言い訳と説明の違い・その境界線

言い訳に関しては以前いつも言い訳する人の心理に書きました。

今回は言い訳と説明の違い境界線について考えてみます。

言い訳とは悪いのは自分かも知れませんが、自分だけが悪いわけではないことをわかってもらうことを目的にすることです。
いわば本当の意味で自分が悪いとは認めていないことを周囲にアピールしているのと同じことになります。
だからこそ言い訳は人の疎まれるのです。

しかし言い訳する方は事情があったのだから説明は必要だと考えてしまえようです。
その事情が相手には『意味』がなくても、言い訳する人にはその事情にこそ『意味』があると考えているので認識が平行線になってしまいます。
言い訳するな!言い訳していません!という会話はこの認識の違いによるものです。

では言い訳と説明の違いは何でしょうか?

一言で述べれば、相手が事情を求めているか求めていないかです。
事情を求めていれば説明になりますが、事情を求めていなければ言い訳になります。

やむをえない事情によっては対応を変えることの出来る余裕のある人と、事情に関わらず対応を変えることの出来ない人がいるのです。
そして多くの方は事情によって対応を変える余裕がないのが現状です。
事情によって対応を変えるつもりがないのですから、その事情を聞かされても『意味』を見出せないのです。
事情を聞かされる『目的』を推し量ると、自分だけが悪いわけではないとわかって欲しい自己弁護なのではないかということに思い至ります。
本人は無意識のうちに行うことですから悪気はないのですが、ただ説明しているだけのつもりが客観的には自己弁護になっているので、反省していないとしてかえって責められてしまうことになってしまいます。

自分ではこの事情は説明しておいた方が良いと考えたとしても、相手が事情を気にしていなければ言い訳としてしか受け止めてもらえません。
言い訳か説明かの区別は相手がすることであって、話す側からは判断がつかないのです。
こちらは説明のつもりで伝えたとしても、言い訳として受け止められてしまうかもしれないのです。
相手に判断を任せてしまうのは危険なので、自分では説明のつもりでもあえて言わないことだと思います。

事情を聞いてもらえれば、その時点で事情を説明すれば、言い訳にはならないと思います。

相手が事情を求めていれば説明になりますが、相手が事情を求めてもいないのにこちらから説明すると言い訳になると私は思います。

今回は言い訳を聞かされる人の立場で書きましたが、言い訳を自分がしているかどうかわからない人の視点で考えてみたのはこちらで確認してみてください。

人は怒られると反省出来ず、困ってしまう

怒られると人は困ってしまいます。
何故なら怒られた理由が理解出来ないからです。

そもそも怒られることがわかっていれば最初から怒られるようなことはしません。

怒られるのは怒る人にとっての当たり前のことを知らないからです。怒る人にとっては当たり前だから、怒る内容を伝えることなくただ怒るのです。怒られる人は何を怒られるのかわからないまま、ただ怒られるのです。何故怒られるのかわからなくても、怒っている本人に何が悪いのか聞く勇気のある人はほとんどいません。

何を怒られるのかわからないまま怒られるのですから、反省のしようがないのです。そして結果として困るしかないのです。

怒る場合何が問題か相手が全く知らないことを前提に説明しなければ、上記の理由により怒られた相手は困るだけです。

ただ怒るだけでは相手は内容を理解していないので無意味です。そういう意味で怒ることに意味はありません

怒ることで伝わるのは怒っているという感情だけです。犬が吠えているのと何ら変わりありません。

怒ることが意味がなければどうすれば良いのでしょうか?

怒るよりも叱るよりも諭すだと思います。

怒ったところで相手は反省した振りだけして、困るだけです。

食べ物を選ぶ二つの基準 栄養?快楽?

