百貨店の売り上げが増えた報道に思う

百貨店の売り上げが増えたという報道を見て思います。

百貨店の売り上げが増えたから景気が良くなるという主旨の報道です。しかし百貨店で買い物をする人達は高収入の人達であり、多くの人達は百貨店で買い物することはしないと思います。

そこでふと気付きました。日本の消費は三階層に分かれているのではないかと思います。一つは百貨店などの付加価値を楽しむ人達、一つはイオンなどの各種スーパーや衣料品ではUNIQLOなどの費用対効果に優れた買い物を楽しむ人達、もう一つは西松屋、ニトリなど無駄なものを極力排除し、とにかく安さを追求した買い物を楽しむ人達です。安さ追求には中古で済ませる賢い消費も含まれると思います。

ふと気付いたことは、お金に余裕が出来たとしても我が家は百貨店では買い物をしないということです。つまり我が家では過剰な付加価値に魅力を感じないのです。

我が家では費用対効果の追求や安さ追求は、時と場合によって使い分けていますが、百貨店では買い物をしない人も多いのではないかと思います。そもそも近くに百貨店がない環境の人も多いと思います。その百貨店の売り上げが増えたという報道は何か別世界、いわば外国の消費の動向に近い感覚を味わうのは私だけでしょうか?もしかしたら百貨店の売り上げが多くなったという報道は、百貨店で買い物をする人達に向けた消費しましょうという暗示に近いメッセージなのかも知れません。

以前は百貨店の売り上げが上がったと聞くと景気が上向いたと思っていましたが、百貨店で買い物出来る人達の景気が良くなっただけで、庶民の生活は反映していないのではないかと気付きました。庶民の生活も上向いたと錯覚してもらうことで、消費を促す効果を期待しているのかも知れません。

消費は三階層に分かれていることに気づくと、本当の経済や景気が見えてくるかも知れませんね。

残念な営業マンは説得マン

飛び込みの営業マンの訪問や電話を頂くことがあります。例えば保険の勧誘であったり、広告の勧誘であったり、その他の医薬品や医療機器の販売です。電話の場合は不動産の勧誘です。用件を受け付けで確認し、売りたいものを聞いてもらいます。相手の売りたい物のカテゴリーが私に必要が無いものであれば、お互いに時間の無駄です。それでも受け付けに食い下がる営業マンがいます。私がお会いしても100%買うことは無いにもかかわらず、会いたい時点で目的が営業では無いように思います。

目的は説得か会うこと自体でしょう。説得とは別段欲しい商品ではなくてもその魅力を伝えることで欲しい気持ちにさせることです。言わば衝動買いをするように説得することが目的です。説得することが目的では無ければ、最初から⚪︎⚪︎の販売の目的にお伺いなりお電話しますと目的を告げて、面会か電話の取り次ぎを求めるはずです。

そういう場合は話術で惑わされるだけでどちらにしても買うことは無い訳ですから、会わないまたは話さないのが一番です。

本当に良いものであれば検討の上こちらからご連絡させて頂きますので、パンフレットをお願いしますと受け付けでお伝えします。これはたまたま自分の知識不足で本当に良いものを逃さない保険のようなものです。当然良いものであれば説得マンの話術に頼らず、商品の魅力で売れるはずですからパンフレットも良いものがあるはずです。そのパンフレットを吟味してから、後日会うかどうか検討しても遅くはないと思います。

このように対応すると、パンフレットも持たずに面会を求める説得マンが多いことには驚かされます。余程トークに自信がある方が飛び込み説得をされるようです。

衝動買いを狙う説得マンが減り、最初から面会の目的を告げる本当の営業マンが増えるといいですね。

8月15日を平和記念日として祝日にしては?

私は8月15日を祝日にすることを提案します。2つの意味があります。一つは今のところ終戦記念日とされている日だということ。もう一つは日本の風習であるお盆で、元々お休みの企業もあることです。

平和記念日

終戦記念日を祝うことは戦争を賛美するという批判を受ける可能性がありますので祝日にするのは適切では無いかも知れません。だから終戦記念日を祝日にする訳ではありません。同じ8月15日を平時に限り、日本が戦争をしないことを祝う平和記念日として、日本が戦争に巻き込まれる日(未来永劫無いことを祈っています)まで平和の有り難みを祝う日にしてはいかがでしょうか?

