしなさいではなく、片付けの意味・目的を伝えてあげてみて下さい。