人の食事の意味は大きくわけて二つあります。ただの栄養補給かそれとも快楽の追求です。食事の場の雰囲気や誰と食べるのかということも、楽しみという快楽のうちの一つです。

今回は食事の中でも食べ物の選択に関してです。食べ物の選択も栄養補給と快楽の追求の観点があります。

栄養補給

人間は必ず栄養補給をしなければ生きてはいけません。生きていく上で必要なエネルギーと身体を維持するための身体の構成成分であるタンパク質です。身体の中で合成できないアミノ酸と脂肪酸は食べ物から得る必要があります。少なくともタンパク質は必ず食べる必要があります。

栄養補給の観点からすれば、糖質・炭水化物は無理に食べる必要はありません。何故なら糖質・炭水化物が消化・吸収され体内に入るブドウ糖はタンパク質から作り出せるからです。つまり必須炭水化物は無いのです。(参考:糖質を食べている理由)

美味の追求

美味しいものを求めるのは快楽の追求です。人は必ず食べないと生きてはいけません。そこで同じ食べるのですから、どうせなら美味しいものを食べようという考え方です。美食という程ではなくても、どうせなら美味しいものを求めるというのは誰でも無意識に行っている選択の一つです。

無理に食べる必要の無い糖質を食べる意味は、経済的に安価という点を除けば美味の追求以外には無いのかも知れません。

無意識のうちに行った美味しいものの選択が積み重なることで、依存を生じます。その一つが糖質依存です。人によっては美味しいものに対する依存や高い料理に対する依存もあるのかも知れません。それぞれ美味しいものに対して喜びを感じたり、高い料理に対して喜びを感じることで依存に陥ってしまいます。誰でも美味しい料理を食べることは喜びを感じますが、無理をしたり過度に求めるようになると依存の可能性があります。

美味の追求による病

かつてビタミン不足が引き起こす脚気という病は、玄米を食べていた日本人が白米という美味を追求した結果生じました。知識が無かったからやむを得ないとはいえ、美味を追求するため病気を引き起こしていたのは悲しい歴史です。

いま現代の脚気ともいえることが現在進行形で起こっているとしたらどうでしょうか?

2型糖尿病や肥満高血圧やアレルギーなど多くの病気が糖質の食べ過ぎが原因のようです。少なくとも2型糖尿病と肥満は糖質の摂り過ぎが原因であることは間違いありません(2型糖尿病が薬無しで治りました)。

食べ物の選択の際に気をつけること

食べ物の選択の際には二つの基準があります。ただの栄養補給なのか美味という快楽の追求なのかです。

知らない間の快楽の追求によって病気を引き起こしているとすれば人類にとって不幸なことです。正に現代の脚気のようなものです。

食べ物を選ぶ際、立ち止まって栄養補給?美味の追求?と良く考ええてみる時期が来たようです。栄養補給のつもりで、知らない間に美味の追求をしているかも知れません。そしていつの間にか依存に陥っているのかも知れないのです。

今日の食べ物から栄養補給?美味の追求?と考えてみましょう。病気になってでも美味が大切?と。

美味の追求はたまのご褒美で良いのではないでしょうか?

学校の勉強が面白くなかった理由

私は学校の勉強が面白くなかった理由を考えてみました。

正直学校の勉強は嫌いでした。何故なら意味・目的を教えてくれずに授業がいきなり始まるからです。知らないことを知る楽しみは確かにありますが、教科書に書いてあることを授業で説明する目的がわからないからです。

目的が教えてもらえないまま授業が始まり、テストが行われます。あたかもテストで理解度をはかるために授業をしているかの印象でした。

今振り返ってみても、教育の目的が生徒の理解ではなく、生徒を評価することではないかと考えてしまいます。

学校の勉強本来の目的は知らないことを知る楽しみ・喜びを教えることだと思います。残念ながら私の巡り合った生徒の中で、知る楽しみ・喜びを教えてくれた先生は数える程でした。

学校の授業は時間が限られるので仕方ないのだとは思いますが、知らないことを知る楽しみ・喜びを教えてくれると楽しくなると思います。

具体的に理科の実験で考えてみます。今では常識であることも実験で確認するまではわからなかったことが多々あります。理科の実験は科学の確認作業の感覚ですが、当時の科学者の苦労と共に伝えると目的が明確になり理解も深まると思います。

算数で言えば、足し算引き算掛け算は買い物という日常生活に役立つます。数学が発展するまでは言葉で論理的思考をトレーニングしていました。数学が一般的になると物事を論理的に考えるトレーニングに便利で、理解出来ているか出来ていないかの確認が容易なので重宝されています。残念ながら、本来論理的思考力を養う学問のはずですが、問題を解くことが目的になっています。本来の目的から外れ、解き方を暗記して試験を乗り切るのは残念なことです。