支持率の落ちた今の政権では難しいかも知れませんが、平和を心から願う思いがあれば、平和記念日の制定は実現可能な祝日だと思います。少なくともこれから30年後の戦後100年まで戦争をしなければ、戦後100年の時点で世界に胸を張って平和の有り難みを祝って良いと私は思います。私は70年戦争をしなかったことを祝っても良い時期だと思います。

出来れば戦争を経験された方々が1人でも多くご存命の間に平和記念日を制定し、戦争を経験された方々と平和の有り難みを分かち合うことが出来れば良いなと思います。

平和記念日のもう一つの意味

日本の企業ではお盆休みを取る習慣がありますが、宗教的な習慣でもあるため公共機関は暦通りです。企業によっては休みなのに公には仕事というダブルスタンダードです。

お盆に近く祝日に適していると私が考えるのが、今は終戦記念日とされている8月15日です。

8月15日を平和記念日として慣習的に休みではなく、公式に祝日として休みにすると経済的にも意味があると思います。

政治家の方に提案を

もしこの考えに賛同頂けるようでしたら、政治家の方に提案してみて下さい。何人もの政治家から意見が出れば本当に実現するかも知れませんから。

ちなみに父にこの話を話してみると、政治家になって考えることだと言われました。残念ながら私は政治家をするような器ではありませんから、立候補することはありません。

是非お知り合いの政治家の方にこの話を話してみて下さい。

回転寿司で糖質回避の未来予測

近い将来糖質回避時代がやってくると思いますが、その糖質回避時代の回転寿司の未来を考えてみました。

お寿司は美味しいので無くなることはないと思いますが、炭水化物を扱ってばかりはいられない時代がいずれやってくると思います。ラーメンで糖質回避の未来予測で書いたように回転寿司も進化するのではないかと思います。

回転寿司で糖質回避?

まだ糖質回避や糖質制限は主流ではないため、糖質回避や糖質制限をする人は回転寿司を避けていると思います。残念ながら現時点の回転寿司のメニューでは、糖質制限はシャリを残さない限り難しいと思います。私には回転寿司で糖質回避はシャリ抜き以外思いつきません。

糖質の害が広まれば糖質を避けることが当たり前の時代が来るはずです。完全糖質回避でみんながみんな糖質を全く食べなくなるわけではないと思いますが、主食として食べる時代は間も無く終わりを迎えると思います(まだ10年はかかるかも知れませんが)。

糖質回避が広まれば、回転寿司のお客さんが減ると思います。少なくともお米自体が日頃の食べ物ではなくなりハレの日の食べ物になるのではないかと思います。日頃の食べ物としてお寿司の地位を守るためには、回転寿司屋さんでも糖質回避メニューを考えると思います。お客さんが減らなくても、糖質回避が明らかな流れになれば、新しいメニューは生まれると思います。

糖質回避メニュー

私の考える回転寿司の糖質回避メニューは、ネタだけ流す寿司のシャリ抜き、つまり刺身として流すことです。二貫のお寿司の代わりに三つのお刺身にするのか、料金はそのままで寿司のシャリ抜き、つまり二つの刺身にするのかは悩ましいところです。お試しは寿司のシャリ抜きではじめてみて売れ行きとアンケートの結果で考えると良いと思います。二切れの刺身のままか、刺身の提供をやめるのかそれとも三切れの刺身にするのかです。

他には硬めの豆腐をシャリ代わりにして、豆腐にネタをのせた豆腐寿司が生まれるのではないかと思います。豆腐寿司はともかく、寿司のシャリ抜きは今でも出来るはずなので、ネタだけ流してくれると私が回転寿司に行く機会が増えるので早く実現して欲しいものです。

大手回転寿司屋さん、この案いかがですか?

プレミアム付き商品券で混乱に思う

ある自治体が20%のプレミアム付き商品券を発売し、1人で600万円分購入した人が現れて問題になっています。300冊以上購入した人が16人もいたそうです。

妊婦さんや身体の不自由な方のために代理購入を認めたことが問題を誘発したようです。

問題の本質は

一言で言えばルール作りに隙があったということです。

何枚もの委任状を持って大量購入する人が現れたそうです。20%のプレミアムがあれば、10%や15%の手数料を差し引かれても金券ショップに売れば利益が出るので、それを目論んだ輩が大勢いただけのことです。

問題の原因は?