これも本来の数学の目的である論理的思考力を養うという目的を伝えることなく、授業が進められていることに起因すると思います。

国語や社会や英語にも勉強の目的があるはずですが、少なくとも私はその目的をはっきり教えてもらったことはありません。

教育改革はまず各科目の学ぶ目的を明確にすることから始めると良いと私は思います。

子供の習い事の意味と目的

子供が学校以外で行う習い事の意味を考えてみました。前回の習い事の話はこちらです。
学校では経験できないことを学ぶことが目的です。
書き方や音楽教室、水泳教室や体操教室、英会話教室など様々な習い事があります。

習い事の目的

将来のため

習い事の目的の一つは成長して役立つことを身につけることです。
例えば書き方教室では綺麗な字をかけるようになることが目的ですし、音楽教室は教養としてピアノが弾けることなどを目的とします。水泳教室は溺れないように泳げるようになることが目的ですし、体操教室は学校の体育についていけるように体の動かし方を学ぶことが目的です。英会話教室では英語が話せるようになることが目的です。

本来は目的が達成されれば途中でやめることも選択肢の一つです。これらの習い事では、本来の目的を忘れてしまい、通うことが目的になることもよくあります。

将来のためという意味では塾も同じですが、塾の場合は日頃の勉強と受験というわかりやすい目的があります。

日々の勉強のため

学習塾に通う目的は小学生の間は学校の授業についていくように勉強を教えてもらうのが目的です。
中学生となると高校受験に備えて、学校の勉強の補強をしてもらうのが目的です。中学生の場合には高校受験という将来の目的がありますが、基本的には日々の勉強の補強のためです。

子供さんが納得して学習塾に通っていればいいのですが、納得していなければ塾の先生の思いと子供さんの思いがズレてしまいます。

塾の先生はお金を頂いている以上当然全力を尽くします。子供さんも親御さんがお金を払っている以上、覚悟をもって塾に通ってきているはずと塾の先生は期待しています。何故なら義務教育ではないので塾は行くのも行かないのも自由です。わざわざ来るのだから意欲があるはずと期待してしまいます。

もしかしたら子供は良くわからないまま塾に通っているだけかも知れません。先生と生徒の塾に対する認識の齟齬を生じているのかも知れません。良くわからないまま親に行きたいと言ってしまい、引くに引けなくなったのかも知れません。

塾に向いているお子さん

かなり強引ですが、動物を生徒に、勉強を餌に例えてみます。

野生動物のように貪欲に勉強を食べにいくお子さんは当然塾に向いています。

家畜やペットのように与えられた勉強を食べることができるお子さんは塾に馴染むことが出来ます。

しかし生まれたての動物の赤ちゃんのように与えられた勉強を食べさせるように口に運び噛んで飲み込むまで補助しなければならないお子さんは、塾には向いていないように思います。

家庭教師が向いているお子さん

勉強を口に運んで食べさせてくれる家庭教師がオススメだと思います。

ただし勉強を口に運んで食べさせてくれる優秀な家庭教師に教えてもらえれば学生時代は良いかもしれません。しかし社会に出ると自分で餌を食べるだけではなく、餌を探さなければならないので後々苦労することになるかも知れません。

勉強を習う意味

お子さんに必要なのは勉強というエサを食べさせてくれることではなく、勉強というエサの探し方や取り方そして食べ方を学ばせてくれることではないでしょうか?

もしかしたら後は飲み込むだけの流動食のような食事・勉強を提供してくれる、塾もあるかも知れません。しかしそれでは塾に依存し塾から離れると何も出来ないお子さんに仕上がります。(もしかしたらやめさせないための、考え抜かれた塾の戦略かもしれませんね。)

勉強の本来の目的は知識の吸収の仕方を学ぶことです。
そして吸収した知識をテストの答えとして出力するようにすることです。
知識をわかりやすく加工して教えることをしていますが、わかりやすく自分で加工できるようになるべきです。

自分で必要な情報を見つけて、自分でわかるように加工して知識として吸収すること

これが勉強の目的です。
目的を達成を助けてくれる塾を見つけることができるといいですね。

タバコの意味 喫煙の問題点

タバコの意味を考えてみました。

かつてはお酒と並んで合法的に税金を集めてくれる優秀な収税システムでした。

しかし健康被害が明らかになるにつれて、優秀な収税システムの側面よりも、医療費の無駄遣いの側面の方が大きくなってしまいました。タバコによる税収は年間1兆円、一説によるとタバコによる医療費は3兆円と明らかに損です。金銭的観点だけから考えれば速やかにタバコは禁止する方が合理的です。とはいえ禁止したとしてもアメリカの禁酒法時代のように治安の悪化と闇取引が増えるだけなので、現実的ではありません。

現実的な解決策はタバコを吸うことで余分にかかる医療費を喫煙者に負担してもらうことです。

タバコを吸うことで医療費が余分にかかるのですがわその分の負担を非喫煙者にも負わせるのは不公平です。

タバコによる医療費の分だけ負担を増やすことは増税でも何でもありません。医療費のタダ乗りを正すだけのことです。いつになったら喫煙者の医療費のタダ乗りを正すのでしょうか?

誰も反対出来ないと思うのですが、何故タダ乗りを許しているのか不思議ですね。

非喫煙者の方が多いのですから、多数決でもタダ乗りを容認するとは思えません。

ちなみにタバコの値上げにより喫煙者が減ることで、タバコ農家さんに対する補償も検討の余地はあると思います。

もし反対する議員さんがいれば、分別のつかない喫煙者か献金や票という自分の私欲を目的とした反対です。

不安の持つ2つの意味

不安には2つの意味があります。

知らないこと・わからないことに不安を抱くのは当たり前です。
ただし不安には二つの意味があります。
本来の意味である自己防衛本能としての不安と言い訳としての不安という意味です。

自己防衛本能としての不安

自己防衛本能としての不安が本来の存在理由です。
物事を後先考えず躊躇わずに行ってしまうという無謀な行動をしないように、人は不安や恐怖心というブレーキを備えています。
この不安や恐怖心は動物にもある本能であり、もし不安や恐怖心というブレーキがなければ、人類は滅びていたと思います。

人間が動物と異なるのは物事を冷静に考えることができます。
不安や恐怖心だけだと何もできません。かといってなんでも考えずに行動すると命の危険もあります。そこで人間には理性というものがあります。
物事を論理的に考えて不安や恐怖心を打ち消して行動に移します。

不安や恐怖心があるのは当たり前です。
動物にもあるのですから。
その不安や恐怖心をどのように打ち消すかを考えるのが人間です。

言い訳としての不安

人によっては不安をできない言い訳にします。
○○が不安だからできません。
この不安だからできませんは正確な描写ではありません。
やりたくないことが先にあり、やらないための理由を探してきて○○という不安を作り出しているだけのことです。
やらない言い訳に○○という不安を見つけたのです。
(参考文献:アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉

不安を口にする心理

わからないことに対する不安は誰でも当たり前のことです。
未来はわからないのですから必ず不安です。
逆に先のことを予測することのできる人は必ず不安を感じます。
不安を感じた上で、それを上回る準備をすることが大切です。

誰でも感じる当たり前の不安をわざわざ口にするのは、言い訳の心理です。
やらない言い訳なのか、やるとしても失敗した場合に備えての言い訳です。
口にするとしても、わからない未来に対する不安をいかにして最小にするかを口にするべきです。

不安は言い訳

不安を口にするのは言い訳人間の入り口かもしれません。
できない言い訳か、失敗したときに備えての言い訳か。
対策は、言い訳人間への対策と変わりません。
不安はやらないための言い訳でしかありません。
その不安を取り除くにはどうすればよいですか?
と質問するのです。