ルール作りをした人が、プレミアム付き商品券を転売することの想像がつかなかったのだと思います。金利と考えても破格の利率です。そして当初想定した妊婦さんや身体の不自由な方だけに、委任状による代理取得を限定すれば良かったのだと思います。とはいえ御自分でプレミアム付き商品券を購入に行けないのであれば、お店にも行けない可能性が高く、妊婦さんや身体の不自由な方向けの代理購入に余り意味は無いようにも思います。

今時民間では考えられないような隙のある制度でした。

今後はこのことを教訓に、各自治体が隙の無い改善策を考えるようになるといいですね。

人が欲しがる商品は転売でプレミアムがつくのでオークションに出品されます。増してやあらかじめプレミアムがつくのであれば、それを商売に結びつける輩がいてもおかしくはありません。ルールの中で隙をついただけのことです。

学び取ることとしては、少しでも得出来ると分かれば、様々な手を駆使する人達がいることを想定する必要があるということです。想像力を働かせないと、隙をつかれてしまいます。色々なルール作りって難しいですね。

今度ルール作りに関して書いてみます。

(追記)

ある信用金庫で委託されていた人気のプレミアム付き商品券を職員が事前購入していたそうです。

買う方も買う方なら売る方も売る方で、何でもありですね。

頭の体操 糖質制限が広まらない理由

糖質制限・糖質回避は画期的な治療法でありダイエット法です。物事を冷静に、そして先入観にとらわれるこもなく考えることの出来る人にとっては、その破壊力と影響力が即座にわかります。大変なことが起こると。

しかし私が思う程広まってはないのが現実です。江部先生ご兄弟が情報発信をされはじめてから10年以上経過してようやく今の状態です。

糖質制限・糖質回避が余り広まらないのは何故でしょうか?頭の体操として少し考えてみて下さい。経済の観点から呉風(くれかぜ)経済塾の教材として考えてみましょう。

一言で言えば、資本主義だから広まらないのです。

どういう意味でしょうか?まず物事が広まる理屈を考えてみます。

物事が広まる理屈

新しい物事や考え方で、誰かが得するので得する対価としてお金が支払われます。例えばかつて生活をより便利にする洗濯機や掃除機や炊飯器が爆発的に売れました。生活をより豊かにする冷蔵庫や電子レンジなども売れました。工夫すれば工夫する程品物が売れるため、メーカーが得をする仕組みです。買ったお客さんも生活が便利で豊かになるので得をします。

広まり方ですが、メーカーがメーカー自身の得をするために広告をうつことで広まります。テレビにしろ新聞にしろ広告で潤いますし、お客さんも生活が便利で豊かになることで得をしますし、メーカーも物が売れることで得をします。三方良しの状態ですからうまく広まります。

安いとか便利などのお得情報も、売る側と買う側のお互いの利害が一致するので積極的に広まります。

糖質回避・糖質制限をした人だけが得をするのです。

糖質回避・糖質制限が広まらない理由

糖質回避・糖質制限はその効果の割に余り広まっていません。何故でしょうか?

それは資本主義だからです。何かを食べると得をする(例えば美味しいとか病気が治るなど)のであれば、その食べ物を作り出すことでお金を生み出します。食べ物を作った人と食べた人が得をするので広まります。美味しいですよと宣伝し広まる道を探します。しかし糖質回避・糖質制限は糖質を食べない方が得をするということ自体が、画期的なアイディアにもかかわらずお金に結びつかないのです。

しかもこのアイディアを患者さんに伝えることで病気が失くなるのですから、患者さんは減ります。医師が患者さんに伝えると経営上は損をしてしまうのです。(私は患者さんのために、お伝えしています。患者さんは減り始めています)この理由で糖質回避・糖質制限のアイディアを知ったとしても、患者さんに伝えない医師もいると思います。

お金を生み出す仕組みが無いのでなかなか広まりません。広告などの宣伝をお金をかけて広める原動力が無いのです。このことが糖質回避・糖質制限が画期的なアイディアにもかかわらず、なかなか広まらない理由です。

糖質回避・糖質制限を否定したい人達

広めたくない人達、というよりも否定したい人達がいます。少なくとも積極的に受け入れたく無いだろうと類推できる人達がいます。

  • 米農家さん
  • パン屋さん
  • 各種飲食店(ラーメン屋、うどん屋、蕎麦屋)さん
  • 製薬会社
  • 医師

米農家さんやパン屋さん、各種飲食店は直接仕事が減るので受け入れたくないのは良くわかります。突然消費量がゼロにはならないと思いますので、対策を考えると良いと思います。米農家さんは豆を作るようにする。パン屋さんは豆を使う食べ物を考えるなど。

製薬会社や医師は患者さんそのものが減ってしまうからです。例えば2型糖尿病は糖質を控えるとかなり改善します(一人は治りました)。糖尿病治療薬年間3600億円の市場が縮小します。高血圧も改善が期待できるので、降圧剤も市場が縮小します。そして各種アレルギーも改善しそうなので、各種アレルギー治療薬も市場が縮小します。

製薬会社やパン屋さんが広まらないように仕向けるのは、糖質制限の放送をしないようにテレビ局に働きかけることです。そして炭水化物摂取ダイエットなる不可思議な論理で炭水化物を食べることを推奨するのです(ちなみにスポンサーはパン屋さんでした)。何しろテレビはスポンサーと視聴率によって映すものが変わる色眼鏡ですから。

こんな仕組みがあるので急速には広まらないようです。

糖質回避教の勧め

しかし時代は21世紀。インターネットがあるので一気に広まる爆発力を秘めています。是非糖質回避教を広めるお手伝いをして下さい。信じてもらうに越したことはありませんが、人に伝えてもらうだけで構いません。変な話があるよで構いません。信じるか信じないかは聞いた人の自由ですから。

糖質制限・糖質回避で得をするのは糖質制限・糖質回避をした人と、医療費の削減出来る国です。国民の健康と医療費削減のために国がスポンサーになって積極的に宣伝するのが望ましいと思います。そこにも米農家の思いや選挙が絡んで合理的には物事が進まないのが現実です。

政治家や役人が国民の健康を一番に考えれば、糖質の本性をいち早く伝えることだと思います。

医療費削減のために糖質を控えましょう。

最低賃金を上げると…

最低賃金の引き上げが問題となり、議論されています。

最低賃金引き上げを求めているのは最低賃金近辺の時給で働いている方達だと思います。

一つ大きな勘違いがあると思います。最低賃金引き上げを求めているのは、雇用が維持されるのが前提です。労働者側の論理だけで、経済の仕組みを考えずに最低賃金の引き上げを要求しているのではないかと心配します。

最低賃金を引き上げると、その分コストを下げたい企業は雇用数を減らす方向に動きます。そうなると引き上げられた最低賃金に見合う人材だけが雇用されることになります。最低賃金を引き上げることは労働者の生活を改善することが目的のはずが、雇用を奪うことに繋がります。本末転倒のように思います。少しずつ最低賃金を上げることは、労働者の生活の改善には役立つかも知れませんが、一気に上げると上記のようなことになってしまいます。

最低賃金を引き上げてもらうと仕事がなくなるかも知れません。仕事がなくなるかも知れないことを要求しているのです。

それよりも最低賃金は据え置いたまま、最低賃金よりも労働者の賃金を上げると企業が得する仕組みを作る方が現実的な解決策かも知れません。企業が得するとは、最低賃金より上げた分減税するくらいしか今は思いつきません。もっと良い知恵を誰か考えてくれるといいですね。

結果論と経過論

結果論という結果が全てという考え方に対して、途中経過に重点を置いて考える経過論という考え方が、あります。

結果論

結果論は結果が良ければ正解で途中経過は関係ないという考え方です。結果だけが求められ、途中経過はいくら努力をしても考慮されないため、対応がいい加減になりがちです。

本来の目的に反してスポーツに結果論を持ち込むと、悲惨な現実が待っています。スポーツ本来の目的は競い合うことで全力を出し切ることですから、試合に備えて準備をし、試合で全てを尽くすことができればよいのです。スポーツにおいて結果論を持ち込むと、負けはそれまでの努力を否定してしまうことに繋がります。

本来スポーツは全力を出し切るために競い合うだけで、勝つために競う訳ではありません。勝ち負けは全力を出し切るための手段です。結果論ではその手段のはずの勝ち負けにこだわるようになってしまうため、考え方が本来の目的から歪んでしまいます。