無意識のうちに不安を口にしていませんか?
もしかしたらあなたのことを周りの人は言い訳人間だと思い始めているかもしれません。

髪の毛を切る二つの意味

物事の意味を考えるシリーズです。
髪の毛を切ることには二つの意味があります。

一つは生理的に伸びる髪の毛が邪魔なので切るという意味です。
二つ目は髪の毛を切ることでそれまでの自分とは変わる変身という意味です。

邪魔なものを切る

生理的に伸びる髪の毛を切るというのは邪魔なものを切ることで、周囲の人に不快な思いをさせない身だしなみという意味です。
邪魔なものを切るだけですから、時間は短ければ短いほどうれしいです。
髪の毛を切っているのは、邪魔なものを切り落としているだけですからいわば無駄な時間です。
切る時間は短ければ短いほど嬉しいのです。

この観点からは1000円カットは実に理に適っています。
髪の毛を切るという無駄な時間を節約できる上に安いのですから。

逆にこの観点の人からすれば通常の理髪店や美容院は理解できません。
1時間近く時間をかけて、しかも高いのですから。

変身という意味

女性に多い髪の毛を切ることで、それまでの自分とは異なる自分になる変身という意味です。
髪の毛を切るのは少しずつ変身していくので、楽しくて仕方がありません。
鏡の中の自分が別人のようになっていくので、娯楽のようなものです。
いわばジェットコースターに乗っているのと変わらない感覚なので、短いと残念なのです。
長くても苦痛にはなりません。むしろ変身という楽しい時間が長くなるので少しうれしいかもしれません。

また髪の毛を人に洗ってもらうという非日常の体験が、まるで王女様か王子様にでもなったかのような特別な時間を演出してくれます。

変身を楽しむという意味からすると通常の理髪店や美容院は実に理に適っています。
時間をかけて細かくお客さんの都合に合わせて髪の毛を切っていくのは、お客さんの思い通りに変身していくイメージです。
変身時間が短いと残念に感じます。

この観点で考えると1000円カットはあり得ません。
いくら安くてもただ切るだけで、変身という楽しみの時間が短いのですから。

物事を突き詰めて考えましょう

人それぞれの求めていることが異なります。
そのため様々な業態が成り立ちます。
本来の意味を突き詰めて考えることで、新たな可能性が見えてくるかもしれません。

思いやりという名の価値観の押し売り?

今回思いやりの『意味』を深く考えてみます。

本来思いやりとは相手の事を考え配慮することです。この思いやりですが、無意識のうちに自分の立場から見た相手の事を思いやるという価値観の押し売りをしていないでしょうか?
本当の思いやりは相手の立場になって、相手の事を考えてあげることです。

みんなが本当の意味での思いやりを持って行動すれば、争いが減ると私は思います。

相手の事を考えていると口では言っても、本当に相手の立場に立って、相手の事を考えてのことでしょうか?実は相手の事を考えてという名目で、自分の立場からの価値観を押し付けてはいないでしょうか?

相手の立場に立って考える

最終的に困るのが相手であれば相手の問題です。(問題論)
その相手の問題を自分の立場から口出しするのは越権行為です。相手の立場に立って物事を考えた経験のない人には、相手の立場に立って考えるとは想像つかない考え方のようです。思いやりとは本来相手の立場で相手のことを一番に考えてあげることです。

例えばある親子の話

例えば子供が高校には行かないと言い出しました。親は高校くらい出ていないと将来困ると考えて子供に高校に行くことを強く勧める場面を思い浮かべて下さい。

親としては高校を出ていないと将来困ることを知っているので、高校に行くことを勧めるのは思いやりだと思っています。本当に相手の立場に立って相手を思いやる思いやりと言えるでしょうか?

子供の思い

子供は職人として一生生きていくことを決心し、高校に通う三年間が勿体無いと考えて高校に行かないと言っています。1日でも早く一人前の職人になるために高校に行かないと決心しているのです。それでも高校に行った方が良いと強く勧めるのは本当の思いやりでしょうか?

親の思い

親は子供が高校を卒業していないと将来苦労する可能性が高いことを知っているため、高校への進学を勧めています。親の立場からした思いやりではありますが、親の立場からの価値観です。職人として一人前になれなかった時のことを勝手に考えて、先回りして考えてしまうのです。

そして子供は親の知っていることを知らないのです。

子供の将来のことは明らかに子供の問題です。困るのは子供にも関わらず、本来困らないはずの親が自分の問題のように誤解してしまうことが良くあります。子供の問題に例え親だとしても口出しするのは越権行為です。

思いやる方法

では本当の思いやりであればどうすれば良いのでしょうか?

まず相手の思いの確認

ここでの問題は親と子の思いにズレがないかの確認がなされていないことです。生きている年数が違うので親と子では持っている情報量が全く異なります。

例えば職人さんの世界の厳しさを親は何となく知っていますが、子供は全く知らないだけかも知れません。職人さんの世界に入って逃げ出すかも知れないと親は心配しますが、厳しさを知らない子供は一人前になれると信じきっているかも知れません。

職人さんになれなかった場合、中卒での就職はかなり難しいことを親は当然知っていますが、子供は職人以外は考えたこともないだけかも知れません。

もしかしたら職人さんへの憧れもあって深く考えずに、職人を目指しはじめただけかも知れません。

本当の思いやり

子供の立場に立って考えてあげることです。子供は1日でも早く一人前の職人になることが目的なので高校に行くことを無駄だと考えています。

親は職人として一人前になれなかった時、中卒での就職を考えるとかなり不利になることを心配しています。親が子へ高校への進学を勧める場合、このことは親にとって常識なので子供も知っているはずとして説明せず、高校への進学だけを勧めてしまいます。

子供への伝え方を間違うと大変な誤解を招くことがあります。子供としては今から一生懸命頑張ろうとしているのに、上手くいかない場合の話をするのは子供にとって許し難い考え方に思えるようです。大人の駄目な場合を想定して、準備しておくという発想そのものがないため、あたかも親が失敗を望んでいるかのように誤解してしまうのです。

本当の思いやりであれば、子供が大人と同じ情報を得てから将来のことを判断したか確認してあげることです。例えば以下の3つです。

  • 職人さんの世界は厳しいけど耐えられるのか?
  • 職人さんになれなかった場合、就職は困難だから職人さんを諦めてから高校に行くことになるかも知れないけどそれでも良いのか?
  • 高校は勉強だけではなくて、三年間かけて同い年の友達を作る場でもあるけれどもその機会を失っても良いのか?

親も子供が憎くて言うわけではありませんが、子供の立場から考えてあげないと子供には全く理解できません。親子の持っている情報量の差が大きすぎるため、伝え方を間違うと関係がこじれてしまいます。親は子供と同じ立場を想像し、何故そのように子供が考えたのか、そして親の知恵を使って子供のためになる選択肢を広げてみてあげて下さい。

本当の思いやりとは相手の立場に立って考えることだと思います。自分の立場から相手を思いやるというのは思いやりという名の価値観の押し売りです。相手のためにならず、自分の価値観の押し売りになってはいないでしょうか?

人類が一夫一婦制を採用している理由

多少の例外はありますが、人類の多くは一夫一婦制を導入しています。

人間のやることには必ず理由があるはずです。
長年受け継がれてきた風習ですから何か合理的な理由があるはずです。

不思議に思っていましたがヒントになる記事を日経サイエンスでみつけました。
(参考文献:日経サイエンス2014年12月号 一夫一妻になったわけ)

700万年以上前に大型類人猿と人類の祖先であるホミニンが共通祖先から分かれた際に3つの革新的な変化が起こったそうです。

  • 二足歩行により食物を運ぶことができるようになった
  • ペアボンド(一夫一婦制)を採用するようになった
  • メスの排卵を知らせる外部シグナルがなくなった

食物を運ぶことができるようになったことで、オスは美味しい食材をメスに差し出すことで求愛をしたそうです。
それまでのメスの奪い合いに費やした労力を、オスはできるだけ広い範囲を効率よく探し回り貴重な食材を獲得することに振り分けました。
メスは強い戦士よりもより魅力的な食材を確保するをパートナーとして選ぶことにつながったそうです。
一夫一婦制を取り入れるにあたり、それまで存在していたメスの発情期をなくしたそうです。発情期があるとパートナーとして選んだオス以外を引き付けてしまうため、無駄な争いを避ける目的で発情期をなくしたようです。