特にお金が絡むと勝ち負けが目的の結果論に陥りがちです。

経過論

経過論とは途中経過こそが大切で、結果は様々な要因が重ね合わさった偶然の産物でしかないという考え方です。

途中経過でどれだけ用意周到な準備をしているかを課題とします。結果論では成功すれば、用意周到な準備は無駄なこととして切り捨ててしまいますが、経過論では結果的に無駄になるかもしれない、この用意周到な準備にこそ価値を見出し出します。

経過論では、途中で問題になりそうなことは極力避けるか、問題に備えて準備しておきます。経過論では結果が最善になるように、不測の事態にも備え、できる準備は全てすることです。何故なら経過論では結果が最善になるように、途中経過で最善を考えておく考え方です。結果が問題でさなく、経過こそが問題だと捉えるのです。二つの最善の考え方で結果論は結果さえ良ければ途中経過は問わない自称最善で、経過論は絶えず最善の絶対最善のように思います。

例え失敗したとしても、経過論で物事は考えたいと私は思います。

日本製品が高い理由を以前書きましたが、結果論の他国の製品とは異なり、安全な経過にも拘る経過論で日本製品は作られているからだと思います。

起こらない事故に備えるのは無駄と考える結果論か、事故が起こらないように備える経過論か、どちらが優れているか考えてみて下さい。

未来の仕事予想 人は2通りに分かれる?

ここ数年でも仕事が様変わりしつつあります。インターネットやコンピューターが人に変わって活躍するようになっています。

一度機械に任せてしまえば、機械は疲れず夜間も作業し文句も言わず、賃上げ要求もしません。人間だとどうしても避けられない人為的なミス(ヒューマンエラー)も起こり得ません。機械化出来る作業は機械化がどんどん進みます。現在職人さんの手作業には機械が勝つことは出来ませんが、力加減や作業の意味を機械に教えることが出来れば近い将来機械が職人さんにとって変わると思います。今はセンサーと力加減、その作業の意味合いを機械に伝えることが出来ないだけだと思います。

将来人は2通りに分かれます

これまでの機械の進歩よりも加速が考えられる、これからの機械の進歩を正確に予想することは困難です。しかし一つ言えることは、人間は2通りに分かれると思います。

2通りに分かれるとは機械を使う人間か機械に使われる人間かという意味です。機械にさせる作業を考えて機械に教える(プログラミングする)人間と、機械のサポートをする人間、サポートといっても機械の指示されて動く人間つまり機械に使われる人間です。機械に指示を与える人間は、機械が自分で考えることが出来るようになる(人工知能が人間をこえる)と予測されている今後30年は、機械に仕事を奪われることはないと思います。機械に指示されて動く人間は、コストの兼ね合いで機械化されていないか、機械化が難しいかのどちらかです。状況によってはいつ機械化されてもおかしくありませんし、いつ海外に移転してしまうかわからない不安定な仕事です。

機械化は止められない

現時点で言えることは多くの職業が機械と置き換わると思います。現在でも弁護士や税理士はコンピューターに仕事を奪われはじめています(弁護士業務では過去の判例の検索は人工知能が活用されはじめているそうです)。利権を守るため抵抗する人が邪魔しようとするとは思いますが、将来薬剤師の仕事は機械に奪われてしまうと思います。(処方歴を厚生労働省が一元管理し、飲み合わせのチェックを行うことで薬剤師の仕事はかなり減ってしまいます。自動販売機のような機械に処方箋のバーコードを読み取りさせると薬が出てくる時代が来るかも知れません。)

サラリーマンも機械にとって変わられつつあります。例えば営業マンは今後コンピューターに仕事を奪われていくと思います(詳しくはこちら)。最後まで残る営業という仕事は一部だと思います(詳しくはこちら)。

これからの仕事は物事を自分で考えることの出来る人しか必要とされないと思います。50代の方は定年まで逃げ切ることが出来ると思いますが、40代の方は業界によっては定年まで働くことが出来ないかも知れません。リストラかも知れませんし、他社との合併かも知れません。そして20代・30代の多くの方は大変な時代に突入すると思います。機械に仕事を奪われる時代が来るからです。最初のうちは機械が導入されて便利になって喜んでいられますが、便利になり過ぎると自分の居場所がないという事態もあり得ます。今のうちから自分に何が出来るのか考えるようにしてみて下さい。

少なくとも自分で物事を考えることが出来なければ、機械を使う側にはいけません。少しでも物事を考える癖をつけましょう。オススメの本は(ちきりんさん、自分の頭で考えよう)です。

日本製品が高い理由

日本製品が高い理由を考えてみました。

日本製は何故高い?

日本製が高いのは人件費が高いことが一因であることは間違いありません。しかし海外生産された日本のブランド製品も高いのは何故でしょうか?何故海外のメーカーと、性能では太刀打ちできても価格では勝負出来ない程高くなってしまうのでしょうか?利益を上乗せし過ぎるせいでしょうか?必要ない程性能を高め過ぎた結果、値段も高くなりすぎるのでしょうか?

日本製品が高い理由

日本人は製品を販売した後も満足してもらえたかどうかを考えます。買ってもらった時点で満足してもらうのは当然ですが、その後も満足してもらうために最善を尽くします。
日本人は常に絶対最善を尽くして最もお客さんの満足する製品を作ります。特に安全に関しては妥協しませんので、様々な危険に気付けば気付く程、その対策のために高くなってしまいます。

日本人の目的がお客さんに満足してもらうことだからです。利益のために高くなる訳ではなく、お客さんの満足を最大にするためにどうしても高くなってしまうのです。

利益は企業の為ならず

を全ての日本の企業が求めているかどうかはわかりませんが、企業の為に高いのではなくお客さんの為に高い製品になってしまうのではないでしょうか?

他国が安くできる理由

最も利益が出る製品を作ることが目的です。目的は利益ですから安全や機能は二の次にして利益が最大になる方法を模索します。

戦後の日本もそうでしたが、他国の真似をすることで開発費を抑え、安い人件費をいかして安い商品を売り出します。

真似をした上で利益が最大になるように無駄を削ぎ落として、安い商品を作り出します。

日本と他国の対応の違いが価格の違い

事故の対応をみるとよくわかります。日本製品で事故があれば事故の原因を追究し再発防止に役立てます。それがお客さんにとって一番求めていることだからです。時間はかかりますが、最終的に結果として会社のためにも利益にも繋がります。

他国では違います。原因を追究し問題を認めると、利益を減らしてしまいます。誰かが責任を取らないといけなくなるかも知れません。お客さんのためではなく自分達の利益のために、追究しないのです。だから穴を掘って埋めるのです。問題の解決策を探すのではなく、問題をなかったことにすることで安く仕上げるのです。

ちょうど映画のセットのようですね。見栄えは同じように見えても別物です。映画のセットと本物の値段を比べることに意味があるようには思えません。

日本と他国の考え方の違い

日本人は狭い国内で仲良くすることを長い年月をかけて培った世界でも数少ない民族です。他国との関わりを持たない鎖国を行うことで、より国内だけで物事を解決する方法を見出しました。

その一つが隣人は変わらないため、思いやりを持って末長く商売をするというやり方です。店の信用で商売をするという考え方です。一度売った商品に対しても責任を持つのが日本人の考え方です。人と人との関係を大切にする考え方です。

一方他国では政府が変わることも多く、隣人が絶えず入れ替わります。人と人との関わりをを大切にするという考え方は成り立たないようです。何故ならその人がいつまで側にいるかわからないからです。結果としてお金しか信用できないのかも知れません。

人を信用するという感覚に乏しいため、商売はお金と商品の交換で終わりです。商品に欠陥があっても、お金を払う段階で見抜けなかったお客さんの問題と考えます。

日本は商品を売った後のことも考えての値段設定、他国はお金を払うまでの責任だけ考えた値段設定。そもそもの考え方が違うので、値段を比べること自体が意味をなさないと思います。

日本製品は利益ではなく、絶えず最善・改善を考えています。真似は出来ても改善まではまだ無理なようです。その分が値段の違いにあらわれるようです。

命に関わらない製品は無駄を削ぎ落として値段を安くすることに問題はないと思います。しかし自動車や列車など事故が起こると直接命に関わるものは値段よりも安全を優先する方が良いと思いますが如何でしょうか?

値段の違いをこのように売り込んでみると、もしかしたら日本製品は飛ぶように売れるようになるかも知れません。

日本製品は足し算だから高く、他国製品は引き算だから安い

日本製品は考え得る様々なことに備えています。こんなことがあったら便利、こんなことが出来ると楽などです。途中で気付いたことに対応していく経過論に基づいて作られています。海外では過剰スペックも捉えられることがあるのもそのせいです。

海外製品は機能を絞って無駄なものは削ぎ落としていきます。価格相応として割り切って考えるのです。