一夫一婦制の期限の3つの仮説

  • メスのまばらな分布説
    メス同士が離れて暮らしていると複数のメスをパートナーとして選ぶのは困難となる
    魅力的なエサをオスに要求する種に見られる傾向がある
    人類は社会性を構築する種族でメス同士が離れて暮らすとは考えにくく、人類以外の動物ではよくあてはまる
  • 子殺し回避説
    強いオスに戦いを挑んで勝利したオスは、自分の子孫を残すために元のオスの子供を殺す
    子供を殺すことを避けるために、自分と自分の子供を守ってくれるオスを選ぶ
  • 父親による子の世話説
    子育てに父親が参加することで、子供の生存率が高まるほか、母親との絆もより深まる
    子供を抱いて運ぶだけで、授乳に匹敵するエネルギーが必要なため、父親が運んでくれるだけで母親には助けになった

統計的な解析では霊長類との比較では子殺し回避説がやや有意な可能性があり、別の統計では父親による子の世話説は最も可能性が低いと判定されたそうです。
学術的には最終見解はまだ出ていないようです。

私の考える一夫一婦制になった理由

か弱いメスが一匹で存在していたとは考えにくいと思います。
もしメスが一匹だけで存在すればオスは力ずくでわが物にすると思いますから、不用心な一匹で過ごすのは考えにくいと思います。一匹で過ごしていれば言語もふ発達しなかったと思いますから、否定的だと思います。

子殺し回避説は確かに一理あります。一夫一婦制を導入すれば子殺しは避けることができます。何故なら子供を守るために他のオスと父親が争う場合、母親も争いに参加することで2対1で子供を守ることができるのです。
サルをはじめとした他の動物ではオス対オスですが、一夫一婦制を導入した人類の祖先は二人で一組で家族としての絆で他のオスに対応することで勝負にならず、無駄な争いを避けることができたと考えられます。

父親による子の世話説。
私は懐疑的です。子供を抱いて世話をするよりも、母親がほしいのは子供がある程度まで育つ間の食料です。一緒に食料探しに移動するために子供を抱っこして父親に世話してもらうよりも、美味しい食材を探してもってきてくれる方が母親としてはありがたいはずです。先述した子殺し回避のためには母親の近くにいなければなりませんが、基本的には父親は食材探しだと私は思います。
人類は赤ちゃんが他の動物に比較して圧倒的に未熟な状態で生まれます。何故なら他の動物と同程度まで母親の胎内で育ってしまうと産道を通り抜けることができないからです。首がすわらない状態で生まれるのはそのためです。首が座るまでは母親は赤ちゃんを抱っこしたまま動くことができません。合理的に考えれば母親も出産で体力を消耗し授乳もするので、食料を父親と一緒に探し回るよりも、食料を確保してきてもらうことを望むはずです。少なくとも赤ちゃんの首が座るまでは移動は避けたいはずです。

人類は出産後の子育てに労力があまりにかかるため、夫婦二人で子育てに当たり役割分担したことが考えられます。夫婦二人で子育てすると有利になるというよりは、子供が小さいうちは母親だけでは安全には子育てができなかったのではないでしょうか?
このあたりに一夫一婦制になった合理的な理由がありそうです。

そして一夫一婦制では一度パートナーを決めると次のパートナー選びという作業が必要なくなるため、子育てに専念できるというメリットがあります。
ゴリラなどの一夫多妻制では維持するのに多大な労力を使いますし、新たにボスの座を獲得するのに多大な労力を必要とするのと対照的です。一夫一婦制はより多くの個人が安全に子孫を残せる合理的な仕組みだったことが考えられます。ボノボのような乱交型だと、子育ての際に食料を運んでくれない可能性があるため子育てに多大な労力を要する人類にとってはパートナーを決めるということに大きな意味があるようです。

人類の進化の歴史で培った一夫一婦制の意味は、赤ちゃんが他の動物と比べて非常に未熟な状態で生まれることに由来すると思います。子育てを二人で行わないと安全に育てることができないことから、発達したのだと私は思います。

子孫を安全に残すために一人のパートナーを決めることに意味があるのです。
ちなみに通常は一夫多妻のお猿さんですが、メスザルがボス以外の若いサルを誘惑して浮気することもあるようです。

人類でもたまに浮気してしまう人が存在するのは先祖返りの一種なのかもしれません。